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橋梁レポート 長野県道338号内川姥捨停車場線 旧冠着橋 机上調査編

所在地 長野県千曲市
探索日 2014.10.28
公開日 2025.07.07

 第1章 〜冠着橋の変化を航空写真に観る〜

旧冠着橋には4種類の異なる幅を持つ桁が同居していたが、現地調査によって、このうち第9径間(幅3m)と第4径間(幅6m)に製造銘板が発見され、それぞれ昭和44(1969)年昭和59(1984)年という架設年が記録されていた。

この発見によって、本橋を構成する11本の桁は、少なくとも2段階に分けて架設されていることがはっきりしたが、ぶっちゃけこのような製造銘板の発見がなくても、4種類の異なる幅の桁は、4つの異なる時期に建設されたと想定するのが当然であろう。もしも、異なる幅の桁を同じ時に架設したなんてことがあったら、それはもはや正気を疑ってしまう(笑)。

というわけで、本橋の桁はおそらく4つの年代が異なる桁が同居していると判断したが、その裏付けを得るべく、まずは歴代の航空写真を遡ることで、橋の変化を目視で確認することにした。

当地を撮影した航空写真を平成の初期から遡っていくと、@平成5(1993)年、A昭和62(1987)年、B昭和50(1975)年、C昭和40(1965)年、D昭和22(1947)年の5世代があった。
これらを全て見ていこう。



1枚目、@平成5(1993)年版。

幅の異なる4つの桁が全て揃っており、合計11連からなる橋が完成していた。
これは今回探索した状況と同じである。
なお、図に書き加えた4色の数字は、それぞれの部分の桁幅とスパン数を示している。

ここから時間を遡っていく。



2枚目、A昭和62(1987)年版。

@の6年前に撮影された写真であるが、なんと! なんとなんと!!

幅9.25mの右岸側の3径間がない!!

橋は右岸の堤防にまで達することなく、左岸から8径間目で終わっていた。

この当時の状況について、実際の通行体験談がコメント欄に寄せられているので紹介しよう。

地元、戸倉の住人です。昔の冠着橋懐かしいです。
昔は一番広かった橋桁が無くて、木製の橋で河川敷に下ってから土手に登る道になっていました。
聞いた話だと、予算の関係でどんどん狭くなっていったらしいです。
最後は橋桁が掛けられなくて木製で河川敷に降りたらしいです。

読者さまコメントより

かつての冠着橋は、河川敷へ降りてしまう橋だったのである。

前回紹介した新潟県の魚沼川に架かる栄橋からの華麗な伏線回収的共通点が、ここにあった。
現在の栄橋や、かつての冠着橋は、片岸で河川敷へ降りてしまうという特徴……ある種の欠陥……を持っていたのである。

しかも、途中で途切れた橋と河川敷内の地上道路を結ぶスロープ橋が木製であったことも、平成22(2010)年以前の栄橋と共通している。
栄橋では、平成の後半に至るまで木製の橋が存続していたことに驚いたが、この冠着橋においても、少なくとも昭和62(1987)年という比較的最近まで、県道の一部として、木製のスロープ橋が利用されていたのである。

前掲の航空写真を見ても、スロープ部分は幅6mより狭く見えるし、色合いもコンクリートのようには見えない。
これは確かに木橋であったのだろう。
おそらく、当局においてもスロープ部分は暫定的存在という認識があり、コスト的にも耐用年数的にも木橋が適切と判断されたのだと思う。
……そう考えると、スロープ部分が永久構造物化した栄橋はもう……。

そしてさらに先ほどの証言には、“聞いた話”としてではあるが、橋の幅が段々と狭くなっていく理由は「予算の関係」であるといい、しかも途中で河川敷に降りてしまう理由は「(予算の関係で)橋桁が架けられなくて」であるという、もし事実だとしたらあまりにも侘しい事由が述べられていた。

この真偽について判断できる材料はまだないが、11径間で完成する橋の8径間までが完成しながら、たった残り3径間が架かっていない状況を目の当たりにしたら、多くの人が「貧乏さ」を連想するのではないかと思う。



3枚目、B昭和50(1975)年版。

おわ〜〜!! 今度は左岸から6径間目までしかない!

しかも、これも地味に私の想像を超えた状況だったのだが……、最終的に3連のスパンとなる幅6mの桁も、同時に架けられたわけではなかった。

この昭和50年当時、幅6mの桁はたった1スパンだけ川幅の真ん中に架かっていたという、あまりにも珍妙な状況www
この1スパンだけの2車線幅を終えると直ちにスロープ(当時も木製であったろう)で河川敷へ降りてしまうというww これでは実質的に待避所ですな。
橋の長さとしても、当時の冠着橋は最終的な橋長である473mの半分程度しかなく、足りない部分は河川敷内の地上をぐねぐねと曲がりながら走っていた。
規模は違うが栄橋の現状にそっくりだ。



4枚目、C昭和40(1965)年版。

ちっちゃ!!

