ミニレポ第235回 掛川市上張の手掘り隧道(仮)

所在地 静岡県掛川市
探索日 2018.3.24
公開日 2018.4.01

掛川と海を結ぶ、人も魚も寝た隧道


【周辺地図(マピオン)】

静岡県中西部の位置する掛川市は、東海道の掛川宿および掛川藩の城下町として発展した、長い歴史を持つ地方都市である。
牧ノ原台地の西部を占め、この地方の特産品である茶葉の生産が盛んであるほか、交通の便に恵まれた立地を活かした工業都市としても発展が著しい。2018年現在の人口は約11.5万人である。

オブローダー的な視点から見た掛川市は、東海地方における代表的な“隧道王国”の観を呈している。
低い稜線と谷戸が複雑に入り組んだ丘陵地形で、古くから農業が盛んで高位な土地利用がなされてきたという、典型的な隧道多産地の特徴を持っている。

以前紹介した岩谷隧道も、掛川市にある特徴的な素掘隧道であったが、より知名度が高いのは、土木学会が選定する『日本の近代土木遺産(改訂版)―現存する重要な土木構造物2800選』に、「青田隧道他、旧県道の煉瓦トンネル群」として登録されている、明治中後期に建設された一連の煉瓦造道路トンネル群であろう。

右図は大正5(1916)年の掛川町(市制施行は昭和29年)の南東一帯の地形図で、この中央付近にひときわ長く描かれているのが青田隧道。明治28(1895)年に完成した、道路用としては県内有数の古さを誇る煉瓦隧道である。
そしてこの地形図では、青田隧道の他にも多くの隧道を見つけることが出来る。
そのうちの一本、当時の南郷村上張(あげはり)に描かれているのが、今回捜索を試みた隧道である。

チェンジ後の画像は、同じ範囲を描いた現在の地理院地図だ。
青田隧道は健在で、隣に新道である新青田トンネルが新たに登場しているが、大正5年の地形図に存在した小さな隧道たちは、全て表記が消えている。
この100年の間で掛川の市街地は、隣接していた旧西南郷村、旧南郷村、旧山口村の区域を呑み込むように拡大しており、その都市化に呑み込まれた隧道の多いことがうかがえる。


左図は今回捜索する隧道周辺の地理院地図だ。

隧道自体は描かれていないものの、それがあったと思われる小さな丘自体は、東名高速道路によって間近を貫通されながらも、辛うじて形を留めているようだ。
また、隧道の北側坑口に続いていたとみられる道の記号も描かれており、県道に面している南側についても、“ドット”レベルだが、辛うじてそれらしいものが見える。

今回私は、先ほどの旧地形図に描かれていた当地区の古隧道の捜索を集中的に行った。結果、いくつかの消滅を確認し、またいくつかの現存を確認した。
本隧道がどのような顛末であったかを、これから述べる。

左図中の「現在地」、掛川市上張の県道38号掛川大東線上から、レポートスタートだ。




2018/3/24 16:52 

写真は北向きを撮影しており、前方を門のように塞いでいる高架は、東名高速道路のものだ。
この地に国家プロジェクトである東名高速が開通したのは昭和44(1969)年のことで、その当時は郊外の丘陵地帯を貫いていたのだが、明治以来拡大を続ける掛川の市街地は、東海道線と東名高速に挟まれたエリアを徐々に充填し、さらに開通当初にはなかった掛川ICの整備(平成5(1993)年)をきっかけに、東名以南の郊外の都市化も進展しつつある。

写真正面、東名の向こう側に見える、こんもりとした木立のある丘が、ターゲットの在処とみられるが、第一印象として、現存への期待はあまり持てなそうだ。



高架をくぐって50mほど進むと、この写真の丁字路がある。
直進が県道で左折は市道だが(間にある神社は挙張神社という)、直進は大きな切り通しになっており、2車線の道路幅一杯に夕方のラッシュアワーによって濃くなった車列が行き交っていた。
この切り通しは大正5年の地形図にも既に描かれていた。
この県道掛川大東線は、主要地方道になっていることからも分かる通り、重要な幹線道路である。掛川の中心部と、平成17(2005)年に合併して掛川市の一部になった旧大東町および旧大須賀町という太平洋岸の地区を結んでいる。
前説で登場した青田隧道が作られる以前から、掛川と太平洋岸を結ぶ重要な路線だった。

