橋梁レポート 横浜のポートサイドにある廃高架橋(市場大橋) 後編

公開日 2015.03.26
探索日 2015.03.14
所在地 神奈川県横浜市神奈川区

絶空高架の先端を夢見て


2015/3/15 15:15 《現在地》

空中に断絶している高架橋の入口は、予想以上に賑々しかった。
いまだかつて、これほど沢山の情報に満ちた“通行止め”があったかと思う。
両手でも数え切れないほどの看板や標識が、お洒落な都会の風景からは明らかに浮いているが、この橋自体が現役当時から、いわゆる「注文の多い道」であったことがよく分かる。

ここで私が得るべき最も重要な情報は、上部の一際大きな看板に書かれた、「中央卸売市場専用道路」ということであろう。
そして他の数ヵ所に見られる、「市場大橋」という橋の名。
これらは橋の行き先を私に教えてくれる情報で、地図を見ても橋が市場に通じていることは明らかだったが、「専用道路」というのは、ここに来て初めて知ったことである。
公道私道の別でいえば、ここは私道なのだろう。そうであれば、この「注文の多さ」も頷ける。



この道が現役当時に宣言していた注文を、確認しておこう。

制限速度時速20kmは、高架橋の外見的なイメージに似つかわしくない厳しさであった。

重量制限8.0tは、市場に出入りするクルマの種類を考えれば、少々心許ないような気がする。

高さ制限3.5mは、この時点ではなぜあるのか分からない規制である。意味は後に明らかとなる。

まだある。重要な規制が。
左の照明灯に取り付けられた「歩行者通行止」の標識や、各所にある「市場大橋は歩行禁止です」「関係者以外通行禁止」などの看板が物語るのは、橋が市場関係者の車輌専用であったということだ。
(ただし、標識類の表示を見る限り、「歩行者」なNGでも「自転車」や「荷車」といった軽車両は通行できたようだ。つまり、「自動車専用道路」ではなかったようだ)



まるでこの道路の本線であるかのように、上下線の中央部分を専有している高架橋。

だから、いま不敵に門扉を見つめる私が立っている場所は、車道の中央である。
幸い、この道の通行量はさほど多くない。広い道幅を持て余している感じさえある。
当然、市場大橋が封鎖されたことによる利用者の減少があるのだろう。
そうはいっても、普段の廃道探索の現場とは比較にならないほどの気圧を、意識した。



いつも通りの事に及ぶ。

こちらに視線を向けるクルマと歩行者が途切れるまで待つのはもどかしかったが、
4分か5分をじっと過ごしている中で、遂にそんな瞬間がやってきたのを見逃さなかった。
すぐさまニャンコを発動させ、バリケードの内側世界に身を進めた。


この特異なシチュエーションにある廃道をじっくり味わいたいのは山々だったが、現実には最大限の迅速を要する。
見るべきものをさっさと見て、ここから離脱するのが吉であろう。特に序盤戦は、人目が多い可能性がある。

文字通りの駈け足で写真を撮影していく。
中に入るまでは意識していなかったが、高架橋の勾配は一様ではなかった。
ピークに至るまでに急な部分と緩やかな部分が混在していた。



首都高速みたいで格好いい!

…無邪気にもそう思った。

もちろん、現実の首都高速(名古屋高速でも阪神高速でもいい)は、こんなにしょぼくはない。
基本的に片側2車線だし、車線の幅もこれよりは広いだろう。時速20km制限なんてあり得ない高規格だ。
しかし、歩行者の通る余地がない、アップダウンの激しい、ビル街に囲まれた高架橋の風景は、
私がこれまで見てきた道の中では、都市高速道路以外のどんな道にも喩えがたかった。

首都高をじっくり“歩行”した経験がない私には、なおのこと、ここはあの夢にも見た、

“首都高の廃道” だった。


う〜ん! こっちの眺めも首都高っぽい!(ワクワク)

それにしても、廃道というには惜しいほど綺麗な道である。
どんな理由で廃止が行われ、あまつさえ中央径間の撤去などという、
引き返せない措置が執られたのか気になったが、判明するのは帰宅後だった。



