橋梁レポート 紀美野町樋下の謎の未成橋 後編

所在地 和歌山県紀美野町
探索日 2015.7.29
公開日 2015.8.03

橋の上に立って、再びフリーズ。


遂に未踏の 橋上へ!!

2015/7/29 11:37 《現在地》

というわけで、

無理矢理橋の上に立ってみたらば!



な、な、な、

なんか半分しかない?!


これを元々幅の狭い橋だったのだと納得して良いものだろうか?

だって、川の下流側だけに高欄があるとか、桟橋ならばまだしも、普通あり得るか?!

さすがにこんなのは無体だろ。
橋を道幅の半分ずつ建造するようなことが普通にあるのかは分からないが、しかし本橋が明らかな未成橋である以上、この橋の片側にだけ高欄が有るという状況を解釈するには、やっぱり橋を幅の半分(ないし一部分)だけ先に建造したと考えるのが、自然な気がするのである。



私は橋上に立って初めてこの橋の上流側を目にしたのであるが、もちろんそんな無理をせず普通に地上から上流側に回り込んだとしても、高欄が片方にしかないという異常には気付いたはずである。
だが、それではやはり本橋の異常さを理解するには不十分だったと思う。
真に重要なのは高欄が片方にしか無いということよりも、片方には高欄を設置するべき出っぱり(地覆)自体が施工されていないことなのである。

私が知る限り、真っ平らな床版の上に地覆を後から盛って、そこに高欄を取り付けるというような施工はしない。
それでは高欄に衝撃が加わった際、地覆ごと倒れてしまう構造上の弱点になるからで、地覆は床版と一体のものとして成形される(そして高欄は地覆を貫通している)ものであろう。
それゆえに私はこの状況を見て、単に片側の高欄だけを施工した状態で未成になったというのではなく、橋の幅の下流側一部分だけが先に作られ、上流側の建設を待たずに未成になったのだと考えた。

これは、下から見ただけではおそらく気付かなかったことである。

(なお、対岸にコンクリートブロックの擁壁が見えるが、あそこは道ではなく(使われていない)水路のようだった。
高さも1m以上は違っているので、本橋とは直接関係が無いと思われる。)



とはいえ、なぜ本橋が幅の一部分だけを先に完成させたのかは、全く見当が付かない。

或いは本当にこういう片側にだけ高欄を設けた橋を完成形として建設していた可能性もゼロではない。
なにせ、この橋が本当に「道路」なのかさえ、判明していないのであるから。(まあ、見馴れたガードレールがあることや、頑丈な橋台の作りから見ても、おそらく自動車を支える道路橋として建設された可能性は極めて高いだろうが)

この写真は、ほぼ渡りきった橋の端部から振り返って撮影した。
地上のどことも繋がっていない橋上であるが、意外なほど豊富な緑が根付いており、歩行感にもフカフカとした土の触感があった。
これまた地上から見ていた時とはだいぶ印象が違うポイントで、地上からだと、目立つガードレールの白さもあって、もっと使用感の乏しい未成道らしい橋上風景を予想したのだが、実際には未成橋というよりは廃橋っぽい風合いになっている。これは、案外に古い未成橋なのかも知れない。



これまで、工事関係者を含めても、おそらく両手で数えられるほどの人間しか渡したことが無いと思われる橋(しかもそのまま老朽化待った無しの悲しい橋)を、少しでも気が済めばよかろうと思いながら、一人で何往復もした。

写真は、“新橋”になるはずだった橋から見下ろした、おそらく“旧橋”として役目を終えるはずだった橋。
しかし私の自転車の在処からも分かるように、今もこの草臥れた“旧い橋”だけが頼りであり、地理院地図に描かれた破線道も向こうである。
いま私が立っている場所は、空白である。

しかしともかく、まだまだこの橋は架かり続けるだろう。
ほとんど負荷の架かっていない空荷のコンクリート橋は、大規模な土砂災害にでも巻き込まれない限り、おそらく半世紀は崩れ落ちる事がないだろう。
だから、未成橋というレッテルを貼られたままではあるが、橋として存在し続ける事は出来ると思う。

(今後この場所に橋を上書きするような高規格な道が建造されることも、本橋の計画が再開される可能性も…、多分ない)



ひとしきり楽しんだので、後はもう降りるよりする事がない。

降りれる場所は、高さ的にも両岸の橋台附近以外にないが、
折角なので左岸からよじ登ったので、右岸に降りることにした。

ちょっとだけ怖かったが、地上へジャンプ!!