さて、切り通しがあるということで、“隧道擬定地”という言葉が脳裏をよぎるが、探している隧道の在処はここではない。
この切り通しのある丘を貫いていたのは確かだが、ここよりもわずかに手前、東名高速の高架とこの丁字路の間にある50m間が、擬定地である。
だから、ほんの少しだけ戻るぞ。



16:54 《現在地》

はい、ここが新旧地形図の摺り合わせから求められた隧道擬定地だ。

私は東名高速の高架を背にしており、左側にはラーメン店、奥に上の写真の丁字路の信号が見えている。
すなわち、先ほどの切り通しの直前といえる場所だが、大正5年の地形図では、この右側に隧道が描かれている。

この段階で、開口している隧道は見えないが、岩肌が露出している部分があり、あっても不思議ではない地形だと感じた。
チェンジ後の画像で○を付けた辺りが、特に怪しい。
草の影になっているが、廃隧道が隠れていたりしないか?

自転車を歩道の隅に残して、行き交う人目はひとまず忘れて、崖際の緑へ突入した!



明らかに人の手による加工が加わった岩場に見える。

道路と崖の間に10m四方の平坦地があり、その山側2面が切り立った岩場になっていた。

岩場の下の方は植物が茂っていて見通せないので、そこに隧道が隠れていることが疑われたのである。



が、駄目!

期待された崖際には、植物だけでなく土砂も山をなしており、
仮に隧道があったとしても、小さなものであれば土砂に埋没していると考えられる状況だった。

呆気なく、期待を裏切られてしまった状況。
今いる南口よりは、反対の北口の方が現存の期待度は高いと思っていたので、
早くも諦めて移動することにしようかな…。



ラーメン屋の前の通りに戻った。奥に見えるのは、さっきくぐった東名の高架だ。


ん?

さっきまで気付かなかったが……

そこに、別の道がある…?



お客様……

ラーメン屋の電光看板が無機質の文字を流す前で、

特に期待もなく、しかし一応の作法として、小道の行く手を確かめる動作を始める。

まるで暖簾をくぐるように目線の高さにある笹枝を払いのけて、薄暗い向こうに見たのは――



目当てのブツだ!


くぁっはっはっは!! 笑わせやがるぜこの野郎!


Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA

こんなところにあると思うかよ? 普通?!(笑)
ちょっと上の画像をグリグリして、感じて欲しい、この立地の特異さを。

こういうことを書くと、発見の自画自賛だと思われるかも知れないが、
そんなことよりも伝えたいのは、この立地の持つギャップの面白さである。

幹線道路の道端にある、歩道の縁石さえ切られていないような何気なさ過ぎる脇道に、
大正時代の地形図に描かれていたような古い隧道が、ぽっかりと口を開けている。
それも、埋め戻されても塞がれてもなくて、立ち入り禁止のロープすらもない。
見つけた者には無条件での通行を許可するという、真っ当な隧道として存在していた。

…さすがは、“東海の隧道王国”掛川の懐の広さを見た気がする…。



改めて、坑口とご対面。

うん!

見れば見るほど懐かしい感じのする、素朴な素掘隧道である。
サイズ感は、直前の道の大きさからも分かるだろうが、いわゆる人道サイズ。
大人二人が手を広げれば、入口を完全に通せんぼできるだろう。
天井の高さも、大人の背丈を基準に考えてよさそうだ。

坑門、扁額、地蔵、古碑など、この隧道の由緒を伝えそうなものは何も見当たらない。
だから、隧道名も分からない。
しかし、それらの存在よりも遙かに頼もしく雄弁に隧道の存在感を示しているのが、出口の光である。
敢えて「通行止め」になっていないのは、この隧道が忘れ去られているからなどではなく、今も真っ当に道として使われているからなのだと思える。
自転車で汗ばんだ頬に、穴を抜ける涼やかな夕風が心地よかった。

