【所在地】
右の地図だけを見て「あ、あそこね!」と分かる人は、よほど地元通の人だろう。
主要地方道「富津館山線」(県道88号)は、内房のメインルートである海岸通りの国道127号と、半島中央部を縦貫する国道410号とに挟まれたエリアを縦貫する道路で、沿道に目立った市街地や観光地が無いことから、県外車の少ないローカルな道路である。
しかし地道に改良は進められており、行楽シーズンなどは渋滞を避ける意味でかなり有意義なルートである。
全長35kmの途中には房総丘陵内の小山脈を越える峠が2つあり、それぞれ木之根峠と白石峠と呼ばれるが、これらの箇所を含めて現在の当路線には隧道が一本もない。
隧道の宝庫である半島内では珍しい感じさえ受けるのだが、その理由をこの探索で知ることになった。
これから紹介する隧道は、
千葉県内に385※あった明治隧道の1つである。
※『明治工業史土木篇』による。
右の地図は、明治36年測図版の地形図「那古」である。
これがこの場所を描いたものとしては最古の5万図だ。
先ほどの地図と比較すれば、府県道を示す二重線の描き出す線形にほとんど変化のないことが分かるだろう。
私は思った。
あなたも思ったはずだ。
隧道はどこだ? と。
この隧道は、
明治36年には既に姿を消していた。
だが、関東近郊という場所が幸いした…。
ここには、さらに昔を描いた地図が、存在していたのである
これが、江戸時代に近い当時を描き出した、日本最古の近代的地図の姿だ。
「第一軍官地方迅速測図」と呼ばれるこの美しい彩色地図は、明治13年から19年にかけ、陸軍の手で関東平野の広い範囲について作成された。
なんとその縮尺は2万分の1というから、今日の基準に照らしても大縮尺だが、迅速測図の名の通り、測量は簡易な方法によった。
そのせいでさすがに後の2万分の1「正式図」や、今日の地形図に比べるとだいぶ誤謬もあるのだが、それを差し引いてもこの時代の大縮尺地図は貴重である。
前置きが長くなったが、この地図には白石峠を貫く隧道が描かれている。
明治26年の「正式図」にも同様に描かれているから…
この白石峠に存在していた隧道は、明治19年以前に完成し、明治26年から36年の間に廃止されたと考えられるのである。
ま さ に 、
幻古の隧道!!
こんな隧道がもし残っていたら…、
それはどんな姿になっているのだろうか。
さすがに経験上、残っているワケないような気もするが……。
残っているらしい。
情報提供者は、『
トンネルコレクション』主宰の
まきき氏。
知る人ぞ知る隧道情報ホルダーである
学生服のヤマダ氏 から、正式図に描かれた隧道の存在を教わったまきき氏が、実際に現地を調査して
坑口らしきものを発見したそうなのである。
しかし、ただならぬ現状のため立入までは出来ず、二人が相談した上で私にメールを下さったとのことである。
それってすごく嬉しいけれど、
でも、ぶっちゃけ…、
「絶対に入りたくならないような隧道」の中を見てこいという、そういうオファーと言わざるを得ないわけでワケで…。
命までは失わないようにしなければという、強い自戒を秘めての現地踏査となった。
special thanks to まきき氏、学生服のヤマダ氏
なお、お二人は私に「隧道に入ってくれ」などとオーダーしたわけではありません。
私が勝手に入ろうとしただけですから、念のため…。
2009/3/18 15:21
さほど正確ではない「迅速測図」だが、地形の特徴はよく捉えているので、描かれた隧道の位置を現在の地形図に対照するのは容易だった。
まずは まきき氏 が坑口らしきものを発見したという南口へアプローチすることにした。
その現道からの分岐地点は、「明治36年版」以降現在まで大きな変化のない白石峠から南へ200mほど下った、ちょうど嶺岡四号林道との交差点である。
分岐を左右のどちらにも進まず、居眠り運転の事故車よろしく真っ直ぐの杉林へと進入する。
そこにはもはや、ありきたりな「立入禁止」や「通行止」の看板も、バリケードも無い。
そして、そんな現状が意味していることは、ただ一つしかない。
廃止されてから経過した時間の、ただならぬ長さである。
冒頭で述べた“地図の調べ”が正しければ、隧道の廃止は明治36年よりも前。
つまり、隧道へ繋がるこの杉林の中の旧道も、廃止から106年を経過しているということになる。
廃道として過ごした1世紀は、かつての道床と。杉植林地の林床との区別を、全く失わせている。
だがそれでも藪化を免れているのは、この場所が天然の沢地形のため日影であるせいだろう。
…いや。
もしかしたら…
この沢地形自体が「道」として作られた掘り割りの跡なのかも知れない。
その区別さえ明瞭でないほど道路の痕跡は失われているが、何がしか意志を帯びていそうな沢地形は、一直線に尾根下へと割り込んでいくのだった。
現道から入り込むこと僅か3〜40m。
現道を駆け抜ける車の音はまだ背中に接しているが、行く手の斜面は早くも“閉塞”の状況を示していた。
この時点で、隧道があるならば見えていて良いはずだが、未だその気配は感じられない。
ただ行き止まっているだけのようである…。
まきき氏が見たというのは、本当に南口なのか…。
まさか、私は大きな間違いを犯しているのではないか…。
正直この状況からでは、もし隧道が見つかっても平穏な坑口ではあり得ない。
見付けたいが見付けたくないような、複雑な心境であった。
15:23
道跡と考えられる沢地形の最奥部に到達。
隧道発見の瞬間であった。
追認だったが、それでも衝撃的だった。
明治の地形図にさえ載っていなかった隧道が、本当に現れたのである。
レトロを越えてカラフルな迅速測図が、生々しく甦ってきたかのような錯覚を覚える。
色の濃い、岩の骸だ。
隧道発見で安心するなど、あり得なかった。
聞きしに勝る…… 死 に っ ぷ り 。
まききさん、
これは、キツいっす…
ゴム長の丈より高さが足りない隧道は、完全埋没の一歩手前である。
予想していた展開ではあったが、それにしても狭過ぎるし、しかも湿気っている。
坑口付近には薄く泥が堆積していて、内部が水没していても不思議はないムードだ。
当然のように、隧道から風など吹き出してはいない。
ここにいても、少しの冷気も、土のニオイさえ感じられない。
つまり、全くの無風状態。
死隧確定だ。
坑口前で前のめりに屈み込み、膝と掌を泥の表面に当てる。
気色の悪い感触とともに、やっとカビと土のくぐもったニオイが鼻腔に触れた。
ヘッドライトを点灯させ、長靴サイズの穴に突っ込んで奥を覗いてみる。
隧道は、閉塞している。
それは確かだ。
それだけで良いじゃないかという気もした。
しかし、私は気付いてしまった。
泥にまみれる覚悟があるなら、物理的には、入れないこともない事を。