鳥の糞、或いは市場通いの農産トラックの荷台から落ちて生まれた命だろうか。
路上をジャングルへ変貌させるための最初の苗が、路傍の僅かな隙間に根付いていた。
しかし、こんな乾いた立地では、私が普段目にする廃道のような風景にかわるのには、
おそらく100年どころではない、千年単位の時間さえ要するのではないだろうかと思う。

…今はまだ、現役と見較べたときに気付かれる程度の本当に僅かな差でしかない。
(ここは首都高ではなく私道。そう考えれば、現役当時からこの程度の草付きは許されていた可能性も…)


やがて私は、カーブの始まりに辿りつく。

地図を見れば明らかな通り、このカーブは本橋唯一のカーブであり、
その旋回角は直角90度に近いところにまで迫っている。
この存在も、“首都高っぽさ”の核心を担っているといって良いだろう。

そして、今はこのカーブが橋の末端に接しているのだから、本当にたまらない(←興奮という意味で)。



遂に理想的と思われるアングルで1枚の画像に収まった、本高架橋と卸売市場および下を潜る貨物線の姿である。

途切れた向こう側の高架橋が、地上ではなく直接に市場建物に繋がっているという、かなり重要な事実に気付いたのも、ここが初めてだった。
これでは向こう側の突端には立てそうにないが、それだけに、こっち側には立てそうだという状況が嬉しかった。
先にこちらへ来たことも、おそらく正解だったようだ。

なお、この辺りまで来ると、地上の喧騒はアスファルトの下に隠れて遠のき、人目が気にならなくなる。
本当は周辺のマンション高層階にも無数の視線があると考えるべきなのだろうが、都会人はあまりそういうことは気にしないだろうと、自分に都合よく考えることにしていた。
とにかく、目前に迫った途切れた高架橋の風景が目に鮮やかなものであって、それと自分の間に隔てるものがほとんど無い状況は、熱かった。



私は徒歩である。

ゆえに、スピード感とは無縁である。

だが、こうして静止画である写真を見ている方が、むしろカーブの外壁が迫ってくるようなスピード感が感じられる気がする。
私には首都高をスピードを出して走る趣味は無いが、そのスリルと爽快感は理解できる気がする。
歩道を持たない少しバンクがかかったこの高架カーブは、首都高を走っている時に感じられる外壁の圧迫感を確かに共有している。

…もっとも、カーブミラーが設置されているほどのカーブというのは、やっぱり異常なのだが…(笑)。
制限速度20kmのカーブは、やはり伊達ではない。

そしてこの抉り込むようなカーブが、ある地点を境に忽然と明けたとき、眼前には、
予期していてもなお驚きに値する光景が待ち受ける。




【DEAD END】

他に逃げ道というか、迂回しうる地表がある地上路とは異なり、

高い隔壁と高空によって周囲と隔絶された橋路の行き止まりは、

絶対性が極めて高い。

それは、先へ進む目的を持つ人間にとって、絶望と呼ぶに相応しいものであって、もしも人生において、
これほどあからさまな進路の絶望を何度も体験していては、おそらく生き伸びられないというほどに明瞭な終点だ。
人は孤立した状況で行き止まりにぶつかることを避けたいがために、日頃から仲間を求めるのだと思う。仲間とは地表だ。
橋の上の行き止まりは、私にそんな柄にもない形而上の事柄を連想させるほどに、印象的だった。

幸いにして、道路探索における行き止まり、デッドエンドは、橋の上であったとしても逃げ道がある。
それは、引き返す事だ。 私がこの非現実的な風景を単純に喜ぶことが出来るのも、そうであるからに他ならない。
ゆえに、引き返し難い探索の途中で出会う“渡れぬ橋”は、私の心をいつも大きな苦しみに誘うのである。




15:21 《現在地》

末端部がどう処理されているかは、地上からも多少は窺い知れることが出来たものの、ここに立たねば分からなかった、「あぶないからはいってはいけません 立入禁止」と書かれた即席のフェンスと、それを保護するように立ちはだかる、簡易ガードレール。

それは必要にして十分な封鎖の有り様ではあったが、フェンスが半透明であるために、先に待ち受けている虚空が見えるのが爽快だった。
そして、道を塞ぐものよりも高い両側のフェンス(欄干)がそこで途切れているのも、痛快だった。

