ミニレポ第226回 福島県道249号上戸渡広野線 中戸渡旧道

所在地 福島県いわき市
探索日 2010.4.4
公開日 2017.3.4

現道から遠すぎる旧道にある、偽りの青看


【周辺地図(マピオン)】

福島県道249号上戸渡広野線は、いわき市と双葉郡広野町を結ぶ、全長約20kmの一般県道である。

起点のいわき市上小川町上戸渡(かみとわだ)通称“十文字峠”で国道399号から分かれた道は、間もなく阿武隈高地の主稜線を越えて浅見川源流の谷へ入ると、以後は終点である広野町の国道6号交差点まで、ずっと同じ川に沿って走る。終点は太平洋岸のそばなので、まさに浅見川の始めから終わりまで全てを見届けるルートになっている。

本県道の整備状況はあまり良くなく、特に最上流の集落である箒平以西は数年前まで未舗装だったほどだ。現在は鋪装こそされたが、ほとんど集落の山中に延々続く一車線道路のうえ、頻繁に倒木などの些細な事情による通行止めがなされるため、マイナーな県道という評価からは全く抜け出していない。

さて、実はこの県道には、旧道とみられる道が存在する。
未だ十分な整備をされていない県道の旧道と聞けば、相当過酷な道を想像される人が多いと思うが、実態は少しばかり異なっていたりする。



問題の“旧県道と思しき道”があるのは、現在の県道の起点から国道399号を4kmほども北上した場所である。
地名としては、いわき市上小川町という大字までは一緒だが、字が県道名にも入っている「上戸渡」ではなく「中戸渡」である。
そこに、かつて県道だった名残を留める道が存在しているのだが、現道と旧道とで、起点がこれだけ大きく変化したというのも、なかなかに珍しい。単純な距離だけでなく、高度差も200m以上ある。

左図は、その“旧県道と思しき道”の周辺の地図である。
「出発地」とした地点から「中戸渡」の注記のある場所へ向かって描かれている「く」の字にカーブした道が、それだ。
現在は県道でないので、この地理院地図にも県道としての着色はされていない。
もちろん塗り忘れではなく、平成28年版の福島県いわき建設事務所「管内概要」を見ても、県道ではないことになっている。
だが、現地には、これから紹介するように県道であったとみられる名残があり、他にもそれを裏付ける資料がある(後述)ので、やはりこの道は県道であったのだと思う。
すなわち、旧県道とうことになる。

ごく短い旧県道である。さらっと紹介しよう。





2010/4/4 17:12 《現在地》 

ここは、いわき市北部の山間部にある中戸渡地区の国道399号で、かつて県道上戸渡広野線の起点であったとみられる地点だ。
正確には、この100mくらい先に見えている三叉路こそが旧起点であり、国道399号上には青看が設置されている。
右への分岐の矢印と行き先をシールで隠した、怪しげな青看である。

この青看は県道だった時代の名残りとみられ、万が一この修正シールが剥がれる事態があると、ドライバーから大きなクレームが発生する可能性が高いのだが、その理由は後ほど説明したい。




この分岐が県道の旧起点で、右の道が旧県道だが、国道399号の旧道でもある。むしろそちらのほうが先だったろう。
ここから始まる旧道は、現在の国道が最短ルートで素通りしている中戸渡の集落内を通行していた。
ゆえに、青看では矢印すら隠されていたが、中戸渡や下戸渡の集落に用事のある人は、ここを入る必要がある。
集落の規模が小さいので、利用者は少ないだろうが。

それでは右折する。

なお、三叉路の両道に挟まれた土地に見える大きな建物は、小学校だった。



旧道に入るとすぐに小学校廃校の正門前を通る。
門柱に「いわき市立小川小学校戸渡分校」の銘板が取り付けられているが、平成12(2000)年から休校し、同15年には廃校となって久しく時間が経っている。
しかし見たところ、校庭も校舎も廃校を感じさせないほど綺麗に保たれていた。

