善知鳥うとう前隧道  前編
改廃に翻弄され
青森県 青森市浅虫
 お馴染み「全国隧道リスト」に「昭和8年竣工」と示されている古隧道の一つに、青森県青森市の善知鳥前隧道がある。
東北の最大幹線で日本最長の国道である4号線、その最後に待ち受けていた難所「善知鳥崎」は、かつて「親不知子不知に匹敵する」と称された難所であったという。
そこに穿たれた隧道とは、一体どのようなものだったのだろうか?

複雑な変遷を辿った、善知鳥崎を越える道の謎を紐解こう。




 
 青森市久栗坂は、陸奥湾沿いに走る東北本線の野内駅と浅虫温泉駅の丁度中間に位置する。
レールは集落を縦断しているものの駅はなく、また国道4号線も久栗坂トンネルでやや内陸を通過してしまっている。しかし、青森市街にも近い比較的ひらけた集落である。
久栗坂の往来の中心は、旧国道である一般県道259号「久栗坂造道線」である。

昭和11年竣工の根井橋は、根井川の最も河口よりに架かる県道の橋だ。
正面に見える小松山(海抜244.9m)の向こうには、浅虫温泉がある。




 久栗坂から浅虫温泉へと向かうと、すぐに県道は山から下りてきた国道4号線に吸収され消える。
写真は、辛うじて古い道路敷きの一部が海寄りに残る合流の三叉路、県道側である。
浅虫温泉側を背にして、正面には久栗坂集落が、そして、丁度写真中央に写るコンクリートの橋台は、以前は海岸線を通って浅虫温泉を目指していた東北本線の旧線の跡である。
久栗坂集落側の橋台と、そこから現在線合流点までは住宅地に築堤が残されている。
一方、この橋台と対の橋台が手前にあり、国道(現在の旧国道)を渡っていたはずだが、取り壊されて見あたらない。


 海岸線を走る国道4号線は、600mほどで善知鳥崎突端を突く善知鳥トンネルで浅虫温泉へと抜ける。
東北本線の現在線は、延長1kmを越える浅虫トンネルをもって、小松山を貫通し浅虫温泉へ抜ける。
現在の国道敷きの海側半分は、かつての東北本線の線路敷きである。
東北本線が現在線に切り替えられたのは、昭和42年の暮れのことである。



 トンネルへ向かう国道の脇に、地中にめり込んだようなトンネルの上部が見えた。
立派な扁額を持つ新しそうなトンネルだ。

何物かと接近してみると…。



 そこには波がうねっていた。

銘板には、「浅虫ダム分水トンネル」とあり、小松山の反対側の浅虫川上流にある浅虫ダムから流れ出してきているらしい。
数キロはあるトンネルだろうが、さすがに調査対象外だな。
水深が、3mくらいありそうだ(笑)


 大断面の善知鳥トンネルが接近してきた。
善知鳥崎は内海の割には波の荒い陸奥湾に迫り落ちていて、見るからに難所だ。
トンネルがなければ、容易には往来できないだろう。
しかし、現代人には「トンネルがない」等という発想は難しく、当たり前のように穿たれたトンネルをもってすれば、なんてことはないただの平坦路である。
むろん、国道の車の流れは速い。

背後に見える島は、浅虫温泉の沖に浮かぶ、湯ノ島である。



 その善知鳥崎には、海岸線にも古道と思しき道形がある。
丁度、車一台が辛うじて往来できる程度の幅があり、国道もかつては通っていたかと思われるが、不明だ。
現在は、車止めが設置されており、短い遊歩道となっている。
防波堤はあるが、決して高くはなく、波しぶきがふりかかりそうだ。

この海岸添いの道は、後で通るとして、まずは現道トンネルをご覧頂こう。




 現国道4号線の善知鳥トンネルは、景観に配慮したシンプルな坑門が好印象の大断面トンネルだ。
工事銘板によれば、全長112m、竣工は1980年(昭和55年)。
竣工当時としては近代的な隧道であったのだろうが、もう立派に壮年期を迎えている。
緩やかにカーブしており、道路トンネルとして不自然な部分は特に、無い。

