岩手県と秋田県の県道背番号一番は共通しており、主要地方道『盛岡横手線』がその任を負っている。
その道程の中で唯一にして最大の難所が、雫石町と沢内村の境界を成す山伏峠である。
初めてここに自動車の通れる道が誕生したのは、昭和13年。
一本の隧道が村と町を繋いだのである。
増大する通行量の要求と老朽化、前後の道路の狭隘急峻など、多数のハンデを背負いながらも、永く現役であり続け、村の経済を支えてきた隧道だったが、遂に平成8年、その任を解かれると同時に、新たな役目を負って生まれ変わった。
『雪っこトンネル』。
それは、年中安定して低温な洞内の環境を利用した、農作物貯蔵庫である。
事業主体は沢内村。
そして、沢内村からそこへと至る旧峠道は、通る者も稀ながらよく整備され、大切にされているのが感じられた。
一方の、雫石町側の峠道は…、
はたして!!
現県道の最高部は、山伏トンネルの沢内坑門付近である。
そこから、トンネル内部を含め2kmほど下ってくると、やっと雫石町側の旧道分岐点が現れた。
写真は、通り過ぎてから振り返り撮影。右が旧道の入り口だ。
どうやら、こちら側からのアプローチは想像以上に長くなりそうだ。
時刻は13時16分。
入り口には簡易だがロープで封鎖されている。
この時点で、こちら側は荒れているのでは無いかという懸念が生まれた。
早速ロープをくぐって、侵入開始。
廃止後7年目の舗装路は、まだまだ現役に耐えられそうな状態だ。
ただ、手入れを受けないセンターラインはすっかりと消え去り、その代わりに、亀裂から生じた雑草が緑のラインを描いている。
道の造り的には、いかにも一昔前の峠道だ。
ガードレールも、法面の施工も、線形も、全部そうだ。
つい最近まで、幾度の改修を受けつつも、永らく風雪に耐えてきた道の粘り強さは如何ほどか…
これからの変化が気になる。
現道とは比べるべくも無いが、勾配はそれほどきつくなく、むしろ問題だったのは、カーブのキツさと冬季の積雪だったようだ。
何度もあるヘアピンはいずれも、外側に大きな待避所が設けられており、往時の苦労がしのばれる。
ちなみに、これでも通年通行可能であった。 というか、この道が通れないとなれば、盛岡と沢内村、或いは横手方面との往来は、50km以上も迂回する必要に迫られる、唯一無二の道だった。
つい最近やっと、幻の県道と呼ばれてきた12号『花巻大曲線』の中山峠に新道が開通し、通年の通行に耐えられるようになったが。
道を囲む緑がまぶしい。
一面はブナを主体とした雑木林である。
人の手は殆ど入っていない。
標高は500mにも満たないし、地形的にもそれほど険しいとはいえないが、この西方10km以内には東日本の脊梁たる奥羽山脈のなかでも、人跡未踏度の高い一帯、和賀山塊が広がりを見せている。
むしろ、地形的にはこの辺りも和賀山塊の一部といえる山深き地なのだ。
緑のベールの向こうに、間もなく辿ることになる道が見えている。
路傍には朽ちたバス停。
古い地図にも辺りに集落は描かれておらず、このバス停を利用する者がどれほどあったのか、大変に興味深い。
バス停がゴミとして棄てられているようにも見えないし。
残念ながら腐食が進み、情報は読み取れなかった。
停留所名は「山伏峠」と予想するが、果たして?
雫石側の旧道部のほぼ中間地点に、この一際厳しいヘアピンがある。
そこにはまだ、真新しいように見える青看がしっかりと起立していた。
表示内容は、
盛岡 41km
雫石 25km
写真は、一度通り過ぎてから振り返ったものだが、雫石町もまた沢内村同様南北に長い村であり、その中心部までの距離の大きさに、この探索の後にはそこを目指す私は、少々動揺した。
進むほどに路面に堆積した落ち葉や、枯れ木の小片が目立つようになった。
景色的に、遠く離れてはいるが、秋田県は出羽丘陵にある田代峠の旧道によく似ている。
もっとも、植生は全然違うわけだが、印象が近い。
なんというか、道の線形や施工の様子が似ている。
旧道入りしてから約15分。
13時30分ジャスト。目指す隧道がぽっかりと黒い口を開けて緑の中心に見えてきた。
ここまでは3kmほどあった。
何度感じても、この瞬間のえもいわれぬ快感は素晴らしい。
灰色のアスファルトが深い黒色の一点に収束し、それを一際濃い緑が縁取っている。
仕事場では美的センスが薄いといわれる私(苦笑)だが、道に普遍的に存在する美は、理解しているつもりだ。
それともう一つ感動したのは、ご覧の通り、坑門付近には現役当時の面影が多数残されていた。
ヘキサには『山伏峠』の文字があり、その奥にはお馴染みの境界標識、もちろんそこには『沢内村』の文字。
坑門寸前には、現役当時の難所振りがうかがえるような『制限高4.0m』『幅員減少』も綺麗な状態で残されていた。
こんなに現役当時のままというのは、それだけこの道を将来に亘って利用する気が無いということなのだろうが…、いいねココ。
さらに接近。
そして目に入ってきたのが、雪っこトンネルの証である、鉄の遮蔽板。
残念ながら、こちら側の扉もしっかりと施錠され、内部の様子はうかがい知れなかった。
でも、さらに接近。
すこしだけでも、道として利用されていた頃の空気を感じたい。
重厚な坑門はよく残存している。
ここまでの道の状態は荒れつつあったが、坑門だけはこのままの姿を保てるよう、雪っこ管理者の皆様にはお願いしたい。
ただ、隧道に往来が無くなってから久しいことは、坑門に降り積もった落ち葉の深さからも容易に想像できる。
こちら側にある扉は保存品の搬入出にも利用されていないのだろうか。
ちなみに、ファンのような物が遮蔽板上部に付いているが、稼動していないようで無音だった。
あとわずか、あと一歩。
出来る限り内部へと侵入だ。
これが、ひんやり冷気を背に感じながら撮影した、現在到達できる山伏隧道最奥からの眺めだ。
この一枚の写真だけを見れば、それは古隧道の坑門と、廃道の姿そのもの。
この探索で最もお気に入りの一枚となった。
私は欲張り者だとつくづく思う。
隧道が廃され消滅することを嫌う一方で、このように本来の用途では無い再利用によって生きながらえることも…余り快くは思っていない。
隧道は、通れてこその…いや、自然に崩壊したのならばそれも良し、だが、いずれにしても、道として全うされることこそが本懐では無いか。
放置され朽ち果て、終ぞ崩落し、永久に不通となる。
それが自然の道の姿…、廃り行くものだけが持つことの出来る美を宿すのだ。
いやはや、まったく身勝手だ… な。
結局、自分以外の者によって―それが正当なものであっても―占拠され、元々は誰でも自由に往来できた道が、手の届かぬ場所になってしまうというのは、私にとっては最も残念な結末であるなぁ。
そんなことを考えつつ、山伏峠に別れを告げた。
山伏隧道
竣工年度 1938年 廃止年度 1996年
延長 221m 幅員 4.0m 高さ 4.5m
廃止後少ししてから、沢内村によって低温貯蔵庫として利用されており、通行不能。
竣工年度 1938年 廃止年度 1996年
延長 221m 幅員 4.0m 高さ 4.5m
廃止後少ししてから、沢内村によって低温貯蔵庫として利用されており、通行不能。