その52国道113号旧線 上杉橋と下杉橋2004.5.12撮影
 山形県西置賜郡小国町 


 国道113号線は、福島県相馬市に端を発し、山形県南部を通り、新潟県新潟市にいたる一般国道である。
私も、その全線を走ったわけではないが、その旧道密度、つまり旧道が現在の道とは別に存在する割合としては、他のどの国道よりも高いと言う実感を持った。
特に、山形県飯豊町から宇津峠を経て小国町、荒川にそって県境を越え、新潟県関川村に至るまでの約50kmについては、その殆ど全線に何らかの旧道が付随していると言っても過言でないほど、とにかく旧道が多い。
それら旧道の由来については、今回のミニレポでは紙幅が足りないので割愛するが、とにかく明治期から使われてきた道が、その時代時代に応じて、徐々に姿を変えてきたと言うことだ。

今回紹介する橋は、そんな道の一つである。
特異な光景を見せてくれているが、あとどれだけ存続できるかは、誰にも分からない。



 国道の長いトンネルで宇津峠を越えると、すぐに小国町最初の集落が現れる。
間瀬である。
そして、峠の過酷な旧道を突破してきた私に、休む暇も与えず、再びダートの旧道が現れる。
一度妥協してしまえば、もう再び旧道に入るのが億劫になるので、たとえ面白みが無さそうな短い旧道でも、チャリで通れると判断したら突入する。

こうして、旧道から旧道へと繋ぎながら走ることは、たかだか40km程度の道のりに半日かかったりもするが、道路状況が悪かった当時の苦労を、身をもって知るという意味では意義のあることだと思う。
そこには、車では通れないような場所が多いし、歩きでは、旧“車道”を通っていると言う醍醐味が薄れるように思うので、やはり車輪が付いていて、一応は“車”と言えるチャリで、探索したいのだ。

理屈は良いか。
本題へ行こう。



 旧道を探しながら走る行為に慣れてくると、これは自慢だが(ただ、殆どの人は羨ましがりもしないだろう…)、地図など見なくても、そこに旧道がありそうだな。
と言うのが分かるようになる。
それは、殆ど百発百中ともなる。

たとえば、どの時代の旧道を探すかにもよるが、現道に長めの橋が架かっている箇所は旧道の存在が特に疑わしい。
旧道の橋を壊して、そこに現道の橋を架ける(=架け替え)と言うことも多いのだが、その辺に旧橋の遺構が転がっていることは少なくない。

そんなセオリーに従って、ここでも旧道探しを続けていると、かなり珍しい旧橋に遭遇した。
それが、この、「上杉橋」である。




 現在補修工事中である現道の上杉橋に、半分覆い被さられるようにして、旧橋が残っていたのだ。
現在でも、旧橋にはわずかに農耕車の往来があるのか、橋の真ん中には草木が生えていない。
しかし、この状況では、車高2m以上は現橋に干渉しそうだ。
新旧の橋が、これだけ接していながら(重なっている!)、旧橋が存置されているというのが、珍しい。
下を流れるのは、このあたりで幾度も蛇行し、車道に多くの橋を架けさせている間瀬川だ。
旧橋の前後の道は旧道としての姿は留めておらず、畦道のようでしかないが、古色蒼然たる橋の姿が、歴史を感じさせる。




 歴史を感じるのも無理はない。
銘板が健在だったのにも驚いたが、そこに記されていた竣工年は、なんと大正であった。
いままでも、大正の扁額が健在だという橋には、数えるほどしか出会ったことがない。
しかも、私が住む秋田県では、残念ながら大正期の扁額を見たことはない。
それだけレアな、大正の竣工を示す扁額が、失礼だが、この様に日影の存在となっている小橋に残っているとは…。
まさしく、掘り出し物を見つけたような感激があった。

大正十三年十二月竣功。




 四柱あったはずの親柱だが、日影側の二柱のみが現存する。
本来は旧橋を駆逐して存在するはずの現橋が、図らずも、旧橋の半分を直射日光や積雪という外敵から守り続ける形になっている。
残念ながら、橋名を記した銘板は損傷が酷く読み取れないが、「上杉橋」で間違いないと思われる。

それにしても、よくぞこの様な場所に残っていた。
この立地は、もし厳密に表示しようとすれば、地図でも表しようがない。
もちろん、私も現地に来るまで、ここに橋があることは知らなかった。






 「上」があれば、「下」も有るわけで、その下流すぐの場所に下杉橋も健在であった。
しかも、ここでは現道橋、旧道橋、鉄道橋と、極めて隣接し平行している。
これほどに接近して、しかもほぼ同じ平面上を渡っているというのも、景色として珍しい。
土地の少ない都会ならいざ知らず、この様な山間ではなおさら。



 こちらの橋も、まだ現役の様子だ。
旧橋の袂はどちら側も現道と接しており、敢えて旧橋を通る者の意図が分からないが…マニア?
辛うじて竣工年を示す銘板のみ残存しており、そこには昭和七年の文字。
「上」とは、竣工年にやや開きがあるが、空白の十年間、一帯の往来がどのようになっていたのか。

橋上の様子だけを見ればかなり痛んでおり、落橋の危険は無いのかと心配になる。



 下手から見ると、3橋が並んでいる様子がよりよく分かる。
なお、JR米坂線のみ、橋の名は「杉橋」である。

撤去費用が惜しかったのか、特に重要とも思えない場所に掛かる旧橋が二つも残っている。
小国町の旧橋巡りは、実はまだまだ奥が深いのだが、それはまた、いずれの機会に。


<補足>  下杉橋については、相互リンク先『山形の廃道』様に、詳細なレポートがございます。
本橋の白眉である“鉄製トラス”を見ずに通り過ぎていたとは、上杉橋の発見に浮かれていたのも原因だが、不覚であった。
事前にサイトを熟読の上探索していたのに…。

…ぜひ、リンク先もご覧頂きたい。






2004.5.17作成
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