B以降の冠着橋左岸側橋頭の位置から、明らかにB以降とはスパンの異なる橋が川面へ突き出しているが、水流を跨ぐ最低限の長さしかなく、干上がって見える広大な河川敷部分には全く橋が架かっていない。これはすげー割り切り。

この橋は、左岸の始点こそ共通しているが、現在架かっている橋桁との共通部材はなさそうだ。
今回見た橋桁の中で一番古そうな第9径間のトラスに昭和44(1969)年架設とあったから、それ以前に撮影されたこの桁は別だと思う。
すなわち、冠着橋旧橋なのだろう。(現橋から見れば旧々橋だ)

ところで、この写真には「旧橋」とは別の何かの構造物が、右岸側から河川敷内に伸びているのも見える。
橋桁が失われた橋杭の列のようにも見えるのだが、これはなんなのだろうか?
調査の結果、おそらくはこれだろうという写真が見つかったので紹介しよう。




『目で見る更埴・埴科の100年』より転載

これは郷土出版社が平成4(1992)年に刊行した『目で見る更埴・埴科の100年』という写真集に掲載された、「木橋架設当時の冠着橋」の表題の写真だ。
附属するキャプションによると、撮影されたのは昭和40年代で、後方に見える吊り橋の冠着橋が度重なる水害と老朽化により使えなくなったため、手前に見える木橋を建設したとのことだ。

写真には、とても昭和40年代とは思えない江戸時代みたいな木橋が写っており、その背後に2本の主塔を有する吊り橋が見える。吊り橋は川幅の僅かな部分にしかなく、巨大なスロープで河川敷へ降りているのが異様な姿である。
この木橋と吊り橋の位置関係を、先ほどの航空写真Cと照合すると、写っていた橋杭の列らしきものは、この木橋の跡だと分かる。

キャプションの通りであるなら、ここでは吊り橋が最も古く、次に(江戸時代みたいな外見の)木橋が架設され、その後(昭和44年)に現在のトラス桁が吊り橋の位置に架け替えられたのである。おそらくだが、この木橋は吊り橋からトラス橋の間までの仮橋であったのだと思う。
なお、昭和40年の航空写真だと、この木橋は橋杭だけしか見えなかったが、架設中なのか、流失した跡なのかという疑問があった。これについては後ほど他の資料から解決する。


@
平成5(1993)年
A
昭和62(1987)年
B
昭和50(1975)年
C
昭和40(1965)年
D
昭和22(1947)年

ここまで見てきた@〜Cに、D昭和22(1947)年版を加えた歴代5枚の航空写真の一挙比較を右に掲載する。カーソルを動かして変化を楽しんでほしい。

まとめると、@〜Bにかけては、冠着橋の桁が左岸から右岸へ向けて増設を繰り返し、最後には河川敷に降りない完全な橋となる過程である。
Cには、その旧橋である吊り橋と、吊り橋の老朽化によって仮橋的に架けられた木橋を見て取ることができる。
そして最後のDまで遡ると、河川敷内に橋らしい構造物は全く見当らない。

そしてもう一つの注目点として、Dから@までの半世紀近い時間経過の中で、河川敷内での本流の位置が変化していることが挙げられる。
DからC、そしてBにかけては左岸寄りに本流があったが(だからこそ左岸寄りに吊り橋やトラス桁が架けられたのだろう)、Aと@では明らかに本流が河川敷の中央に移動している。探索時点でも左岸のトラス桁の下には一滴の水も流れていなかった。

このような河川敷内での本流の移動が、冠着橋の変化に少なからず影響を与えたのではないかということが、航空写真から読み取れた。



I.
明治43(1910)年
II.
昭和4(1929)年
III.
昭和12(1937)年
IV.
昭和37(1962)年
V.
昭和51(1976)年
VI.
昭和54(1979)年
VII
平成13(2001)年

せっかくなので、航空写真だけでなく地形図でも冠着橋の変化を見てみよう。
特に航空写真が撮影される以前の状況は、地形図でしか窺い知れないものがある。

I.は明治43(1910)年版。
地図の中央付近に川を横断する点線の道(小径=徒歩道)があり、短い橋と渡船の組み合わせで両岸を結んでいる。この渡船は千本柳舟渡と呼ばれ、古くは嘉永5(1852)年の絵図にもあることが、長野県教育委員会発行の『歴史の道調査報告書 31 (千曲川)』に掲載されていた。これが位置的にも冠着橋の前身である。

II.は昭和4(1929)年版。
I.と同じように渡船が描かれているが、河川敷内の流れの位置の変化に合せて、小径や渡船の位置も微妙に変化している。

III.は昭和12(1937)年版。
この時期には本流が右岸側に移動し、渡船も右岸寄りに変わっている。

IV.は昭和37(1962)年版。
実はこの時期には既に航空写真Cに写っていた吊り橋が存在したのだが地図には反映されておらず、渡船も消えて、この位置から渡河施設の一切が消えている。先代橋の吊り橋は結局一度も地形図に反映されなかった。

V.は昭和51(1976)年版。
この版からようやく冠着橋が描かれている。いかにも幅の狭い橋が、川幅の半分程度を渡っていて、残りは河川敷を通行している。航空写真Bの状況に近いと思う。