何かがぶっ飛んじまったサイケデリックな橋上から、地上へ降りて一安心。
地面の有り難みを確かめるように、今度は上流に回り込んでから、橋を眺めてみる。

そこには、濃厚な夏の森気の中に佇む沈黙の二橋が並んでいた。
まるで親子のようにサイズが違って見えるが、実はその幅はどちらも同じくらいしかないという…。
マジでこれ、何のための新橋だったんだろう…。

あと地味に、この写真は未成橋の全長を1枚に納めた最初の写真である。1径間だが案外に長い(20mくらい?)ので、近付くと1枚には収まらないのである。



未成橋の上流側側面を間近に観察してみる。

高欄が無いことは良く見えるが、地覆さえないことは、上に立ってみて初めて判明したことだった。
(もっとも、周辺の山によじ登って橋を見下ろしても気づけただろうが)

既にある橋を拡幅するために、このように片側にしか高欄が無い狭い橋を新たに架けるということは、良く見られることである。
しかし本橋の場合には、その元となる橋が見あたらないので、やはり最初からこの片側高欄の橋を建設したのだと思われる。
その意図は不明だ。




長年晒された森の空気に色付けられたような両岸の橋台や橋桁裏側。

下から眺めてみても、本橋が実は道幅の一部しか作られなかった未成橋であることを物語る明確な痕跡は見あたらない。

しかし、よくよく観察してみると、橋台に乗っている橋桁の位置に微妙な左右の非対称を見て取れる。
それも、両岸とも下流側(高欄がある側)に僅かな余裕があり、上流側(高欄の無い側)には全く余裕が無く、ビシッと端が揃っている。
これは偶然なのか、それとも上流側(高欄が無い側)の橋の半身を建設するためなのか。

ところで、右の写真の崖の上の方を良く見ると、別の橋の高欄のようなものが見える。
実はそこを県道19号が通行している。
両者の高低差は20m程度であるが、崖が急峻なので直接の行き来は難しい。




11:42 《現在地》

堪能したので、遂にこの場所を離れることにした。

“旧橋”の袂に置いていた自転車に再び跨がり、“新橋”を見上げる位置に架かる古びた“旧橋”を渡る。
こちらもその感触からして、一応はコンクリート橋であり、片方の高欄が橋上には見あたらないが、単に老朽化のために外れて落ちただけで、谷底に残骸が見て取れた。
その道幅は“新橋”と変わらず、自動車が通るには心許ない。
橋名を知る手掛かりとなるようなものは見あたらず、結局この新旧の橋とも素性は明らかでない。




最後に振り返ってもう1枚。

このアングルから見ると、普通に前後が繋がっている完成した橋のように見えなくもないが、実際には前後に全く道がない。
本当に、橋だけがポツンと存在するという、非常に解釈の難しい奇妙な状況になっている。




さて、未成橋をあとにして県道19号への完抜作戦を続行すると、間もなく貴志川の本流沿いに戻る辺りで、緑の切れ間から大きな橋が見えてきた。

これは最近架けられた(平成24年12月供用開始)国道370号美里バイパスの大原大橋である。




大原大橋は、蛇行する貴志川を串射しにして一挙に2度跨いでしまうという何とも剛毅な橋である。

わずか3mくらいの川幅しかない無名の支流をたった1度跨ぐことにも苦心惨憺、試行錯誤の跡を見せているこの道とは、間近にありながら余りに次元の異なる規模である。
さすがは、国道に対する投資だと実感する。

そしてこれは私の予想であるが、おそらくこの大原大橋の完成こそは、先ほどの未成橋が一足早く目指して果たせなかった利便性を実現させた、だいぶ遅れてやって来た成果であると思う。
余りに規模が違う二つの橋であるが、これらは機能としてはかなり近いものがある。(というか、大は小を兼ねている)
その事はレポートの最後に確認する。




まだ廃道になりきってはいないが、遠からずそうなるに違いない。
相変わらず路面には鋪装があり、以前は軽トラくらい通っていたのかも知れないが、右側の貴志川に落ち込んだ崖は案外に高くリスキーな道だ。

この道の命脈を尽き果てさせた者たちの一味が、対岸を悠々と走り抜ける美里バイパスである。
向こうの道があれば、こちらの道をわざわざ利用する理由はもうない。
特に封鎖されてはいないが、選ぶ理由がないのである。

