主要地方道寒河江西川線は、寒河江(さがえ)市のJR左沢(あてらざわ)線羽前高松駅付近で国道287号線から分かれ、国道112号線と寒河江川を挟み平行して西進。約13kmをもって西川町間沢にて国道112号線に合流して終わる、国道を補完し地域ネットワークを構成する路線である。
寒河江川に沿っては他に山形自動車道が、目を瞠るほどの高所を連続した橋梁とトンネルでもって通過しており、この三つの道が絡まり合うようにして、庄内地方と山形地方の動脈を形成している。
さてこの一角に、極めて現道の近くにありながら、今日ではその存在が現道から全く関知できなくなってしまった旧隧道が存在する。
その名も、吉川隧道。
「山形の廃道」サイトによると、昭和11年竣工の全長89,8m。
私がこの旧隧道の存在を「山形の廃道」さんのレポートにより知った2003年6月。
私は一度目の接近を試みている。
その日は抜けるような快晴で、気温は高かったが心地の良い探索だった。
写真は、現在は切り通しとなった吉川隧道の現道であり、背景の白い頂は霊峰月山(がっさん・海抜1984m)である。
このように、吉川隧道は平行する位置を大規模に開削され、爽快な切り通しとなっている。
旧隧道へのアプローチとなる旧道は短い。
切り通しの間沢側(西側)、歩道外のガードレールのさらに外に、辛うじてアスファルトを覗かせる旧道敷きがある。
舗装されているものの、堆積によってかなり植生が発達しいた。
しかし、少し進むと杉の林の日影となり、路面状況は改善する。
完全に道としての役目をおえた廃道である。
おおよそ50mほどで、旧隧道の坑口が異様な姿を見せることになる。
なお、アプローチはこの一つのみであるが、理由は後述する。
さて、2005年9月。
再び旧吉川隧道に舞い戻った私。
目的は、追って話すが、ともかく2年ぶりである。
天候はあいにくの雨。
この2年で何か変化があったかと、期待と不安を混ぜながらアプローチポイントへと接近する。
ご覧の通り、入口は2年前から既に閉鎖されている。
ぐわ〜!
ヤブったー!
確かに、前回とは季節が異なる。
しかし、これほどまでの猛烈な繁茂は、予想外である。
このマント群落を突破せねば、アプローチはなしえない。
しかし、なんか体が前に進みたがらない。
ここまでむごいと、最初の一歩をどこに踏み込むかで、かなり悩める。
ここばかりは鉈が欲しかったが、そんな持ち合わせもないので、いざ、
オブ・アタ〜っく!
意を決して突入してみれば、やはり案の定一歩進むのに7秒から8秒を要する激藪。
オブ・フラッシュで周囲を照らしてみても、藪の外は見えない。
完全なる藪の海の底である。
しかし、路肩には白いガードレールが現道さながらに残っており、ここが道であることを主張している。
殆ど匍匐前進に近い状態で、なんとか突破するのに2分を要した。
救われるのは、この廃道の距離が短いと言うことだ。
それにしても、「山形の廃道」さんのレポ(01年)、03年の様子、そしてこの05年への変化。
まさに、舗装路といえども急速に廃道化が進む状況もあると言うことだろう。
背丈を超える藪を越えると、今度は膝丈までのシソ畑である。
いや、実はシソに似たギザギザな葉っぱでもシソではないようだが、ともかく、アスファルトの上に細長い草地が続く。
最初の藪の突破で、体には数え切れないほどの「ジャム(山行が用語で植物の種子のこと)」と、葉、ミニカタツムリ*1、ミニ青虫*1、尺取り虫*1を頂いた事を付け加えておこう。
この路肩にはガードレールが無い場所もあり、そのような場所と言えど、路肩の外には寒河江川へ落ち込む数十メートルの急斜面が続く。
道幅も1車線でちょうどしかなく、のり面も自然のままで見通しも極めて悪い。
今日的な交通の便を考えれば、廃されてもやむを得ない悪路であったと予想される。
現道の音が遠のき、少し心細くなったあたりで、呆気なく隧道は現れる。
直前には、「トンネル内点灯せよ」の、お馴染みの看板がのり面に立て掛けられて残っている。
この看板は、4年前から変わらず存在している。
さて、肝心の隧道だが、極めて特異な外見をしており、目を引くことこの上ない。
接近してみよう。
完・全・閉・塞
思わずそう独りごちたくなる、圧倒的な閉塞力だ!
何が村山総合支庁をここまでさせたのか!
なにか、この世の物ではないほどのお宝が隠されていそうな予感。
この閉塞壁、4年前から確かに存在していたようで、しかも不思議とこの4年で全く風化した気配がない。
植生によって多少は蝕まれても良さそうな物なのに、まるっきりそう言う気配がない。
心なしか、植物さえも避けているようにも見える。
まさか、世界の七不思議に登録されるんでは?