VI.は昭和54(1979)年版。
橋の表記が太くなり橋名も記載されるようになったが、橋の長さや道の位置は変わらないから、単に表記上の変化でしかなさそうだ。しかし着実に橋の存在感は増してきている。なお、県道338号内川姨捨停車場線の認定は昭和49(1974)年7月29日である。それまでは町道だった冠着橋は、このときに県道に昇格したと思われる。このことが表記に反映されたのかもしれない。

VII.は平成13(2001)年版。
本編でも紹介した、旧冠着橋が完成した姿が描かれている地形図である。ちゃんと両岸の河川敷を結ぶ姿になっている。


次の章では、冠着橋に係わる謎の核心である桁の変化、増設と延伸の歴史に焦点を当てる。
現地探索で湧き上がった数々の疑問に、引導を渡そうではないか!



 第2章 〜常軌を逸する決断の背景〜

冠着橋の歴史を知るうえで、極めて優れた資料が存在する。
それは、この橋の管理者である長野県千曲建設事務所の広報「千曲ふれあい散歩だより」に、かつて全7回にわたって連載された千曲川・橋梁の今昔という記事だ。
平成30(2018)年に公開された第1回が冠着橋であった。

とても良くまとまった読みやすい記事なので、これを読んで貰えれば、もはやここで机上調査をする必要もほとんどないのであるが、それでも敢えて山行がで読みたいという奇特な方向けに、他に見つけてきた追加資料を交えながら、その内容を紹介したいと思う。


冠着橋の歴史 (1) 吊り橋からトラス橋へ

更級地区から戸倉駅、商店街への最短距離であるこの場所に橋が架かる前は、「千本柳の渡し」と呼ばれる渡し船が運行していました。初めて橋が架かったのは昭和33(1958)年。戸倉町(現千曲市)により、木製の吊り橋が左岸側に架設されました。延長は現在の橋の6分の1に相当する74mで、左岸側の流水部分だけに橋を架け、河床の道路と斜路(取付道路)で結んでいました。
板敷で自動車が通れず、河床部分は増水すると水没し通行できなくなることは頻繁で、昭和40年には通行止めとなり、41年の台風で一部が流失してしまいました。

文章/写真とも『千曲川・橋梁の今昔その1 冠着橋』(千曲建設事務所)より

航空写真C(昭和40(1965)年11月6日撮影)に写っていた吊り橋が、冠着橋として千曲川を横断した最初の橋であった。
その竣工は昭和33(1958)年で、戸倉町が架設した全長74mの木製吊り橋であったという。
橋は広い河川敷内の左岸側にあった流水部分だけを横断しており、先は木製の斜路によって河川敷内の地表道路に結ばれていた。

この橋(旧々橋)については、昭和49年に戸倉町教育委員会が出版した『年表戸倉町の今昔』という資料にも、昭和33年6月19日の出来事として、「冠着橋竣工する。つり橋として架設 延長75m・幅員3m」と記載がある。これにより、今回探索した旧冠着橋の第9〜11径間と同じく幅3mの橋であった事が分かる。


 『戸倉町誌』による追記シリーズ(1)
2025/7/14追記

本編の完結から少し時間が経ってしまったが、複写を手配していた『戸倉町誌 第3巻 歴史編 下』が届いたので読んでみると、冠着橋の歴史について、これまでは不明であった部分がいろいろ判明したので、ここに『戸倉町誌』による追記シリーズ(1)〜(5)と題した追記を行う。既に本編を読んでいる方は、この赤っぽい背景色の“追記シリーズ”部分だけをツマミ読みしてくれ。

では早速、昭和30年代に吊り橋の初代の冠着橋が建設された経緯についての記述があったので紹介したい。

昭和30(1955)年に新戸倉町が発足した当時、千曲川の両岸を結ぶ橋は大正橋だけであった。したがって、更級地区と五加地区をむすぶ千曲川への架橋は、観光開発や農業振興とならぶ三町村合併の重要課題のひとつであった。更級地区から戸倉駅・戸倉商店街への最短距離である千曲川の地点には渡船(千本柳の渡し)がもうけられ、五加地区の千本柳・内川の人々は冠着山の入会利用のために活用したり、両地区の生活物資の交流に使っていた。この渡船は30年に町営となり、町予算に渡船費が30年度5万7467円計上された。架橋は、32年4月16日に起工式がおこなわれ、千曲川本流の舟渡しの部分に延長74m、有効幅員3m、工費880万円(950万円の記載もある)の吊橋が33年6月7日に竣工した。当初は「かむりき橋」(のち冠着橋)と命名された。

『戸倉町誌 第3巻 歴史編 下』より

『戸倉町誌 第3巻 歴史編 下』より

このように、本編で引用紹介済みの『千曲川・橋梁の今昔』と重複する部分は多いが、より詳しい事情が書かれている。
具体的には、初代冠着橋は戸倉町内で大正橋(大正3年架設)に次いで2番目に架けられた千曲川の橋であり、昭和30(1955)年の町村合併によって町域が両岸に拡張されたことを契機に架橋の実現が図られたこと、また橋の名前が当初はひらがなの「かむりき橋」であったことなどが、大きな新情報である。

