ミニレポ第213回 国道305号(越前海岸) 大味トンネル

所在地 福井県福井市
探索日 2015.09.14
公開日 2015.10.14

定番の展開に、予想外の事態が発生


【周辺図(マピオン)】

福井県北半分、嶺北地方の日本海に面する地域は、丹生(にゅう)山地が海岸まで迫っており、平地はほとんど見られない。代わりに越前岬を代表とする数多くの海岸美があり、越前海岸と総称される名所として知られている。
一方で丹生山地の内陸寄りには、九頭竜水系の河川に沿った広い平野が南北に続いており、県都福井をはじめとしたいくつもの都市が点在しているので、古代の北陸道以来、歴代の大きな陸路はみな海岸線を避けて、この内陸の低地帯を通ってきた。今日の国道8号、北陸自動車道、北陸本線、北陸新幹線、皆そうである。

しかし、越前海岸沖の日本海上は、対馬海流が流れ込む良好な漁場であったことや(越前ガニの高名は誰もが知っているだろう)、近世以前において陸路以上に重要な物流ルートだった北前船の航路にあたっていたことから、地形の険しさにめげず、多くの集落が港を根拠として立地して、その生活を営んできた。
暮らしがあれば、当然道も生まる。
越前海岸を南北に縦貫する今日の国道305号は、そうした生活道路の集大成であり、やはり短くはない歴史を持っている。

険しい海岸線を長く縦貫する道路であるから、国道305号には非常に多くのトンネルがある。
また、その改良史も一朝一夕ではないから、旧道、廃道、廃隧道が珍しくない。
このように、オブローダーにとって日本海沿いの一大名所といってもいい越前海岸における私の探索は、2015年9月14日の終日をたっぷり使って、自転車で北から南へ進めた。

この路線については、ネット上にも先行する多くの偉大なレポートがあると予期されたが、風景を予め知ってしまうのは勿体ないので、出発前の糧は敢えて定番の旧版地形図と「道路トンネル大鑑」に限った。
そして、帰宅後に取り寄せた市町村史で机上調査を行うという、“いつもの流れ”である。

この探索全体の分量はだいぶ膨大なので、越前海岸シリーズの第1弾として、今回は大味(おおみ)トンネルをピックアップする。




まず、お馴染みの「道路トンネル大鑑」にある大味トンネルのデータは次の通りである。

大味トンネル  
 路線名:主要地方道敦賀三国線  所在地:福井市清水町大味  延長:67.5m  車道幅員:5.5m  限界高:4.5m  
 竣工年度:昭和36(1961)年  覆工:済  鋪装:済
『道路トンネル大鑑』巻末リストより

「大鑑」は昭和43年に発行された資料で、データは昭和42(1967)年3月31日時点のものであるから、それを念頭に中身を見る必要がある。
まず、路線名からして現在のものとは違っている。現在の国道305号は昭和45年にはじめて路線が指定されたのであって、当時の路線名は主要地方道敦賀三国線といった。
そしてこのリストには、同路線の隧道が合計19本も記載されており、越前海岸の如何にトンネル多産地帯であるかが窺い知れる。
また、所在地欄の記述は誤りとみられる。大味トンネルの当時の正しい所在地は、福井県丹生郡越廼(こしの)村大味および茱(ぐみ)崎で、福井市に合併したのは平成17年とごく最近であるし、いずれにせよ福井市清水町大味という場所は存在してない。

例によって、…という前置きもいい加減使いすぎている気がするが、気にせず、今回も一番重要なのは、竣工年度の数字である。
オブローダーがトンネルのデータを読むとき、規模(長さや幅)よりまず竣工年を最初に気にするというのは定番だ。
もちろん、新しいよりは古いものにより惹かれるのであるが、この大味トンネルの竣工年は、昭和36(1961)年と記録されている。
新しくはないが、べらぼうに古いわけでもない、ほどほどの古さといったところか。


