現道の善知鳥トンネルの坑門の脇には、浅虫側は盛り土で、青森側はフェンスと街路樹でカモフラージュされているものの、しっかりとこの、善知鳥前隧道が残っている。
写真は、浅虫側の坑門の姿。
昭和8年の竣工といわれる隧道は、それ相応の歴史を感じさせる重厚な姿で、私を惹き付ける。
延長は112m。
現道のトンネルとは異なり直線であり、入り口のすぐ先には出口が見えている。
そのせいで、迫ってくるような恐怖感はないが、そのことは決して、坑門の持つ迫力を損なっていない。
やや目の大きい石組みや、かなりせり出した両脇のパラペットも目を引くが、なんと言っても、扁額の大きさに驚いた。
後補のものと思われる落石防止のフェンスが坑門上部から浅虫側の旧道敷きを延々と囲っている。
また、現道にとっては、この旧道敷きがセーフティゾーンとなっており、万が一大規模な土砂崩れが起きた場合も影響が出なさそうである。
浅虫温泉のホテル街が間近に迫る背後には、旧道の上に盛り土がなされ往時の面影は薄い。
この旧道のスペースは、しばし現道に沿って続くが、浅虫温泉に入る直前で拡幅される現道に呑み込まれ消える。
その迫力にぶったまげた巨大な扁額には、堂々たる右書きで「善知鳥前隧道」の文字。
下段には小さく(それでも他の隧道の扁額の文字と同じくらい)「昭和八年三月竣工」ともある。
達筆とは違うような気がするが、力強い筆跡は、やはり当時の有力者のものであろうか?
本隧道は、どうしてもあの栗子隧道と比較してみたくなる。
その規模こそ違えども、明治初期に初代隧道が掘削されたという共通点。
その後、明治天皇が行幸されたという共通点。
昭和初期に改良されたという(本隧道については別隧道の可能性もあります)共通点。
昭和後期に現道に切り替わり廃道となったという共通点。
共に、元一級国道の隧道であるというのも、共通する点だ。
ただ、万世大路のような“ロマン”に彩られなかった本隧道は、人家に近いせいもあるのだろうが、心霊スポットなどというありがなくない汚名を着せられ、無様な扉や廃材で塞がれてしまった。
もし栗子のように崩落していたなら、きっと今頃はその坑門すら埋められて消えていたことだろう。
浅虫側の坑門のすぐ内側に、既に文字は判別できなくなっていたが、旧国道でも「元一級国道格」の道でしか見かけない、立派な距離標が残っていた。
ここは、紛れもない国道4号線の旧道であり、そこにはかつて、「700」以上の大きな数字が誇らしげに記されていたことだろう。
鉄製の格子と、その隙間を埋める鉄の網で隧道は閉鎖されている。
よく見ると、この格子自体は観音開きの扉となっているが、果たして設置されてから解放されたことはあるのだろうか。
歴史的な隧道の決して多くない青森県に置いては、特に貴重な隧道と思われるが、残念ながら、危険防止の観点から邪魔な隧道という扱いのようだ。
また、現道の拡幅などがあれば破壊されかねない位置にある。
一見立ち入り不可能と思われた隧道だが、網は何者かによって一部切り取られ、侵入を許している。
それでは、私も失礼して…。
冷たい海風が吹き抜ける隧道は、広い。
洞床にはアスファルトによる舗装が残るが、白線はなく、歩道などを区切る設備もない。
そのことが尚更に、隧道を広く感じさせる。
まるで、入居者がみんな出て行ってしまった集合住宅のような、寒々しい雰囲気だ。
立派で威厳のある坑門の姿から見ると、余りにも寂しい。
出来ることなら、この様な隧道にこそ、今なお現役で浅虫温泉の玄関口を勤めて欲しいと思うが、それは身勝手な言い分だろうか。
しかし、補修さえ怠らなければ、まだまだ現役で十分に活躍できそうな様子だ。
浅虫温泉側の坑口を振り返る。
地下水はそれほど多くはないが、雪解けシーズンということもあり、この日は水たまりが出来ていた。
封鎖してあるとはいえ、完全に溶接し封印するのではなく、扉の形としてあることは、青森県としてもこの隧道に価値を感じているという理解で、いいのだろうか?
