2006/12/17 12:21 《現在地》
辛うじて架かる木橋を見ながら先へ進むと、再び始まる冷たい藪。
濡れた笹の海にへそのあたりまで浸かりながら、掻き分け掻き分け進んでいくと、なにやら見覚えのない木製の柱を路肩に発見。(→)
後ろに見えているくじ氏の足と較べると、この柱の大きさが分かると思う。
高さは50cmくらいで、ダム工事関係の標柱かとも思ったが、少々現場からは離れすぎている気もする。
そして柱の一方の面にだけ、黒色の塗料で何かの文字が書かれていた形跡があった。
おそらく3桁の数字を縦書きにしたものと見え、一番下の文字は「2」ではないかと思った。
これが「●●.2」と書かれた林鉄時代のキロポストだったとしたら嬉しいが、結局もう二度と現れる事はなく、正体も不明のままである。
それから、7分ほど進んだところ…
先頭を交代したくじ氏が今いる場所。
そこは、ちょうどお椀を伏せたような形をした枝谷の谷底である。
林鉄はこの名もない谷に、6本目の木橋を架していた。
…「かつては」、だが。
この6本目の橋。
架かっていた当時は、かなり大きなものだったはずだ。
橋脚はおそらく中央に1本だけで、合計2径間の木橋だったようだが、そのうち現在も残っているのは、両岸の石組みの橋台とコンクリート製の低い橋脚だけであり、その上にあった木造の部分(桁+橋脚の大半部)は尽く崩れ落ちていた。
そして谷底に苔むした廃材の山を虚しく出現させていた。
橋が落ちているために、我々は素直に地形の凹凸を象って進む必要があった。
こうした上下動こそが、ヤブ漕ぎと並んで廃道歩きの疲労の中心をなすものであり、それは時間の消費についても言えることだった。
しかも、この木戸川林鉄の橋梁の出現頻度は、今のところ非常に高い。
今後も同じペースで現れるとしたら、目的は達するためには当初に想定していた以上の体力と時間を費やす必要があるだろう。
冬の夕暮れは早く、3時間後にはもう薄暗くなっているはずだから、のんびりしている暇は少しも無さそうだ。
消えた橋を谷底への迂回によって乗り越え、
斜面をよじ登ってやっと対岸の橋台上に辿りつくも、
すぐさま行く手を遮ったのは、深く高く埋没した巨大な堀割であった。
隧道でも良いと思えるほどに深い堀割が、砂っぽい大量の土砂に埋められていた。
我々は橋台へよじ登った分と同じくらい追加で登って、ようやく乗り越える事が出来た。
だが、危機はまだ去らなかった。
堀割を超えてまもなく、行く手の山腹を斜めに横切る白いものが見え始め、
近付くにつれて、その避けがたく巨大な全貌を露わにしていった。
思わず振り返って苦笑いを見せるくじ氏の向こうには、
本日、軌道跡に立ってからは最初の“難所らしい難所”が、迫っている。
12:40 《現在地》
斜面の崩壊は、目通し50mほどにもわたって続いていたが、そのうち最後の5mほどが、格段に難しい“難所”であった。
ここまでは、斜面であっても笹や灌木が所々にあって良い手掛かりになってくれていたのだが、最後のこの部分だけには、それらがない。
険しい岩場に砂を被せたような斜面は、相当に急である。
し か も……
高っけ〜ん だな、これが…。
ここで ぬるり といったら、どうなることか…。
しかし、高巻きは全く出来ない場所であり、下を迂回するとしたら、それこそ木戸川の河原まで降りないとならなくなりそうである。
時間的にも、ここは是否正面突破してしまいたかった。
高所が苦手なくじ氏に代わり、再び私が先頭となって、砂山の斜面に足を踏み入れた。
少し入ってみて、それでズルズルいきそうならば、無理せず迂回しよう。
…うわ…
…これ、こえぇな……
砂の層は実は薄くて、その下の岩盤に爪先が上手くグリップしない…。
背筋と腰のあたりにひんやりと冷たいものを感じながら…
無 事、
砂山斜面を突破した!
難所を突破すると、再び胸くらいまで沈み込む深い笹藪が、
見渡す限りに続いていた。
川の音だけが轟々と広い谷間に響き渡り、そこには飛ぶ鳥の姿も声もない。
もし一人きりだったら、さすがに心細くてたまらなかったろう。
…寒いし。
12:54 《現在地》
砂山から5分ほど笹藪を掻き分けると、路盤はいつの間にか木戸川の本流を離れて、支流の谷へと入り込んでいた。
この枝谷は、我々が路盤に立ってから遭遇したものの中では群を抜いて深く、当時GPSを携帯していなかった我々にとって、久々に「現在地」を確定させることが出来る存在であった。
現在地は、乙次郎沢の出合から木戸川を1.4kmほど上流に遡った辺りで、路盤を歩き出してから1km進んでいた。
今回の踏破目標のおおよそ1/3の距離を終えたというところだ。まだまだ先は長い。
改めて地形図を見ると、この枝谷にも沢名や水線は描かれていないが、踏破目標区間内にある右支流としては「橋1」があった沢に次ぐ規模のものである。
したがって、ここにも大きな橋が存在していた。
今回“7番目の橋”である。
ぬ・ぬ・ぬ! ぬぬぅ〜〜!
