約250mの漆黒の世界を、私は耐えた。
僅かな隙間から、再び地上に戻ることが出来た。
私は、全身に沸き起こる歓喜に打ち震えた。
閉塞していると思っていた隧道を突破できたことの満足感は、なにものにも代えがたかった。
だが、現実を前に熱狂はすぐに醒めた。
実は、チャリを遥か麓に置き去りにしての探索であった。
この先は、進めば進むほどに、自身を苦境に追い立てることが明白であった。
その上、私の足はもはや、これ以上山中を彷徨えるような状態になかった。
隧道内で氷水に漬かり、さらには膝まで泥に沈んでいた。
指先はもう、感覚が失われはじめていた。
長靴という窮屈な箱に肉を締め付けられるような、曖昧な鈍痛が、あった。
もう、早く靴を脱ぎ、乾いた靴と交換したかったが、替えの靴は、自転車に置いてきているのだ。
私には、余り時間は残されてはなさそうだった。
この先の探索をどうするかは、少し先の道をみてから決めようと思った。
しかし、登ってきた善宝寺側とは、まったく景色が違かった。
私が今立っている崩れ堆積した岩山は一際高い位置だったので、先をある程度見通すことが出来た。
そこにあった景色は、小川の流れる谷、そのものであった。
しかも、厳冬の。
この景色を見た瞬間、すぐに引き返した方が良いと感じた。
これは、もう歩いて進むにも大変に苦労しそうだし、前述の通り、先に進んでも結局引き返すことになるのだ。
余りにもリスクが高い。
とりあえず、いったん下に降りて、この崩れ、今にも閉塞しそうな坑門を、見ておきたかった。
写真にそれを収めた。
このとき、突然の吹雪に目の前が白くなった。
今日、旅立ってからはじめて、雪に見舞われた。
『前門の虎 後門の狼』とは、まさにこんな状態を言うのだと思った。
進むは地獄…しかし、あの暗闇に引き返すのも、やはり、気が進まないのである。
もしすぐそこに湯野浜の集落があったとしたら、そこまで行って、隧道だけでなく「笹立新道」にも決着をつけてしまいたい。
そんな欲から、どう見ても容易ではない廃道を、突き進み始めた。
もう、足元の濡れなどにまったくの躊躇は無かったから、少しでも雪の浅い小川の中を堂々と歩いた。
しかし、ここに本当に道があったのか?
どうしても、信じられないような荒廃振りであった。
幾重にも折り重なった倒木が、私の侵入を拒む。
かつてこの場所に道が通っていたというのだろうか?
車も通ったという道が?
いつの間にか雪は止んでいた。
そればかりか、今日はじめて晴れ間を見た。
天候には見捨てられなかったが、私の探索も、いよいよ終わりが近付いていた。
幾分両岸の傾斜は緩み、山裾に近付いている実感があった。
ここまで坑門から300mほど歩いていただろうか。
途中、じつは道は谷底を離れ、両岸のどちらかを巻いているのではないかと目を凝らしたが、そういう形跡は見つけられなかった。
逆に、ついに、ここに道が通っていた当時の遺構を発見することになる。
それにしても、足がいたい。
写真では分かりにくいのだが、明らかに人為的な石組みが、あった。
正面に、対岸の斜面が写っているが、私の立っている位置は、水面からは10mくらい高い位置である。
非常に小さな河岸段丘的な平地の上に、この遺構と思われる石組みを発見した。
石組みは、垂直な崖を作っており、その高低差は3mほどあった。
谷側に開き、崖側を閉じた、コの字型で、同じものが、二つ並んでいた。
この切り立った石垣を下ると、戻ってくることは不可能と考えられた。
エスケープするルートを模索したが、狭い谷間に、もうこれ以上余地はなかった。
進める限り最も川下側から、さらに下流を撮影した写真。
この先も谷川は続いているが、明らかにそこは自然地形のように思える。
残念ながら、この先に伸びる道は発見できなかった。
しかし、私がこの「笹立新道」に、一応の決着をつける決心を付けさせてくれるものが見えた。
写真にも写っているが、500mほど向こうの雪の斜面に、明らかにガードレールが見えていた。
地図を確認すると、それは湯野浜温泉から始まり、さっきの隧道の上を通り、高舘山の山頂部を経て、加茂で国道112号線に合流する林道のようである。
「現役の道」が間近にあるのを見つけ、私の探索は、やっと決着したと考えることができた。
地図を読むと、この先、小川を下って行けばもう300mほどで、湯野浜温泉のホテル街に到着するはずだ。
もう500mほどで、海岸線だとはとても信じられない景色ではあるが…。
ともかく、私はここで引き返すことにした。
もうひとがんばりして、湯野浜まで脱出し、そこからバスで善宝寺に戻ることも考えたが、自身は余りに泥まみれでそれは憚られた。
しかし、気が重い。
なんか、現実感に乏しいのだ。あの隧道をもう一度、通り抜けるということが。
しかしもう、隧道との再開は避けえぬ現実になっていた。
引き返しながら、さっき見た石組みが何なのかを考えていた。
決定的な証拠は無く、私の想像に過ぎないが、あの二つ並んだ同じ形の石垣。
谷側に開いたその形状。
ここは歴史ある、有名な温泉地である。
露天風呂の跡では、なかっただろうか?
