その33国道398号線 山谷峠旧道2003.7.31撮影
秋田県湯沢市 〜 稲川町



 国道398号線は、宮城県の石巻市から奥羽山脈を襷掛けに縦貫し、秋田県本荘市に至る268km余りの路線である。
全線は山がちであり大小の峠が連なるが、温泉や景勝地も多く、観光の面からは主力路線の一つである。
もっとも、山チャリストにとっては油断のならない難路線である。
その多数の峠のうちの一つ、山谷峠は湯沢市と稲川町を結ぶ短い峠である。
車だとものの5分ほどで通り過ぎることが出来てしまう。
しかし、ここにも旧道があった。
今回は、この旧道を紹介したい。





 湯沢市の中心街にて、国道398号線は国道13号線と十字を切る。
西へ進めば、出羽丘陵を経て、いずれ本荘市へ至る。
東へ進めば、この山谷峠を端緒にして、長い長い奥羽山脈花山越えの道のりが始まる。



 約5kmほどで、早くも峠のトンネルが姿を現した。
直前まで点々と民家が続いており、峠越えという感じは薄い。
峠の反対側は雄勝郡稲川町となるが、湯沢市側にも増してアプローチは短く、あっという間に漆器で有名な川連地区に到着する。



 さらにトンネルへと近付いて行くと、旧道の入り口が現れた。
旧道は右で、一目見てそれと分かる線形である。
ちなみに、現在ここは世界ダリア園として整備されており、8月からの開花時期には、約3000本のダリアが見事な花を咲かせ人々の目を楽しませる。
そのせいかこの入り口からは、ありがちな旧道の寂寥感は感じられない。



 早朝の為だろうか無人の駐車場を脇に見て、下草も刈られよく整備された印象の1.5車線路を緩やかに登る。
手の届きそうなほど近くに峠の稜線が見えており、たとえトンネルがなくとも、峠はさして険しいものでは無いだろうと思われる。



 思いがけない物を発見した。
それは、道端の草むらに埋もれかけた一枚の看板である。
そこには、お馴染みの文句が掲げられていたが、山谷トンネルの竣工が1990年ごろなので、かなり以前からこのままになっているらしい。


 さらに進むこと500mほどで、広域基幹林道である山院線が右に分かれる。
この林道は山谷と院内を結ぶ路線であるが、まだ未実走であり、完成しているのかも不明である。

さて、林道のアプローチ道路として利用価値のあった旧国道も、この先はまったく無用と考えられたのか、簡素なチェーンバリケードが設置されており、一般車の侵入を抑止している。
ここからが、私ら山チャリストの出番である。





 間もなく峠だが、一向に勾配がきつくなる気配もなく、ただ、道の両側の木々が覆いかぶさるように視界を遮り始めた。
資材小屋のようなものが、かつては2車線だったであろう道の半分ほどを堂々と占拠し建てられている。
その向こうには、道が見えないがどうなっているのだろうか??
行き止まりのわけは無いのだが。

ちなみに、ここには行政境を示す標識がひしゃげながらも残されていた。
もちろん、「稲川町」と記されている。



 様々な標識やら、工事用の看板、道路設置物などが多数収められたプレハブ小屋。
辺りの道には苔が生えており、車輌通行が潰えてからの相当な時間の経過が感じられる。

しかし、どうみても、先に道が見えない。

おいおい。
どうなってるんだ。




 道を遮っていたのは、お馴染みの叢であった。
しかし、舗装路がここまで自然に帰るというのは…、いくらなんでも進みすぎだろう。
ここまでの道が、舗装状況なども良好だったことを考えれば、いかにも不自然だ。
道は高低差3mほどの盛り土によって完全にふさがれて閉まっており、それが原因で叢化しているようだ。
はじめは自然の崩落かとも思ったが、良く見ると不自然な点が多い。
やはりこれは、人為的な廃道化では無いだろうか。



 悩んだが、峠はもうすぐそこであると判断し、チャリを担いでの侵入となった。
全身を覆い隠すほどの深い叢と、雨具の用意のない私に容赦のない草露の洗礼。
一瞬にして全身がびしょ濡れになってしまった…。

苦労して、やっとか上りきった斜面から振り返ると、ご覧の景色。
道が突然途切れている様子がお分かりいただけよう。
まるで、行き止まりのようだ。
それが狙いか?