また、この初代「かむりき橋」の渡り初めの写真が掲載されていた(→)。
当時は町道であったから、写っている人物も町政の関係者が多いと思うが、皆とても嬉しそうだ。

そして橋の写り方を見る限り、撮影地点は吊り橋から河川敷へと降りる木製のスロープ部分【図示】とみられる。
幅3mの路面はもろに板敷きで、しかも急勾配。
いかにも雨の日は滑りそうで恐ろしい。手摺りも低い。
まだ人道時代の橋という感じである。



この板敷きの吊り橋は自動車が通ることはできず、(老朽化のためか)昭和40年に早くも通行止となり、翌41年9月に列島を襲った26号台風によって斜路部分が流失してしまった。
一緒に掲載した写真には「昭和41年台風26号被災後の旧木橋(吊り橋)」というキャプションがある。
確かに斜路の部分が途中までしかなく、地上まで達していない。

前章では、『目で見る更埴・埴科の100年』に掲載された「“昭和40年代”に撮影された吊り橋」の【遠景】を紹介したが、そこでは斜路部分は健在のように見えた。したがって昭和41年の流失以前に撮影された可能性が高い。そして同じ写真に、吊り橋の老朽化対策で架けられたという仮橋らしき木橋も写っていたが、この木橋は航空写真Cだと橋杭だけが並ぶ未完成状態に見えた。

おそらく時系列としては、昭和40(1965)年の早い時期に吊り橋が通行止となり、その対策として仮木橋を架ける工事が進められている最中の11月6日に航空写真Cが撮られ、その後、木橋が完成した時点で橋の写真が【撮影】された。そして、昭和41年9月の台風26号によって通行止だった吊り橋の斜路部分が流失した(記録はないが、おそらく木橋も壊滅的被害を受けたと思われる)という流れだと思われる。


 『戸倉町誌』による追記シリーズ(2)
2025/7/14追記

初代の吊り橋が通行不能となった経過についても、『町誌』に少し掘り下げた情報があったので紹介しよう。

40年9月17日に台風24号による増水で鎮碇構がかたむき通行不能となった。さらに翌年9月24、25日の台風26号による増水で木橋の一部が流失した。

『戸倉町誌 第3巻 歴史編 下』より

ここでの新たな情報は、昭和40年に橋が通行不能となった原因だ。
老朽化による通行止と思っていたが、同年9月17日に来襲した台風24号による増水で吊り橋の“鎮碇構(ちんていこう)”が傾いたことが原因であったという。鎮碇構とは英語でAnchorage、すなわち吊り橋の主索を固定するブロック状の構造物を指す。吊り橋にとって主索と共に最も根幹的な構造であり、これが故障するのは致命的と言える。
具体的には、本橋の場合は【この○印】の部分が鎮碇構とみられ、実際に傾いているように見える。


このように、初代の冠着橋は完成から10年足らずの間に度重なる水害のためお役御免となってしまった。
そしてここから、2代目旧冠着橋の紆余曲折の歴史がスタートする。


復旧工事では吊り橋を撤去して橋脚の新設を行い、昭和43(1968)年に赤色の鋼製トラス橋が架けられました。この延長106.5m、幅員3mの部分は、平成26(2014)年に現在の橋ができるまでの46年間活躍しました。

文章/写真とも『千曲川・橋梁の今昔その1 冠着橋』(千曲建設事務所)より

航空写真BとCの間に、幅3mの3スパン(G9〜11)だけの時代があったのである。
そして引用文中にあるとおり、これが旧橋としての最初から最後まで最も長く活躍した3径間だった。
この3スパンだけだった時代の写真も初めて見たが、立派なトラス橋ではあるが、巨大な千曲川に挑むには、さすがに長さの点で頼りのない橋であった。

その証拠に、写真の時点で既に橋を渡った先の斜路の向こうは水没しているように見える。
この状況では通行は不可能であり、川が増水するたびに通行止になっていたものと思われる。
一応自動車は通れるようにはなったが、増水に弱いという吊り橋時代の大きな弱点は克服出来ていなかったのである。
なお、桁だけでなく橋脚についても、この写真に写る3本(P8〜10)は、私の探索時点でも同じものが使われていたと思う。

(↑)『千曲川・橋梁の今昔』に掲載された図をもとに、橋桁の構成と幅員をまとめた図を作ってみた。
まずは、吊り橋時代と最初のトラスの比較である。


 吊り橋時代の2本の橋脚が存続した可能性
2025/7/8追記

昭和33(1958)年に完成した吊り橋の初代冠着橋には、主塔を有する橋脚が2本、川の中に立てられていた。
その形状は、門形である。


一方、昭和43(1968)年に架け替えられたトラス橋の冠着橋には、2連続のトラスを支える3本の橋脚があるが、右岸側から数えて1本目と2本目(レポート内のP9とP10)の橋脚は、門形である。

