橋梁レポート 旧鳥坂大橋 序

所在地 秋田県北秋田市阿仁
探索日 2009. 11.14
公開日 2009.11.17


確か今年の8月7日だったと思うが、ミリンダ細田氏から電話がかかってきた。
そのときの彼の興奮ぶりと来たら、暑い盛りでぼうっとしていた私にとっては唐突すぎて、訳が分からなかった。

だが、よくよく聞いてみると…

どうも彼はまた、見つけてしまったらしい。


彼自身が愛して止まない、恐ろしい廃橋を。





なんでも、この電話の前に一人で行って見てきたが、

あまりの恐ろしさで、渡れるのかどうかを確かめもせずに逃げ帰ってきた…(本人談) らしい。





話の経緯は、以下の通りだ。

彼の地道な聞き取り調査が実を結び、森吉森林鉄道の「3号橋梁」を撤去した業者が判明したという。
そのことも初耳だった(遊覧船航路の安全確保のために平成9年に撤去されたことは知っていたが、具体的な担当者や工事方法は長らく謎だった)のだが、 彼はその日のうち(つまり当日)に、さっそく撤去工事を担当した地元の某建設会社への“取材”を敢行。
「3号橋梁」の撤去工事について、長年知りたかった事情をいろいろと教えて貰うことに成功したという。

これだけでも十分な成果だったのだが、話はそこから一気に飛躍する。

その会社が担当した「橋梁撤去工事」は3号橋梁だけではなく、いままで様々な廃橋の撤去を行ってきたという。
そしてその中にひとつだけ、一度は撤去を計画されながらも、あまりに工事が大変なため割に合わないということで断念されたものがあるというのだ。

「だから“その橋”はいまも残っているのと思う」。

そう教わって現地へ行った細田氏が、その通りに見つけたのが今回の橋だった。



彼にぬかりはなく、さらに“その橋”にまつわる幾つかのエピソードを聞き出していた。

橋は鳥坂川の深い谷に架けられた鋼鉄製の吊り橋であり、木材を満載したトラックも通行することが出来た。
営林署が林道として建設したもので、いつからあるかは分からないが、撤去が検討されたのはいまから30〜40年も前(※これは勘違いっぽい…後述)だった。
廃止直前は老朽化が進み、4トンの重量制限を設けていた。
冬期間でも営林署の職員が除雪し、通行を行っていた。

そして極めつけのエピソードが…


ある年の冬、営林署の主任だった某氏がバイクで橋を渡ろうとした際に、ハンドル操作を誤ったのか、バイクもろとも欄干を突き破った。
バイクはそのまま数十メートル下の谷底へ落ちたが、主任はギリギリのところで橋の外側にぶら下がるように止まった。
だが、その状態から自力で這い上がることが出来ず、助けを呼んでも誰にも届かず、しばらくは耐え続けたが、遂に力尽きて落ちた。
しかし主任は奇跡的にも骨折をしただけで生還した。

落ちて死ななかっただけでも幸運と、皆が認めるような橋。

専門の業者でさえ、撤去を断念した橋。


それは、これまで我々が「何も無かろう」と侮って入り込もうと思わなかった、ある行き止まりの林道の途中にあった。


【周辺地図(マピオン)】

“その橋”の名前を、細田氏は聞いてこなかったのか、興奮していて伝え忘れたのか、ともかく私に橋の名は伝えられなかった。
そして、現地にも“その橋”の名を表示したものはなかったのだが、隣にある架け替えられた橋の名が「鳥坂大橋」なので、旧橋は「旧鳥坂大橋」と見て良いだろう。

北秋田市阿仁幸屋渡字鳥坂の国道105号旧道から南へ、阿仁川の支流鳥坂川を遡って太平山地の奥深くへと伸びる鳥坂林道。
「鳥坂林道の途中にある橋」とだけ聞いても、おおよそ場所を間違えることはなかったように思う。
この林道に大きな橋が想定されるのは、入口から約2km地点で鳥坂川を渡る一箇所だけであるから。

しかも、いままで気に留めなかったのが不思議なくらい、怪しい“橋影”は明瞭に最新の地形図にも現れていた。

ごく近接して、2本の橋が描かれている!

このうちのどちらかが、廃橋になった旧橋に違いなかった。







最後に、細田氏が電話を切ってからすぐに私へ送ってくれた「旧鳥坂大橋」の映像を御覧頂こう。
彼が興奮に震える手に携帯電話を持って撮影したものだ。






正直、この画像では解像度が低く(掲載したのが元サイズ)、全体像が掴みきれない。
そのせいもあって、私は彼の普通ではない興奮…、特に「渡れない。渡ろうとも考えられなかった。」という発言を、少しだけ大袈裟に思った。
一人で行ったから、臆病になってしまっただけじゃないのかと。
少なくとも私と居るときの彼は、橋に対して(時には私に引けを取らぬほど)貪欲である。
その事を知っている私は、惰弱に過ぎるように見えた彼の発言を、我が事のように悔しく感じたのだった。

