田代隧道
林鉄用隧道としてはきわめて特殊
秋田県二ツ井町 田代

 今回紹介する隧道は、田代隧道という。
これは、県内の森林軌道網を調査する活動の中で発見した林鉄用隧道の一つである。

その由来は、秋田県で最古の森林鉄道である仁鮒森林鉄道の、田代支線という支線上に建設された隧道であり、支線全体の竣工は昭和22年である。
同線は、濁川林鉄の本線が辿る内川の最大支流である田代川に沿って上流を目指す路線で、「日本一の杉」の聳え立つ水沢保護林などが沿線にある。
しかし、本隧道の施工された区間は地形的難所であり、なかなか軌道を建設できない部分でもあった。
それで、軌道開通以前の田代川流域の集材には、当時東洋一と謳われた峯越インクライン設備などを利用し、この急峻地を迂回してきた歴史がある。





 2003年11月5日。
朝の空気は静粛としており、吐く息も白い。
私は、ここ二ツ井町南部の仙ノ台にあった。
ここは、内川流域では奥から二番目の集落であり、最も奥の集落は、本流である内川上流にはもう無く、ここから分かれる支流田代川の上流に、隠れ里のような田代集落が存在している。
この先の道は、先に述べたとおり、なかなか軌道を通すこともできなかった難所である。

右は内川沿い県道294号(仙ノ台桧山線)で、かつての濁川森林鉄道と共用する区間も多い。
私の背後から左に続くのが、田代川沿いの県道203号(高屋敷茶屋下線)で、かつては支線だったけど、今は元本線と立場が逆転している?

左へ、進む。




 県道の舗装路を辿れるのもつかの間、分岐から僅かの距離で軌道跡への入り口がある。
この写真の分岐を、右に曲がれば、まもなく河岸段丘上に至り、そこには軌道の跡を利用した林道が続く。
まだ自動車でも進入できるが、決して道はよくない。



 左下には田代川沿いの田圃の中を突き進む県道が走り、まだまだ登りという感じではないのに、軌道跡の林道はこの通り、早速登りが始まる。
この展開は、鉄道らしい。
つまりは、この先に急峻地があるので、勾配の稼げない鉄道(この場合は森林軌道)は、先回りして高度を稼ぐ手段に出たのだ。
この先しばし、県道から見えない山中へ入り、地形に逆らわず大きなカーブを描きながら高度を稼ぐ。




 まもなくブルの唸りもけたたましい林業会社の裏手を通る。
この辺りの山はみな、この会社のテリトリーなのかもしれない。
この先の軌道跡は、ブル轍の深い林道と化しており、泥っぽい。
乗用車では立ち入らない方が無難だろう。

写真の十字路は、直進。



 軌道跡らしく、大きなカーブと緩い勾配。
杉の林の中を、緩やかに高度を上げていく。




 そして、500mほどで、再び県道のアスファルトが見えてくるが、驚くほど高度差が出ている。
しかも、県道との間には田代川が清澗となっている。




 田代川を挟んで県道と平行しつつ、緩やかに登りは続く。
県道も、いよいよ狭まる峡間に重い腰を上げるかのように、徐々に勾配を増しているのが見える。
こうなると、車道である県道の追い上げは目を見張るものがある。

しかしこの先、県道は見えなくなる。
それは、県道が少し沢から離れてしまうためだ。




 本来は、もう廃道と成りはてていても不思議はない軌道跡であるが、このように現役の林道として存在している。
地図上でも点線で描かれており、相当の困難を予感していたが、予想外の展開である。
県道に沿っているとはいえ、相互に行き来ができない地形故に、左岸の造林用に生かされているのだろう。
チャリでの探索に楽だという事以上に、軌道の(苦労して)拓いた道が、現在も利用されていたことに喜びを感じた。

この調子なら、地図で発見しただけの隧道も、現役でいるのだろうか?


 道路の状況は、進むにつれて悪化している。
つまりは、泥はより深くなり、凹凸も激しい。
ほとんど、キャタピラ付きの車両専用の道という様子になってくる。

そして、分岐から約1500m走った地点に、大きな広場があり、その先は「最近になってブルで均して何とか通れるようにした元廃道だな」と一目見て分かるような、強引すぎる道となっていた。

その先に見えるのは…。


 きたっ!

予想よりは大分楽に来られたが、それでも大変に峻険な場所なのは間違いない。
田代川の切り立つ崖を穿つ隧道が、その姿を現した。
名称なども、全く知らない状態でここに来たのであるが、まあ軌道用の隧道ということで、
「そうだな、田代支線の隧道だから“田代隧道”と呼ぶか。」なんて考えて来た。

そんな私の“配慮”は、思いがけず、余計なお世話になってしまった。



 なんとこの隧道、扁額があるではないか!

何を驚いているのかと思うかもしれないが、当サイトで紹介してきた今までの軌道用隧道を、或いは鉄道用の隧道の姿を思い出してほしい。

扁額などついているものは、稀。
というか、道路隧道と同じような、一目見てそれと分かる立派な扁額が付いているものなど、皆無だった。

短い隧道なのは一目で分かるが、今や私の興味の対象は通過することではなく、この扁額に注がれた。
この隧道、ただ者ではない予感!