おそらく、未成橋もろともの最期になる。



未成橋から150m、スタート地点の平成大橋袂から400mほどで、県道19号へと通り抜ける事が出来た。

左の写真はその完抜の直前、山側から勢いよく降りてきた県道が、とても大きなコンクリートの擁壁を、我が道の目の前に出現させた場面である。
そしてこの擁壁の縁にへばり付くように続く我が道の谷側には、見事なコンクリート製の桟橋が築かれていた。その様相を捉えたのが、右の写真である。

県道19号の建設に伴って、この道に擁壁とコンクリートの桟橋がもたらされたのであろうか。
もしそうであるとすれば、先ほど目にした未成橋のすぐ上部にも、県道19号の桟橋があったことが気になり始める。

この県道19号の整備と、未成橋の関わりについては、可能性が疑われはするが、情報が圧倒的に不足していて未解明である。
(なお、未成橋の上部にある県道19号の桟橋は「樋ノ下桟道橋」といい、竣工年は昭和29年とだいぶ古いことを現地銘板で確認したが、その後に改築された気配もある。)



11:46 《現在地》

平成大橋を出発して20分、僅かな距離を貴志川の川沿いに移動してきて、
県道19号美里龍神線との合流地点に到着した。

こちら側からも通行は自由であるから、どなたでも気軽に未成橋を見に行く事が出来る。
謎解明のためにも、多くの方に調査していただきたいものである。
そして何か分かったら、私にも教えて欲しい。





短時間で現地探索は終わり、それでもすっかり汗だくになるほどの暑さがあった(そして熱かった)わけだが、とてもこの後周辺の集落で聞き取り調査をする元気はなく、静かに車に乗って立ち去った私である。
だから、皆さまが期待される「歴史解説編」も今はまだ存在しない。

だがせめて、自力で可能な範囲の謎解きを目指し、旧版地形図の確認作業を行ってみたところ、何となく未成橋がある道の整備目的程度は見えてきた。


右図は、昭和28(1953)年版と最新版の地形図の比較画像である。

注目していただきたいのは、紫の円で囲った一帯へのアクセスルートである。
この紫の円で囲った一帯の地形は、蛇行する貴志川によって周辺の平地から孤立した小平地(河岸段丘)であり、今も昔も水田が営まれている。

そしてこの農地へのアクセスルートは、冒頭に登場した平成大橋(平成元年竣工)や、本編終盤に出現した大原大橋(平成24年竣工)が出来る以前は、旧版地形図に緑色に着色した破線道(小径)が使われていたと考えられる。

またこの破線道は、樋下と大角(おおすみ)という二つの集落を結ぶ生活道路でもあったと思う。
ただし紫の円で囲った一帯は全て樋下地籍であるから、ここへ通ったのも専らは樋下の住民であろう。

これらのことから分かるのは、平成元年頃まで樋下の住民が紫の円で囲った水田へ耕作へ行くには、未成橋が企てられた道を通るのが最短であったという事実だ。
そしてその道はといえば、とても安心して自動車で走る事が出来るようなものではなかった。

そこで当時の美里町は、この地区の町民の不便を解消しようと、県道19号と問題の農地を結ぶ農道ないし町道を計画して、最大難関である橋の辺りからとりあえず着工したのではなかったろうか。



だが、この身の丈にあった慎ましやかな農道ないし町道の整備計画は、おそらく平成の時代になる少し前くらいに、外的な要因によって押し潰されたであろう。

古い地図と今の地図を比較すれば一目瞭然だが、この紀美野町(旧美里町)樋下周辺は、平成になってから急に道路が賑やかになった。
平成元年に開通した平成大橋(おそらくは県の大角農免農道整備の一部)を皮切りに、関西国際空港への最短ルートを目論んで建設が進められた町道紀州サン・リゾート・ライン線(県代行事業)、そして平成11年から24年にかけて完成した県の国道370号美里バイパス事業。
これらの3本の大規模な県事業の新道が、よりにもよって(?)、それまでは細い道でしか辿り着けなかった例の水田辺りに集結している。

こうした大規模な県による道路整備計画が、平成に入る前には美里町当局の知るところとなり(或いは町の要望もあったに違いない)、それらが整備される事でほとんど代替される未成橋を含む農道ないし町道の整備は、可及的速やかに中止されたのではないかと想像するのである。


以上、あくまでも私の想像であるが、この場所に寄り集まった妙に高規格な道路たちと、それらとは余りに次元が異なる慎ましさで建設されていた未成橋を比較すれば、そこそこに蓋然性のありそうなストーリーではないかと思う。
でも、まだ分からない事が多いので、皆さまからの情報をお待ちしています!!




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