笹立新道(隧道) 湯野浜側
未踏区間の制覇
山形県鶴岡市 湯野浜
 山行がの歴史に欠くことの出来ない1ページを刻んだ笹立隧道。
2003年の2月初頭、善法寺側から雪の山道を辿り隧道に至り、そこで自身の限界と戦いながら、閉塞寸前となったおおよそ200mの洞内を、潜り抜けた。
その模様は、隧道レポートに認められているから、古い読者ならばご存じの方も多かろう。

しかし、今当時のレポートを改めて読み直してみると、誠に恥ずかしい部分が多い。
それは、文章の拙さや大仰な表現といった部分だけではなくて、むしろ、あの頃の現実そのものであった、装備の未熟さによるところが大きい。
そこがまた、必要以上に、私に苦痛と、恐怖感を強いていたのだろうし、穿った見方をすれば、そこが、レポートとして評判が良かった理由かも知れない。

話がそれた。
私は、あれから3年あまりを経た2005年の6月1日に、再訪した。
そして、隧道自体については、難なく通り抜けることも出来た。
一度は通り抜けているという自負や安心感だけではなくて、やはり山行が最強の照明である「SF501」の明るさは、凄まじく、前回は単一電池を6本くらい使う大型懐中電灯でも、足元を照らすのがやっとであったこととは、雲泥の差であった。
そして何よりも、私はあまりにも多くの閉塞隧道を、この3年に体験しすぎた。
身を捩り、足を押してもらってやっと貫通できるようなギリギリ閉塞や、胸までの水没、壁や天井を覆い尽くすコウモリの群れ、
そんな修羅場を幾つも潜り抜けた今、
笹立隧道は、易かった。

この実感に、正直、喜びはない。
こうして、感動を呼び起こす、私の脳内のどっかの機関は、すり減っていくのだろうな…。
あと、50年も探索を続けたら、そこに何が残っているのだろうか…。
そんな、一抹な不安を感じざるを得なかった。

またまた話がそれた。
私を“成長させ”、さらには、“成長を実感させた”笹立隧道であるが、この再訪の目的は、隧道ではなかったのだ。
であるから、本来は隧道レポートの一頁とするには相応しくないのであるが、
ともかく、目的は、前回未踏に終わった、

笹立隧道〜湯野浜 の間である。


 右の図の、湯野浜温泉より笹立不動尊、笹立公園を経て、笹立隧道までの、図上おおよそ800mの区間が、今回の踏査目標となる。
このうち、湯野浜温泉から笹立公園までは、現行版1:25000地形図に実線が描かれており、現役の道であることが期待される。(善宝寺側の全線も同様)
一方で、笹立新道中、地形図に記載が一切無いのは、笹立公園から善宝寺側の実線の端点(=隧道口)までの区間である。
この記載されていない区間の内、隧道(おおよそ200m)と、さらに坑口から湯野浜側200m程度は、2002年の踏査で歩いている。
その際には、湯野浜側引き返し点で、謎の石垣を発見しており、これを橋の痕跡ではないかと推測した。

余談だが、今回の踏査は、私のリーベが善宝寺参りをしたいというので、それに付き合いで訪れている。
私は遠方でのランデブーの際にはチャリを積み込んでおり、いつ何時でも、即座に山チャリに移行できる。
ただし、その場合のリーベの機嫌は一定ではないので、ここに私のランデブチャリの難しさが、ある。
今回も例によって <2行検閲削除>

 




 まず最初の関門となったのが、笹立新道と呼ばれていた道が、果たしてどこから続いていたのかという、その入り口を見つけることであった。
今回は、前回善宝寺側から探索したのとは逆に、湯野浜側から隧道を目指すわけだが、この隧道について原典的なレポートを誇る『山形の廃道』様においても、この湯野浜〜隧道間は、極めて不鮮明であり未踏とのこと。
私は、この未踏区間に、挑むのであるが、そもそも、この入り組んだ湯野浜温泉のどの角を曲がれば、隧道へ続いているのかが、最初の難関であったのだ。

私は、地図を良く確認し、それでもいくつかの角で失敗した後に、遂に、笹立新道の入り口であったろう、その角に辿り着いたのである。
それが、この写真の入り口であり、詳しくは上の地図をご覧頂きたい。
『魚屋かどや』さんの、ある角である。