この両者には、主塔の有無という大きな違いがあるものの、門形橋脚であるという部分は共通しているし、川岸からの位置関係も概ね共通しているように見える。

平成26年まで活躍を続けたP9とP10は、昭和43年ではなく、昭和33年生まれではなかったか。

そのように考える根拠がたくさんある。
まずは、上記したように川岸からの位置が近寄っていて、橋脚の形状も共通点があること。
そして、昭和33年に建てられて10年しか経っていないまだ新しい橋脚を、昭和43年に取り壊してゼロから作り直すのは不経済であること。
現地に昭和33年の橋脚の痕跡が全くなかったこと。

さらに、こういう不自然さもある。(→)

昭和43(1968)年に架けられた2連のワーレントラスだったが、なぜか2本のスパンが微妙に異なっていた。
左岸寄りのトラス(G10)は43.5mで、右岸寄りのトラス(G9)は49.5mと、意味深な差があった。
この差は、トラスの鋼材の配置を数えてみても、斜材1本分の差となって目視が可能である。

チェンジ後の画像のように、吊り橋時代の主塔付き橋脚2本の下半分を残し、トラス橋の橋脚として転用したために、このような不自然なスパンの橋になったと考えることができるのである。


このような理由から、今回の追記によって認識を訂正し、旧橋のP9とP10は昭和33年の旧々橋橋脚の転用であったとしたい。

…ますます味のある橋だったなぁと…。
財源に限りがあるなか、知恵を絞って、少しでも省コストで良い橋へと改良していくことに熱心だったんだと伝わってくる。



冠着橋の歴史 (2) 千曲川全幅に架かる旧橋の完成

昭和49(1974)年、内川須坂線が町道から県道に移管。県による整備が始まりました。昭和50年代に入っても台風災害で斜路の流失被害を受け、工事のたびに桁橋が延長されていきます。平成3(1991)年、河川全幅に架かる橋が完成。昭和33年の吊り橋から増改築を5回、24年の歳月を経て、初めて両岸がつながりました。部分的な架け替えにより、幅員が3m〜9.25mの間で4段階に広くなる特殊な橋梁であり、「筍(たけのこ)橋」などと呼ばれました。幅員の狭い区間は自動車のすれ違いができず、信号によって交互通行を行っていました。

最初の橋昭和33年 74m
増設年と総延長昭和43年 106.5m
昭和47年 253.3m
昭和57年 309.4m
昭和58年 354.5m
平成3年 471.8m
(永久橋化)
『千曲川・橋梁の今昔その1 冠着橋』(千曲建設事務所)より

「昭和50年代に入っても台風災害で斜路の流失被害を受け、工事のたびに桁橋が延長されていき」、最終的には、「平成3(1991)年、河川全幅に架かる橋が完成」したことが判明した。
また、一緒に掲載されていた表により、桁の増設が行われた年と橋長の変化も判明。最初の桁の増設は昭和47(1972)年で、次が昭和57(1982)年、58年と続いて、平成3(1991)年の“完成”まで4度に分けて行われていたことも分かった。あと、

「たけのこ橋」は草wwww

このように非常に有用な情報が得られたものの、各次の増設の経緯については、「昭和50年代に入っても台風災害で斜路の流失被害」が挙げられているのみで、細かい事情が分かる内容ではなかった。
これについては他の資料を探す必要があった。
そして見つけ出したのが、昭和46(1971)年2月に全国防災協会が発行した雑誌『防災 通巻261号』の記事であった。

こっから、千曲川の底みたいに深いところへ、潜っていくぜぇ……


A冠着橋
千曲川によって二分されている戸倉町は左岸寄りの流心部に3径間106.6mのみを橋梁として残部は河床道路として通行して来たが、昭和45年6月14、15日梅雨前線豪雨による出水のため数十年来変化のなかった河川の中心部に約50mの巾で新しい流路が出来て交通不能となったものである。
この復旧のためトラス橋3径間延長150mと取付木橋斜路橋48mが申請された。

文章/画像とも『防災 通巻261号』(昭和46年)より

ここに記載されている出来事は、『千曲川・橋梁の今昔』に記載された4回の増設の1回目である昭和47(1972)年に行われた増設の経緯である。
この増設の切っ掛けは、昭和45(1970)年6月の豪雨であった。このときにそれまで左岸寄りのトラス桁の下にあった流路が変化し、地上道路であった部分が新たな流路になってしまった。そのため交通不能となり、桁の増設が不可欠となったのである。
河川敷内に降りてしまう橋の大きな弱点が、このような流路の変化に弱いことだろう。

この非常事態を受けて、県は新たな流路を横断する3径間(合計150m)の増設を計画し、災害復旧事業の適用を求めて国に申請を行った。
その結果、最終的に増設が行われるのだが、ここで紆余曲折があったことが、次のように述べられている。