戸渡分校は、本校である小川小学校のある上小川の中心部から、十文字峠を隔てて17kmの位置にあり、しかもこの間の国道は15%勾配の連続する“酷道”である(現在、ようやくトンネル化工事が始まった)。上・中・下戸渡集落の子供たちが、この分校に通っていたものであろう。

なお、正門の近くに平成元年建立の「御即位記念」の碑が建っており、皇室と戸渡分校の関わりが碑文にしたためられている。県道と直接に関係する内容ではないが、画像を掲載するので興味のある人はどうぞ。→【碑の画像】

碑文中には、昭和36(1961)年に皇太子殿下美智子妃殿下が、当分校への訪問を、「悪路のため」に取りやめたことが出ている。この年代の戸渡周辺の道路状況がいかなるものであったかは本文末尾にも触れている。




17:15 《現在地》

とくにこれといった印象のない1.5車線道路を400mほど進むと、再びの青看が出現した。

そして今回もまた、分岐の片側の矢印と行き先がシールで隠されている。
おそらく2度と剥がされることのないシールだが、いつか青看に寿命が来て処分されるときには、携わった何者かが興味を持ってシールを剥がすかもしれない。
そのときまで秘めた内容を持ち続けるということに、何か深い業を感じると思うのは、道路のインターフェイスである青看に過剰な感情移入があるせいだろうか。




2枚目の青看の先にある分岐も三叉路で、左の道が国道399号の旧道で、右の道が県道249号の旧道である(とみられる)。
旧国道を行けば、300mほどで現国道に合流する。なお、旧国道の現役時代は、この交差点こそが県道の起点だったはずだが、国道のルート変更の時期ははっきりしない。

いずれにせよ、県道249号の旧道としての単独区間はこの交差点から始まるのだが、見ての通り、そこは県道指定を解かれた旧県道とは思えないほどに立派な道である。
ここまでの旧国道区間が1.5車線だったのに対して、ここからは2車線の快適そうな道が伸びている。

この景色を見ただけで、多くの読者が感づいてしまったかも知れない。
「ああ、旧県道って、そういう意味の旧県道なのね」…と。
もっと直截にいえば、「未成県道だ」と。

……で、この交差点で最も業深いと思うのは、“矢印”の地点にあるものだった。



私とは反対に北から旧国道でこの交差点へ来ることで目にすることになる、この青看。非常に業深いものがある。
注目は、旧県道である左折側の矢印と行き先が、シールで隠されていない点だ。

そこに書かれていたのは、県道上戸渡広野線としての目的地である「広野」という地名。矢印に県道の表記(ヘキサ)があるわけではないので、青看自体が旧県道を証明しているわけではないが、その道の目的地が「広野」であったことを、このうえもなく明らかにしている。

…もちろん、この道は「広野」になど通じてはいない。
冒頭で紹介した地理院地図の表記の通り、すぐに行き止まりになっているのだが、この青看だけははっきりと「広野」へ行けると、そう公言しているのだ。

これまで目にしたシール済みの2枚の青看(【1】 【2】 )も、シールの下には同じように「広野」の表示があるのだろう。
それらをシールで隠した道路管理者(県)が、なぜこの青看だけをスルーしたのだろう。単に見逃したのか…。あのシールは自然と剥がれるようなものではない…。

なお、2013年8月に撮影されたgoogleストリートビューでこの青看を見たところ、青看自体はあるものの、左折の矢印と行き先がシールで隠されていることが判明した。“偽りの青看”が公然となっていた期間がどれほどであったかは分からないが、修正されて一安心である。
…それにしても、私が訪れた時には修正がされていなかったからこそ、このレポートを書く動機が出来たといっていい。不思議な巡り合わせだ。



ちょっとだけ寄り道をして、交差点から旧国道を15mほど進んだ地点にある、戸渡川に架かる橋を紹介する。
コンクリート製の何の変哲もない橋だが、親柱の銘板によれば、昭和38(1963)年3月竣工の「公民橋」というらしい。