 この湯野浜温泉というのは、現在の国道112号線から見える高層ホテル群のイメージが強いのだが、ひとたび旧国道の通る温泉街の路地に入れば、車一台がやっと通れるような小径が入り組んでいる、いかにも歴史ある温泉街らしい景色である。
そして、坂が多い。
海岸に沿った温泉地は、直ぐ背後に高館山の急な斜面が控えており、町並みの一部がこの斜面上にまで広がっているためだ。

笹立新道とかつて呼ばれていた道もまた、入り口付近ではそんな小径として、いまの町並みにしっかりと息づいていた。




 緩やかに小さな沢に沿って舗装路が登っていく。
途中には、数軒の民家が建ち並ぶ。
魚屋の角から300mほどの地点で、左の写真の分岐点である。
笹立新道は、これを直進。
左の下り坂は、龍乃湯ホテルに通じている。



 分岐からまもなく、沿道最後の民家が右手に建つ。
そして、その庭の隣に、笹立新道の確固たる痕跡が残っている。

それは、写真の開道記念碑である。
高さ50cm程度のコンクリート製の台座に乗せられている御影石製の石碑は、今日でも欠け一つなく、その碑面も鮮明である。
<表面>

笹立新道開鑿記念碑
 明治四十二年6月 起工
 明治四十四年5月 竣工
 功労者
  阿部與十郎君

<裏面>

 明治四十四年五月 建之
     湯野浜有志
   秋野庸彦 書



 石碑に功労者として紹介されている阿部與十郎という人物は、湯野浜温泉に代々旅館「亀や」を営んでおり、現在もホテル「亀や」と、5代目阿部與十郎さんが健在である。
この笹立新道自体が、亀やをはじめとする湯野浜温泉の経営者達によって企図された、山向こうの名刹善宝寺とのアクセスの強化による温泉街の発展を期しての、一大新道開削であったわけだ。
また、秋野庸彦は、湯野浜に隣接する加茂地区出身の国学者であり医者であり、またこの開通の当時は、県議会議員でもあった人物だ。

石碑の直ぐ先で、いよいよアスファルト舗装が途切れ、代わりに幅1m弱のコンクリート舗装となる。
すでに、自動車が通れる幅ではなく、歩道の様相となっている。
それでも、両側の緑が刈り払われ、チャリで進むには全く苦労はない。
しっかりと、管理されている様子がうかがわれる。(石碑が草の中に没しつつあるのは残念であるが)





 並行する無名の沢の源流部に、目指す笹立隧道は存在するようであるが、まだ歩道と水面との高度差が10m程度ある。
また、沢には小さいながら水を湛えた砂防ダムがあって、その淀んだ水面に、藤の花片が舞い落ちている。
花は綺麗だが、その彩りを引き立てる新緑の濃さは、いよいよ夏草の蒼に変わりつつあり、この先の藪の生長ぶりへの不安がよぎる。
隧道のある稜線までは、まだ500m以上もありそうだが、道は着実に先細りになってきている。




 そして、入り口から700mの地点で、決定的な変化が。

コンクリート舗装の小径は、突如直角に山側へ折れ、そのまま階段に通じている。
階段の脇には、3mほどの丈を持つ石柱が立ち、その先にあるものを予告していた。
石柱には、表に「笹立公園」、裏に「大正十三年九月」と刻まれている。

それはそれとして、
私がチャリを捨てねばならないと予感したのは、階段の為ではなく、
笹立新道は、おそらくこの階段とは無関係であると、予感したからである。

その根拠は、笹立新道が、大正12年に車道としての改修を受けているという史実である。
この階段は、車道としては不自然である。





 なお、笹立公園とはいっても、今日の我々がイメージしやすい公園ではない。
遊具やベンチがあるわけでもなく、数十段の刈り払われた階段の先には古びた鳥居があって、一番奥にはこのお堂が安置されている。
その奥の斜面にはわき水が流れ落ちている。
ずばり、笹立公園とは、笹立不動尊(神社)である。

そして、この入り口に立っていた石碑の「大正13年9月」というのは、笹立新道車道改築と時期が近い。
おそらくこれは偶然ではなく、車道改築に伴って、それまで沿道にあった不動尊を、この高台へ移設したのではないかと、私は考える。

階段の下に置き去りにしたチャリの元へ戻る。



 地形図などにたとえ点線でも道が描かれているのは、この笹立公園(地図によっては「笹立不動尊」とも)までである。
そして、それは現実をとても良く反映していた。
悔しいが、とてもこの階段前の直角カーブを直進する車道が在ったなど、信じられないし、信じたくない。