彼の十分すぎる成果(情報収集の達成)を十分に労う事も出来ぬほど、私の心は(彼が橋を前にそうであったように)また乱れた。



彼のする話を聞き、送られた画像を見る限り、橋はいまも十二分に頑丈そうではないか。

トラックは無理でも、人が歩くくらいどうって事はないはずだ。

踏み板がすっかり無くなっている… と言うわけでもないようだし。



2009年11月14日、私と細田氏と北秋田市在住の合同調査隊古参メンバーの一人“HAMAMI氏”の3名は、2台の車で現地へと向かった。
“その橋” の 真の姿 を、確かめるために。


雨夕のアプローチ



2009/11/14 14:56

目的地である橋の袂まで車で入ることが出来るとのことで、特にアプローチについて問題はない。
遅めの昼食をとってからおもむろに車を走らせ、鳥坂林道の入口がある鳥坂地区に架かる「鳥坂橋」へとやって来たのは、この時期だと既に暮れの時間と言っても良い午後3時前だった。
しかも生憎の雨模様であったから、薄暗さは相当だった。




千島隧道(読みは不明)の北口である。

この隧道の印象は、人それぞれだろう。

コンクリート製の隧道であることは万人に共通する認識であろうが、目ざとくアーチの飾り模様を見つけて、或いは苔や雨水の汚れを評価して、“味のある歴史的隧道だ”とする人もいるだろうし、逆に気味の悪いみすぼらしい隧道だと非難する人もいるだろう。
地域が誇る隧道というよりは、どうやっても無ければ困る生活の道具。
現役ながらひどく草臥れた姿に私はそんな印象を受けた。

ともかくこの稲又へ近づくためには、こんな感じの風体をした隧道を5本はくぐらなければならない。
そしてこれがその5本目である。
それだけのことだが、こんな隧道を5本というのは、年中生活者にとっては確かに心の負担になりそうだ。




全長は約120mだが、照明が一切無いことと、1車線分の幅しかないせいでかなり長く感じられる。
前後が急なカーブになっていて見通しが悪いので、車で進入する場合には先にクラクションを一度鳴らし対向車の有無を確かめるというのが、この道のローカルルールである。(看板もある)

また洞内には一部、素堀にコンクリート吹き付けだけを施していると思われる区間が残っている。




こんな古風な風体をしているから、林鉄時代の転用隧道かと疑いたくなるが、それは半分正解で、半分は不正解である。
金属製の銘板には、「昭和40年3月竣功」と刻まれており、これは稲又林鉄が全線廃止された翌年である。

林鉄は雨畑集落の南外れ、現在の県道の起点附近に(起点の)土場があり、そこから2本の隧道をくぐって稲又谷沿いの「稲又事業所」に達していた。そこからさらに上部軌道が云々…というのは本編と関係ないので忘れてもらうとして、ともかく雨畑〜稲又間の約4kmの林道の大半は、昭和20年代に敷設されて一時はガソリンカーが行き来した軌道跡に作られている。
そしてこの千鳥隧道ももう一本のよく似た八森隧道も、軌道時代は(おそらく)素堀であったものを、車道改築時に拡幅改修したのが現在の姿である。
それ以外の3本の隧道もまたよく似ているが、それらは軌道とは無関係であったらしい。




ややカーブした出口付近。
車が止まっているところは旧道とかではなくて、工事車両の待避所(駐車スペース)だ。

ところでこれ、“橋梁レポ”だよな?
間違ってないよな?

ご安心下さい。
ここまではバックグラウンドの紹介でした。
隧道を抜けると、すぐに今回のターゲットは現れた。


結構、衝撃的な…橋梁です。





隧道を抜けると眼前には、瓦礫ばかりで水のほとんど見えない稲又谷が広がった。

そして、そこに架かる前後…

というか上下? 


…ともかく、2本の橋。

1本は疑いない現橋、

もう1本は、…錆び付いた…。





廃ガーダー!



だが、
この橋の真の凄まじさは、まだ見えない。

1分足らず後、今度は“絶句”する。





近づいてみて分かったこと。

橋は、半分しか残っていなかった。

半分だけ架かっているのは、錆色をしたガーダーの桁である。
主を失った左岸の橋台は虚しく空を突き、右岸にそれに至っては、なぜか全く姿が見えない。

それでも、中央の橋脚から渡された桁が“架かっている”おかげで、地中に橋脚の隠れているだろう事は、想像出来るのだが…。

そんな、ナマヤサシイものでは、なかった。

これは…。







ナンカ、オカシクナイデスカ?





こ…こんなことが…





現実に起こりうるなんて…!!!


口で表現するよりも、見て貰うのが一番早い。

橋は確かに“架かって”いたのだが、桁は橋脚の上で“ヤジロベエ”を演じていた。


見に行かれるなら早めがいいと思われ」という言葉の意味は、まさにこれだった。


果たしてこの橋に何が起きたのか?
そして、その正体は??


次回、涸れかけた河原への下降と、禁断の接近を試みる。