魔の橋 (旧松峰橋) 

公開日 2006.01.13
探索日 2005.10.29

 秋田県、特に県の北部に長くお住まいの方ならば、1960年代に嵐のように巻き起こった『黒鉱ブーム』というのを覚えておられるだろう。
これは、当時既に秋田県第二の都市であった大館市の北部にて、銅や亜鉛を多量に含む、『黒鉱』と呼ばれる鉱石の埋蔵が発覚した事による、日本版のゴールドラッシュと言える。
 当時真剣に、“埋蔵量は無尽蔵”と言われた巨大な鉱床は、市街地にかなり隣接したそれまで単なる水田だった場所や、小山の地下にも埋蔵していることが明らかになり、瞬く間に一帯には大鉱山街が形成され、それまでの大館市の中心部さえ多少北側に引っ張ってくる程の勢いだった。
松峰鉱山、釈迦内鉱山、深沢鉱山、松木鉱山、餌釣鉱山などが大館市街地を取り囲むように相次いで開発され、もとより鉱山の多い地域柄もあって、秋田県北部全域を巻き込んでの大盛況となったわけである。
 しかしその後、鉱業界の経済構造の変化などにより、黒鉱はなお大量の埋蔵を残すと言われながらも開発は縮小の一途を辿り、ブームは終わりを迎えたのである。

 だが、地下に張り巡らされた坑道や、大量に汲み上げられた地下水は、開発が一段落した後にも一帯の環境に大きな傷跡を残すことになる。
地盤沈下の問題である。
特に、松峰鉱山などは市街地や田畑の直下を掘っていたものだから、その被害は甚大であった。

 あまりの沈下に、それまでの松峰集落の全戸(約100世帯)が集団移転の憂き目に遭うほどで、地区の中心を流れる下内川に架かっていた松峰橋でも、前代未聞の改良工事が行われた。

 それは、それまでコンクリート製であった橋を、より重量の軽い木橋へと掛け替えるという、まさしく時代に逆行する、珍事であった。
無論、地盤沈下のためにコンクリート橋に倒壊の恐れが発生したためで、掛け替えられた木橋は一応「仮橋」という体裁だったが、僅か幅3mで、バスもまともに通れない橋になってしまった。
周辺の集落は移転で消えてしまったが、それでも、住人にとってはショックな出来事であったに違いない。
これは昭和57年のことだ。
並行して、新しい松峰集落の近くに現在の県道である「新松峰橋」が架けられ、この橋は当初からコンクリート製で、現在も利用されている。

 松峰鉱山は、平成6年に正式に閉山となり、その後平成13年には、県によって「地盤沈下は納まりつつある」との終息宣言が出された。
その後、鉱山側は、住民に対し補償の一環として、仮橋のままとなっていた松峰橋を、再びコンクリート製のものに架け替える事となった。
そして、遂に平成17年10月、木橋の隣に新しい松峰橋が完成し、ひとまずこの橋の数奇な運命に終止符が打たれたのである。

 だが、低下した地盤や、失われた集落が蘇らぬのとともに、木橋の為に失われた大きなものが、他にもあった。

 人命 である。

 市街地に架けられていた木橋は、それと知らぬままに通っただろう運転手の命を、下内川に流してしまった。
木製の橋は雨ともなれば大変滑りやすくなり、橋の前後の線形も良くなかったことから、幾度となく車が転落する事故が起きた。
そして遂に、死人まで出てしまったのだ。

 住人たちは、いつしかこの橋を 『魔の橋』 と呼んだ。

新橋の開通を伝える新聞記事などには、そのように記されていた。


「魔の橋」 と呼ばれた橋

本当に、魔の橋なのか?!

05/10/29
17:28

 まだ、午後5時半なのだが、すっかり辺りは真っ暗になってしまった。
別に、「魔の橋」だからって、肝試し感覚で夜に来たわけではなく、新聞記事に拠れば、新橋の完成後すぐさま旧橋を取り壊すような話だったので、曰わく付きの橋を撤去の前に見たいというそれだけのことで、他の用事のついでに立ち寄ったのである。

 そして、確かに地図に従って現地へ進むと、そこには真新しい松峰橋が架けられていた。
銘板に拠れば、竣功は平成17年10月、まさにこの探索の数日前である。



 旧橋の姿を私は見たことがないが、新橋は至って普通の、ただ真新しいと言うだけの橋である。
橋の名前は「松峰橋」で、旧橋と同じ名前になっている。
 旧橋を木橋に架け替えた際に、代替ルートとして西に500mの下流の位置に架けられた橋が、「新松峰橋」の名前であり、向こうは以来、県道の橋として利用されつづけている。

 めっきり通行量も減った旧橋ではあったが、事故は絶えなかったという。



 橋を渡りきると、間もなく取り付け道路の真新しい道に、狭いアスファルトが合流してきた。

 こっちが、おそらく旧橋であろう。
そう考えて、私と細田氏の二人は、150度ほど後方へと続く、狭い道へと入った。
入ってすぐに、車止めが置かれており、すでに通行止めとなっていた。

