大正時代の地形図に記載されていた謎の隧道。
とある工場の敷地内に、塞がれながらも現存することを確認。
僅かに残された隙間から、その真っ暗闇の中へ侵入。
この隧道を抜ければ、そこには「原子力研究所」なる研究施設がある。
何故に手間のかかる石積で塞がれる必要があったのか。
いま、歴史を秘めたその内部が明かされる。
苦労して内部へ侵入したものの、そこは不思議な場所だった。
50mほど先にハッキリと出口の光が確認できた。しかし、そこへの道のりは平坦ではなかったのだ。
これは、本当に人が通るための隧道だと言えるのか?
もちろん、単に勾配があるというのではない。
入ってすぐの場所に、落差3mに達する石組みの急斜面がある。
先へ進むためにはここを降りねばならないが、仮に無事滑り降りたとしても、帰りに登ってこられるとは思えない。
この反対側にも普通の山林が広がっている保証があるならばまだ良い。
帰りは別の道からとか、或いは強引に尾根越えで戻ればよい。尾根越えも大変そうだが、何も栗子隧道で…というのではない。この程度の長さの隧道であればそれも可能だろう。
しかし、この先は一般人立ち入り禁止の原子力……。外へ出た途端警報が鳴らないとも限らないではないか??
さあ、どうする。
この場所からでも隧道の全貌は見えている。
何も貫通する事に拘らなくてもよいのではないか。
そういう考えも当然頭をかすめた。
だが、向こうの坑口はどうなっている?
一歩踏み出しさえすれば、それを確認することが出来るのだ。
それに、出口の先にも緑が見えているではないか。何もすぐに施設内というわけではないのかも知れない。
本当にヤバイ施設なら民間側に僅かでも口が開いているわけなど無い。
おそらく、往けばこの壁は戻れないだろう。
だが、尾根越えをする覚悟は出来た。
ここまで来たのだから、是非ともまだ誰も見ていない(ような気さえした)出口を、この目で!
…イチ ニィ サン せーの
ズサーーッ!
降りちゃいました。
あ〜あ… やっぱ高いな。
これは、降りてきただけでも危なかったのでは?
とても戻れないぞ……。
行くしかないんだ もう・・・。
私は余り深く考えないことにした。
こんな時のためにロープを準備していたはずだが車の中に置きっぱなしだった。そもそも今日は輪行だし。
隧道は短く、両側の坑口から光が入ってくるので意外に明るい。ライトは要らない。
壁一面の鑿跡が淡い光に照らされ何とも幻想的だ。
この光景は本当に美しく、自分の置かれている状況を考えれば意外なほどに、私を鎮めてくれた。
それにしても、この奇妙としか言いようのない断面は何だろう。
きっと、最初は上半分の断面だったものを、後から3m近くも掘り下げたのだ。
そして、掘り下げが行われた日以来、私の入ってきた坑口は坑口でなくなり、ただの採光窓へと変わったのだろう。
では、何のために?