珍しい橋の名前だと、率直に思う。
公民という言葉の意味は、政治に参加することが出来る市民であり、高校の授業科目の「公民」や、歴史の授業で登場した「公民権運動」などという、小難しい(あまり興味の湧かない)言葉を思い出す。
しかし、この公民橋にはそれほど小難しい謂われはありそうにない。
単純に、橋の袂に「戸渡公民館」が建っているから名付けられたのだと思う。(ここで、そもそも公民館ってなんなんだと調べると、このレポートの存在を忘れるほど深みにはまるおそれがある)
とはいえ、銘板の「民」の文字がわざわざ小難しい異字体(リンク)になっていることが、命名者はやはりこの橋名に特段の拘りを持っていたのかもしれないと思わせるものがある。

いわゆる山中の僻村を下に見るような失礼な文明的態度にあっては、この小集落が、皇室との関わりや「公民」という橋を持つことに意外さを感じるのではないだろうか。
無論、私がそんな下卑た立場ではないと表明するつもりはない。むしろ、こういうことを喜んで楽しんでいる。愛の有無など余り大きな差ではないだろう。



旧県道の単独区間に入ると、ますます未成道臭しかしない、全ての白線が薄れゆく2車線道路だった。
正面に見える山の向こう側が広野町ということになるが、ここから見える以上に山は厚く、生半可に貫通できる距離ではない。
そしてこの道は、山越えの夢破れ、ここに横たわっている。
県道であるという、この道を生み出した縁(よすが)すら奪われて。

私が勘ではなく、具体的に、「この道がかつて県道であった証拠」を見つけたのは、単独区間に入ってすぐのこの場所に建っていたデリニエータだ。
デリニエータの支柱にペイントされた「福島県」の文字が重要だった。

これは、道の管理者が福島県であることを意味している。
「県管理=県道」ではないが、最も現実的な可能性は、県道になる。
しかし、現在の管内図では県道でないというなら、これは「旧県道」なのだ。




早くも綻びが!

分岐地点から、わずか150m。
中戸渡の集落外れの民家を過ぎるか過ぎないかの辺りで、突如として未舗装になった。

まずいないと思うが、先ほどの“嘘の青看”を信じて入ってきた純真無垢のドライバーならば、早くも不安を感じる展開だろう。
とはいえ、特に通行止めの告知も行き止まりの予告もなく、鋪装を失ったことで2車線幅を持て余す通行量しかないことが明らかにされたほかは、なおも淡々と道は伸びている。




さらに100mほどで、広かった道幅も奪われた。

前方には戸渡川の支流を渡る小さな橋が見えている。人里と山の境の雰囲気がある場所だ。

良く見ると、この道幅が狭くなる地点には、古ぼけたバリケードと標識板らしきものが置かれていた。
標識板はサビが進み、もはやもとの図案が何であったのか全く分からないが、円形であることと、シチュエーションから考えて、「全面通行止」の可能性が高そうだ。




橋には銘板がなく、一切の文字情報を得ることが出来なかったが、何の変哲もない1車線の道路橋だ。
旧県道の一部には違いないが、未成に終わった道路整備の以前から架けられていたものなのかもしれない。




橋を渡った地点で、地理院地図では左右に道が分かるように描かれているが、実際には左の破線の道は分明でなく、右の道だけが鮮明である。
その右の道を橋から50mばかり進むと、唐突に道幅が復活した。
未舗装のままではあるが、完全に2車線道路の幅だ。

段々に成形された法面と相俟って、ここも強烈な未成道臭がする。
地図上では1車線の細い道として描かれているが、実際はこのように広大な道路なのだ。
かつて成そうとしていたことの大きさに、熱さを感じた。




17:16 《現在地》

“嘘の青看”の分岐から500m地点で、2車線幅の砂利道に刻まれた案外に沢山の轍のほぼ全てを一挙に奪われる事態が発生した。

轍を旧県道から攫っていったのは、「マクロビアン」の看板。
ネットで検索すると分かるが、マクロビオティックという食事健康法を推進する団体が主催するセミナーハウスであるようだ。

