現地調査によって、ポートサイドにある廃高架橋は市場大橋という名前であることや、その名の通り、横浜中央卸売市場の専用道路であって、同施設内2階駐車場部分に繋がっていた事が判明した。
そして帰宅後、これらの情報を手掛かりに調べたところ、簡単に多くの情報を入手する事が出来た。また、前編公開後に読者さまからお寄せいただいた情報も大変役立った。
まず、横浜市の公式サイトで中央卸売市場の年表を見たところ、次の記述を見つけた。
1969年(昭和44年)6月 ・市場大橋開通
この記述を裏付けるように(→)、昭和41年発行の地形図には描かれていない市場大橋が、昭和51年発行版には登場していることを確認した。
現地探索では正直もう少し新しい橋かと思っていたのだが、思ったよりも古かった。
なにせ、我が国の本格的高架道路の幕開けといえる首都高速道路の最初の開通(京橋〜芝浦間)は、昭和37(1962)年である。それが神奈川県内に初めて伸びた(1号横羽線の東神奈川〜浅田間)のは昭和43年。つまり市場大橋は、横浜市の高架橋として最初期に属するものと考えられるのだ。
次に市場大橋が設けられた経緯については、地域情報ブログ「週刊 横濱80’s」の「山内埠頭 市場大橋」のエントリに、次のように解説されていた。
市場大橋は、慢性的な渋滞の名所だった青木橋の渋滞に引っかからずに中央卸売市場関係者が配達その他で行き来るできようにと、市場がある山内埠頭と国道一号の金港町(当時は「シィティーターミナル入り口」)を結ぶバイパスとして作られました。
挙げられた地名は上の地図にも表示しているが、なるほど、市場大橋建設の目的が納得出来る気がする。
なお、上記リンク先には、今回の調査では私が立ち入って調査することが出来なかった市場側の橋端部の現役当時の風景や、橋の上から撮影された貨物線の眺めなど、昭和59(1984)年撮影の貴重な写真が多く掲載されていた。是非ご覧頂きたい。
さて、続いては廃止の時期と経緯についてである。
昭和40年代生まれの高架橋ということで、単純な老朽化による廃止あるいは架け替えかと思ったのも束の間、意外な理由が存在していた。
横浜市公式サイト内の「市民の声:市場大橋を撤去してください(2011年7月)」に、次の記述がある。
<投稿要旨>
ギャラリーロードを歩行者優先道路として早期に整備していただきたい。また、それにあわせて市場大橋を撤去してください。
<回答>
市場大橋については、地震により一部で損傷が発生しました。そのため、現在は通行止めとし、詳細な点検、調査を行っております。今後の対応につきましては、この調査結果や関係者のご意見を踏まえて、関係部署と協議、検討してまいります。
市場大橋に損傷を生じさせ、以来通行止めとなる原因となった「地震」とは、平成23(2011)年3月に発生した東日本大震災である。
この地震での横浜市神奈川区の震度を調べると、「5強」ないし「5弱」程度あったらしく、老高架橋が損傷を受けたとしても不思議ではない。
そして、平成23年3月11日に唐突に始まった通行止めであったが、調査・点検の後、二度と解除されることはなかった。
前述した「市民の声」の市側回答は、平成26(2014)年10月に更新され、次の文章が加えられている。
損傷を受けたJR貨物線の上部橋桁撤去工事は平成26年3月に完了しました。
市場大橋のその他の部分については、平成26年度に撤去工事を開始し平成28年度までに完了する予定です。
!
震災後約3年間は中央径間を含めて残っていた橋だが、2014年(去年)3月に中央径間が撤去され、2017年3月までには残りも完全に撤去する予定だというのだ。
なんということだろう。
私はてっきり、今の姿であと何年かは残るのだろうと(根拠も無く)思っていたが、明日すぐに撤去が始められても不思議はない状況だったのである。
やはり“都会”だ。今回私は全く偶然の巡り合わせで、時限条件が非常に厳しい探索を行ったらしかった。
震災による橋の具体的な損傷状況や、中央径間撤去に至るまでの経緯は、横浜市経済局の資料「平成23年度経済局2月補正予算概要について(PDF)」の中に、写真付きで紹介されている。あわせてご覧頂きたい。
次は、橋の歴史としては余談に過ぎないだろうが、確かに我々の間に生きた証しもいえる記録を紹介しておきたい。
ちなみに私はこれを知って本橋への愛着を加速させただけでなく、自分が橋の上で感じた印象が誤りではなかったと確信した。
上記リンク先の一番下から数えて3枚目までの写真は、全て市場大橋の“在りし日の風景”である。
「あぶない刑事」の放送期間は昭和61(1986)年から3年程度であったから、撮影の時期も同様であろう。
私が今回探索でいなかった市場側の信号機辺りも間近に写っているし、地上部の様子もよく分かる。
しかも、市場大橋はポートサイドと中央卸売市場を結ぶ専用道路として登場したのではなかったらしい。なんと、
高速横羽線として登場していたそうだ。
確かに本物の首都高より、私道である市場大橋は遙かに撮影の許可を得やすかったと思う。
そして、私が「首都高っぽい」と思ったのも、決して独りよがりではなかったのだ。
もっとも、当時お茶の間に放映された「制限速度20km」の首都高が、期待通り全ての視聴者を騙せていたかのかは分からない。だが、なんとも微笑ましい、首都高モドキのエピソードではないか。
このように横浜市という大都会にありながら、基本的には限られた一部の人間にのみ42年間ものあいだ奉仕を続けた高架橋は、近いうちにその姿を永遠に消そうとしている。その後に残るのは、一層と純度を強めたお洒落な街並みと、相変わらず賑わい続ける市場、そして孤独を増す貨物線である。
最後に、読者のT_Kaz氏より5年ほど前に撮影したという市場大橋の現役末期頃の写真を2枚お送り頂いたので、ご覧頂きながらお別れです。
(T_Kaz氏が5年ほど前に撮影した写真。 カーソルオンで、現在の風景に変化)
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(T_Kaz氏が5年ほど前に撮影した写真。 カーソルオンで、現在の風景に変化)
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