深く考えなくても、それが旧軍によってなされた事は想像が付く。
ここは、武山海兵団の根拠地へと続く、曰く付きの場所なのだから。
余り試してみたくはなかったが、一応、素手でこの斜面を登れるか確認してみた。
結果、やはり無理そうだった。
良いところまで上れるが、上の縁までは惜しくも手が届かない。
無論、それなりの足回りと身のこなしが有れば余裕なのだろうが、今日の私は靴から言って岩登り向きじゃない。
まあ良い。ムキになって上ろうとして怪我でもしたら、それこそ帰れなくなる。
尾根越えならば幾らでも道はあるだろう。
実は、私がここで2度以上登ろうとしなかった一番の理由は、別にあった。
本当にここからは戻れないのだと言うことを思い知らされるのが怖かったのだ。
簡単には登れないがどうにかなるかも知れないという“余地”を、残しておきたかった。
それこそ、尾根越えにもどんな罠が待ち受けているか分からないのだから。(鉄条網や下手すりゃ電気柵…)
己の無策を悔いる暇があるなら前進だ。
何もそこまで無謀ではない。尾根越えがおそらく可能なことは、窓へ侵入する段階で八割方確信があった。
異常な大断面となった隧道。
天井も壁もみな一様に白っぽい泥岩で、まるで発泡スチロールをバーナーで溶かして出来た穴みたいだ。
もしこの鑿の跡が無ければ、素手でも掘れてしまいそうに錯覚する。
この奇妙な掘り下げ工事が旧軍と関係した証拠と思われる、多数の横穴を発見。
隧道の両側、そして今はどうやっても行くことの出来ない天井付近にまで、幾つもの横穴が口を開けていた。
それぞれは小さな穴だが、天井付近のそれは中を伺い知ることは出来ない。
この隧道は、おそらく旧軍の地下工場となっていた。
地底の廃墟とはとても思えぬ、光に満ちた真景。
両坑口から入り込んだ明るさの違う光が、乾ききった空中の砂粒子に乱反射し、微睡むような霞色を作り出している。
悠久の歴史を削り出した文様が高い天井を彩り、さながら物語の中の大聖堂のようだ。
隧道の両脇に幾つも口を開ける小さな横穴。
それぞれの入り口は高さ1.8m、幅80cmくらい。
そして、その奥は皆同じような部屋となっていた。
入り口のみ金属板で巻き立てられていた形跡がある。
個室は幅と奥行きが5m、高さ3mくらい。
床一面が腐った木材と金属の切れ端のようなもので覆われていて、一歩でも踏み込むと大変そう。
崩れた屋根の残骸だろう。
その天井には無数のゲジゲジが蠢いており、もしその写真を公開したならば多くの読者から顰蹙をかうだろうほど気持ち悪い。
私としても流石に中へは踏み込めなかった。
この隧道の印象としては美しさが勝っていて欲しいのだ。自分の中でのその印象を、汚したくない。
ともかく、いずれの横穴も作りは一緒で、それぞれ行き止まりだった。
ここは部品工場か何かだったと思われる。
また、とても辿り着くすべがない天井付近にも、同じように横穴が沢山開いていた。
以前は梯子でも架かっていたのだろうか。
やはりその入り口には、金属板で覆っていた名残のような端くれが残っていた。
これらの穴もどこへ通じているというわけではなく、それぞれが小部屋だろうと想像する。
隧道は短く、緩やかな下りをなぞって歩けば瞬く間に出口へ着く。
この先は、いよいよ立ち入り禁止エリアかも知れない。
こちらの坑口は木枠で塞いでいたようだ。
しかし自然に倒壊したらしく、残骸が残る。
もしこの壁が存在しているときに洞内へ降りていたらと思うとゾッとする。もちろん、出口がそこに見えたから入ったのだが。
坑口付近から、今下ってきた洞内を振り返って撮影。
人が入れる穴の他にも、側壁の色々なところに支柱を埋め込んでいたような四角形の小孔のあることが分かる。
おそらく2階建ての地下工場だったのだ。
洞床は中央部に幅1mほどのコンクリートの通路部分。その両側は瓦礫が多い。
向かって左の壁には、配電盤か何かを取り付けていたような跡。
また、碍子がいくつか取り付けられて残っているのも見つけた。
なお写真では、地層のラインとの錯覚で大変な急勾配に見えるが、実際にはそれほどではない。
こちら側へ下っているのは確かだが。
配電盤か何かの取り付け跡。
かなり規模の大きな工場があったようだ。
ちなみに、海兵団というのは日本海軍の教育機関のことで、「武山海兵団」は昭和16年に発足した横須賀第二海兵団が改編されたものだった。
ここで育てられた新兵には、日本海軍の崩壊と命を共にした人が少なくない。
米軍によって昭和33年まで接収され、その後は自衛隊に引き継がれて「横須賀教育隊開隊」となっている。
反対側の狭苦しさが嘘のように開放的な小田和湾側坑口前。
いい具合にジャングル化しており、居てはならない私の姿を隠してくれている。
写真からは見えないが、5mほど先で道形はすっぱりと切れ落ちるように消滅している。
そこには研究所の周囲を取り囲む金網のフェンスが見えていた。
そこまで近づくことは流石にしなかった。
さて、今度は背後の山を乗り越えて帰ることを考えなければ…。
そう思い隧道へ振り返った私を、衝撃が襲う!