(→)なお、見た目の印象とは異なり、この場所は静寂と無縁である。
耳たぶのすぐ後ろには、ひっきりなしに行き交う車列があって、ここからうっかり飛び出そうものなら即ペチャンコだ。誰もこんなところから人が出るとは思っていないだろう。



16:59 《現在地》

歩道に止めていた自転車を連れてきて、いざ入洞。
全長2〜30mに見える洞内は、坑口に対する印象と同様、極めて野性的だ。地層の模様がもろに壁面に見えていて生々しい凹凸が刻まれているし、当然土の匂いがする。
挙げ句、少し奥の左側の壁には横穴のような大きな凹みも見えており、手掘り隧道らしい怪しさだ。

なお、入ってすぐのところには、小さくない水溜まりが横たわっていた。
隅っこを通れば濡れずに済むだろうと思ったが、実際に水際へ進むと思いのほか泥濘んでいて、一瞬でトレッキングシューズの四周が泥まみれになった。

中まで濡れずに済んだのは助かったが、この時点で都会人の利用には適さないことが明らかだ。仮にこのトンネルが駅への近道(掛川駅までここから800m)たりうるとしても、日常の通勤・通学に利用するには勇気が要るだろう。

この程度の泥沼、オブローダーにとってはいわゆる“子供だまし”なのだが、社会の現実ではむしろ大人の方が避ける傾向にある。
そして子供の遊び場としては大活躍が期待されるわけだが、残念ながら(?)現状、あまり人気のある遊び場ではないようだ。
掛川にはもっと楽しい場所が沢山あるのかも知れないが、この泥に一度刻まれたら永く残りそうな足跡の数はさほど多くないし、自転車のタイヤ痕などさらに見当たらなかった。

右の写真は、水溜まりを越えた洞内から振り返った南口である。
どこかの山奥だと言っても信じられそうだが、よく見ると、県道を疾走するタイヤが見える。こんなにも近い。


これが、入口から見えていた横穴だ。

実際に覗いてみると、思っていたよりも小さい。奥行きも高さもだ。
人が掘ったものだとは思うが、匍匐姿勢でなければ出入りできないだろう。
市街地にある隧道内の横穴というと、第一に防空壕としての利用を彷彿するが、これはその目的に利用されたことはないだろう。
作りかけという可能性は、否定できないが。

なお、壁面の凹凸は沢山あるが、明確に人為的な横穴はこれひとつだけだった。




チェンジ前の画像は、隧道中央付近から15mほど先の北口を撮影した。
チェンジ後は、同じ出口まで残り5mほどの位置で撮影したものだ。
サイズ比較用に、自転車を設置している。

これらの写真からも感じられると思うが、本隧道は北口へ近づくほど断面が小さくなっている。
断面の変化が意図的なものなのか、内壁の自然な崩落によるものなのかは不明だが、後者であるなら、崩れた土砂は継続的に外へ運び出されていることになる。泥濘んでいる場所はあるものの、洞床に落盤の残骸はほとんど見られないからだ。

またこれも写真からうかがえると思うが、洞内は南口から北口へ向って一方的な上り勾配となっている。歩行でも感じられるくらいに傾斜しており、そのため南口付近だけ水溜まりが出来ている。

総合的に判断して、北口付近は建設当初の断面および洞床の構造を保っている可能性が高いと思われるが、その路面は土で平らに均されており、両側には水が流れる浅い手掘りの側溝がある。
一切コンクリートは使われておらず、同じ市内にある著名な道路用煉瓦トンネル群とは似ても似つかない、真に素朴な人道隧道の姿であった。



さて、それなりにゆっくり味わっても、わずか2分ぶりの外へ。

この北口は、南口のように鬱蒼としてもいないし、喧騒に満ちてもいない感じがする。
(本来この二つは相反するものなのに、南口は両者が共存する希有なシチュエーションだったのだ)

少し崩土が堆積して狭くなっているが、だからといって封鎖されていたりはしないようだ。
なにか南口には見られなかった立て札らしいものも見えるが、なんて書いてあるのだろう?



崩壊注意 掛川市


わっはっはっは!!

「崩壊注意だよ(でも塞がないよ)」。 天晴れだ、すばらしい!

