ミニレポ第126回  国道122号 沢入トンネル旧道

所在地 群馬県みどり市〜栃木県日光市 
探索日 2007.12. 7
公開日 2008.1 .14

 記念された片洞門




【周辺地図】  【拡大図】

 渡良瀬川に沿って関東平野と日光を結ぶ国道122号の大部分は、江戸時代後期に、江戸と足尾銅山を結ぶ銅街道(銅山街道)として切り開かれた道をもとにしている。
牛馬が重い鉱石を背に幾つもの尾根と谷を越えて往来した難路に沿って、明治末から鉄道が延ばされ、大正元年には群馬県の大間々(現:みどり市)から栃木県足尾(現:日光市)まで開通した。
さらに、昭和一桁台後半には、従来の銅山街道を大幅に改良して自動車道が建設された。
昭和38年には二級国道122号日光東京線に指定され、狭隘であった谷沿いの道は各所で改良された。
昭和51年には沿線に大規模な草木ダム(群馬県東村、現:みどり市)が完成し、一般国道122号と改称されていた本路線にも水没区間が生じた。
また長い歴史を誇る足尾鉱山も観光鉱山として生まれ変わった。

 現在の国道122号は、かつての路線名の示すそのままに関東と日光を最短距離に結ぶ観光路線であると共に、東北地方、特に会津地方との結びつきの深い、産業路線でもある。
今回は、本路線の代表的な旧道の一つと思われる、みどり市沢入(そうり)から栃木県境までの旧道区間を紹介しよう。
短距離ではあるが、トンネル化以前の旧道の険しさを実感できる好廃道だ。





 渡良瀬川が関東平野に解き放たれる大間々より北北東に30km。
草木ダムの静まり返った湖水も終わり、流れを取り戻した渡良瀬川を伴侶として進むこと暫し、久しぶりのトンネルが現れた。
トンネル前には大きめの休憩スペースがあって、何の変哲もない渓谷沿いのトンネルが実は区切りの存在であると、そう教えてくれた。

 約500mのトンネルの向こうは、栃木県日光市。旧足尾町である。
これは、県境のトンネルなのだ。




 トンネルの名前は沢入トンネル。
ネットで検索すると、どうやら’いわく’付きらしい。
内部は地形に沿って大きくカーブしており、広い割に見通しの悪いトンネルである。
竣工年度は不明だが、昭和40年代後半か50年代だろうと思う。
国道上で、かつ県境という象徴的な位置を占めながら機能一辺倒のデザインは、そう教えている。

 本トンネルには、今も地形図等に記載が残る約600mの旧道が現存する。
通行止めの道を現存というのもおかしいが、今回のネタはこれだ。




 二つ並んで設置された車止めにより四輪車は初めから立ち入り出来ない。
だが、特別立入禁止を明示する看板などもない。

 踏み込むとすぐに路肩が崩れ落ちていて、まずは廃道流の軽い挨拶と言ったところか。



 天気が良いせいだろうか。
冬に訪問して「良かった」と思える旧道、廃道は珍しい。
大概は枯れ木が侘びしく、落ち葉も色を失い、そんな中で病気のように真っ青な杉林がどぎつく感じられるものだ。
しかし、この日は青空や雲が色合いを加え、日射しが延ばす木陰はリズミカルで、かさかさ音をたてる落ち葉の踏み心地も爽快だった。




 だが、全体の5分の1も進まないうちに落胆させられた。

路肩から投げ落とされた膨大な量のゴミが、あるはずのないカラフルな斜面を作っており、それは谷底にまで届く勢いだった。
こんな事では、行政がおちおちと旧道を解放しておけないのも頷ける。

 早く車が入り込めないくらいの崩壊箇所が現れればいいと、そう思ってしまった。
そうすればゴミも容易に捨てられまい。



 はっきりした年次までは分からないが、昭和40〜50年代まで現役であったろうこの旧道は、日光への一大観光路線だった。
また、この車道が切りひらかれた昭和初期には足尾銅山もまだ盛んに採掘されており(昭和48年閉山)、対岸の鉄道とともに多くの物資を運んだだろう事は想像に難くない。

