その53旧 上荒川橋2004.4.14撮影
 秋田県協和町 


かつては鉱山と林業が盛んだった仙北郡協和町。
その中心部である境地区から鉱山街のあった荒川地区まで、明治期から昭和初期まで鉱山馬車軌道が繋いでいた。
その大部分は、現在の国道46号線の旧道に当たる車道との併用軌道となっていた。
未だに、その開設時期や、正確な位置などが判然としない謎の存在である馬車軌道だが、その当時のものかもしれない、大変古びた遺構を発見した。

紹介しよう。



 現在の国道46号線は、境で国道13号線から分かれた後、荒川集落を迂回して、荒川の右岸山際を通っている。
それは、かつて馬車軌道とはまた別に存在した、森林軌道に近い道のりである。
一方、旧国道や馬車軌道は、荒川集落を通っていたが、荒川へと注ぐ宮田又沢川を渡る写真の橋のすぐ東側で、現道と旧道は合流する。
写真は、現道の荒川橋上から、旧国道の橋を撮影したものである。
奥に見えるのは、荒川の河原だ。




 旧道に移り、先ほど見た橋を渡ってみる。
写真で見ると、橋の向こう側の道が、奇妙に歪んでいるのが分かる。
奥に見えるとんがり山は、山人伝説のある米ヶ森(標高314m)である。




 現国道橋には昭和45年竣工との銘板があったが、旧国道の橋には残念ながら、橋名を示すものしか見あたらない。
名は上荒川橋といい、微妙に現橋とは名前が異なる。
現橋ですら昭和45年竣工であることを考えれば、見た目以上に古い橋だと考えられる。
だが、今回の主役は、もちろんこれではない。
その脇に寄り添っている、「橋らしき地面」が、ネタなのだ。

今まで何度もこの橋は通ったことがあったが、夏は草むらとなっているこの地面が、橋であることに気が付かなかった。
しかし、それは明らかに、古い橋である。




 国道との合流点側の様子。
そこはゴミ置き場となっており、うまく旧橋がカムフラージュされている。
ただ、一応立ち入り禁止と表示されているが、これがなければ尚更立ち入ることもなかっただろうし、橋の存在に気が付かない可能性も高いだろう。

旧道のさらに旧橋である。
一体、いつの物なのか。



 橋上には親柱どころか、欄干すら全くない。
ますます、橋と言うよりも、ただの地面である。
一面ススキに覆われており、本来の路盤はコンクリートであるはずだが、見えない。
欄干の代わりに、ススキが生え、またそのススキの根元には、もの凄い太いゼンマイが生えているではないか!




 いや、よく見たら、これはゼンマイではなかった。
なんと、欄干をかつて支えていただろう、鉄筋のなれの果てであった。
夏場は完全に視界から消えそうだが、小さな鉄筋の切れっ端が多数、欄干の代わりに突き出ている。
やはり、以前はしっかりとした橋の姿をしていたのだろうか。

境側の袂は民家に庭になっている。
また、橋台の脇に、かなり風化している石垣が見える。
この橋が、もしかしたら馬車軌道時代の橋なのではないかということを、この時考え始めた。



 橋上には、無惨にも倒れた親柱も落ちていた。
見るに、なかなかに重厚で立派なものである。
しかし、あまりに重くて、私だけの力ではひっくり返すことが出来ない。
もしかしたら、下になっている側に銘板が残っているかも知れない。

欄干と言い親柱と言い、自然にここまで荒廃するだろうか?
もう、まるっきりのっぺらぼうだ。
崩れた残りの瓦礫も見えないし、人為的に破壊され撤去されたような感じがする。
そこまでしておきながら、橋としてはまだ残存しているのが謎であるが。




 今度は、宮田又沢川に降りてみた。
そこからは、旧橋と上荒沢橋が並んで掛かり、さらに奥に現橋の姿が良く見渡せる。
ここに来て初めて、のっぺらぼうの橋が、意外に立派な構造物であることを認識した。
ただ、旧橋もコンクリートの構造物であり、明治由来の馬車軌道橋ではないかも知れない。

また、分からなくなった。






 コンクリート橋がここまで逝っちゃっているのは、滅多に見ない。
というか、もうそろそろ撤去した方が良いんじゃ?
このままだと、事故に繋がるような気もするが。

あなたは、この橋台の様子に、危険を感じませんか?
今にも、滑り落ちてきそうな程消耗している。



 美的な事を狙ってのものではないはずだが、橋桁と橋脚が統一感のある4本足となっていて美しい。
わずか3mほどの幅の橋にはやや大げさと思えるような、重量感のある施工をしている。
技術的なことは詳しくないが、まだコンクリート橋の技術が洗練されていない頃のもの、と言う印象を受けた。
4本足の橋脚が、木ではなくコンクリートだというのが、奇妙だ。





 橋台そばの石垣など、明治期を感じさせる部分もあるものの、余りにも情報に乏しく、この橋が何者なのかは、未だ分からない。
ここは、荒川沿いの低地に築堤を築いて道を通したと思える地形になっており、その施工の手の掛かりようから考えると、こここそが馬車軌道が通っていた道だと思われるが、橋自体は、いつの物か分からない。

いずれにしても、橋上には橋らしいものはほとんど無い状況である。
素人目にも老朽化は限界に来ており、いつ撤去されてもおかしくない。
なんとか、正体を掴んでから、逝ってもらいたいものだ。




 最後に馬車軌道の記載されている、昭和初期の地形図の一部をご覧頂こう。

もちろん、まだ現国道はない。
この橋より西側(境方向)は、明らかに併用軌道として描かれている。
一方で、橋の東側(荒川鉱山方向)は、別々の道として描かれている。
この橋は、果たして併用軌道橋だったのか。
それとも、車道は上荒川橋をわたり、旧橋は軌道専用だったのか。




2004.5.17作成
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