車道だったならば、やはりここを直進以外は考えられないし…。
直ぐ左は沢地であり、ここ以外は、想像できない。
対岸など、激藪&急斜面で、全く道などありそうもないし。

ここまでは、万事順調だったのだが…。
予想していたとはいえ、ここまで酷い藪だと…、萎える。
(なお、この日の藪は気温28度、無風、晴天と、ワーストコンディションな上、羽虫や蚊の大量発生中であって、はっきり言って、クソ藪。)




 が、突入せねば答えは見いだせぬ。

例によって、突入。


そして、


撃沈
無理だって、この密度は。
跳ね返されました、見事に。



 仕方なしに、道の痕跡は諦め、強引に沢筋を歩いて遡ることにした。

幸いにして、不鮮明ながらも、沢に降りる踏み跡が微かにあり、これを辿ればまもなく、殆ど水のない流れが現れる。

チャリはもちろん、階段に置いてきた。



 沢筋が、予想通り、道以上に道らしくなっていた。

川幅は1m程度だが、水はチョロチョロで、長靴さえあれば濡れずに遡れる。
まあ、私は換えの靴を準備していたので、濡れ上等で、普段靴のままだったが。
で、結論から言えば、この沢をおおよそ300m、時間にして12・3分歩くと、前回の最終到達点である、石垣に辿り着く。
この間、特に難所はないし、間違えそうな沢の分岐もないのだが、とにかく暑苦しい。



 目の前を飛び交う虫や、無数に張り巡らされた蜘蛛の巣、
容赦なく顔を撫でる草葉、幾度も幾手を遮る腐った倒木の群れ。

難所と言うほどではないが、狭い沢筋に迂回路はなく、とにかく嫌なアルバイトが続くのだ。
覚悟して欲しい。
また、狭い沢筋であるにも関わらず、なぜか、笹立新道の痕跡はようとして知れない。
少なくとも、両岸に面してそのような平場は存在しない。
これは、今後の更なる捜索が必要なのだが…、

捜索するならば、やはり積雪期が望ましかろう。




 水の涸れた沢底の泥に、ニャオンのものと思しき足跡を発見。

集落から1km以内ではあるが、山ニャンコの行動範囲は、我々の考えが及ばぬ沢底にも広がっているらしい。



 嫌になる川底歩きの末に、向かって左側の岸辺が笹藪で覆われるようになると、そこが石垣のある地点だ。

この笹藪斜面が既に人工的なものである可能性もある。
ともかく、これを登ると…。




 不思議な石垣が点在する一帯である。

この場所には、前回の探索で“コの字”に組まれた石垣を目撃しているものの、これがなんなのかは判明していない。
そして、今回はさらに条件が悪く、草むらに殆どが覆われ、全容が見えない。
それでも、なんとかその姿だけでも解明しようと、様々な角度から見ようと試みる。
しかし、それも容易ではない。
なぜならば、石垣自体が上り下りするのが困難なほど急に組まれており、しかも、足元も見えないほどに藪や倒木がはびこり、そしてそして、石垣の周囲はかなり急な斜面になっているし、遠くからでは視界が効かないので一望に観察できない。
しかし、唯一の新発見としては、一辺6メートルほどのコの字型の石垣が、二つ並んでいるらしいことが分かった。
いままで橋の跡ではないかと考えていたが、対岸にはそれらしいものが一切無く、そもそも、この地点より下流には全く道の痕跡が見いだせないのであって、不思議きわまりない。

色々書いては見たが、結局今回も、正体は分かりません。



 あんまり悔しいので、皆様のお知恵を拝借したく、概念図を用意してみた。

しかし、これとて細部は間違いだらけであろう。

とにかく、ちゃんとした調査を、然るべき機関によってしていただきたいのである。

おそらくは、明治期、そうでなくとも、大正期の石造遺跡であるから、もしまだ解明されていないのであれば、それなりに文化的価値があると思われる。
荒れるに任され、訪れる人もないようだが、かなり規模が大きく、とても気になる存在なのである。
おそらくは、笹立新道とも無関係ではない、遺跡なのだろうが…、