 そのような過去を証明するかのように、道は思いのほか広い。
大型車同士であってもすれ違えるだけの路幅があった。
しかし、もともと地質が脆かったようで、無理矢理切り拡げられた道は、盛大に反撃を食らっている。
確信はないが、路上に生えた大きな木は落石と共に成木がもたらされ、そのまま根付いたのだと思う。



 道さえなければ、こんなに険しい荒れた斜面にならなかったかも知れない。
少なくとも、大きく削り取られた山側(左写真)は、そう思わせる。
殆ど岩場しか無いようなのに、それでも齢を重ねた木々が育っていて、安っぽい感想だが、自然の偉大さを感じるところだ。

 川側も物凄い切り立ちっぷりで、殆ど垂直に渡良瀬川へ落ちていた。
路肩は高さ30cmほどの駒止が欄干の役割を果たしているだけで、ガードレール一つ見られない。スリップ事故でも起こそうものなら、忽ちのうちに墜落しそうだ。
 それにしても、河原の白さは異常である。おそらく、この川の名前を全国民に知らしめた有名な鉱毒事件と無関係ではないだろう。
廃山から30年以上を経てなお苔の一つも生えぬほど、岩場に染みついた毒は深いのか。





 入口から200mほどで、規模の大きな崩落に行く手を阻まれる。
谷に突きだした小さな岬のような所を道は通っており、鼻先の岩場に右の写真の標柱が建っていた。
「建8600」と読めるが、建設省(現:国交省)が設置したキロポストであろうか。
大体、足尾本山までの距離に一致するようだが。




 標柱から眺める旧国道の路肩施工状況。

長大な石垣が望まれるが、良く整形されている。
おそらく、鉱山で発生したスラグを利用したものだと思う。
作りが上手いと思ったのは、奥の方に地山の巨石が楔のように石垣へ貫入している部分があることだ。
敢えて地山の凹凸を生かし、地辷りの防止に利用したのだろう。




 路肩は上手く処理しているが、一方で法面のほうは「打つ手がなかった」らしい。

なんというか、 …何も出来ていない。

頭上に張り出すような巨大な露頭一面に、泣き言程度のネットを掛けたりしてはいるが、そのネットも穴だらけである。
そもそも、根本的に崩壊を防止するような施工が無いので、崩壊は運任せである。





 対岸の水際近くを横切っているのは「わたらせ渓谷鉄道」、旧国鉄足尾線、さらに昔は「足尾鉄道」という民鉄だった。
国道よりも早くから足尾と関東を結んでいた大容量輸送路である。
路線名から足尾の名前が消えた事は、観光主体の閑散路線へ転落した現実を意味する。
日光まで通じていれば、或いは…。

 そんな鉄道である。



 この短い旧道区間のハイライトである。

路幅の4分の1ほどを覆う、直線と平面で伐り出された「片洞門」だ。
元々の路幅が広いせいか、さほど被っているように見えないかも知れないが、その張り出しの長さは2m近い。

おそらくこれも、無理矢理な拡幅改良が作り出した遺構であろう。
大型車が下を通過できるだけの空頭高があることからも、従来ありがち(と言っても珍しいが)な明治期の片洞門では無さそうだ。

 なお、こんななりをしているが、路面は全て舗装済みである。




 ハイライトらしく、写真を大きくしてみた。


 …怖いでしょ?