 それにしても、辺りは暗い。
雨のせいもあるだろうが、30年くらい前には至る所に鉱業所の施設が建ち並んでいた一帯とは、とても思えない。
また、一面の水田にしても、かつての松峰集落の家々が並んでいた場所を含んでいる。
集落自体が移転により消えてしまって久しい。



 手持ちライトの明かりが照らし出した先には、幅4mほどの道が真っ直ぐ続いていた。
デリネーターの反射材が、猫の目のようにギラギラ輝いていた。

 そして、光に浮かび上がるように、一枚の看板が見えていた。


橋の袂に残されたままの看板には、『危険 魔の橋、せまい、すべる 死亡事故多発地帯』の文字が…。

 まだ暗さに目が慣れないせいか、光を一身に受け反射する看板ばかりしか見えず、周囲の様子が今ひとつ掴めない。
ただ、別に変わった場所ではなく、右も左も草地のようだ。
20mほど右に行けば、新道がある。

 なにやら、異様に存在感のある看板には、どうやら、「危険」などと書いてあるようだ…。



 ぎゃー!

ほ、
本当に、あったんだ…。
魔の橋って。

 普通こういう表現って、“喩え”だよね…。
新聞を読んだ段階では、おそらくそういうことだろうと思っていたのだが…。


魔の橋、せまい、すべる
死亡事故多発地帯
交安釈迦内支部・駐在所

 ここまで単刀直入に書かれていると、本物だって感じがするな。
普通なら、自分たちの住んでいる場所の近くに、こんな縁起でもない看板を立てておきたいなんて、思わないよね。
それでも立っているというのは… … やはり、本当に危ない橋だったのだろう。 警察署公認の看板のようだし…。

 そう考えるしかない。

 それにしても、受験生がたまたまこの道通っちゃったら、落ち込むだろうなー。


橋の袂に来たが…、バリケードが並んでいる。

 で、そのまま進むと少し上り坂の先で、いよいよ橋が現れ…


  あれ?


川面に照らし出された橋脚の列。肝心の橋桁は、なんともう撤去済みだった!

 橋がない!

 や、やられたー!
一歩遅かった〜!


 まだ、新橋の開通式から2週間も経ってないのに、既に旧橋の撤去はこんなに進んでいたのである!



 一体何が、ここまで橋の撤去を急がせたのか?

 川面に立ち並んでいたのは、主を失った橋脚の列だけだったのである。
その橋脚はコンクリート製のようで、旧橋が木橋だと言われていたのは、どうやら軽量化のために橋桁のみ木製に代えたと言うのが本当のところのようだ。

 しかし、地盤沈下との関連性は分からないが、橋脚は不思議な形をしている。
まるで、2階建てである。
その2階部分は、二つに分かれており、おそらく狭い方に歩道、太い方が車道だったのだろうか。
また、橋脚同士の間隔もかなり短く、対岸までの100m足らずの距離に、見たところ5本くらいの橋脚が並んでいる。
これなどは、少しでも局所的な地盤沈下に耐えるための改良の跡かも知れない。

 対岸の釈迦内地区の人家の明かりがうっすらと並んで見えていたが、その前に広がる静かで淀んだ川面は、圧倒的な隔絶をイメージさせるものだった。
魔の橋だと言われなくても、なんとなく、陰湿な雰囲気は湛えている。



 再び新橋に戻り、橋の上から旧橋を見る。

 地盤沈下のために、未だに河川敷などが水に沈んだままであるという下内川は、流れが全く感じられないほど緩やかだ。
そして、淀んでいる。

 そんな沼のような川面の上を、淡々と立ち並ぶ白骨のような橋脚の列。

 細田氏と二人で、「なんか、気持ち悪いな」を連呼したのは言うまでもない。



 釈迦内側(南側)の袂は、さらに橋の撤去が進んでいた。
橋台すら既に無く、旧橋への取り付け道路はアスファルトが剥がされ、砂利が敷かれて別の用途に転用されるような感じだった。


 確かに、この地域にとっては負の歴史的構造物だったのかも知れないが…。

 まるで人目から隠そうとするかのように、ここまで急いで撤去を進める真意は、一体何なのだろうか?

 道路遺跡には、技術の進歩や人々の結束を今に伝える、誇らしく、また地域に愛される遺跡が数多くある一方、
このように、憎まれ役に徹したままに、おそらく感謝もされず最期を迎えるものがあるのだと言うことを、知った。





 左の写真は、新聞から転載したものだが、いま私が知りうる、唯一の、木橋だった松峰橋の姿である。

 確かに、欄干や橋桁は木製だったと言うことが分かる。


 公害により住む者が無くなった、その20年後にやっと架け替えられた、「魔の橋」。


  おつかれさまでした。