ミニレポ 第108回 国道7号旧道 山北町大鳥地区

所在地 新潟県山北町 
探索日 2006.08.12
公開日 2006.10.12

幹線国道の骨太な旧道 


 東北地方の日本海沿岸を縦貫し、青森と新潟を結ぶ国道7号。
通過する全ての市で、町で村で、その存在感を発揮している東北有数の幹線道路である。
特に、いまだ高速交通体系の恩恵に浴さない秋田〜酒田〜新潟間の環日本海地域において通行量は最も多く、昼夜を問わず常に車に充ちた印象がある。
実際、市街地を除いては殆ど片側1車線の道を、延々と列をなして道幅いっぱいに通行する夜間輸送のトラック便たちは、この道のお馴染みの景色である。

 その車列が南下するとき、秋田から続く長い長いシーサイドラインと別れ内陸へ進路を採るのが、鼠ヶ関で越後の国に入って間もなく、岩船郡山北(さんぽく)町勝木(がつぎ)である。
勝木から村上市までの約40kmは、朝日山地が海岸線に落ち込む海の難所「笹川流れ」を避けるように山中を進む、同路線随一の山岳地帯となっており、最高所の葡萄峠には長いトンネルがある。
この峠へ続く沢沿いの上り坂の途中に、今回紹介する山北町大鳥付近の旧道が残っている。

 このレポートでは、大鳥地区の旧国道ほか、近隣数箇所の道路名所を紹介しよう。






 まずは、大鳥旧道を紹介しよう。
上の地図の拡大図部分を見ていただきたいが、ここは延長1600mほどのミニ旧道である。
川の蛇行に逆らわず2つの小山のような線形を描く旧道は、そのまま2つの区間に分けることが出来る。
西側の上大鳥側は、上大鳥トンネルによって昭和60年に短絡化され旧道となった区間で、東の中津原側は昭和57年に笠取トンネルによって旧道化している。

 現道は、両トンネルとそれらを結ぶ橋とが直線的に続き、高速で通過する車にとって印象の薄い区間となっている。
山チャリの途中なら、迷わず旧道に入りたい。



 上大鳥集落の外れにある旧道分岐地点。
右正面は現国道の上大鳥トンネル(L=295m)だが、左折の旧国道もまた、それに負けない幅広の道をもって迎えてくれる。
ちなみに、交差点の向こうに駐まっている車は路上駐車だ。
国道を通る車が誰一人旧道に見向きもしないなか、私だけが引き寄せられるように左折した。

 ちなみに、左の木製の看板には、『桜並木の里 上大鳥』とある。
その意味を知る事が出来るのも、旧道を選んだ者だけである。



 旧道に入って最初に迎えてくれるのは、照明の取り外されたあとの照明灯の列。
錆が流れだしたような塗装が痛々しい。
また、威厳ある「建設省」の文字も、シールのような物で隠された痕跡があるが、今度はそのシールまで廃モノになっている。




 旧道に入ってすぐ、立派な橋を渡る。
2車線+両側路側帯の幅があり、しかも全体が緩やかにカーブしているなど、旧道らしくない近代的な橋だ。
しかし、センターラインなどが消えてしまっているためか、この幅の広さがかえって異様に見える。

 この橋は大鳥橋という。
銘板によると昭和41年11月竣功とあるが、カーブを描いた幅広の橋は当時として斬新な近代橋梁だったに違いない。
しかし、わずか20年足らずで呆気なく旧道にされてしまった不運な橋でもある。
ちなみに、これより以前の旧旧道の存在は確認できていない。



 平行する現国道の橋から大鳥橋を見る。
ぶ厚い剛床板が河床から近いこともあって、橋はどっしりして見えるが、滑らかにカーブしているところに技術的な洗練を感じる。
最低50年は保たせられる設計だったはずだが、実際には余命を多く残したまま主たる役目を終えてしまった。

 下を流れている川は、勝木川。
流長は短いが、朝日山地の清流が直接に海に注いでおり、鮎がよく釣れ、鮭も遡上してくるそうだ。
この先の旧道は、勝木川を繰り返し渡りながら上流を目指す。



 大鳥橋を渡ると集落は途切れ、山渓の景色に入る。
そこには、素晴らしい桜の並木道が続いていた。
真夏の桜の木にも、独特の風情があると思うのは、私だけであろうか。
軽やかな緑の葉が、川風に揺れていた。
夕暮れを間近にして白っぽく霞んだ山々との対比が、鮮烈な遠近感を持って目に飛び込んでくるのである。
緩い上りだが、それを気にせずにチャリを駆ければ、堪らなく気持ちが良い。
消えてしまったセンターラインも、路上の車たちも、この素晴らしい桜並木を際立てている。



 いまや、それなりに成長した桜の木々に隠され、存在感の薄くなった照明灯。
電気が来なくなって久しいはずだが、「節電中」の文字が寂しげだ。

 上大鳥集落の入口に掲げられていた“桜並木”とは、この旧国道沿いの桜並木の事だろうか。
おそらくは、まだ現役だった当時の旧国道へ、村の人たちが桜の木を植えたのだろう。
だとしたら、思いがけず早々と旧道になってしまったことを、どう思っているだろう。
期待はずれだっただろうか?

