2014/3/26 10:42 《現在地》
近くに車を止め、自転車に乗り換えて高浜隧道へ向かうと、難なくそれは現れた。
地図で見たとおりの海に面したトンネルで、坑門に続く緩い右カーブの途中で振り返ると、典型的なトンボロ地形に立地する串本の低層な街並みが、黒潮の色とも思える青黒い海の向こうに見渡せた。
嵐の前を思わせる空の色と風の中で、町は静かに伏しているような印象だ。
串本の市街地から約3km離れた現在地は既に隣町への道中であり、隧道が貫いている鋭い岩山の姿は、この地が古くからの関門であったことを理解させるに十分だ。
まさに、絵に描いたような「隧道開削待った無し!」な地形である。
そして、岩山の稜線までコンクリートでガチガチに固められた高浜隧道は、必要以上に目立っていた。
今のところ、その周りに旧隧道らしきものは見あたらない。
大きな大きな高浜隧道の坑門は、闘いに身を置く戦士の鎧のような武骨さである。
坑門がトンネルの進行方向に対して斜交していることも視覚的な意味での巨大さを際立たせており、意匠こそ少ないが、コンクリートのマッシブな迫力がいかんなく発揮された印象的な坑門だ。
また、扁額の位置に特色があり、敢えてスペースに余裕がある坑口上部ではなく、坑口左側の手の届きそうな高さに嵌め込まれていた。
それは元一級国道の格を有する国道42号の扁額として恥ずかしくない大きな石版で、「高濱隧道」の4文字を刻む。
ちなみに、この石版扁額のデザインや特徴的な設置位置は、紀伊半島にある国道42号の多くのトンネルで共通する一種の地域色である。
そして、この立派な扁額の脇に張り出した巨大な翼壁にも注目したい。
これは落石や高波から国道を守る構造であろうが、その不動の存在感は、“壁の向こう側にあるもの”の最早覆らない立ち位置をはっきりと示していて、少し残酷だった。
壁の向こうにあるもの
||
旧道&旧隧道あった!!!
…ゴクリ…
なかなか、いい雰囲気持ってるじゃん……。
10:44 《現在地》
すぐに旧道&旧隧道へ飛び込んでも良かったが、今回は少し勿体ぶることにした。
自転車を東口に残し、単身でわずか62mの現トンネルを潜り抜ける。
そしてやって来たのが、この写真の西口である。
武骨さ一辺倒であった東口とは印象が異なる、濃い照葉樹の森に囲まれた坑門が目に優しい。
そして、わざわざ勿体ぶったことを後悔しないだけの美味しい展開が待ち受けていた。
向かって右に見える石垣護岸の旧道敷きは、それ自体も味わい深いが、その先に待ち受ける旧隧道の姿を想像して楽しむだけの時間的&空間的な余地を与えてくれたのである。
これは探索者冥利に尽きる嬉しいサービス。
さて、それでは旧道へGO!
こちら西側の旧道入口も、東口のものほど巨大ではないが、擁壁によって塞がれていた。波除けの護岸擁壁である。
その上部が写真左下に見える。
こういった状況からもお分かりいただけるように、既に旧道は全く道としての機能を期待されておらず、現地に立入禁止を明記するものは無いものの、実質的な廃道となっていることが分かる。
だが、「道路トンネル大鑑」の記録によれば、現道の開通は昭和42(1967)年であるから、その直前まで使われていただろうこの旧道は歴とした国道42号の旧道である。
昭和34年に一級国道42号が初めて指定された(昭和40年に一般国道42号へ改称された)という歴史と照らせば、8年間くらいを国道42号として過ごしている計算になるのだ。
このススキの草むらが、国道42号の旧道…。
おそらく鋪装されていないからこその、この草むらだろう。
そして、道幅もとても狭い。
海と崖に挟まれていて、拡幅する余地も無い。
…。
この道が現役だった昭和40年頃といえば、既に東京には首都高速道路が誕生しているし、東名高速なども全線開通を間近に控え、日本の幹線部の道路事情は急激に進歩していた。
そんな中で名前は一端の「一級国道」であっても、大都会から遠い串本辺りの事情といえば、近代から大して進歩していない状況だったのかもしれない。
しかも僻遠の地の道路の改良は一級国道がまず最初であったはずだから、当時の他の道路事情は推して知るべしといえる。
旧隧道が現れるまでススキの藪が続くことを覚悟したが、実際はそうならず、十数メートルほど進むと突如路盤らしき裸地が現れた。
しかも、ここが路盤であることを示すように、壊れかけたバリケードが設置されている。
こんな所まで入ってくる人間に向かって、今さら何のためのバリケードかと訝しく思うも、朽ちたバリケードは単純に廃道へ風情を加えるアイテムなので、嬉しい。
そしてススキ藪が切れたことで、この道がどれだけ海の近くにあるかということを嫌でも思い知る風景になった。
写真からは伝わらないかも知れないが、湿った海風がバンバン私を吹き上げる。
これはとても絵に描いたような風濤と潮騒の旧道である。
ささやかなバリケードが意味するところが判明した。
バリケードのすぐ先にあったのは、道幅の9割以上が崩れ落ちた決壊地点。
どうやら波に削られた石垣の護岸が崩れ、そのまま路盤まで持っていかれてしまった模様だ。
崩れた道の断面から、一応はされていた鋪装がいわゆる簡易鋪装であり、極めて薄っぺらな施工であったことが判明した。
おそらく特に波が高い日には、路上も波に洗われるのだろう。
路上の妙に綺麗な洗われたような有り様と、太平洋の波の荒さ、そして平時の割に海面が近いことなどを考えあわせれば、この予想に間違いはないと思える。
旧道から串本の市街地とは反対側の西側の海岸線を見渡すと、この地方の海岸線を特にそう呼ぶ「枯木灘」という名が相応しく思える、なんとも荒涼とした海岸風景であった。
まだ雨は降りはじめていないが、今の天気は何だか鬼気迫るものがある。
しかし、こんな日にも「串本海中公園センター水族館」を楽しんでいる人がいるようで、ふたりの人影が遠い海上の歩道橋に見えたのであるが、端から見ると絶望的な淋しさだった。
とても短い旧道なのに、もう存分に没頭させてもらっている。
この没頭感は、高得点だ。
これが昭和42年までの国道42号である。
文句ない“酷道”だったことが分かる。
紀伊半島のこの辺りの海岸沿いには、少しだけ内陸に迂回する別ルートなどはない。
また、半島突端の串本へ通じる道は、東西の海岸から向かう2本と内陸からの1本があるだけなので、
串本や、その目前の海上に浮かぶ紀伊大島という場所が、いかに「遠かった」かが感じられる。
再び現れた、朽ちかけのバリケード。
そして、その向こうの岬突端の左カーブ。
明らかに、「来た。」と分かる展開だ。
来た!
枯れ木のような赤茶けた岩盤に穿たれた風穴のような素掘隧道は、
正式名が別にあったか定かでない、旧高浜隧道である。
…そしてこの隧道には、さらなる古さを秘めた “影” が…。
それは皆さまの想像の斜め… 下に?!