 この先は、とにかく辛かった。
濡れまくった。
勾配はなく、よく見れば路面はアスファルトが生きていた。
しかし、一度人の入らなくなった道は、これほど急速に元の森へと還ろうとするのかと、驚かされる。
よく見ると、伐採されたような木が散乱していたり、まったくの無人では無いようであるが…。
とにかく、チャリはおろか、徒歩ですら困難な草道と化している。




 峠は深い切通の底にあった。
さらには、切り通し全体は急な左カーブを描いており、十分な幅がないことと相俟って、これは相当な危険箇所であったろうと想像できる。
特に、この切り通しの深さには、圧迫感を感じたほど。
両側にある垂直なコンクリの壁は、全体的に苔生し、その上部には密林と化した緑の断崖が、道を覗き込むように張り出している。
天を見上げても、視界の大半が緑だった。




 余りにも叢化が進んでおり、確かに路面は舗装されているが、その状態などは見ることが殆ど出来ない。
写真は、切り通しの道の真ん中に立って先を見ているのだが、ほとんど視界がない。
何ゆえにこれほど荒廃してしまったかはよく分からない。
一つは、人為的に封鎖された為であろうが、それにしても、凄すぎる…。
よく知った峠だからいいようなものの、これが得体の知れない道だったら、さすがに引き返していたと思われるほどだ。



 急なカーブを曲がりきると、切り通しの正面に空が開ける。
どうやら峠を越えたらしいが、この直前の切り通しが最も深く、両岸の断崖は、目視で20m以上はありそうだった。
しかも、土砂崩れの痕跡があり、道幅の大半が埋もれていた。
現役当時は、多分、この地域ではよく見られる「峠のスノーシェード」が設置されていたのではなかろうか?
元々狭い切通であり、さらに天井を覆うスノーシェードのある景色は、かなりの迫力だったかもしれない。
あくまでも、想像だが。

さて、見覚えのある盛り土が再び行く手を遮った。
これを越えた先が再び現役の道であることを祈りつつ、濡れた草や蔦を足がかりに手がかりに、チャリを引きずるようにして(これが辛いんだわ)、斜面を登る。




 上りきると、先にはアスファルトが見えていた。

やった。
突破したらしい。

それにしても、ひどい道だった。
こんなに濡らされるなんて。
この日の旅は、始まったばかりなのに…。

トホホ…。



 脱出!

背後の叢に微かに出来た踏跡は、私がこの足と車輪で作った物であり、初めは全く無かったのだ。
まんず、こえがった。




 そして、稲川町側の車止め。
他では見たことがない、もう二度と通すつもりのなさそうな車止めだ。
チャリにはどうってことないが。
また、この車止めの脇には、何らかの標識が設置されていたであろう逆L字型の標柱が立っていた。
多分、「湯沢市」と書いてあったのだろうとおもう。

ところで、峠の切り通し区間を挟んだ箇所に行政境を示す標識が立っていたとしたら、このことも、かつてこの切り通し部分がスノーシェードで覆われていたのではないかという仮設の根拠となり得ると思う。



 道が回復したその場所は児童公園であり、町民の憩いの場として解放されている。
この先の旧道も公園道として整備されており、湯沢側に比べて急な下りだが、可憐な花に彩られた道となっている。




 そして、路傍の花畑の中にポツンと建っていた大きな石碑。
そこには、「山谷街道改修記念碑」と彫られており、裏にもびっしりと小さな文字があったが、風化が進んでおり判読は出来なかった。
しかし、私が思っていた以上に、ここは古い歴史を持つ峠のようだ。
現道に移設されることも無くひっそりと旧道に佇む石碑は、久々の“峠越えの旅人”の出現に何を思うたか。




 石碑のすぐ先で、稲川スキー場との分岐点があり、旧道は道なりに下ってゆく。
勾配も緩み始め沿道に民家も現れだしたが、旧道に人の姿は無い。




 そして、川連地区にて現道と合流する。
辺りは湯沢氏に遜色のない、いや、それ以上に大型店がひしめいており、始めて来るとその意外性に少し面食らう。
しかも、よく見るとそれらの大半が仏壇店であることが分かり、二度驚くのである。
これが、川連なのである。





 今回紹介した旧道部分は、約3kmほど。
不通区間は僅かに500m足らずだが、歩いて越えるのも一苦労な酷い荒廃振りである。
旧道の通過に要した時間は、正味20分ほどであった。
短いながらも、苔生した法面や街道碑の存在などに、十分な旧道感を満喫できる道だった。

2003.8.10作成
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