だが、事前調査はまだ終わらない。
続いてチェックしたのは、旧版地形図である。
今回は遠出(福井県は自宅から結構遠い)なので、出来るだけ現地で見逃しをしないよう、事前に明治と昭和中期という2世代の旧版地形図を準備し、万全を期したのであるが、この段階で、私の大味トンネルへの興味が大いに増進する気付きを得た。

というわけで、昭和26(1951)年応急修正版と、明治42(1909)年測図版という2枚の旧版地形図を重ねてご覧頂こう。(→)

これを見れば明らかなように、「大鑑」に記された昭和36年という竣工年より前から、大味トンネル(大味隧道と読んだ方が適切か)の位置にはトンネルが描かれている。
昭和26年版はもちろんのこと、明治42年版にも描かれているのは驚きで、越前海岸に数ある隧道群の中で、明治の地形図に描かれているのは3本しかない。
つまり大味トンネルは、このエリア最古級の歴史を持つものと考えられた。

なお、この場合の現地に予想される光景としては、主に二つのパターンがある。

  1. 昭和36年開通の現トンネルのそばに、明治時代に開通した旧トンネルが残っているパターン。
  2. 現トンネルは、旧トンネルを昭和36年に改築したものであるというパターン。

このうち、私としてより嬉しい、探索のしがいがあるのは前者のパターンだが、果たしてどうだったのか。
それを確かめるのは、いよいよ現地探索のターンだ!





2015/9/14 7:04 《現在地》

福井市大味町にある大味交差点より、進行方向を撮影。
海岸沿いを走る道が国道305号で、左折する道は福井県道6号福井四ヶ浦線である。

朝日を合図に自転車を漕ぎ始めてから1時間半が経過した時点であり、ここまでにいくつか小規模な旧道を探索してきたが、まだ本格的なものには出会っていない。
そして、間もなく臨む大味トンネルについても、明治隧道の捜索するという事前調査で得た楽しみな目的はあるが、規模的に大きな旧道や廃道があるとも思われず、本日の本格的探索にはもうすこし間がありそうだという予感から、いくらか前夜の眠気を振り切りきれずに迎えてしまった、そういう場面である。

なお、問題の大味トンネルの所在地は、この交差点や大味集落から目と鼻の先であり、ここからもそれが貫く岬がもう間近に見える。



大味という地名は字面が珍しいので、一度目にすると印象に残る。
しかし集落自体は、越前海岸を特徴付ける地形といえる急峻な断層崖、細長い集落の家並み、道路、漁港がある海岸線という要素が、この通りの順序で並ぶという、全国の断層海岸に立地する漁村の極めて標準的と思えるものである。

写真は集落の南の端で、ここまで来ると大味トンネルはいよいよ目前で、その姿を誰もが目にするのであるが、それを紹介する前に、赤矢印のところにあるものに注目した。

国道の法面にコンクリート製の小祠が設えられ、中にはやはり小さなお地蔵さまが安置してある。
そしてそのすぐ傍らの壁面に、1枚の見馴れないプレートが嵌め込まれていた。このプレートが私の目を惹いた。




壁面に埋め込まれたプレートには、こんな事が書かれていた。

  心 に 誓
も交通安全を守

なんとなく、このお地蔵さまが建立された経緯や、この場所にあることの意味を想像する事が出来る。
刻まれた文章が2行とも送り仮名が欠けている理由は分からないが、古い文章では送り仮名を省略しているものをたまに見るので、この文章も年代物と思う。
大味トンネルとの関連性は無いと思うが、少し気持ちを引き締めさせられる街頭の出会いだった。



7:10 《現在地》

そしてこれが今回のターゲット、大味トンネルである。

 …… 

…いまの “間” で、私の気持ちは分かってくれたかな。

昭和36(1961)年竣工と記録があった大味トンネルだが、その姿は、前後の幅広の道と同じく、最近になって大規模な改築を受けた事を物語っていた。

坑門に取り付けられたプレートによると、この大味トンネルの竣工は、平成22(2010)年10月。
長さと高さは「大鑑」の大味トンネルと大差ないが、幅は5.5mから11.25mへと実に倍増している。
長さや位置から考えて、これが昭和36年のトンネルを、50年目の平成22年に改築したものと考えていいだろう。