さすが掛川市は分かっている。私が愛する隧の姿を分かっている。

あるがままじゃないか! 駅から5分の好立地でこれはすばらしい。



北口の印象は、森の中に口を開けていた南口とは大きく異なっていた。
わずか30mほどの小隧道だったが、トンネルならではの“ワープ感”をこんなに感じられるとは、驚きだ。

北口の周囲はまるで、手入れの行き届いた庭園のようだった。
これはたまたま私が草刈りの直後に訪れたのかもしれないが、坑口に通じる道の周囲だけでなく上部の山肌まで綺麗に刈り払われているため、山を穿つ隧道の存在が究極に際立っていた。
コンクリートの壁に穿たれているわけでもない全く素朴な素掘り隧道が、このような姿で開口している姿は、過去に見た覚えがない。
それは一種の神聖さすら感じさせる佇まいで、私は少し見とれてしまった。

……が、この清らかさも完璧ではない。
なぜなら、私の両靴と愛車の両輪には、隠し立てが出来ない素掘り隧道との濃密な格闘の痕跡が刻まれているからだ。そして、こんななりで再び市街地へ何食わぬ顔で走り出す、そんな少しだけ未来の自分を想像するのは、愉快だった。
私はこの街に隠された(私の)宝の在処を知ってしまったのだ。もうさっきまでの“よそ行き顔”の私はいない。



17:02  さて、どこなんだここは?

GPSの画面には、当初予想した通りの位置に隧道が存在することを知らせる《現在地》が表示されていた。
すなわち、掛川市上張の一角にいるわけだが、大字レベルでは南口も同じだし、番地までは知らない。
いずれにせよ、たった2分でラーメン屋の暖簾も鮮やかな掛川の幹線道路から、どこか郊外の田園地帯へと抜け出したような印象であるのに、地図上では本当にわずかしか移動していないのが面白かった。

前方にさっそく民家が見えるので、道なりに進む。
数メートル前進し、坑口前の掘り込みを出ると、そこが隧道南口から続いていた上り坂の頂上で、大袈裟に言えば峠だった。




頂上で一気に視界が開け、右手の100mほど先に東名高速道路の特徴的なコンクリート防音柵(最近の高速道路では使っているのを見ない気がする)の列が見えた。

高速も同じ丘を並んで貫いていたわけだが、あちらはトンネルはおろか切り通しすら要しておらず、同じ道でも規模の違いが極まっていた。
それだけに、高速の通過する場所が、もう少しだけこちら側へずれていたら、隧道など50年前に跡形もなく消えていたはずだ。

だからなんだという話ではあるが、これだけの都市化が進んだ地域にあって、この小さな隧道が残ったのは、なかなか紙一重な出来事であったと思う。
実際、この日に巡った周辺の多くの古隧道の中で、現存を確認できたものは少数だった。



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峠と呼ぶには些か可愛らしい坂道だったが、

その頂上から行く手に見えた意外に雄大な眺めに、頬が緩んだ。


古い城趾のある小高い丘阜を中心に展開する掛川の中央街区が、前方の視界いっぱいに飛び込んでくる。
その向こうにはこちらを鏡に映したような茶葉色の丘陵が横たわり、背景は屏風絵みたいな南ア南縁の山並みである。
これまでの行程を振り返っても、とてもこんなに高度を上げてきた記憶はないのだが、
これは単純に、掛川の市街地が東西方向に流れる逆川沿岸の低地にあるため、このように見える。
南側から近づく場合、必ず最後は下り坂を通って街へ入っていくことになるわけだ。



17:04 《現在地》

坑口からわずか50mほどで、市街地の一角に抜け出した。
そこに写真の十字路があり、左折すれば県道38号の【切り通し】の北側へ130mで通じる。直進と右折も道は狭いがそれぞれ市内の各所へ通じている。

チェンジ後の画像は、同地点で振り返って撮影した。
くぐってきた隧道の北口がギリギリ見えるか見えないかくらいの微妙な位置だが、地形的にはわざわざ隧道で掘り抜けているとは思えないくらいの低い丘だ。

そのうえ、現在の地形図(GoogleマップとYahoo!地図も)には全く描かれていない隧道だけに、ここから先へ進むのは、もともと知っている地元の人か、古い地形図を見たオブローダーくらいではないだろうか。
改めて見てもやはり、車道、特に自動車が通う車道としては圧倒的に狭すぎる道であり、隧道だった。

