橋梁レポート 上小阿仁村南沢の廃●●橋 第1回

所在地 秋田県北秋田郡上小阿仁村
探索日 2011.11.10
公開日 2011.12.05


またしても、 廃橋梁の殿堂入りしそうな橋 が発見された。


そればかりか、“廃の殿堂” 入りの期待も大。




しかし、タイトルの通りこれらは“●●橋”である
この伏せ字の答えは、現物を近くで見れば即座に明らかとなるが、●●橋には正直食指が動かないという御仁もいることだろう。
実はかく言う私も、その傾向があることは否めない。
しかし、タイトルで「パス」をせず、実際にページを開いてくれたあなたの期待には、応えるつもりだ。
このレポートを全て読み終えるまでには、きっとあなたは“予想を越える驚きの光景”に遭遇して、興奮することだろう。
そう予言出来る。

だから、あまりの興奮で思わず奇声を上げてしまった“私の発見の瞬間”まで、しばしお付き合いいただきたい。




【周辺図(mapion)】

“それら”があるのは、秋田県の中央北部に広がる太平山地に米代川の支流である小阿仁川が深く刻み込んだ、大錠(おおじょう)渓谷の一帯だ。
県央と県北を結ぶ幹線道路である国道285号から、秋田県道129号杉沢上小阿仁線(だいぶ以前、この道路の群境区間をレポートした)に入ると、やがてこの一帯に辿り着けるが、道は生活道路とは思えぬほどに険しく、そして長い。

分岐地点の南沢集落から、この川と道沿いの最奥集落である八木沢までの約9kmは、途中集落のない山中の一本道で、“チャリ馬鹿トリオ”時代(学生時代)から何度も通っているが、基本的にはただ通り過ぎるだけの区間だった。
沿道に何か探索の対象になるようなものがあるというのは、これまでなかった。
だが、実際には非常に巨大なものをも含む“色々なもの”を、私は知らずに通り過ぎていた。

はじまりの場面は、今年(平成23年)11月10日の午前8時前だ。
私がこの県道129号を体験するのは10年ぶりだが、今度は自転車ではなかった。
ミリンダ細田氏がこの夏に路傍で見つけたという“林鉄用と思しき橋”を、一緒に確認する事が目的だった。

私が運転し、助手席には緑色の細田氏。
彼はこの道に入って以来しきりに窓に目を遣って、“それ”があらわれるのを待ち構えているようだったが、“それ”よりも先に、想定外のものを見つけた。

場所は、国道との分岐地点から6.1kmほど入った所で、この道が最初に小阿仁川を渡った直後である。
ではいったい何を見つけたのか。

以下、本編。


林道の対岸に見つけた、想定外の橋


2011/11/10 7:40 《現在地》

菓子パンをもぐ付いている細田氏(緑仕様)の視線の向こうに、“その橋”はあった。

え? 橋なら“そこ”に見えているじゃないかって?

その橋は、「上から読んでも○○橋、下から読んでも○○橋」である点以外には、特に不審な点は見あたらない県道129号の「橋場橋」である。
橋の下は、小阿仁川大錠渓谷の上流部である。

それでは、細田氏の視線の向こうにある景色を、ご覧頂こう。




視線の向こうは、小阿仁川の上流方向であった。

昭和41年に、ここから6kmほど上流に萩形(はぎなり)ダムが完成した結果、豊富だった水量は それまでの3割程度まで減ってしまったと言うが、それでも山中にしては大きな川という印象だ。

ここから見る両岸の山腹は、かなり険しく切り立っていて、 秋田県北の名産品であり「天然秋田杉」がそこかしこに林立していた。

県道は、さきほどの橋場橋で左岸から右岸(写真左側)へ移っているが、木々に遮られていてその姿は見えていない。
一方で反対の左岸には、あるものが見えている。

…拡大して、見よう。





なにか、山の中に“灰色の水平線”があるのだ…。

遠近感が掴みづらいが、あそこはちょうど支流である灰内(はいない)沢が合流してきていて、
“水平線”の正体は、沢を渡るコンクリート製の橋らしかった。

「アレ、結構でかくねスか?」

細田氏の興奮した声が、耳に届いた。



「あそこに橋があるはずネんだが…。」

と、私。
予想外の「コンクリート橋らしきもの」を発見してしまい、信じがたいという当惑と、とうぜん興奮があった。

手許の地図と照らしてみると、橋らしきものが見えた場所は、このへんだ(←)。

あの辺には灰内林道があるにはあるが、高さがだいぶ違うし、灰内沢を渡る橋は全く想定外である。

地形図には全然描かれていないこの橋。
規模はかなり大きいように見える…。
もしや、小阿仁川沿いに萩形の奥地まで伸びていたという「小阿仁林鉄」か、その支線として名前が伝わっている「灰内支線」のどちらかの遺構なのでは?!


これは、近くまで行って正体を確かめないと!





すぐに徒歩での探索を開始する。

目指す“謎の橋”は、林道から見て川の対岸にあるので、直接行くことは難しい。
そこで、橋場橋の左岸橋頭にて県道から分かれる細い道に期待をかけてみることにした。

或いはこの正体不明の道が小阿仁林鉄の廃線跡であるならば、“謎の橋”の正体は、とってもムフフなものかもしれないのだ。
もっとも、流石にこの辺りの古地形図は所持しているから、小阿仁林鉄の廃線跡は、ほぼ全線が県道129号と一致していることを知らないではなかったのだが…、地図の誤表記ということもあるかもしれないではないか…。

小道の入口には、営林署がかつて設置した、沢名を記した標柱があった。
そしてそのネーミングが意外すぎて、思わず2人で示し合わせたように叫んでしまった。

「うおー!! 味噌盗られたー!」





小道をゆくとすぐに、右から合わさってくる、ごく小さな沢にぶつかった。
おそらくそれが「ミソトラレ沢」なのだろうが、生憎小道はそこで形を失い、その先へは行っていないようだった。
しばらくは我慢して斜面をトラバースしていた私たちだが、岩場があらわれるに従いそれも不可能になり、遂に河床へと引きづり下ろされた。
そして撮ったのがこの写真だ。

やはり“橋”は存在する!