  1. 昭和36年開通の現トンネルのそばに、明治時代に開通した旧トンネルが残っているパターン。
  2. 現トンネルは、旧トンネルを昭和36年に改築したものであるというパターン。

もしこのうえで“パターン2”だったとしたら、明治隧道としての遺構も現存しないという、残念な結論を持つことになる。
かくなる上は、ほとんど余地の無い現トンネルの海側に、旧道や旧隧道を探すより無いわけで、海の見える小さな墓地となった“トンネル脇”へ、心の中でお祈りポーズをしたまま、立ち入ってみる。

「頼む、これ以上のガッカリさせないでくれ!」

いいトンネルを見てがっかりするとか、地元の人からみたら顰蹙だろうが(苦笑)。




あるじゃん!!

そうだよそうだよ、これが欲しかったんだ!

ヤリヤシタ! これが、明治や昭和26年の地形図に描かれていた、旧大味隧道とみて間違いないだろう。

「発見!」とは言いつつも、ぶっちゃけ、あまりにテンプレ的な位置に口を開けていて、全く労無く発見された、小さな小さな素掘の坑口。
しかし、それでも嬉しい事には変わりない。
ちなみに、「海蝕洞でしたざんね〜ん」というオチもないだろう。明らかに、人の手で丸形に削られた坑口だ。
今にもマント群落に隠されてしまいそうな坑口へ入りたい気持ちを抑え、先に右の防波堤によじ登ってみる。
捕らえた獲物は逃げはしないのだから、焦らず、まず周辺の確認だ。防波堤の裏に旧々道があったりしたら大変だからな。



これは予想以上に厳しい地形だ。

防波堤1枚隔てて、向こうは完全な荒磯。
旧道があった痕跡は見あたらず、もしあったとしても、オール桟橋といった代物で、車道たり得なかったろう。
明治以前のルートは、おそらくこの磯場を避けて、少々面倒ではあっても、岬を高巻きしたと考えるのが自然だろう。

また、この険しさを目にしたことで、他の多くの地点に先駆けて、ここに隧道が掘られたことも、よく合点がいった。
これは山越えしないならば、隧道必須と言ってもいいような地形だし、しかも岬自体は“ぶ厚くない”から、隧道で抜くには効率的な地形である。
ここからも険しい岩場越しに、トンネルの先の国道が間近に見えていた。

地形はこれで把握した。

故に次は…



満を持し、いざ “明治隧道” へ!!



えーーーッ!

そりゃないぜ、オブ神様ッ ! !

こんなマサカのどんでん返しも、ありなんスか?!

完璧に、“貫通した”明治の旧隧道だと思ったのだけど…。



なんと、一時は「もらった!」と確信した素掘の穴だが、これは貫通していなかった。
この時点で、明治の地形図などに描かれていた旧隧道という可能性は極めて小さくなった。

だが、それはそれとして、やはりこの穴に大きな興味を抱かずにはいられない。
穴の断面は、手を伸ばせば天井の一番高いところに届くくらいに小さく、幅も同様であるが、天井はかなり綺麗なアーチ型に削られていて、線形も直線的である。
奥行きは5mほどと極めて短いが、ほとんど先細らず、最奥まで一定に近い断面を持っている。
そしてなにより私の印象に残ったのは、天井の壁面にしっかりと残された鑿痕。かの初代栗子隧道の内壁を彷彿とさせる、明瞭な手鑿の削痕だ。

防空壕という可能性も考えたが、内部に部屋状に広がった空間が無いのは不自然で、戦時中の海上兵器保管場所としても、海面に対して高すぎるし、集落に向いているのも不自然だ。

この洞穴……

もしや…



大味トンネルの非常に古い未成隧道ではないか?