いつ崩れてきても、全く不思議が無さそうだ。
この岩場の下に入ると、ちょっとした度胸試し気分になる。

そして、物凄いにらまれている感じがするのだ。


そう遠くない未来、この旧道の“名所”は轟音と共に消えるだろう。




 この大胆な風景に何も名前が無い…或いはあったにしても、それを知る手立てがこの場にないことが悔やまれた。
そして、かつては大勢の人が「恐ろしい岩場だ」「崩れてくるなよ」と、そう思いながら通ったに違いないのに、何一つ「記念碑」や地蔵などの類が無いことも残念。
いや、意外でさえあった。

 「こんな岩場に何一つ記念すべきものがないなんて?!」

いや、実はあった。
裏側に回り込んでみて、それを見つけた。

なにか、岩盤に大きな文字が見えないだろうか?




高 昭
崎 五

 私は奮えた。
なんという力強い書き筋。
岩場に何かの塗料で描かれた巨大な文字を見つけたとき、私はこの道を切り開いただろう誰かと、気持ちが重なった気がしたのだ。

彼もまた難工事を終えたとき、ここに何かしら記念物が必要だと考えたのだ。
私もいま、この場所を見て、「何かあるべき」と感じていた。
岩場に直接文字を残したという“記念”は、大胆な片洞門に相応しい、豪放な記念の仕方だ。
なにせ、通行人はすべてこの文字を目にするのだ。まさに最高の記念になろう。

 昭和五年の開削を意味するだろう右の二文字。この年は、本路線が全線において車道改築を進められた時期に一致する。
左側の「高崎」の文字は何だろう。崎の文字は下が切れており、昭和5年以降に片洞門が拡幅されたことを示している。そして、この下や左側にもっと文字が続いていた可能性もある。
おそらくは、この道の進行方向で、枢要の地である高崎までの距離が書かれていたのではなかったか。




 先ほど、片洞門の下に自転車を停めて撮影した写真に写っているが、片洞門の先は区間内最大の崩壊地となっている。
そこも片洞門だったのかも知れないが、道を埋め立てるだけの瓦礫が山積している。
さすがに自転車でも担いで越えるより無い。

 左の写真は、その天辺からここまでの道を振り返って撮影した。
いかに険しい場所を通じていたかが分かるだろう。




 崩壊から相当の時間を経ていそうだった。
道を埋めて積み上がった土砂はもう、すっかり地形の一部の顔をしていた。




 10mほどの長さに渡って道は消えていたが、そこを過ぎると一転して状況は改善された。



 次第に車の音が近づくのを聴きつつ、穏やかになってゆく道を進んでいくと、道の傍らに、崖を背にした白い観音像を見つけた。

ガードレールもない場所だから、何か痛ましい事故があったのかも知れない。
ともすれば、陰鬱にもなりかねない出会いだが、このときばかりは風光に恵まれたせいか、ただひたすらに安らぎを覚えた。
平らな自然石を台座にして安置されているのだが、像自体そう重いものでもないし固定されているわけでもないのに、倒れることなくすらりと立っている御姿は、なにか心洗われるものがあった。

 説明すれば興が冷める気もするが敢えて書けば、あんな風にゴミを捨てた心の荒んだ者たちでさえも、この石仏を倒したりはしなかった(気付かないわけがない、彼らはゴミの捨て場を求めてキョロキョロしたろうから)事に、なんかホッとしたのだ。




 今一度振り返り、思いのほかに充足した旧道を見渡す。
また来てみたいと、そう思わせる道である。

ちなみに、地図上の県境はこの辺りだが、何の案内もなかった。
そう言えば、ガードレールもそうだが、標識一枚残っていない旧道だった。




 入口から600mほどで、とうとう現道が見えてきた。
最後は下って、終了である。
こちら側は柵の一つもなかったが、トンネルの脇に唐突な感じで合流するので、自動車との事故には注意が必要だ。




 現道合流地点で出迎えてくれたのは、廃墟となったセメント工場と、栃木県のロードサインだった。

ここから足尾本山までは約7km。
銅山街道も終わりが近い。

 私はこのあと現トンネルを潜って車を回収しに戻った。
(足尾・日光を素通りし、次は「鬼怒川温泉の廃観光道路」に続く。)







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