 だが、数十年後のこの道の姿を想像するとき、私はこれで良かったのだと思う。
排気ガスに弱い桜の木が、国道7号に耐えられたとは思えないからだ。
だが、このままにすくすくと育っていけば、やがて、本当に誇らしい桜並木がここに誕生することだろう。



 美しい桜並木を進んでいくと、無理のない緩やかなカーブを描く2つ目の橋が現れた。
これは、昭和41年竣功の不動橋である。
現道は右の対岸を真っ直ぐなトンネルで貫通しており、地上には静かな時間が戻っている。

 もし、これが天下の国道7号でなければ、まだまだ現役で通用していただろう。
それほどに、立派な道である。
されど、通る者も稀な旧道である。
そのギャップの大きさが、私の印象に強く残った。



 不動橋を渡り、再度右岸に取り付く。
短い距離で二度も勝木川を跨いでいる。
そして、ここから始まる長い直線にも、川べりに若い桜並木がある。
桜のシーズンには、どんなに可憐な景色となるのだろう。
車一台居ない幅広の道に、交通戦争の名残のような警戒色の標識が佇む。
それらを穏やかに包み込む深緑の木々。
もし“旧道百選”などという物があるのなら、私はこの道を推挙したいとさえ思う。




 直線区間が終わると、行く手に現国道が横切っている。
旧道はこれを掠めるようにして左へカーブし、再び離れていく。
この先は、これまでの区間よりも4年ばかり早く切り換えられた区間である。

 再び旧道を選び、進む。



 古いペイントの痕が路面に残っている。
この先は道幅が少し狭まり、今で言うところの三桁国道的な道路風景となる。



 いまもここに埋設されているのだろうか、電話線は。

 旧道敷きなどでよく見かける、年代物の電話線埋設の注意書き。
「村上電報電話局」というのが、いかにもだ。



 旧道区間後半戦にも、前半戦とよく似た配置で二本の橋が架けられている。
ただし、今度の二本は平凡な直線橋であり、しかも前後の道よりも橋上の道幅が狭いという苦しい橋だ。
見ての通り、その幅は2車線ギリギリしかなく、冬期間などはすれ違いに苦労したかも知れない。
また、歩行者は常に危険に曝されたことだろう。

 しかし、この後半の二本の橋には銘板が見られない。
そもそも親柱さえないという簡素さである。
これは、戦後の高度経済成長時代初期の橋によく見られた傾向で、おそらく昭和30年代後半に架けられたのではないだろうか。



 また、磨り減った路面のアスファルトの下に、橋上と地上部分との継ぎ目となる石材の存在を確認できた。
これについても古い道路橋特有の物で、最近の橋が、橋桁の継ぎ目に耐震性の高い隙間のあるジョイントを用いているのとは対照的である。
これを見ると、昭和30年代前半の線もあるかも知れない。
皆さんはどう考えられるだろうか?



 川の蛇行に合わせ、大きなアールの右カーブを迎える。
笠取トンネルを潜る現道とは最も離れる地点だ。

 このカーブには、内側に古タイヤのバリケードで区切られたエスケープゾーンがあり、これも最近の道では見られない光景である。
なんだか懐かしい景色だ。
(このこみ上げる懐かしさが、幼児期の遊園地かどこかでの体験が元なのか、当時の家族旅行の道すがらの景色が元なのかは分からない)



 カーブを過ぎると、再び長い直線区間を迎える。
こうやって、カーブと直線とがはっきり分かれた道路線形というのも、いかにも古い。
いまでは当たり前のように様々な道路で使われている緩和曲線(クロソイド)は、この新潟県と首都圏を結ぶ三国峠の新道工事で利用されたのが最初とされている。
それは、昭和27年のことである。
逆に言えば、そのような曲線が使われている道は、それだけで昭和27年よりも新しいと言うことも出来る。(もちろん局所改良されている例もあるが)

 ここに、94kmポストがそのまま残っていた。
これは言うまでもなく、起点新潟市からの距離である。



 直線の終わりが見えてくる辺りはもう、大鳥の次の集落である中津原だ。
まだ海岸線からは5kmほどしか内陸に来ていないが、もう周辺の景色は朝日山地の山間風景そのものである。
折り重なるような山々が、勝木川の両岸に迫ってくる。