 扁額は、正方形の20cm四方くらいの黒っぽい石材であり、合計4枚が坑口上部のコンクリートに埋め込まれている。
それぞれには、一文字ずつ陰刻され、合わせると「 田 代 隧 道 」と、読める。
(私の隧道名は、的中だった。)

なぜ、この隧道だけに立派な扁額が存在するのだろうか?

真っ先に疑ったのは、この隧道が一時期でも、車道として利用されていたのではないかということだが。
その疑惑は、次の発見で一蹴された。


丁寧にも坑口左には、もう一枚の石版が埋め込まれており、そこには隧道の由来が示されていた。

 昭和十六年三月竣工

 保線作業班實行

 水○○二郎○○

などのように読める。
ちなみに、「實」は「実」の異字体であり、「○」の部分は読み取れなかった。
つまりは、保線作業班が昭和16年に完成させた隧道だぞ、という意味だろう。

保線作業員たちの、難所突破にかける意気込みというか、突破の重要な一歩である隧道完成に対する誇りのようなものを感じる、立派な文字である。
よもや、支線の一隧道に、この様な物を見ようとは、思っていなかった。

なんとも、おもしろいではないか!

 隧道は、全長20mほど。
出口付近が大きくカーブしている。
内部はコンクリート巻きであり、しっかりとしている。
洞床は砂地であり、外に比べれば大分おとなしい。
ここだけを見れば、現役の隧道のようであるが、私はそうは見ない。

裏付けがあるわけではないが、隧道手前の広場からここまで、そしてこの先の区間は、ごく最近になって復活させられた道だと思う。
数年前までは、深い藪の中に眠っていた隧道ではなかっただろうか。
そんな気が、する。


 出口側の坑門にも、やはり扁額が存在していた形跡があったが、残念ながら、木枠のみを残し消失していた。
この状況も、隧道はやはり近年までうち捨てられていたのではないかと考える理由の一つだ。

ちなみに、本支線が竣工したのは昭和22年という記録があり、最難所であったはずの隧道の完成から更に6年をも要したことになる。
太平洋戦争が関係しているのだろうか。


 田代隧道、田代集落側坑口。

ここをすぎれば、いよいよ厳しかった崖区間も、終わりが近い。

だが…、

私にとっての難局は、この先だった。



 無名の滝が、軌道跡の林道と対峙するように秀麗な姿を見せる。
こんな美しい場所が隠れていたなんて…。
一体どれほどの人が、この滝を知っているのだろうか。
ほとんど無名な山中に、無名の滝。

隧道や軌道を作った保線夫達も、運転士たちも、山の仕事に従事した人たちも、みな、この滝を見てきたはずだ。

時代を超えて、そんな景色を追体験出来ることが、軌道探索の面白みかもしれない。



 なおもブル道は続くが、終点はほど近い。


 集材作業中という赤文字の看板が立てられ、ここが現役で利用されている区間の終点である。
分岐からは約2.5km、隧道からは300mほどの地点だ。
ショベルカーが一台置かれていたが、この時は無人だった。

邪魔なショベルカーの脇をすり抜け、更に先へ進む。



 そこには、期待通りの「軌道跡らしい廃道」が続いているかに見えた。

だが、甘くはなかった。



 ほんの50mほどすすむと、ごらんの有様。
田代川の小さな支沢に沿って続く軌道跡は、この先500mほどで田代集落に続く盆地に脱出出来るはずなのであるが、そこまで到達することが、残念ながら出来なかった。

まさかまさかの断念である。

藪ごときで。
…悔しいけど、この藪は、ただの藪ではなかった。



 たぶん、ここには小さな橋が架けられていたのだと思う。
沢を渡る場所は、一面の笹藪と化していて、しかも背丈よりも深く成長している。
チャリなどをつっこませてみたが、全く進めないばかりか、全く戻れない。
全く方向転換が出来ない。

私は汗だくになり、手足の露出部に多数の切り傷を作りながら、何とかチャリを肩に担いで逃げ帰ったのである。
見たことのない、凶悪すぎる笹藪であった。

あんまり悔しいから、チャリを捨て徒歩で少しだけ進んでみた。


 沢を渡った先には、杉の木立に囲まれた道がまっすぐ続いていた。
樹海のような笹藪さえ無ければ、そこそこナイスな雰囲気なのだが。

徒歩ならば進めないこともなさそうだが、この先の区間は、必要ならば田代集落側からアプローチが可能であろうから、引き返すことにした。
最大の目的である隧道攻略を達成したことだし、長居する理由はなかった。
しかし、酷い藪だった。
チャリが壊れたし。





 その後、県道に戻り田代集落へ進んだ。

さっきまでの景色が嘘のような、広々とした、長閑な山間の村がそこにはあった。



               完


2004.2.9


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