橋梁レポート 定義森林鉄道 巨大木橋(大倉川橋梁) 再訪編

所在地 宮城県仙台市青葉区
探索日 2015.10.26
公開日 2015.11.06

死にゆく巨大木橋の観察記録 

(2)巨大木橋 起点側橋頭の眺め


2015/10/26 15:46 《現在地》

いま私が居る場所は起点側(右岸側)の橋頭である。
さっそく、橋の現状についての観察を始めたい。
残念だが夜闇までの猶予時間が余りないので、最後と思われるこの機会においては、出来るだけ多くのアングルから橋を観察し、同時に写真という記録を残すべく、テキパキと要所を選んで巡る必要性を意識していた。
すなわち、今いる右岸橋頭からはじめて、下流側河中、左岸橋頭、上流側河中、そして出来れば橋上という、5つの代表的視座を順に巡って、可能な限り多くを見たい。


2015年10月26日 2009年11月1日

ここ、起点側橋頭は、本橋の連続4径間を橋の軸線に沿って一望出来る視座である。
それゆえ、橋の全体像を目の当たりにするわけだが、よく観察出来るのは手前に並ぶ3つの副径間だ。主径間は遠い。

前回訪れた6年前の記憶(あるいは写真)と比較すれば、変化したことの多さに、大袈裟でなく“戦慄”を憶える。無論、全ての変化が悪化である。
一番に目に付くのは、なんといっても橋桁を構成する最も主要な部材である主桁が、45度ほど右に傾いていることだ。
そして3本あった主桁のうち、右側の1本が3つある副径間の全てで既に地上へ落下していた。主桁の転落を通常は「落橋」という。
本橋は主桁が3本あるが、そのうちの1本が墜ちているこの状況を表現するなら、半落橋とでもいうべきだろうか。
さらに、こうした主桁の転落や転倒が生じた結果として、主桁の上に構成される(通行する人や車を支える)橋床部は、完全に失われていた。

現状を端的に言い表すならば、橋はその構成要素のうち“架かっている”と表現できる最低限度だけを辛うじて残して居るが、それ以外の“橋としての通行の用に供する”ためのほぼ全ての部材を遺失していた。
死体の皮や肉が腐り墜ちて露出した骨を骸骨といい、生体の骨とは言葉の上で区別されるが、ここにあるものはまさに、木橋の骸骨のようである。
これが本橋との初会では無い私にとって、この変貌は見るに堪えないというような悲壮感を与えたが、同時に、観察への使命感を一層高めさせもした。



状況の説明のために本橋の構造を表現した簡単な平面図を用意した(→)。
この画像はカーソルオンやタップ操作などで変化するが、変化前の画像は、補完レポートや2004年当時の状況などから推測した、本橋の本来の姿である。
対して、変化後の画像は2015年11月時点の現状となる。

この図でも、上で説明した“変化”を、なぞっていただける。
まず、主桁の上に乗せられていた橋床部は全て失われている。
そして3つの副径間にそれぞれ3本ずつ渡されていた主桁のうち、下流側の1本が墜落して橋上から消えてしまった。
ただし、主径間についてはここからだとまだ観察が十分に及ばないので(只ごとでない気配は感じるが…)、近付いてから改めて細かい変化を書き加える。

続いては、大倉川の谷底まで下降する。
P1〜P3の橋脚に支えられた緩やかにカーブする3つの副径間は、左岸に張り出した岬状の岩尾根の上に並んでおり、橋台から離れるにつれて急激に橋は高くなる。
そしてこの3本の橋脚の下を縫うようにして、かなり急傾斜ではあるが比較的に無難な踏み跡が付けられている。
今回もこの通路を通って下流側の谷底へ向かうのであるが、途中で手が触れるほどに近くを通るP1〜P3を観察していこう。



P1(第1橋脚)近景。

この橋脚は高さ3mほどで、本橋にある3本の橋脚で最も小ぶりなものである。
そして、谷底へ下って行く通路の適当な位置に立つと、ちょうど目線の高さに橋脚の上面を見る。そこから橋脚に少し寄りかかるようにして手を伸ばすと、乗せられた桁材に手を触れることも出来る。
自然と心もその手の先へと進むのだが、のっぺりとした橋脚には足掛かりとなるものが無いことと、足元にある岩尾根の通路は狭くしかも傾斜しているため、そこで助走を付けて飛び乗ることも難しい。
橋の両端が切断されてしまった現状では、この位置が橋上へ登るための唯一の入口と思われるが、徒手空拳で登る事は、万一バランスを崩して落ちた場合のリスク(橋脚の根元まで3mは転落する)を考えると、思い切って行動に出る気にはなれなかった。

私とこの橋の関わり合いを考えたとき、恐らく今回は“特別”な1回になるであろうから、いまいちどだけ橋上の眺めを手にしたいという気持ちは「真」のものであったが、一旦その気持ちを封印して先へと進むことにした。今は逡巡する時間が惜しい。