……旧県道の命脈を保たせていた存在を過ぎたことで、いよいよその路面状況は“未成廃道”を思わせるものへと変化しつつあった。
いくら疑うことを知らない無垢なドライバーでも、これにはさすがに違和感を覚えるはずだ。

「本当にこの道は、広野へ通じているのだろうか」、と。



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「マクロビアン」より先の道は、工事途中で放棄されたような状態になっていた。
具体的には、砂利が敷かれていないために側溝が路面より高い位置に浮いていたり、逆に路面の切り下げが不十分だったのか側溝が路面より低い位置に埋もれていたり。
これ以上無く未成道臭が濃い状況だが、こうなってから経過した時間の長さを感じさせるように、既に道は周囲の景色に溶け込みつつある。まったく新色を纏っていない。

さらにここでも――




道路用地が「福島県」の所有地であることを示す用地杭が、道に沿って点々と並んでいた。だいぶ古びて見えた。

「県有地=県道」ではないけれど、この状況では県道の用地を示している可能性が大であり、それが現在の県道でないならば、旧県道(以下略)。




「マクロビアン」から200mほど、道幅だけは立派な不整地に近い道を登ってきたが、ちょっとした広場のような場所に出た。
工事関係の飯場などがあったのだろうか。
地図に描かれた道の終点は、もう間もなくだった。



17:25 《現在地》

終点だ。

山に挑んだ道が意志を折られたことを象徴するような、まるで埋もれた廃隧道でも眠っていそうな、どん詰まりの終点だった。

かつて県道の起点であった現国道との分岐地点からここまで、約1.2km。
対して、完成しなかった道の反対側の端(何年も後になって訪れたので、項を改めて紹介する)までは、約5kmもある。

隔たりの大きさに対して、建設の実現した距離があまりにも短く、空しい。
県道として集落内を改修するだけならば未成道と呼ばれることもなかったはずなのに、それで終わらず、用意の良いことにまだ繋がっていない目的地を記した青看を(何枚も)用意して山へ入り、しかし敢えなく意志を折られ、山を下りた県道。
……空しい。

そんな空しさに恋しさを覚えながら、私も速やかに山を下りて小さな探索を終えたのだった。





以上のレポートのように、現地には「旧県道がかつて県道であった証し」のようなものがいくつかある。具体的には、県管理の道であることを示す【デリニエータ】や、道路用地が県有地であることを示す【境界標】などである。

しかし、私がこの探索を行ったきっかけは、以前からここが県道であったことを「知って」いて、しかし最近の地図では県道として描かれなくなったことを「知って」いたからだ。

左図は平成3(1991)年に出版された人文社の福島県道路地図の一部だが、見ての通り、今回紹介した道の一部が太い県道として描かれている。
一方で、現在の地図(地理院地図を含む)が県道だとしている道は、当時は浅見川林道と呼ばれる林道で、県道ではなかった。




ようするに、以下のようなことが起きたのだと推定する。

県はかつて、県道上戸渡広野線を新たな山越えルートとして建設するつもりで県道の認定を行い、実際に工事もはじまったが、やがて計画は中止となり、代わりに既設の浅見川林道を県道として認定・整備する方針に変わった。

後日別のレポートで紹介する予定だが、広野町の箒平地区にも、約1kmの行き止まりの新設道路が存在する。
これと結ぶ5km(以上)の山越え区間が、未着手のまま終わったようだ。
(はっきり計画が中止された証拠は得ていないが、県道認定を解除されたのは、そういう意味だろう)


実際に県道上戸渡広野線の建設が行われた時期だが、過去の航空写真を比較してみると、昭和50(1975)年から63(1988)年の間であることが分かった。

この期間では、昭和57(1982)年に国道399号が指定されたのが大きなトピックで、それ以前は県道(主要地方道)だった。
そこから分岐する県道上戸渡広野線が初めて認定された時期は判明していないが、国道399号の誕生を契機として同路線と沿岸の国道6号を結ぶ梯子状の道路整備が指向され、その一路線として本県道に白羽の矢が立ったであろうことは想像に難くないものがある。