そんな “とても魅力的な可能性” を疑う事が出来るだろう。

パターンという定番を破って現れたイレギュラーに、私は興奮した。





7:16 《現在地》

空気の詰まった大味トンネルを足早に潜り抜け、舞台は福井市茱崎の地籍に移行した。

目の前に新たな地平が広がったことになるが、それよりも今の私が興味津々なのは、“反対側にも穴はあるのか”という一点に尽きた。

もしこちらにも掘りかけの穴があったなら、いよいよ“謎の穴”の正体を、未成隧道であると、そう断定しても良いと思ったからだ。

果たして、穴はあるのか?

私は夢中になって、あるべき場所に目線を奔らせた。





おわかり、
頂けただろうか?




それなりに上手くカムフラージュされてはいる。

おそらく、車で通りかかっただけで、この穴に気付くことはまず無い。
手前にある防波堤が上手くそれを隠していた。

だが、私の目は 欺 け な い !

同じ形、同じ大きさの穴が、この茱崎側にもあったのである。

この事実の重大さ。




当然、すぐさま近寄ってみる。

現トンネルとの位置関係を含め、明らかに岬の地形を挟んで、大味側の穴と相対している。
もちろん、厳密な測定はしていないが、これほど符合した位置に、全く偶然に別の意味を持った二つの穴が掘られるとは思えない。
二つで一つ、他に余計な穴も見られない。

綺麗な半円形に成形された坑口は、コンクリートブロックによって塞がれてしまっている。
当然、大きな落胆がそこにはある。
だが、単なる埋め戻しではないことを、金色の扉の存在が物語っていた。一縷の望み。

はたして、この扉は開くのかどうか。
ノブを回してみなければ分からないが、そのためにはまず扉の前に立たねばならない。
しかしそれは案外に危険な行為である。
扉の前に平らな土地は少しも無く、海岸に落ち込んだ急斜面(しかも現在進行形で崩れているようなガレた斜面)に体重を預けなければならない。
このことからも、既に扉の主はここを滅多に訪れていないと予想する。



準備は、いいか?




ぎぃ…ポトポトッ

うわっ!(驚)

扉はやや重かったが、緩やかに開いた。

だが、開くと同時に扉の隙間に潜んでいたらしい何匹もの大きなフナムシが、ノブを握っていた私の腕に落ちてきた。
ゾワゾワとした厭な感触。ひえっとなったが、ここで臆病に飛び退きでもしたら、そのまま5mも下の海岸に転落する。
冷静に。冷静に。虫たちを払いのけてから、むわりとした蒸し暑さが感じられる“洞内”に、体を入れてみる。



何かの機械が据え付けられていたのか、洞内には台座のような段差があったが、既にもぬけの空である。
昨日の陽が蓄えた温かさが、ほとんど密閉されていたらしい洞内を充たしており、カメラのレンズはあっという間に結露した。
肝心の奥行きは、大味側よりもさらに短く、3m程度である。しかし、断面の形はよく似ている。

現トンネルの長さはおおよそ70mであるから、もしこの謎の穴が未成隧道であったとしても、貫通にはほど遠かった。
両側の穴の長さを足しても10mに満たないが、この位置で岬を貫通するのには、
少なくとも50mは掘らねばならないだろうから、その完成率は2割未満と考えられる。



現地探索での結論として、私はこれらの“謎の穴”の正体を明治期の未成隧道跡と考えた。

そのうえで、未成に終わった(そして後の隧道が再利用しなかった)理由を考察してみたが、現地の風景から思い当たる事は一つしかないように思う。

それは、この茱崎側坑口前の地形の悪さである。
確かに岬の突端に近い位置に掘った方が隧道は短くて済むが、坑口前の路盤が波打ち際に近すぎる気がする。

もちろん、(写真奥に見えるような)現代の土木技術があれば、この波打ち際を擁壁で制することは訳ないだろうが、明治の貧弱な技術では、せっかくここに隧道を貫通させても、しばしば坑口前が高波で破壊されたのではないだろうか。

