補完レポート 旧柴崎橋 (西会津上野尻の大廃橋)

公開日 2009. 6. 9
撮影日 2008. 6. 2

平成18年に「西会津上野尻の大廃橋」として紹介したこの橋(→)を覚えておいでだろうか。

個人的には、これまででも一番か二番目くらいに怖い思いをしながら「体験」した橋だけに忘れがたい印象を持っているのだが、最近になって「西会津町史」を開いたところ、探索では分からなかった事実が発覚した。

平成20年の再訪時に撮影した写真(右の写真のみ初回撮影)とともに、前レポートを補完する事実を紹介したい。

※青わくの写真は、クリックすると大きなサイズで表示します。





 “最恐”廃橋に新事実発覚! 



本橋は、福島県耶麻郡西会津町の阿賀川に架かる2連のトラス廃鉄橋である。

この500mほど下流には、県道338号「上郷下野尻線」に指定される「柴崎橋」が、上野尻ダムの堰堤と一体化した形で架かっていることから、廃トラス橋は「旧柴崎橋」と見立てられたものの、現地ではそれがどのような経緯でいつ生まれた橋であるかという詳細については、不明のままであった。

上野尻ダムが昭和33年に完成した事に伴い廃止されたという証言を得たのみである。




遠目にも焼けただれたような赤褐色を呈し、岸に近い部分は緑の蔦(ツタ)に絡まれるなど、いかにも廃橋であることを意識させる旧柴崎橋であるが、近づくことで初めて、床板がすっかり無くなっている事を知る事になる。

それでも無理に渡ろうとすれば、前レポートのような怯えた醜態を晒すことなるし、当然命の保証は出来ない。

古老の証言によれば、廃止後暫くしてから危険防止のため、木製の床板を外したと言うことであるが、現在も多数の廃材が橋上に残されており、人為的な撤去は岸に近い部分だけと想像された。

外見的には鉄道用の鉄橋の用にも見えるが、車道として使われていたことは証言上間違いない。


なお、再訪時にはこの写真を撮影するため岸から10mほど進んだところで、満足して引き返した。
正しいオブローダーは、一度倒した相手に寝首をかかれるような愚かな真似はしないものである。 

…というのは盛大な負け惜しみで、ぶっちゃけ、「平常の心理状態」では、とてもこれ以上進むことは出来なかった。




それでは、本題である「西会津町史の新情報」である。

少々長くなるが、以下に転載しよう。
本橋に関する結論については、最後に改めて書くことにする。
架設に至る細かな経緯については読み飛ばしたいという方は、一気に最後へ行ってもOKだ。

明治25年、喜多方から山郷村を通り、小清水・平明・樟山・柴崎を経て上野尻に至る道が一等里道(後郡道)として整備・改修が実施され道幅1間半〜2間となった(旧喜多方・津川線、現県道上郷・下野尻線)。
同27年、滝坂・大下野尻間の架橋が計画されたが、完成直前に失敗した。
同33年から3カ年にわたって、陣ヶ峯から冨士・笹川・豊洲の道筋が改修され、自動車が通行する道幅に拡張された。陣ヶ峯・平明間の道幅は1間半で、それ以外は2間となったが、陣ヶ峯は危険で、柴崎から上野尻へは渡船のままで不便であった。
渡船は大正5年、柴崎集落の有志の経営から県営に移管され。それに伴ってケーブルで船を繋ぐ岡田式になり、渡船賃は無料になった。
大正14年、郡制の廃止によって郡道は県道となり、管理のために道路看守人が置かれた。
阿賀川の渡船は犠牲者もあって、柴崎橋の架橋は長年にわたる地域の悲願であったが、ようやく昭和8年12月16日で2年計画の事業として県会を通過した。架橋は、同11年5月に着工、同13年6月に竣功し、7月には完成祝賀会が催された。その工賃は9万8543円、様式は鋼構橋(プラット・トラス)で、延長は144.4m、幅4.35mである。
柴崎橋の完成によって新郷の交通事情は一変し、産業・経済はもちろん日常生活に大きな利便をもたらした。
さらに東北電力上野尻発電所の建設によって現在はその堰堤上を県道が通ることになり、もはや昔日の面影はない。

西会津町史 p.283より引用
(下線は筆者、漢数字→アラビア数字)



本橋は、昭和13年に竣功していた事が判明した。

前のレポでも「昭和10年代ではないか」という予測をしていたが、これは当たっていたことになる。

それにしても、本橋は結局20年しか使われずに役目を終えてしまったことになる。
それでも、戦時中を(鉄材として供出もされず)生き抜いた訳であるから、引用文中にもあるとおり、地域の交通事情を激変させる重要な県道橋であったのだろう。

本橋は戦前の構造物であることがはっきりしたので、近代化土木遺産の選定基準を満たすものである。
橋自体は特別な構造をしているわけでも意匠が特に優れているわけでもない、昭和10年代のプラットトラスとしてはおそらく標準的な姿と思われるが、大きな橋脚を介してPC桁橋に繋がり、その桁橋が欠損・傾斜崩壊しているという、廃橋ならではの極めて特異な景観を示している。

これだけ大型のトラス橋が、廃止から半世紀以上を経過してなお現地にそのまま架かっているケースは珍しく、地域の貴重な景観としてこれからも愛でられることを切に願うものである。



※本橋について残された謎は、まるで消失してしまったようなPC橋の欠損部分の行方である。
おそらくはダムが湛水し、また排水したりを繰り返すうちに河岸が削れ、川底に引きずり込まれてしまったのではないかと思われるが、現在のところ橋台さえ特定できていない左岸の状況は、なお一考を要する。