災害査定においては大蔵相立会官より「(1)出水が警戒水位に達していない」「(2)河床道路は本来流失する可能性が高い道路でありこれが流失したとして橋梁に、更に河川管理施設等構造令(案)をふまえての永久橋化には疑問がある」との主張があり、建設省査定官は、「(1)については警戒水位を決定した時点より現在までの河床低下の状況は著しいものがあり、当時警戒水位に見合う流量は(云々かんぬん……略す)であり問題はない」。(2)についても現在河川管理についてその基本となるものが構造令であり、たとえ(案)の段階であっても実質的にこれによって許認可の行為が行われているのであれば当然これに従うべきであるとした。しかし(3)として、今回の復旧において川幅の約半分250m程度が橋梁となった場合、更にその延長を考えることになるが、巾員3mでは現在でも橋梁の長さに比して、対面交通不可能、緊急時の避難等の理由で著しく狭少であるので他費(災害復旧費以外の予算)の合併等の措置によって拡巾を行うべきである」と主張して両者意見不一致のため保留となったのである。

『防災 通巻261号』(昭和46年)より

ややこしいことがいろいろ書いてあるが、大雑把に要約すると、県が国に申請した災害復旧計画(巾3mのトラス桁を3径間150m増設する)を巡って当時の大蔵省と建設省の見解に相違があったために、事業の採択が一時保留になったということだ。

そして重要なポイントとして、ここで本橋の増設部分の幅員が変化した原因への言及が初めて見られる。

災害復旧事業の原則は、「原形復旧」である。
これは、被災した施設の機能を同程度に復旧することを指す。
そのため、幅3mのトラス橋の機能が災害で失われたのであれば、同じ幅のトラス橋を増設することを県は申請したのだと思う。

だが、例外的に「改良復旧」が認められるケースもある。
それは再度の災害を防ぐためであるとか、現在の基準に合わせるためであるとか、物理的に原形での復旧が困難な場合などが該当する。
この冠着橋のケースにおいても、建設省は幅員の部分で「改良復旧」を求めたということになろう。


さて、この“バトル”の行方はどうなったのだろうか?
バトっている間は橋が架かっていない状況であり、住民はとても困っていたはずだ。早く決着してほしいと大勢が願ったことだろう。

保留解除において警戒水位については問題なく了解されたが、河川管理施設等構造令(案)の適用については災害復旧はこの構造令にも例外の規定があるのではないかとして長期間にわたり交渉を繰返した。一方拡巾については地方道課と協議を重ねていたが整備費による中間スパンの拡巾等の話がまとまり、これに合せて既設の施設につづく2径間は他費、河床道路流失部にかかる1径間と取付木橋は災害復旧事業での採択が決定した。

災害以降迂回による非常な不便を地元の方々におかけしたのであるが、戸倉町を二分する千曲川への架橋は地元の熱望であり、1日も早く工事が完成することを切望する次第である。

『防災 通巻261号』(昭和46年)より

記事はこのように実際の増設工事が行われる前に終わっている。

では、実際に架けられた桁がどうなったかというと……(↓)。


こうなった!!!

県が申請したのは3径間150mのトラスだったが、実際に架かったのは3径間(約)150mの鈑桁(プレートガーダー)であった。

……というだけなら大した違いではないが、幅員を見てくれwww

従来の幅3.0mの3径間に継ぎ足す形で、幅4.5mの桁が2本と、幅6.0mの桁が1本増設されたのである。

異なる幅の桁が同時に架設されていたとは、ぶっちゃけ正気を疑う!が、事実である。
この状況で前章の航空写真Bが写っていたし、前掲の『千曲川・橋梁の今昔』でも、昭和47年増設後の橋の全長は253.3mとあり、この図とぴったり合致する。

このうち幅4.5mの2枚の桁は国庫負担の災害復旧費ではなく地方費で架設され、幅6mの1枚の桁とスロープ橋部分だけが災害復旧事業で架けられた。

それぞれ異なる幅員を選択した思惑を明言した文献は見当らないが、国庫補助による災害復旧部分では理想的な6m幅員としつつ、地方費による架設部分では従来の幅3mと理想的な6mの折衷案として、(将来の腹付け拡幅も念頭に置きつつ)4.5m幅員として支出を抑えたのかもしれない。

腹付け拡幅を考えていたことの名残と私が考えているのが、現地で仰天したP7やP6に対する桁の偏った設置位置だ。
本橋の橋脚はP8〜10は昭和43(1968)年当初のもので、昭和47年の増設時にP5〜P7が建てられている。
このP5〜P7は全て同じ形の橋脚で、明らかに幅6mの桁に対応したサイズだが、実際に乗っている桁はG6だけは幅6mだが、G7とG8は幅が4.5mしかない。そして明らかにG7とG8は下流側への腹付け拡幅の余地を残すような偏った位置に乗せられていた。

しかし、G8を幅6mに拡幅するためには、既存のP8を建て替えるか大幅に改造する必要があるので、大事業とならざるを得ず、結局この橋自体が架け替えられる最後まで幅4.5mや3mの桁が温存されたのだと思う。