こうした事情を工事の途中で考慮したか、実際に工事中に高波の被害を被ったかなどがあって、最終的に10mほど内陸の現在地に位置を変更したのではないかと推理する。

これは仮説に過ぎないし、残念ながら机上調査でも裏付けは得られなかったが、よろしければ皆さまの推理をお聞かせ頂きたい。




それにしても、新旧の穴の大きさの違いの凄まじさよ(笑)。
すぐ隣に並んでいるので、特に大きさの違いが強調されている。

おそらくは、技術の不足から貫通を断念せざるを得なかった旧隧道。
そして、反省を活かして無事に貫通させた新隧道。
新隧道は、その後も需要の伸長と技術の進歩を足掛かりにして堅実に育ち、育ち、育って、今の姿を勝ち取った。
そう思うと、今の姿のつまらなさも、誇らしいものに見えるから不思議である。




そうこうしているうちに、賑やかな小学生の一団が、明るいトンネルを潜り抜けてきた。
あの歩道の広さも宜なるかなと思わせる、朝の登校景色の爽やかさよ。
私は疑いの目を向けられる前に、速やかにこの場を立ち去ったのだった。





最後に、机上調査によって判明した大味トンネルの経歴を述べておこう。
ただ、残念ながら“謎の穴”については全く情報がなく、進展もない。これについては、さらなる情報の提供を待ちたいと思う。

今回入手した資料は、「越廼村誌本編」(昭和63年/越廼村発行)である。
この中に大味トンネルを含む道路の開通について、次の記述がある。

越廼村は急傾斜地が多く、きわめて平地が少ないため、道路は狭く、また急な山道であった。これらの道路は荷車が通れるほどの幅員の所もあったが、荷物のほとんどは人か牛馬の背に積んで運ばれた。そのため明治時代までの交易は海運が盛んであった。越廼村と福井市を結ぶ道路は主要道で明治25(1892)年に福井〜蒲生間の道路改修工事が大々的に始まった。同35年の大味トンネルの掘削は難工事であったが、このトンネル開通によって茱崎・蒲生地区の水産物は荷車に積んだまま福井市へ運ばれるようになった。

来た!
ずばり解決。明治42年の地形図にも描かれていた大味トンネルの最初の開通は、明治35(1902)年の出来事だったようだ。見事な明治隧道である。
そして“謎の穴”には触れていないが、「明治25年に道路改修工事が大々的に始まった」という記述は、この時期に最初の隧道が計画され、着工されたという想像の余地を十分に残している。

右図は、上記の記述および、「丹生郡誌」(明治42年/福井県丹生郡教育会発行)の記述から、明治42(1909)年当時の主要な道路網を示したものである。
当時、大味トンネルは県費支弁里道蒲生道として整備・管理されていた。
この道は、越廼村役場の置かれていた蒲生集落と福井市を結ぶ、越廼村にとっての最も重要な陸路であり、唯一、荷車が通る事が出来たそうである。

最後に、大正時代以降について、ごく簡単に紹介していこう。
大正8年の旧道路法の施行により、従来の路線網は改変され、県費支弁道蒲生道は、府県道越廼福井線と呼ばれるようになった。また、後の国道305号となる郡費支弁道鮎川線は、府県道越廼三国線となった。大味トンネルは、この二つの府県道の重複箇所だった。さらに昭和27年の道路法施行により、これらの府県道は再度改変され、前者は主要地方道福井四ヶ浦線、後者は主要地方道敦賀三国線となり、大味トンネルはこの二つの主要地方道の重複箇所であった。
昭和45(1970)年に敦賀三国線をベースとした国道305号が指定されたことで、現在の大味トンネルは、同国道と主要地方道福井四ヶ浦線の重複区間にある。

このような歴史の中で、大味トンネルは昭和36年と平成22年に大規模な改築を受け、それぞれの時代に相応しい装いを身に付けてきたというわけである。



完結。



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