心霊スポットとして知られ、そして実際に封鎖を突破されていることから、内部の落書きなどが心配されるが、現時点では、意外なことに、全くもってそういう形跡はない。
それどころか、空き缶一つ落ちていないし、…並の現役隧道よりも綺麗だ。
どういう訳かは分からないが、嬉しい誤算だった。
アスファルトは古く、半分砂利道のように小石が浮いている。
この隧道が役目を終えた当時は、スパイクタイヤが全盛を迎えており、北国の路面は半年間削られ続けていたのだ。
そんな過労を感じさせる洞床に、思わずお疲れ様と頭を垂れた自分がいた。
晩年の老体に、国道4号線としての使命は、いかほどのものであったろうか。
照明が取り付けられていた痕跡のない天井だが、その必要はなかったのだろう。
しかし、等間隔に木製の棒が固定されているのを見つけた。
これは、多分電線が洞内を通っていた痕跡だろうか。
残念ながら、碍子は残っていないので、断言は出来ないが。
天井からは、コンクリート鍾乳石が伸びている。
その本数は決して多くはないが、地下水が天井に描き出す白と黒の模様は、気の弱い者の目には確かに、死霊の影にも写るのだろう。
短い隧道はすぐに私を青森側の坑口へと誘った。
そこには、現道からもよく見える落石覆いが未だ、道を守り立ちつくしている。
写真奥には葉を落とした街路樹と、現道とを隔てるフェンス、現道を走る自動車などが写っている。
ちなみに現道から落石覆いは、この様に見える。
このおかげで、歴史ある坑門の姿は隠され、興味のある人の目も遠ざけている可能性がある。
とはいえ、この落石覆いがなければ、いつか坑門が土砂で埋もれてしまうのだろうが。
青森側から、浅虫側を通視する。
天井の白化は、青森側で特に進んでいる。
こうしてみると、幅は2車線を確保できるものであるが、天井は決して高いとは言えず、これ以外に迂回路のない道としてははなはだ支障が大きかっただろう。
実際に、昭和50年頃にはまだ東北自動車道が全通していなかったし、みちのく有料道路も無いし、冬期間となれば青森と八戸方向を結ぶ道は、たったこの隧道一つだった訳で。
そこにきて、この幅6m、高さ4.5mの隧道というのは…、まあ、日本中どこでも交通事情の悪かった時代だが。
青森側の坑門には浅虫側のような扉はなく封鎖されていないかと思われたが、坑門から30mほど進んだ場所で、頑丈なフェンスが施錠された扉と共に、私の行く手を阻んだ。
その先にも、現道に沿った町道として久栗坂付近まで旧道敷きは存在する。
このフェンスは、道路上のみならず、坑門からここまでの現道との間も完全にシャットアウトしているので、本隧道はどちら側からも侵入できないことになる。
実質は、青森側の坑門の封鎖が突破されている訳だが。
そして、このフェンスも徒歩であれば突破できないものでもないが。
フェンスから振り返る坑門。
すぐ脇では現道の喧噪が、潮騒も掻き消すほどに響いている。
風情もなにもないが、まさか鉄道の廃隧道などに役目を追われてしまった無念(?)さを考えれば、引き続き街道の喧噪と共に居続けられることも、慰みになるのだろうか。
栗子などは、そう考えると、寂し過ぎる。
落石覆いの上には、浅虫側同様、巨大な扁額が現存する。
ただし、日焼けした上に、上部の錆びた落石防止フェンスからしみだした茶色が坑門上部を汚しており、扁額もかなり、痛んでいる。
最後に、まだ見ぬ明治の隧道を求め、坑門によじ登り、辺りの岩盤を探索した。
残念ながら、それらしい痕跡や、道形は見つけられなかった。
地形的にも、道が存在できるような傾斜は存在せず、もっと別の場所に存在していたのか、或いは、旧隧道や、旧鉄道隧道(現国道トンネル)に姿を変えてしまったのだろうか。
謎を残しつつ、善知鳥崎をこえた3代を後にした。
完