2015年10月26日 2009年11月1日

続いては、P1付近から眺めたP2の姿である。
手前が第2径間、奥が第3径間で、さらに奥にP3と第4径間(主径間)があるのだが、ここから見える第2第3径間共に主桁が転倒し、かつ右側の主桁が転落して消滅している。
2009年の段階ではまだ幾らか残っていた枕木(橋床)も全て失われ、本当にシンプルに太い木の柱が橋脚と橋脚の間に渡されているだけである。
6年間ではほとんど経年変化を見せていないコンクリート橋脚に対し、木造部の(当然の)弱さが際立って見える。



岩尾根に並ぶ橋脚列の最後を〆るのはP3である。
こいつはP1、P2とは比べものにならないほどに高く、太く、でかい。それは単純に橋脚が立っている谷底から橋桁までの高さが大きいからというだけでなく、この橋脚はP1P2と異なり、より重量のある主径間を支えているためでもある。
通路はこのP3の付け根を見下ろすように付けられており、その5mほど下流側で谷底の河原に辿りつく。

P3近くの通路から見上げると、いよいよ主径間の尋常ではない(変貌を遂げた)姿が、空を背景に現れつつあった。




なお、この岩尾根の通路の周辺一帯には、頭上の廃橋からもたらされてきた数多くの廃材が、塵積もるように点在している。
それぞれを観察すれば特徴があり、大まかには、どの部材であったかを想像する事も出来る。
中には、私が11年前のごく短時間、この命を預けて渡った部材もあるに違いなかった。

だが、正直なところ、落ちてしまった部材の観察には、今はまだ情熱を感じることが出来なかった。
橋が架かっているうちはまだ、そんな落伍の残骸に慰めを求めるには早いのである。
こいつらに頼って往時を想像するしかなくなるときが、来てしまうのだから…。




(3)巨大木橋 橋下からの眺め


15:52 《現在地》

件の通路を通って谷底の河原に達した誰しもが、期待を胸に見上げずにいられない。
橋の全体像をもっと収まりよく収めるアングルや、或いは何かの写真心を刺激されるような複雑なアングルを探す以前に、
素直に率直に、河原に達した最初のこの地点で、すぐさま見上げずにはいられない。それほどまでに、空渡る主径間の存在感は大きい。



この橋の袂に着いてから、まだ10分も経過しておらず、時刻は16時前である。
これは予報された日没時刻まで30分の猶予がある。にも拘わらず、奥羽山脈の深い山懐に挟まれた険しい峡谷の底では、
既に月や星が透かし見えはじめるほどに空は陽の色を失っていた。とうぜん、大地も然りである。

橋のディテールを観察するには、この暗さはデメリットであり、華やかな紅葉と木橋の共演を逃した恨みもあった。
しかし、この時間の空を背景に見る、まるで“影絵”のような橋の格別な美しさを知る事が出来たのは喜びだった。



2015年10月26日 2009年11月1日 2004年11月3日

橋全体を1枚の写真に収められる定位置まで下流へ後退する。

とりあえず主径間を構成する方杖桁は原形を留めているが、6年前に較べて橋床が失われ、
全体にスッキリしたシルエットであるにも拘わらず、その肝心要であるべき主要な部材にも歪みが損失見える。
前回までは、主径間に限っては傷みがまだ少なく、暫しの安泰を感じられたのだが、今回は……。



これが一番下流側に離れて撮影した写真。これ以上離れると河原が尽きて河水に足を突っ込む羽目になる。
橋の全体像や、周辺の地形の中でのポジショニングを捉えるには、この位置は都合の良い。

ところで、このくらい巨大な木橋というのは、かつての林鉄全体で見てもそれなりに珍しい存在ではあったが、
おそらくわが国で最後までこのような巨大な木橋を活躍させていたのは、他ならぬ各地の林鉄であったと思う。

例えば、明治や大正時代の道路橋には、しばしばこのクラスの方杖木橋が用いられていて、今でも多くの写真が残っている。
しかし道路の場合、このような架橋地点は比較的早くに鉄のアーチ橋やトラス橋、あるいは鉄の吊橋に取って代わられたのである。
一方で、伐木運材という比較的短時間の運用を目的とし、他ならぬ林産地にあった林鉄だけは、その歴史の最後まで木橋を愛用した。
だから、林鉄の最末期にあたる昭和40年代頃には、このクラスの木橋はほとんど林鉄の専売特許となり、絶滅前の最後の棲みかであった。
ということは即ち、林鉄の廃絶をもって、このクラスの木橋を架橋・維持する技術の継承は、ほとんど途絶えたのではないかと思う。