不思議さだけが倍加するような、再訪探索になってしまった。




 3年前は、ここから湯野浜カントリークラブに至る車道のガードレールが遠くに見えたのだが、今回はご覧の通り、夏草に遮られ視界は全く効かない。

ここから隧道までは、もう100mもないほどだが、やはり冬とは景色が一変していた。
前回の記憶を頼りに、笹藪を掻き分けて進む。

 笹藪の底の地面も平坦ではなく、倒木や枯れ枝が不安定に積み重なっていて、歩きづらいことこの上ない。
何度か転倒しながら、黙々と、上流を目指す。
なお、帰りはこの辺りも全て沢底を歩いた。
そちらの方が全然距離は稼げるので、オススメである。

藪の中には、僅かに凹凸があって、おそらく細長い凸部が道の痕跡なのだろうと考えたが、そうと断定できるほどの他の判断材料はない。

ここまで荒廃している笹立新道だが、
竣工が明治44年、車道改築は大正12年、
そして、隧道の落盤によって自然消滅的に廃止されたのは、昭和15、6年頃らしい。(「山形の廃道」様より引用)
三つの時代にかかっているものの、実はその現役期間は長くはなく、たったの33年そこらである。
鳴り物入りでデビューした新道としては、いささか短命であった感は否めないだろう。
現役当時にせめて県道などに指定されてさえいれば、その顛末も変わってきたのかもしれないけれども…。


結局は、局地的な観光道路という性格を最後まで脱することが出来なかったのであろう。

早々と時代を見越して車道改良をしたにもかかわらず、皮肉なことに、自動車交通の速度にとっては、平野を迂回する従来の道と笹立新道との間にさしたる時短効果が無かったのであろうし、ましてや、落盤の危険の絶えぬ隧道が忌避されたのも頷ける。
また、当時の政治は戦争に向かって邁進中であって、軍事的に価値のない観光道路を不要と考えていたことも、崩壊した隧道が復旧されなかった理由にあるかもしれない。


そんなことを考えながら、藪を掻き分けること、笹立公園前から約20分。
湯野浜の入り口からだと、距離にして1200mほどで、峠の笹立隧道が現れる。
例によって、3年前の厳冬の景色とはあまりにも印象が異なる。
しかし、よく見れば、確かに、同じ坑口である。


 ここにも、坑口以外にもう一つだけ、笹立新道の痕跡がある。
隧道と石垣以外の数少ない痕跡である。
それは、写真左に写っている、高さ1m足らずの石垣である。
位置的に、隧道坑口前の掘り割りの両側にあったのり面の一部だろうと想像される。
元々は車道があったはずの場所が、今は小川となっており、泥も堆積しているので、本来の高さは分からないが、坑口もかなり埋もれていて、その奥の洞床の高さから逆算すると、この石垣の下部は1m以上土砂に埋もれていると思われる。

石垣は、何万年も昔のものであるかのように、苔生し、地と一体となっている。
そればかりか、隧道自体が、ともすれば気がつかれないほどに、埋没し、只の岩場のようになっている。




 かつて坑口があった場所には、沢山の岩塊が山を成している。
巨石と瓦礫が入り交じる、まだ時折崩壊が続いているらしい乾いた岩場を3mばかり登り切ると、足元に、小さく闇が覗いている。
この景色は、忘れもしない。

雪華が舞込む洞内より、岩肌やつららに頭をこすりながら這い出してきた、3年前の歓喜の瞬間。

今回のように、逆のルートを辿って再訪することには、思わず頬が緩むような感激の再会が、けっこう唐突に訪れるという、嬉しさがある。

また、この坑口はいつ完全に塞がってしまうかと心配していたが、3年前のまま顕在だった。
そして、中を覗くまでもなく、通り抜けも出来そうだと分かる。
なぜならば、蒸し暑さと草いきれに汗だくとなっていた私を急激にクールダウンさせる冷風が、勢いも良く坑口から吹き出していたから。






 坑口によじ登り、かつて道であった洞外を見渡す。

右の石垣の部分だけが切り立っているのが分かる。
それ以外は、ちょっと、車道があったとは信じられない有様。


 今回のレポートは、以上で終了です。

 え? 洞内は?

3年前と特別に大きな変化はありませんでしたし(季節柄コウモリが凄く多かったですが)、
二度目の通過ともなると、以前の感動は求めるべくもなく、前のレポートを凌駕する文章は得られなそうですので、ここは蛇足を省きます。

行ってみたいという方は、濡れても良い足回り(水深は泥と合わせて40cm程度です)でどうぞ、通り抜け出来ます。








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2005.6.4