なぜこんな書き方をしたかといえば、
勘のいい人はお気づきかも知れないが…。

このトンネルは、元東北本線の廃隧道「久栗坂隧道」であったものを、改築して利用しているのだ。




 写真は、善知鳥トンネル浅虫温泉側坑門。

先述の通り、鉄道の路線付け替えは昭和42年、そして国道としてトンネルが改築されたのは、昭和55年。
この間の空白の13年間のうち大部分は、当時の国道トンネルの、歩道専用トンネルとして利用されていたそうだ。
当時の写真が、『無明舎出版刊 とうほく廃線紀行』に掲載されており、以前紹介した旧浦島隧道とよく似た、明治24年の隧道の姿を見られる。
 
となると、ここでやっと登場してくるのが、表題の隧道「善知鳥前隧道」である。
昭和8年に竣工以来、昭和55年まで現役だったその隧道は、どこにあるのか?
と、もったいぶってみても、実はもう既に、少しだけ写真に写り込んでいる、ここまでの写真では、2枚ほど。



 もう少しだけ、現道トンネルにおつきあい願いたい。

現道トンネルの天井には、まるで迷路のような、ものすごい模様が描かれている。
それは、チョークで一面に描かれた、曲線と文字の羅列であり、多分ヒビとか、補修の必要な箇所について示しているのだろうが…、なんか、これを見ていると現道トンネルも安心ではないような気がしてきた。

もし、さらなる拡幅(4車線化)を兼ねてバイパスの建設という道が選ばれたら、東北では珍しい4代の隧道が出現する可能性もある。
「3代でなくて?」というツッコミをしてくれたあなたは、よく「山行が」を読んでおられる。嬉しい。

でも、実は4代である。
いや、5代の可能性すら…。



 写真は、海岸添いの旧旧道と思しき道から見る、善知鳥崎突端と、湯ノ島。

現道トンネルの久栗坂側坑門の脇に、一本の案内板が立てられており、そこにはこの善知鳥崎にまつわる歴史が綴られているのだが、その一部を抜粋し掲載する。

 久栗坂と浅虫の境になっているトンネルの辺りを「善知鳥前」と呼んでいる。
ここの突出した先端を「善知鳥崎」という。
(中略)
なお、善知鳥前は「往来嶮岨の地」であった。「怪岩波に洗はるる山下の小径に梯を掛け、恐怖戦慄しつつ辛うじて通過した」と記録に残されている。越後(現:新潟県)の親不知、子不知とともに二大険路といわれた。
 文化年間、わずかに岩中を開削されたが、明治9年(1876)、明治天皇の東北巡幸の機会によってトンネルが開通した。
 明治9年頃に既に隧道が創られたと見るべきだろう。
残念ながら、事前の調査不足により、この隧道の発見には至っていない。
或いは、既に切り崩されたり、現在残る隧道群に改築されたりしたのかも知れないが、今後の調査が必要な部分である。
それと、文中「文化年間〜岩中を開削」の部分が、もし隧道を意味しているとしたら、なんとなんと、江戸、明治、昭和に渡り5本の隧道が存在した可能性すらある。



 残念ながら、現道トンネルには旧久栗坂隧道時代の痕跡と断言できる物は見あたらない。
しかし、海岸線に途切れ途切れになりながら残る、石組みの防波堤は、鉄道敷設と関連していた物かも知れない。





 善知鳥崎突端の山際に立つ「明治天皇御野立」の碑。

私は、石碑に聞いてみたい気分だった。
幻といって差し支えがないだろう、明治の隧道の姿を。





 現道トンネルの坑門部から山側を見ると、久栗坂側、浅虫側のいずれでも、山際にもう一本の隧道が存在することが分かる。
発見には全く苦労はない。
接近も、フェンスで完全に囲まれた久栗坂側を避ければ、国道の横断事故だけに気をつければ、容易だ。


そこには、逃げも隠れもしない、堂々たる一級国道 「善知鳥前隧道」 が待ち受けていた。
 





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2004.4.3