林鉄跡といえば木橋探索が楽しみの筆頭くらいであったのだが、それもいよいよ風前の灯火を思う昨今である…。



踵を返し、今度は逆に橋の直下へと近付いていく。そしてこのまま主径間の下を潜りつつ、川を徒渉し、今度は橋の上流側から左岸橋頭へとよじ登る行程を思い描く。

いよいよ橋の直下へ差し掛かろうかという所で、最も高度感を先鋭化させた橋の姿を眺めた。
向かって左は、本橋を最期の瞬間まで支え切るという功労の実現がほぼ約束された巨大な重力式橋脚P3と、その背後に控える3つの副径間。
実は2004年の段階では、本橋の最期はP3の根元で明白に進んでいる水流による洗掘から、P3の転倒という破壊的な形をもって起きるのではないかと予想したのだが、実際そうはならなかった。
P3は想像以上に堅牢で、毎年数回はあるだろう洪水にも耐え続けたのである。

向かって右は、巨大な人工物の存在感を有する左側に較べて遺構的には地味な眺めだが、風景としては負けず劣らずの存在感を持つ。ここにあるのは、いわゆる柱状節理と呼ばれるものと思われる、玄武岩質の大露頭だ。その黒ずんだ表面は、まさしく伝説の神獣である玄武が背負う亀甲のように、堅牢さと経年を感じさせた。
そしてその上部には、本橋の命脈である方杖桁を支え続ける一角があるのだが、そこは特にコンクリートなどで補強されているわけではなく、純粋な岩の凹みなのだから、堅牢ぶりには目をみはる。



昔から見る度に“割り箸細工のようだ”と、そんな同じ感想ばかり持ち続けている、私の大好きな大好きな方杖桁部分のアップ。

この橋の全ての場面の中で、どこが一番好きかと聞かれたら、私は間違いなくここを選ぶ。
方杖橋という形式をその名前たらしめている最も特徴的な部材であり、アーチでもトラスでももちろん吊り橋でも無い、木橋が特に愛した形式だった。
木橋が好きなら、この形式は印象の筆頭に登ってもいいものだ。
(より広義な橋の分類としては、ラーメン橋に含まれる。高速道路を跨ぐ跨道橋などにしばしばこの形の橋があり、方杖ラーメン橋と呼ばれる。もちろん木橋ではないが)

ああ、改めて眺めて見ても、やはり本当に美しい。
直線だけで構成された各部材によって、いくつもの幾何学図形に区切られた空の飄々たる様よ。
お前ほど美しい橋の部材を、私は他に知らないぞ。

そして、お前が壊れてしまえば、この橋は必ず落ちるのだ。
それは、橋脚が倒れることとほぼ同義である。
木造方杖橋にとって、方杖桁の倒潰は致命的。
また左右対象が原則で、どちらかの方杖桁が倒潰しただけでも終わりだ。
だから、この部分に見て取れる故障は、致命的事態への接近に他ならないのであるが…。




この日の大倉川の水量は、晩秋らしくささやかで、橋の直下のさらさらとした瀬の深さは30cmそこいらであった。
私の登山靴は完全に浸水したものの、それも想定のことであったから、気にせずに頭上へ意識を向け続けた。



直下から見る主径間は、まだ辛うじて3本の主桁が並んで架かっていはしたものの、以前に比べて明らかに痩せ細って見えただけでなく、その事よりも遙かに致命的と思える状況にも陥っていた。

言っておくが、この主径間はもともとは完全な直線であった。
しかし、今は“ある”所から屈折しているように見えるのだ。

方杖桁と主桁が接続している地点で、橋は明らかに折れ曲がって見える。

橋というものは、重力方向に対する圧力には構造的に粘りが強い。簡単には落ちない。
だが、左右方向にバランスを欠いてしまえば、各部材には重力だけでなく捻れの力が働くようになり、加速度的に傷んでいく。
私が過去に目にした落橋寸前の木橋の多くが、ひと目見て分かるくらいに捻れていたことも忘れていない。
捻れた木橋は保たない。
これは私の中で今のところ例外を確認していない事柄だ…。


そんな桁の一番高い辺りには、以前見なかった大きなスズメバチの巣がぶら下がっていて、とりあえず人間からの干渉は絶対に受けない安全地帯を謳歌しているようだったが、そこはきっと違った意味で安全じゃないですよ……。



15:55 《現在地》

橋の上流側左岸寄りの河原に辿りついた。
水浸しとなった足元に寒さと不快感はあったが、これから目にするであろう風景への期待は、その事を忘れさせるくらいの高揚をもたらしていた。

これからもう一度、橋の高さまでよじ登る。
そして、6年前には省略してしまった、11年前に1度達したきりの、左岸橋頭からの眺めを堪能したいと思う。
左岸からは、右岸寄からよりも遙かに間近に、主径間の橋上を眺める事が出来るはずだ。

橋の極限状態というものを、この目に焼き付けるときが、もうすぐそこに来ている!





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