重厚な、コンクリート造りだ!

しかし、実はここまでの行程でもう、橋の正体についての“一番望ましい可能性”は消えていた。
つまり、林鉄橋ではありえなかった。
もしそうならば、橋に繋がる路盤があって然るべきなのだ。


前後に路盤を持たない橋の正体は、ひとつしかないか?!





水路橋!


●●橋の正体は、“水路”橋。





地形図に描かれていないこの橋は、もちろん廃だ。
“廃”の水路橋である。その用途は、まだ分からないが。

橋の前後は隧道になっているようだが、これはむしろ本来地下に敷設された水路が、
灰内沢を渡るべく、ここだけ地上に現れているというべきだろう。

重厚なコンクリートの箱桁は、それそのものが函渠であり、
両岸の橋台および4本ある橋脚全てと剛結合された、ラーメン構造のようだった。




とまあ、構造的、形式的な観察もほどほどに、

なんと言ってもこの橋は「かっこいい」ので、そこを自慢したい。

水路とは言っても、紛れもない橋であり、しかもそれが廃である。

これだけ規模が大きく、かつコンクリートの風合いが“濃い”となれば、
私の食指を刺激しないわけがなかったのだ。
私が水路橋に対して冷静でいられるのは、それが現役でかつ小規模の場合だけだということを知った。
これは刺激的興奮度の高い一橋に列せられて然るべき逸材ではないだろうか。

当然、さらに近付いての“濃厚ナル接触”を試みたくなる。

「ちょっと、細田さん。そこ立ってみて、そこ。」




そのデカさに萌えるンだ!

当然これには細田氏も大ボッキ!
「これは水路橋だけどスゲーよ」を大連呼していた。
農業用水路橋フリーク(詳しくは「廃道ナイト!3」参照のこと)である氏をしても、この規模の水路橋は初めて体験したらしく、ましてやそれが“廃”となれば、別格の思いもあったのだろう。

鉄筋コンクリート製の橋脚は、4本とも同じ作りをであり、違うのはサイズだけだ。
単純な台形型をしているので、高い橋脚ほど基部が太いことになる。
対して橋桁に接する上部は全て同じ大きさであり、そこはこのような驚くべき“か細さ”であった。
材料をケチったのか、単純に動荷重をあまり考慮しなくて良い水路橋の特性なのかは、勉強不足のため分からないが、見た目に華奢すぎて、倒壊せんかと心配になるレベルである。

しかし美的観点からは、この微妙な危うさがまた美しいと感じられたのも事実で、見慣れた道路橋とは違う論理の存在予測にうっとりした。





にしても、すさまじい老朽ぶりだ…。

建設された時期は未だ不詳ながら、橋脚壁面の白化は留まるところを知らず、コンクリートの成分が溶け出した“鍾乳石”の層に覆われていたのである。
これは使われているコンクリートの品質の影響も考えられる。




橋の真下には、かなりの量のコンクリートの塊が散乱していた。
それはまるで橋脚の一部のような整形された面を持つ巨大な塊であったが、現存する橋脚から脱落したものではなく、正体は謎である。
鉄筋も仕込まれてはいないようだった。

考え得るのは、同じ位置にやはりコンクリート製の橋脚を持つ旧橋が存在し、架け替える際に残された残骸ということや、工事中に何らかの事情で放棄され、遺棄されたものということがあるが、その総量は橋脚1本分程度であり、後者の方が可能性が高いかも知れない。
また老朽化の度合いが、現橋の橋脚と落下している残骸とで特に違いは見られないということも、後者の予測を支持する。



4本ある橋脚のうち、灰内川右岸寄りの1本が最も低く、3mにも満たないものであったため、第一印象で「か細い!」と驚いた橋脚上端部に直に触れることが出来た。

改めて見ても、やはり異常な薄っぺらさ。
中央の一番高い高さ8m〜10mくらいある橋脚も、これと同じ大きさなのである。
一応鉄筋は仕込まれている(丸筋なので、施工はやはり戦前〜戦中期か)が、コンクリートの表面は土状に変質して脱落、そのために骨組みが露出してしまっているのだった。

万が一崩れ落ちても、あまり環境への影響の無さそうな場所ではあるが、この橋の健全度は既に自立する限界近くまで低下しているのではないだろうか。




右岸橋台脇から見通した、橋の全貌。

橋の長さは目測だが40m程度はあり、それなりの規模のものである。
しかし、一切装飾性は顧みられておらず、無骨一辺倒のコンクリート構造物であって、もとより人目に付くことの限りなく少ない山間部の立地を考慮したか、或いは建造時期的にそれが当然だったのか。

あたりには、構造物の正体に繋がるような情報(用地境界標、財産標など)は全く見あたらず、ここまで近付いてなお函内に水の流れている気配が皆無であることから、改めてこれが“廃”であることが理解された。

依然として正体に謎を残した水路橋だが、橋である以上は、当然次にスベキことはひとつしかない。




「渡ってみるべ!!」





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