……やや想像に頼る部分もあるが、これで本橋に3種類の幅の桁が同居することになった理由は説明が出来たと思う。
災害復旧という緊急的な状況下で桁の増設を行う際に、県と国の間で復旧方法について意見が割れ、その折衷案として、桁ごとに異なる事業で復旧を試みた名残が、異なる幅の桁だったのだ。

もちろん、より時間をかけて議論を深め、あるいはコストもうんと掛けて、より万全な橋として復旧させる選択肢もあったのだろうが、諸般の事情でそれは選ばれなかったということだと思う。
常に万全な選択肢をとれるような余力が地方道路行政にあるわけではない。
たまたまそれが本橋では橋桁の幅という露骨な形で露呈したのだと思う。

以上が、本橋の1度目の桁増設である昭和47(1972)年のエピソードだ。
記録によれば、次は昭和57(1982)年に幅6mの1径間が下図のように増設されることになる。

このときの事情については、残念ながら記録が乏しいが、信濃毎日新聞社が昭和58(1983)年に発行した『信毎年鑑 1984年版』に、この年の戸倉町の主な出来事として、「56年台風で流失した冠着橋の復旧完成(57年8月)」の一文があった。
これが『千曲川・橋梁の今昔』に言及があった「昭和50年代に入っても台風災害で斜路の流失被害を受け」という出来事だろう。


 『戸倉町誌』による追記シリーズ(3)
2025/7/14追記

昭和57(1982)年に行われた2度目の桁延長時の経緯について、『町誌』に僅かだが新情報があった。

昭和56(1981)年7月、8月
台風15号、16号集中豪雨増水、木橋流失、通行禁止

昭和57(1982)年8月13日
合成桁橋に接続永久橋(合成桁橋)長さ49.6m、幅6m竣工

『戸倉町誌 第3巻 歴史編 下』より

昭和56年の7月と8月に相次いで襲来した台風による増水によって、またしても木製スロープ部分が流失したことで、復旧として1径間の延伸が行われたことが記されている。
被災からの延伸復旧という経緯からして、昭和45(1970)年の被災時と同じく、災害復旧事業を活用して「改良復旧」が行われたのだろう。


そしてなぜか(なぜだ?)、2年連続で翌昭和58年にも1径間、幅6mの桁が延伸されている。

さすがに1年刻みというのは忙しすぎて、斜路を設置解体する時間や手間も無駄な気がするが、『千曲川・橋梁の今昔』に掲載された図では57年と58年で斜路の位置が変わっているようになっていたから、実際そうなのだと思う。
そして、幅6mの3径間が11年越しに勢揃いし、合計8径間となった状況を撮していたのが、航空写真Aであった。


 『戸倉町誌』による追記シリーズ(4)
2025/7/14追記

昭和56年の台風増水による木橋流失から、57年に1径間を延長のうえ復旧した本橋だが、翌58年にもさらに同じ幅、同じ長さの1径間を延長している。
この出来事の理由が従来は不明であり、わざわざ1年ずらしで1径間ずつ延伸した工事の非効率さは大きな謎だったが、この昭和58(1983)年に行われた3度目の桁延長時の経緯についても『町誌』に記載があったので紹介する。

昭和58(1983)年9月27日〜28日
台風10号による増水、木橋流失

昭和59(1984)年7月28日
合成桁橋に接続永久橋(合成桁橋)長さ49.6m、幅6m竣工、取り付け木橋長さ90m、幅3m竣工

『戸倉町誌 第3巻 歴史編 下』より

2年連続の延伸というのは正しくなく、実際は、昭和58年9月の台風で前年8月13日に竣工してからわずか1年強の木橋部分が流失したことの復旧として、翌59年7月28日に永久橋1径間延伸&木製スロープ橋が完成しているので、なか1年をあけた延伸完成ということになる。

それでも、昭和56年に続いて58年にまた木橋部分が流失しているというのは、全く以て学びを感じない悲しい出来事だ。
それもこれも河川敷に降りるスロープ部分が木橋であるという構造的欠陥に原因があるのであって、その都度永久橋の部分を1径間ずつ伸ばすことで木橋部分が河心より遠のくような対策はしているが、根本的に木橋では万全な対策とはいえなかったのだろう。

そうは言っても、そうせざるを得なかった事情があったのだと思う。
その事情についての言明はないが、単純にコストの問題かと思う。国庫負担による災害復旧事業の原則はあくまでも原形復旧。しかし再度災害防止の観点から改良復旧は認められ、そのため1径間の延長が行われるが、それ以上の延長となると過大という判定になったのではないかと思う。
そんなことが地道に愚直に繰り返されたのだ。

また、これも地味に新情報なのだが、平成3(1991)年の完全永久橋化直前まで残っていた本橋の木製スロープ橋部分は、最後まで幅は3mしかなかったらしい。
木橋というだけでも驚きだが、幅3mというのもキツイな。やはり交互通行規制が行われていたのだろうか。
当時の写真は未発見だが、そう昔のことではないから映像を含めて残っている可能性は高い。どなたかお持ちではないだろうか。