惜 し い !
この7番目の橋は、まだ崩壊して10年も経過していないように思われた。
地形的には一つ前の橋とよく似た感じだが、さらに一回り以上も規模が大きく、コンクリートの箱形をした橋脚が3本、不均等な間隔で谷中に並んでいる。
そして、各橋脚の周辺には、橋脚の上半分や橋桁を構成していた木材が、かなり形を留めたまま散乱していた。
「カーソルオン」で表示される橋の姿は、現存する遺物から私が想像により復元したものだ。
もしこのような姿で架かったまま残っていたら、大変な発見だと湧き上がっただろうに…。惜しい!
例によって、谷底経由の上下運動(迂回)を強いられる。
写真はその最中に撮影した右岸側の橋台周辺であるが、大量の橋材が原形を留めていた。
(原“位置”は留めていないけど…)
おそらくこの右岸側の2径間については、かなり最近まで架かっていたのではないかと思う。
そしてこれが、よじ登った対岸の橋台から振り返って見た、橋の全体像である。
倒れた状態で原型を留めている3本の橋脚(1本の橋脚が3本柱よりなる)は、全て右岸から左岸へ向かって倒れた様子が見て取れた。
そして、その上に乗せられていた主桁材(赤く着色した部分)も3本であるが、そのうち1本は驚くほど遠くに転落していた。
どのような崩れ方をすれば、あそこまで遠くに主桁材が落ちるというのだろう。
しかも、谷は右側が上流であり、崩れた後で水の流れが材を移動させた事は考えにくいのである。
渓声を掻き消す凄まじい落橋崩壊のシーンが、さほど遠くない過去に展開したものであろう。
大きな枝谷を渡って少し進むと再び本流沿いに戻るが、その境のところに小さな堀割があった。
そして、ここを過ぎたところで時計を見ると、ちょうど13時を指していた。
それから3分ほど進むと、今度は石積みの大きな築堤が現れた。
前は同じような地形に橋があり、そのために我々はしたくもない上下動を強いられたが、今度のように築堤で越えていてくれると、探索者としてはラクである。
橋の方が見た目は楽しいが、今日はいろいろな意味で余裕が少なく、頑丈で、しかも藪が浅くなる築堤の出現を喜んだ。
この林鉄の石垣は、よほど巧みに築かれているらしく、これほど険しい地形にあっても、ほとんど崩壊していなかった。
この写真の石垣などは犬走を介して2段構えになっており、10mを優に超える高さがある。
もしもここが木橋で、しかも崩れ落ちていたとしたら、どうやって先へ進めただろう。
たった一度でも木戸川の河床へ迂回する羽目になったら、それだけで30分も使ってしまいそうである。
路盤跡を取り巻く地形は、このように非常に険しい状況が続いていた。
おそらく、この区間の林鉄が廃止後に林道化されなかったのも、地形が余りに険しいため、林鉄より広い幅員を要する林道を建設するのが容易ではなかったからだろう。
こういう木戸川渓谷の険しさというのは、一般的な福島県浜通り地方のイメージからはほど遠いかもしれない。
幹線である国道6号沿いをはじめ、浜通りの主要な道路沿いには、こういう風景は見られない。
しかし、かつて探索した原町林鉄新田川支線もそうであったが、阿武隈山地を東西に貫流して太平洋へ注ぐ河川は、かくも険しい峡谷を穿っているのである。
…そんな険しい、この場所で…。
野球ボール、ふたたび…。
プリキュアふりかけ→(10分後)→野球ボール→(1時間後)→野球ボール(2度目)。
なぜ、野球ボールがこんな場所にあるのだろう?
さすがに気味が悪いと思ったが、冷静に考えれば、
昔ここを探検した少年たちが、途中に目印として置いていったものなのか?
終らぬ笹藪。
この辺りで私は、撮影のたびにいちいちレンズの水気を
タオルで拭き取る事が億劫になり(時間もそれなりに消耗するし)、
この探索は「写真不良」のために没ネタとなる事を覚悟の上で、
そのまま撮影するようになっていった。
次回からは、写真写りがますます悪いけど、勘弁してね…。
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