 この旧道区間最後の橋が間近に迫る。
そこには、幅員減少を示す古びた標識が残されていた。



 また、こんな物もあった。
「スピード落とせ! 交通違反取り締まり実施箇所」とある。
この道が現役で、沿道の住人たちがその膨大な交通量を脅威にも感じていた頃のものか。
しかし、もう二度とこの道で交通取り締まりが行われることもないだろう。



 やはり狭く、そして銘板などの無い橋を渡ると、中津原集落の外れで現国道と合流する。
ゆったりとしたカーブを行けば、直線的な築堤が近付いてくる。
そこには、車たちが脇目も振らず突っ走っていくお馴染みの景色と喧騒があった。



 間もなく新旧道は合流する。
写真は合流地点を振り返って撮影。
旧道が勝木川の谷に吸い込まれるように入っていくのが、見て取れる。

 これにて、大鳥〜中津原間の旧道のレポートを終える。






 旧道の出口から700mほど国道を村上方面へ進むと、写真の洞門が現れる。
これは中津原洞門といって、いわゆる一つのスノーシェッドだ。
それ自体は珍しい物でもないし、当然現役バリバリの道路構造物なのだが、注目はその村上側坑口に取り付けられている、扁額だ。
これが、かなり変わっており目を惹く。



 ご覧の通りである。

 まるで、お風呂場。
青いタイルと白いタイルで色分けされ描かれた、タイル画が扁額代わりとなっている。


 そして、そのさらに300mほど村上寄りにあるもう一本の洞門、カリカ坂洞門もまた、同様の銘板に彩られている。

 この変わった扁額の印象は、レトロチック。
たしか、大正時代とか昭和初期の東京あたりの地下鉄駅の駅銘板などが、こんなタイル画だったと思う。
これらの洞門はどうみても昭和後半の構造物だが、これらの銘板がとても気になるのである。

 とまあ、こんなミニ発見を挟みつつ、いよいよ今回のレポートの最終報告となる明月橋に近付く。






 カリカ坂洞門からさらに600mほど村上方向へ進むと、国道は真っ直ぐの道のまま幅広の橋を渡る。
これが明月橋である。
現国道においては、全然印象に残らない、ただ、道が川を通過するというそれだけの場面だが、この橋の上から川上を見ると、すぐそばに小さなコンクリート橋が架かっているのが見える。
旧明月橋だ。

 この部分の旧道は、橋の前後合わせて200mほどの短い区間であるが、一応車も通行は可能である。
ただ、橋の健康を考えると、個人的にやめて欲しい気もする。
それほど、橋は傷んでいるように見える。



 3スパンの単純な桁橋であるが、見るからに古橋の風格がある。
また、周囲の風景にとても良く溶け込んでおり、旧道化して相当年を経ているだろう事を含め、価値深く感じられる。
まるで物語の中に出てきそうな橋ではないか。



 銘板には、現道と同じ名前であるが格別に風流さを感じさせる文字で、その名が刻まれていた。
なぜ、この橋が明月橋などという名前となったのだろう。
今はこの周囲に民家がないので集落名と呼べる物もないのだが、かつてはこの辺りが明月という地名だったのだろうか?
国道がいよいよ峠越えへ向けて進路を90度転換する北中地区は、もう1km先に迫っている。

 橋名とともに現存する銘板は、「昭和十年五月竣功」と読めるが、文字が掠れ、昭和の後の一文字はちょっと自信がない。
いずれにしても、昭和初年台の竣功と、この近隣では最古参の現存橋である。
早い時期に永久橋に架け替えられたということは、それだけこの道の重要性が当時すでに高かったという証しである。
おそらく、この橋が架けられる以前は木橋だったか、ルートそのものが川を迂回していたのだろう。



 もはや人間相手くらいにしか落下防止の役を果たさなそうな欄干。
長年の風雪に耐え…というか、耐えるも何も自然に削られ続けている雰囲気だ。
だが、そこがまた愛らしくもある。



 真新しく見える現橋。
最近になって回春工事が行われたようである。
勝木川の清澗に足を付けようともしない現橋と、その優しさも、厳しさも、2本の脚でしっかりと受け止めてきた旧橋。
その風格の違いは、明白である。



 これが、押しも押されぬ幹線国道が見せた“昔の顔”である。
旧道歩きの醍醐味と言える意外な発見、その歓びと哀愁に充ちた景色であった。

なお、「山行が」の原点的な旧道レポートは、かつて私に旧道歩きの楽しさを教え、現在のサイト運営の方向性を授けてくださった旧「クアトロ秋田」サイト管理人で、その後「あきた鉄道ミュージアム」サイトを運営なされたキヤ191-2氏に捧げます。
「クアトロ秋田」「あきた鉄道ミュージアム」とも作者多忙のため現在はありませんが、また共に語り合える日を楽しみにしています。







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