それから8年後の平成3(1991)年には、最後の3径間が幅9.25m(車道幅員7.3m)で増設され、本橋は初めて斜路と河川敷内の通行から解放された。
この出来事を『千曲川・橋梁の今昔』は“永久橋化”と表現していた。斜路部分が代々ずっと木橋であったから、その解消が本橋全体の永久橋化に繋がったのである。

この最後の増設延伸工事でも、またも幅員の異なる桁を用いている。
どのような事情があったのか大いに気になるが、やはり直接的に言及した資料は見当らない。
これまでのように災害が絡んでいて、「原形復旧」ではなく「改良復旧」が認められたパターンなのか、はたまた初めて災害事由でなく県が自らやる気を出して、地方費で整備したものなのか。
これについては残念ながら今のところ謎である。

謎であるが、あくまでも余談として、昭和53年に発行された『頬白が歌っていた四月十六日』という本には、本橋についてこんな挿話があった。
曰く、「いつの頃からか、選挙のたびに巷の噂話になる橋で、選挙橋と呼ぶ人もいるそうだ」……と。
誕生以来ずっと万全な姿ではなかった本橋だけに、その改良という公約は、票田を欲する政治家たちの道具にしばしば担がれたように想像できる。

思うに、平成3年の永久橋化や、さらにその20数年後に行われた万全な新橋への架け替えには、政治の力が大きく働いたのだろう。
一般論だが、土木技術の進歩は、自然の猛威による突発的な橋の改良の機会を減らした。相対的に政治の力が橋の行方を決めることが増えたと思う。そしてこうなると、あまり文献に経緯が見えることがなくなるのだと思う。誰という政治家の力で改良されたというエピソードは、読む人を選びすぎるきらいがある。


 『戸倉町誌』による追記シリーズ(5)
2025/7/14追記

『町誌』による追記シリーズのラストとして、冠着橋が平成3(1991)年にようやく永久橋化した経緯について、少しだが背景の政治的な動きについての記載があったので紹介しよう。

冠着橋の永久橋化は、米沢嘉久太町長のころからの課題で、建設費の問題から内川須坂線の県道編入が先決となった。昭和39年、県議会で同路線の県道編入請願が採択されたが、むずかしい編入条件の問題があり、米沢県議会議員はそれを克服し実現できる道をさぐった。49年に内川須坂線は県道に編入されたので、平成3年に冠着橋の永久橋化が完了したのである。

『戸倉町誌 第3巻 歴史編 下』より

冠着橋の永久橋化実現は、米沢嘉久太町長時代からの課題とされているが、『年表戸倉町の今昔』によると、米沢嘉久太氏は昭和26年に後の冠着橋架橋地点の右岸である五加村の村長に就任した人物である。その後、昭和30年に対岸の更科村などとの合併によって新たな戸倉町が成立すると、すぐに同町初代町長に就任。昭和33年の初代冠着橋の完成を見届けた後の34年に県会議員選挙に当選し町長を辞任していることが分かった。

当初は町道内川須坂線の橋であった冠着橋の永久橋化には県道への昇格が先決とされ、難しい編入条件の問題の解決を県会議員となった米沢氏が模索し、昭和49(1974)年に見事昇格が実現した。このことが平成3年の永久橋化達成に結びついたということだから、町誌の記述を読む限りは、冠着橋の歴史における最大の功労者はこの米沢嘉久太氏と言えそうである。

なお、彼の名前で検索をすると、地元更級地区の情報サイトにあるこのページがヒットする。
曰く、初代冠着橋完成当時、住民を対象に橋名の公募が行われ、その中では「嘉久太橋」の応募が最も多かったとのことだから、当時から本橋の実現に対する大きな功労が広く知られていたのだろう。




冠着橋の歴史 (3) 冠着橋の今
現在の橋は平成19(2007)年に工事着手、26(2014)年11月に供用を開始しました。延長は844.4m(橋梁区間475.3m)、全体幅員10.75m、車道幅員6.0m。塗装の手間がいらない耐候性鋼材を用いた橋桁、ケーソン基礎とよばれるコンクリート製の柱を10m以上埋設した基礎橋脚、落橋防止装置などの耐震構造など数々の技術的な特徴を有しています。
旧橋は撤去工事を平成27(2015)年から開始し、6年間で完了する予定です。河川内の工事であり出水期の施工を避けるため、工区を区切り、橋桁、橋台、橋脚などを段階的に撤去しています。

文章/画像とも『千曲川・橋梁の今昔その1 冠着橋』(千曲建設事務所)より


変態にも、変態の事情があった。

まだその全てを解き明かしたわけではないが、私の持論として、公共物である土木構造物の“謎”には全てに“答え”がある……というものがある。
もちろん、その“答え”が全て納得のいくものとは限らないし、そもそも答えに辿り着かないことはたくさんあるが、公共物は大多数の納得を土台に作られるものであるから、その時の多数を納得させるだけの理由は不可欠なのだ。
だからこそ、調べ甲斐があると思う。


(↑)おまけ。
本橋の全ての供用段階を1枚の画像に重ねてみた、その名も冠着橋時層図。





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