風化しないコンクリートとして。
ここまで厳重に閉塞させられていると、今度は内部が猛烈に気になる。
廃止されて時間が経っているので、閉塞に綻びが生じていても良い頃なのだが、この完璧閉塞にはそれは期待できないか。
しかも悪いことに、坑口に直接コンクリ壁が閉塞しているのではなく、坑口の管延伸部分の蓋のようにして塞がれている。
この管も非常に強固であり、私の「オブ・カッター」をも跳ね返してしまった。
馬鹿言ってないで、こいつはマジ退散だ。
2年前もやっぱり、この壁を前にして己の無力さを痛感したものだった。
冷静に坑口前の景色を見てみる。
隧道の出口はそのまま直角に近いカーブで寒河江川の断崖を避けている。
外側にはガードレールこそあるが、冬場などはとても安心して通れる道ではなかったに違いない。
この日も、連日の秋霖に濁流と化した寒河江川が、滔々とスクロールしていた。
一人、誰に見られることもない坑口の前で、立ちつくしてみる。
濡れそぼった私は貧相だが、贅沢な時間の使い方だと思ってみたり。
オブ・ジャ〜ンプ!
にて、坑口の閉塞壁に登ってみた。
そう。
私は黄昏れている場合ではなく、2年前にやり残した「任務」があったのだ。
その任務とは、
1.内部の確認
2.反対側坑口の位置および安否の確認
さすがに内部確認は難しい情勢だが、せめて未だ位置が確認されていない反対側の坑口を発見したい。
ともすれば、まだ見ぬ坑口から内部進入という大逆転もあり得のだから!
?!
もっ、もしや、この隙間は!!!!
ここから内部を確認できるのではないか?!
私は一人興奮し、腕一本を入れるのがやっとの隙間に、カメラをねじ込んで見た。
そして、 撮影…。
… … …。
だめだな。
なんもめね(何も見えない)。
この先が内部空洞に通じているかは、未だ不明である。
今後さらにCCDカメラでも導入すれば詳細調査が可能であるが、現時点ではその見通しは立っていない。
ただ、隧道の延伸管はそのまま内壁でもあるようで、この先が内部に通じている希望は低いか。
さて、一旦時間を遡り、事前に捜索していた東側坑口についてお伝えしよう。
ずばり、現地の地形は大幅に改変されている疑いが濃い。
切り通しによって相当量の山が切り取られているのみではなく、地図上ではおそらく旧隧道の坑口があったと思われる一角も、写真の通り山が切り取られ平地となっている。
この平地は県道に沿って幅広く続いており、この平地の山際のラインを一通り見て回ったものの、坑口跡らしきものはおろか、アプローチ旧道の痕跡すら見つけられなかった。
一帯は砂や土の荒れ地、あるいは草むらとなっており、私はこれを、現道の建設に伴って旧坑口を消失させるほどの大規模な開削が行われた跡であると見る。
少なくとも隧道が現在も口を開けている希望は極めて薄いと言わざるを得ない。
現道に沿って存在する荒れ地の一角は、石材置き場となっており、キノコ型の奇妙なオブジェが並ぶ。
山肌はこの写真のように砂礫層であり、反対側の坑口付近が岩がちであったこととは対照的である。
もともとの隧道の延長は90m足らずであり、切り通しからそう離れた場所に坑口があったとは考えられない。
やはり、隧道は埋められてしまったのか。
このような事前調査の後、先ほど紹介した完全閉塞坑口へのアクションがあったのだ。
それでも私はまだ諦めない。
オブ・ジャ〜ンプ!
ズルッ
あっ…
どさっッ
イデー!
と、軽くすりむいたところで、稜線へのアプローチルートをやや南に5mほどずらし、再チャレンジ。
写真は、斜面から閉塞壁を振り返り気味に見下ろす。
わずか90mの隧道でありながら、それが越えていた山は非常に急であり、しかも雨で滑りやすくなっており、登攀には細心の注意を要した。
木々を手懸かりにして、なんとか20mほどの高さの稜線に立つ。
いま、遂に反対側の坑口が明らかになるはずだ!
隧道の長さを考えれば、現存する坑口の直線延長線上に、もう一方の坑口があったと考えて良いはず。
さあ!
…。
ある程度、想像は付いていた。
しかし、やはりそれを目の当たりにすると寂しい。
やっと辿り着いた稜線から、反対側に下ろうとした私は、先が奇妙に明るい事に気がついた。
さらに数歩踏みだし、藪を突破すると、そこは、
切り通しの直上であった。
現道上に小さく見える車は、行儀良く路駐している愛車だ。
もう駄目だと観念しつつも、いちおう坑口の直線延長線を懸命にイメージして、その先に視線を送ってみる。
やっぱだめだ。
坑口は、おそらく、切り通しの一部に埋め戻されている。
異常に厳重な閉塞は、内部を人工的に破壊し埋め戻した後始末だったということなのか。
様々なオブ技を使っても攻略できぬもの、
それは、
失われてしまった遺産である…。
昭和11年竣工の貴重な古隧道、
その消失をただいま確認!
撤収!!(涙声で)
完