私は、この高架橋の約半分を独り占めにするような快感にしばし酔いしれたのち、息を整え、いよいよ、本橋でなしたい最後の行動を取るのだった。



手前のガードレールに足を乗せ、奥の高いフェンスの上に顔とカメラを出す。
そして、この橋を最初に見つけた瞬間から「見たかった」風景を堪能する。

途切れた橋にだけ存在する、突端という特異点。
そこから眺める風景は、途切れた橋の絶対数が少ない以上、数少ない貴重なものといえる。
だからこそ、凄く欲した。

ここからの眺めは、思いのほかに海面が広い面積を占めていた。
横浜が港町だということを十二分に感じさせる眺めであった。
そして、どうやらこちらと同じように自ら確かめる事は難しそうな市場側の端部や、そこに繋がる市場側高架橋の有り様が、やっと明らかになった。

市場の建物に直接繋がっているのは少し前に分かった事だが、それが立体駐車場のような建物の2階に直角に折れながら結ばれているのは、意外だった。
つまり、橋全体の平面線形は、クランク状をなしていたのである。
これは都会という群雄割拠の中で、既にある様々なものの合間を縫うよう、針穴を通すように、必要に迫られて架けた橋なのだろうという予想を与えた。



対岸の眺めに負けないくらいに興味深かった、橋の欠けた部分の下にある線路の眺め。

これはJR東海道線の貨物線である通称「高島線」と呼ばれている線路だが、見るからに斜陽。

それこそ、「衰え」というコトバが、鉄路の形になって具現しているような存在に見えた。
遠目(→)には、東海道線の一部として「いかにも」と思える複々線の鉄路の帯が、広大な埋め立て地を我が物顔で駆け抜けるように見えたのだが、改めて橋上より線路が運河に架した鉄橋を見下ろしてみれば…

…本当に寂しい眺めが…。 ↓↓




複々線と思っていた線路敷き、そして鉄橋が、実際には単線だったという衝撃。
…上の写真で遠くに見える、より大きな橋も同様。

本邦の鉄道貨物が衰退の態にあることはもちろん知っていたが、大都会である横浜の真っ直中の、それこそ貨物輸送の核心ではないかと思われるベイエリアをして、これほど需要が減っていようとは思わなかった。(冷静に辺りを見回せば、確かに工場の多くは高層ビルに変わっていたが…)
私がこの辺りを徘徊し始めて30分以上経つが、列車が通った記憶もない。

高島線の斜陽は、私の興味を大いに惹いた。
それゆえ帰宅後に調べて納得もしたのであるが、本編からはやや離れるのでここまでとする。
しかし全く無関係とも言えないのは、この高架橋が完成した当時、高島線から市場へ引き込まれる専用側線が存在していた事からも解される。
鉄道貨物からトラック貨物へと移行する時代の趨勢が、同じ立地にあった市場への“進入路”を変化させたのに違いない。

ふぅ…。





さあ、仕事は終わった。撤収だ。

はじめはゆるゆると戻っていくが、次第に地上の喧騒が近付いて行くにつれて、早足になる。

そして、カーブの終わり辺りで、入口(=出口)の様子を十分に窺い…窺い…




今だッ!

と言って、脱兎の如く駆け出す最後のストレート150m!

この時はやはり真剣である。37才の全力疾走、クマ鈴有り!




そしてそのまま、私を迎え入れる優しさと寛大さを見せる街角めがけての逆ワルニャンと、解放。

これで私の探索はひとまず終了となったが、このとき向かって左の欄干端部に埋め込まれた、
「市場大橋」の銘板を見つけたことも忘れてはいけない。
これで本橋の名称は「市場大橋」で決定だろう。




市場側高架橋は、予想通り…


15:28 《現在地》

さて、自転車を駆りまして、今度は高架橋の終端である、横浜中央卸売市場の正面入口(正確には、横浜中央卸売市場本場水産物棟の正面入口)へやって来た。

建物内には食堂など一般の人も利用出来る施設があるようで、守衛が見守る正面玄関は開放されていた。
だが、私が入り込みたい2階立体駐車場への入口には、「市場関係者以外入場禁止」「2階、3階は指定車以外は駐車できません」「一般のご来場の方へ 2階駐車場には駐車できません」などと、沢山の注意書きが掲示されており、ぴしゃりと希望を断たれてしまう。