探していた隧道自体の現存は、何よりも大きな収穫といえるが、「開通記念碑」のような隧道の素性を知らせてくれるアイテムには、最後まで巡り会えなかった。
なお、既に『掛川市史』は読了しているが、同書にも本隧道に関わる記述はなかったはずだ。
まあ、ブツが見つかったので良しとしよう。これで現地探索終了だと思ったその瞬間に、目の前のビニールハウスにいる1人の“古老”が目に入った。

「お仕事中に、すみませ〜ん!  私は……」

こうしてたまたま入手できた証言ではあったが、古老の舌の滑りは予想以上のものがあり、楽しげに語っていただいた内容は、気付けば私まで笑っているような濃さがあった。



上張の手掘り隧道(仮)に関する古老証言集 (括弧内は私の補足)

  • この隧道は昔の主要道路だった。私の亡くなったお爺さんのお爺さん(ひいひいおじいさん?)は、御前崎で獲れた魚を担いで、この隧道をくぐって掛川まで売りに来ていた。夜のうちに隧道まで来ると、朝方まで隧道の中で寝て過ごしたことを話していた。
  • 隧道には名前はついていないと思う。ただ、この場所はかつて上張の中でも「西ノ谷」と呼ばれる場所だった。
  • 前市長が、「こういう古いものは大切にしなければいけない」と、この隧道にも気をかけてくれて、崩れないように整備することも計画されたが、結局予算が付かずにそのままになっている。昔は近くの結縁寺という場所にも同じような隧道があったが、今となっては周辺で唯一の(素掘りの)隧道だと思う。
  • 隧道の中にある【小さな横穴】は、南口の隣に昔住んでいた住人が、物置として掘ったのだと思う。
  • 夏は、隧道の中は涼しいし、蚊もいないので、隧道の中で寝るのが良い。(この話で笑ってしまった。先代の血がそれをさせるのだろうか?笑)

全体的に隧道への愛着が強く感じられる証言の内容であった。
中でも最も印象に残ったのは、御前崎の海へ通じる“昔の主要道路”だったという話である。
ひいひいお爺さんの話というのが本当ならば、少なくとも80年以上は昔の話だと思われるが、御前崎方面へ通じる県道に煉瓦隧道がいくつも建設された明治中期よりも古い話であることも、十二分に考えられるだろう。

今日、同じ役割を担う“主要道路”といえば、【切り通し】を通る県道38号線であるが、隣接する無名の小さな隧道が、県道の旧道だったのではないかという夢のある説が想起されるわけだ。

右図は、近世の掛川から四方に伸びていた主要な街道の位置を示している。
御前崎周辺の太平洋岸にある相良(さがら)や浜野から掛川へ通じる街道があり、これは内陸部へ生活必需品である「塩」を運ぶ重要な道であったという。これらの道で掛川に運ばれた塩の一部は、さらに秋葉道(信州街道)を通って遙か飯田方面まで届いていた。今回の隧道は、ある時期において、この壮大な地方交通網の一翼を担うものであった可能性がある。

現地調査はこれで終了! 市史にも記述のない隧道の正体に少しでも迫るべく、このまま机上調査へなだれ込むぞ!




右は、冒頭でご覧いただいた大正5(1916)年の地形図と、その17年前にあたる明治32(1899)年の地形図に比較である。

余談だが、古老は「結縁寺」(けちえんじ)という場所にも、よく似た隧道があったといっていた。大正5年の地形図を見ると、確かに「結縁寺」という文字の近くにも隧道が描かれているのが分かる。この隧道の跡地と思われる場所は、現在は切り通しになっていることを確認している。→(跡地写真)

ここで見ていただきたいのは、明治の地形図だ。画像をチェンジさせて見比べて欲しい。

明治32年版では、今回探索した隧道も含めて「青田隧道」以外の小隧道は、ほとんど記載されていない。

また、青田隧道から掛川市街地にいたる道は、どちらも同じ県道の記号で太く描かれているが、微妙に位置が違っている。
大正5年の地図では綺麗な一直線だが、明治32年の地図だと少し西へ膨らみながら蛇行しており、現在の【切り通し】はまだ切り開かれていなかったことがうかがえる。