ともかく、昭和63年頃から現在に至るまで既に30年以上も中戸渡の工事終点は動いていないようだから、現地にあった様々な未成道的アイテムがそれなりに古びて見てたのも納得出来る。

こうして、中戸渡における県道新設の大まかな時期は判明したが、計画が中止(或いは休止?)されて、県道の認定を解かれたのはいつなのかを調べてみた。
それを正確に知るには福島県の公示にあたるのが正解だが、ここではネット上や手元にある情報だけで推論を試みる。




右図は、平成17(2005)年と平成19(2007)年に作成された、福島県相双建設事務所管内図である。(今回探索した場所はいわき建設事務所管内だが、隣接する管内だったために、たまたま持っていたこの2枚の管内図に上手く収まってくれていた。)
わずか2年差で作成された管内図だが、そこに描き出された県道上戸渡広野線の姿は、解釈が難しいほど大きく変貌していた。

まず平成17年の図では、県道249号がなんと2個所に描かれており、両者は繋がっていない。
その一つの路線は、今回の探索のスタート地点である中戸渡の三叉路に始まり、【無名の橋】を渡ったところから×印付きの「交通不能区間」となって、下戸渡地区から先はさらに破線の「計画区間」となって、広野町の箒平地内に達している。
もう一つの路線が現在の県道のルート上にあるが、こちらは市町境が起点であり、そこが現在とは異なっている。
さらに良く見ると、県道ではない“謎の計画道路”が広野町側に存在しており、今回探索した【無名の橋】以奥の未成道と繋がりそうな気配もあるが、謎の存在である。

おそらくだが、この県道の認定当初のルートは、平成17年の管内図に「交通不能区間」として描かれた山越えの道なのだろう。
そして、そんな山道を実際に車が通れる道路として整備すべく、昭和63年以前に計画され、実際に途中まで建設されたのが、今回探索した道。
しかし、その大規模な新道の計画は中止され、代わりに浮上してきたのが、既設の浅見川林道を県道に昇格させようというプランだった。そんなストーリーが考えられる。

(なお、【無名の橋】の袂から分かれる、かつて県道だったらしい道は、実在するようには見えなかった。(参考:googleストリートビュー

これが平成19年の図では、県道のルートが一気に簡略化され、現在と同じようになった。それでもなお、中戸渡から箒平へ至る過去の計画ルートが、(県道ではなくなったにせよ)まるで既成であるかのように描かれており、もうワケが分からない。
ともかくまとめると、平成17年度から19年度の間に、今回探索した区間を含む県道の区間は廃止され、現在の区間に一本化されたようだ。

なお、平成15年時点で本県道の全長は28840mだったものが、17年度には22160mに、そして現在は19980mになっているという記録もある。
これだけでは詳細にルートを検討することは出来ないが、短い期間で県道の長さがこれほど変動していること自体が、この道を巡る計画が最近まで激しく二転三転していた証拠であろう。



右の画像は、現在の県道上戸渡広野線の起点の新旧の風景だ。
古い写真は、上記探索と同じ平成22(2010)年のもので、砂利道のうえに(たまたま)通行止めだったが、6年後に再訪してみるとすっかり鋪装され、広野まで通り抜けることが出来た。
何十年も前から人々が思い描いていたような未来地図の道路は実現しなかったが、それでも道がないよりは、あった方がいい。そんな当たり前の感想を抱きながら通行した。

私たちの住みかは 山の分教場

人里はなれた 山の中

でも ただひとつ便利なものがある

それは 三輪車が通うことだ

……

雨の中から 嵐の中から

立ち上っていかねばならない

山奥を 山奥でなくするために

これは、昭和34年の戸渡分校卒業文集「ヤドリギ」に掲載された草野邦夫さん(中学3年生)の文章の始まりと終わりの部分だ。(リンク

道が通じ、車が通う、そんな現代のあたりまえを、ありがたいと思える気持ちが無駄でないと思うなら、繋がれずに終わった道を知るのも良いことだ。



完結。


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