それで私はすごすごと諦めたのだが、得るものはあった。
それは、立駐入り口に門のように掲示された「高さ制限3.5m」という数字である。高架橋のポートサイド側入口にあったのと同じである。
今の現在地と、先ほどまでの現在地の間に立ちはだかる巨大な立駐は、確かに両者を取りなす存在である事が感じられた。



15:32 《現在地》

市場大橋市場側への立ち入りは断念せざるを得なかったが、せめて目で眺めて楽しみたいと思った私は、市場の外周を走る臨港幹線道路へ回り込んだ。
この道が運河を渡る所に架かる「みなとみらい橋」が、今回最後のチャレンジングポイントだ。

橋の上から、市場の建物を眺めてみると……。




……いかがでしょうか?

見えますかな?

さすがにちょっと、遠いけどね…。
約350m離れている。

肉眼では、確かにこれが限界である。
だが、私が持っているのはデジカメ。もっともっと迫れるはず!



なるほどなるほど、了解しました。
市場大橋の市場側は、こんな風になっていたのですなぁ。
ぶっちゃけ、こっちはあまり首都高っぽくはない(笑)。
平面交差で分岐しているのは、さすがに、ね。

この分岐の存在も地図には載っていたが、手前側のスロープを目にするのはこれが初めてだ。
2階の立駐だけでなく、市場敷地内の地上部(専用波止場?)にも連絡していたのである。
そして、市場側は一切の一般道路に接しておらず、やはり立ち入りは困難!!


撮影画像のトリミングを使って、ここまで迫ってみた。

これも地図には描かれているのだが、分岐部分には信号機がある。
しかし当然、分岐はもう塞がれているので、信号も点灯していないようだ。

…といった具合に、市場側の探索は出来なかったものの概要は把握出来た。
私は今度こそ満足し、ここでの探索を完全に終了した。
橋の素性や封鎖解体の真相は、帰宅後に机上で迫ることに。





現地調査によって、ポートサイドにある廃高架橋は市場大橋という名前であることや、その名の通り、横浜中央卸売市場の専用道路であって、同施設内2階駐車場部分に繋がっていた事が判明した。

そして帰宅後、これらの情報を手掛かりに調べたところ、簡単に多くの情報を入手する事が出来た。また、前編公開後に読者さまからお寄せいただいた情報も大変役立った。


まず、横浜市の公式サイトで中央卸売市場の年表を見たところ、次の記述を見つけた。

1969年(昭和44年)6月 ・市場大橋開通

この記述を裏付けるように(→)、昭和41年発行の地形図には描かれていない市場大橋が、昭和51年発行版には登場していることを確認した。

現地探索では正直もう少し新しい橋かと思っていたのだが、思ったよりも古かった。
なにせ、我が国の本格的高架道路の幕開けといえる首都高速道路の最初の開通(京橋〜芝浦間)は、昭和37(1962)年である。それが神奈川県内に初めて伸びた(1号横羽線の東神奈川〜浅田間)のは昭和43年。つまり市場大橋は、横浜市の高架橋として最初期に属するものと考えられるのだ。

次に市場大橋が設けられた経緯については、地域情報ブログ「週刊 横濱80’s」の「山内埠頭 市場大橋」のエントリに、次のように解説されていた。

市場大橋は、慢性的な渋滞の名所だった青木橋の渋滞に引っかからずに中央卸売市場関係者が配達その他で行き来るできようにと、市場がある山内埠頭と国道一号の金港町(当時は「シィティーターミナル入り口」)を結ぶバイパスとして作られました。

挙げられた地名は上の地図にも表示しているが、なるほど、市場大橋建設の目的が納得出来る気がする。

なお、上記リンク先には、今回の調査では私が立ち入って調査することが出来なかった市場側の橋端部の現役当時の風景や、橋の上から撮影された貨物線の眺めなど、昭和59(1984)年撮影の貴重な写真が多く掲載されていた。是非ご覧頂きたい。