しかしいずれにしても、この明治32年の地図が正確であるならば、今回紹介した上張の手掘り隧道が出来る以前から、すぐ近くにさほど迂回するわけでもない県道が通じていたことになるわけで、しかも同路線上に青田隧道(写真)という、馬車も自動車も通行できるような高規格な煉瓦隧道が整備された後の時代に、わざわざ県道の新道として、あの素朴な素掘り隧道を建設したというのは、少々筋書きとして不自然な気がしてしまう。
古老は「昔の主要道路」と言っていたが、この地図を見る限りは、納得できないというのが正直なところだ。
せいぜい、脇道というのが正解か?

これまた余談だが、明治32年の地形図には、古老が現地の小地名として挙げた「西ノ谷」という名前が、ちょうど(描かれていない)隧道の辺りに表記されている。
この小地名は、大正以降の地形図からは消えてしまっているので、古老の記憶の中にある今は使われていない古い地名だったのだろうか。
こういう話があると、敢えて「西ノ谷隧道」と呼びたくなるなぁ。


だが、まだこれで話は終わらない。
明治32年よりも古い地形図が当地には存在しており、それを調べたのである。
左図は、明治22(1889)年の正式版2万分の1地形図である。

通常、古地形図と言えば縮尺5万分の1が普通で、それ以外の縮尺のものは、限定的にしか調製されていない。
だが、我が国は当初、2万分の1地形図で全国をカバーする意欲的な計画を持っていた。明治10年代に仮製2万図(いわゆる迅速測図)を関東地方の一部などで作成し、さらに明治20年代から正式版2万図の調製をスタートさせた。だが、この大縮尺では全国をカバーするのに非常な年月と資金を要することが明らかになったことで、明治30年代から縮尺を5万分の1まで抑えて全国の地形図を作成したのである。
掛川周辺は東海道筋という国幹にあたる重要な地域であったために、この2万図が完備されており、結果的に現代の地形図(2万5千分の1)を上回る大縮尺で、明治初期の地形を調べることが出来る。

なんとこの明治22年の地形図には、今回紹介した上張の隧道が、ちゃんと描かれている! これと、古老が話していた結縁寺の隧道を含め、大正5年の地形図には描かれているが明治32年の地形図には見えなかった隧道が、全部で3本。
そして、明治28年の完成ということがはっきりしている青田隧道は、まだ影も形もない! 代わりに、車の通わぬ難所だったといわれる山越えの道(青田越)が太く描かれていた。

要するに上張の隧道は、青田隧道よりも古かった!

それがはっきりした。
であるならば、あの素朴な外見も、後に作られた青田隧道と比較して不自然なところは何もないわけだ。

明治22年の図でも、上張の隧道が県道として描かれているわけではなく、その点は古老の証言とイメージを異にするが、地形図が必ずしも道の利用実態まで表しているとはいえず、特にこの頃の地形図の道幅は実際の道幅とは無関係で、県道だから太く描いているに過ぎないのである。
だから古老の証言通り、上張の隧道が主要道路として使われていた“実態”があった可能性も全然あると思う。そもそも、主要道路が1本だけと決まっているわけでもないしな。
仮に隧道が主要道路でも何でもなかったとしても、明治22年以前から存在していた古隧道が、市街地にこれだけ取り囲まれながらどっこい現存していて、しかも塞がれたりもせずに使える状態になっていることは、驚いてよいことだと思う。

それにしても、地図を見ても現地を見ても、それほど迂回が難しいように思えない小さな丘を、わざわざ隧道を掘って短絡するようなことが、なぜこの周辺で明治の初期に何ヶ所も行われていたのだろう。不思議である。低地がよほどの湿地帯であったとか、何か理由がありそうだが。
分からないことはまだある。隧道名さえも不明のままだし。
しかし、隧道が残り続ける限りは、これからも思い出が紡がれ続けることだろう。
古老の思い出――、夏の素掘り隧道内で寝るのは、どうなんだろうな? 一度だけ……やってみようかな。



完結。


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