でかっ!
そこにあったのは、元々の隧道断面が全く想像できないほどに拡幅された姿だった。
高さ10m強、幅5mくらいはあるだろうか。
まるで巨人の手にしたツルハシが山肌に突き刺さったような、
隧道の内形を一言で表せば、そんな流線形だ。
ここまで非対称的な隧道も珍しいが、もはやこれは隧道などではない。
隧道に寄生した軍事工場跡というべきだろう。
…高いなぁ
本当に戻れる…の、この山越えて…
正直、私は己の読みの甘さに戦慄を憶えた。
適当に坑口脇の斜面をよじ登ってしまえば、誰に見られることもなく撤収できると踏んでいたが、こちら側の坑口はそんな目論見を嘲笑うような強面だった。
とてもじゃないが、ここは直接登ることが出来ない。
どこか迂回路を探さねば。
私は藪をかき分けあっちへゴソゴソ、そっちへガサガサ。
もう心臓はバクバクである。
こんな姿を見つかったら、間抜けなテロリストと間違われかねない。
坑口の20mほど北側。
かつて人為的に崖が削られたのか、相変わらず坑口から続く垂直の岩肌があったが、その高さはかなり低くなってきた。
これならば、藪を手掛かりにどうにか登って行けそうだ。
私は速やかに行動を開始した。
藪が深く私の行動は誰からも見えていないはずだ。
これが雪の降らない地方の藪なのか!
私はあまりに苦しさに思わず仰け反った。
これはとても3月の藪ではない。
少なくとも秋田では盛夏期のそれと匹敵する。
救いは気温が春らしいということくらい。まだ五月蠅い虫も少ない。(が、帰宅後腕がかぶれた…)
何度か休みながら、どうにかこうにか急斜面にへばり付くようにして登っていった。
この苦しみは生還への試練であると同時に、己の策の甘さに対する罰のようだった。
日本版シリコンバレーといった風情の研究所内の様子。
特に危険な感じはなく、のんびりとした昼時の景色に見えた。
湾を挟んだ向こうに見える背の低い陸地は、三浦半島の突端へ続く。
肩で息をしながら、待ちに待った尾根が近づいてきた。
ある程度登ると照葉樹林帯となり、下草は大人しくなったので歩きやすかった。
稜線上には、それに沿って2重のフェンスが設置されていた。
幸いにも、それは簡単に乗り越せるものだった。
また、少し回り込むと柵が途切れていた。
おそらく防火帯となっているのだろう。
稜線上は木々が刈り払われている。
ちょうどこの写真は隧道の直上だ。
特に鞍部があるというわけでもなく、古い道形なども見られない。
隧道によって初めて越された峠なのだろう。
その稜線上に建っていた標柱。
そこに彫られた文字は 「超」 !
こんなのははじめて見たぞ。
その意味は何だろう?
「超」えるな?
「超」法規的?
「超」マリオ?
さて、後は下るだけ。
下る先を間違えないように慎重に選んで、ずるずるずると。
坑口の上から水が滴っていたことを思い出し、沢らしい場所を下っていく。
すると、すぐに沼地のような掘り割りが見下ろされた。
青いリュックも見えている。
戻ってきたぞ!
と、ここで気を緩めたか、泥の斜面に スッテーン!
右手首を擦り剥く失態。
生還。
思いのほか密度の濃い隧道だった。
だがもう二度とこの窓を潜ることもないだろう。
発見から約30分間の探索であった。
辺りに人影が無いことを確かめた上、私は速やかにここを離れた。
さらばだ、名も知らぬ軍事工場よ!
これからも隧道をよろしく頼むぞ。