さて、続いては廃止の時期と経緯についてである。

昭和40年代生まれの高架橋ということで、単純な老朽化による廃止あるいは架け替えかと思ったのも束の間、意外な理由が存在していた。
横浜市公式サイト内の「市民の声:市場大橋を撤去してください(2011年7月)」に、次の記述がある。

<投稿要旨>
ギャラリーロードを歩行者優先道路として早期に整備していただきたい。また、それにあわせて市場大橋を撤去してください。

<回答>
市場大橋については、地震により一部で損傷が発生しました。そのため、現在は通行止めとし、詳細な点検、調査を行っております。今後の対応につきましては、この調査結果や関係者のご意見を踏まえて、関係部署と協議、検討してまいります。

市場大橋に損傷を生じさせ、以来通行止めとなる原因となった「地震」とは、平成23(2011)年3月に発生した東日本大震災である。
この地震での横浜市神奈川区の震度を調べると、「5強」ないし「5弱」程度あったらしく、老高架橋が損傷を受けたとしても不思議ではない。

そして、平成23年3月11日に唐突に始まった通行止めであったが、調査・点検の後、二度と解除されることはなかった。
前述した「市民の声」の市側回答は、平成26(2014)年10月に更新され、次の文章が加えられている。

損傷を受けたJR貨物線の上部橋桁撤去工事は平成26年3月に完了しました。
市場大橋のその他の部分については、平成26年度に撤去工事を開始し平成28年度までに完了する予定です。

震災後約3年間は中央径間を含めて残っていた橋だが、2014年(去年)3月に中央径間が撤去され、2017年3月までには残りも完全に撤去する予定だというのだ。

なんということだろう。
私はてっきり、今の姿であと何年かは残るのだろうと(根拠も無く)思っていたが、明日すぐに撤去が始められても不思議はない状況だったのである。
やはり“都会”だ。今回私は全く偶然の巡り合わせで、時限条件が非常に厳しい探索を行ったらしかった。

震災による橋の具体的な損傷状況や、中央径間撤去に至るまでの経緯は、横浜市経済局の資料「平成23年度経済局2月補正予算概要について(PDF)」の中に、写真付きで紹介されている。あわせてご覧頂きたい。


次は、橋の歴史としては余談に過ぎないだろうが、確かに我々の間に生きた証しもいえる記録を紹介しておきたい。
ちなみに私はこれを知って本橋への愛着を加速させただけでなく、自分が橋の上で感じた印象が誤りではなかったと確信した。

「あぶ刑事ロケ地探訪、Vol.1」

上記リンク先の一番下から数えて3枚目までの写真は、全て市場大橋の“在りし日の風景”である。
「あぶない刑事」の放送期間は昭和61(1986)年から3年程度であったから、撮影の時期も同様であろう。
私が今回探索でいなかった市場側の信号機辺りも間近に写っているし、地上部の様子もよく分かる。

しかも、市場大橋はポートサイドと中央卸売市場を結ぶ専用道路として登場したのではなかったらしい。なんと、
高速横羽線として登場していたそうだ。
確かに本物の首都高より、私道である市場大橋は遙かに撮影の許可を得やすかったと思う。
そして、私が「首都高っぽい」と思ったのも、決して独りよがりではなかったのだ。

もっとも、当時お茶の間に放映された「制限速度20km」の首都高が、期待通り全ての視聴者を騙せていたかのかは分からない。だが、なんとも微笑ましい、首都高モドキのエピソードではないか。



このように横浜市という大都会にありながら、基本的には限られた一部の人間にのみ42年間ものあいだ奉仕を続けた高架橋は、近いうちにその姿を永遠に消そうとしている。その後に残るのは、一層と純度を強めたお洒落な街並みと、相変わらず賑わい続ける市場、そして孤独を増す貨物線である。

最後に、読者のT_Kaz氏より5年ほど前に撮影したという市場大橋の現役末期頃の写真を2枚お送り頂いたので、ご覧頂きながらお別れです。

(T_Kaz氏が5年ほど前に撮影した写真。 カーソルオンで、現在の風景に変化)
(T_Kaz氏が5年ほど前に撮影した写真。 カーソルオンで、現在の風景に変化)