余りにも荒れ果てていた上に、雪が積っていて状況はあまり掴めてないので、違ってるような気もするが…。
いずれ、あそこに人工物があったのだから、坑門からあそこまでの小川が、かつての道路であったことは間違いなさそうだ。
それを裏付けるものも、この帰り道に発見した。
坑門のすぐ近く、谷に下りた辺りの両岸は非常に切り立っているが、よく見ると、それは人為的としか考えられない石垣であった。
再び立った坑門。
やはり嫌な感じはしたが、時間を無駄には出来ない、引き返すと決めたからには、さっさと進むことにしよう。
背中に当たる太陽の明かりが幾分、気持ちを落ち着かせてくれた。
這いつくばって、漆黒の地底に、今一度降り立った。
帰りは早足で、一気に通った。
250mほどの隧道は、決して歩くには短くないが、焦っていたのか、帰りの記憶はほとんどない。
振り返ることもしなかった。
とにかく、明かりを目指して、進んだ。
善宝寺側坑門に到達。
ホッとした。
本当に。
余韻を噛み締めるようにして、一歩一歩、崩れた坑門を登った。
こちら側でも、穏やかな日光が迎えてくれていた。
やっと、生還したという実感が沸き起こってきた。
踏破の喜びも、一段と大きくなって、押し寄せてきた。
坑門上部は、度重なる崩落によるものか、まるで採光窓のように、抉れていた。
そこから飛び込んでくる日光のなんと眩しいことか。
もう、この穴はごめんである。
本当に、怖かった。
1時間前となんら変わらない坑門前の景色。
「生きて帰ってきたんだぞ」
そう報告する相手がいない。
相棒は、山の麓であった。
早く、会いたい。
下り道、隧道の中の景色を、何度も何度も反芻してみた。
あの、滑らかに削られた白い壁面の無機質さは、逆に生々しくて不気味だったと、思った。
ほかにも、あの隧道が恐ろしい理由はたくさんある気がしたが、もうよい。
早足で、山を下りた。
入り口で、チャリに再会。
無事に、この笹立新道の探索を終えることが出来た。
出発時とはうって変わり、気持ちの良い青空が、隧道の眠る稜線の上にあった。
築92年目の冬、数年ぶり(とおもわれる)に旅人を通わせた隧道に、もし心があるなら、何を思うか。
いつも私を虜にする廃隧道だが、今度のは少し深入りしすぎたかもしれない。
ちょっと、酔ってしまった。
次はいつ、誰が、通うのだろう?
私が最後の一人とならないことを、祈っている。
笹立隧道
竣工年度 1911年4月 延長 約 250m
幅員 約 3.0m 高さ 約 2.5m
*崩壊が進み、両坑門および内部にて閉塞寸前である。
竣工年度 1911年4月 延長 約 250m
幅員 約 3.0m 高さ 約 2.5m
*崩壊が進み、両坑門および内部にて閉塞寸前である。
本文では隧道の行く末を案じ、「私が最後の一人とならないことを、祈っている。」などと書きましたが、危険な場所であることは疑いようもなく、読者の方々による探索を啓発する意図はありません。
それでも行かれるという方は、くれぐれも自己責任で、ご探険ください。
それでも行かれるという方は、くれぐれも自己責任で、ご探険ください。