ミニレポ第250回 紀美野町高畑の激レア線形 付録編

所在地 和歌山県紀美野町
探索日 2020.03.05
公開日 2020.03.13

平面ループカーブの先に待っていた、不思議な道


激レアな平面ループカーブの紹介は、前回で終わった。
それはかなり麓に近い位置にあり、簡単に辿り着けた。
今回の探索の目的は早くも達成したが、私はそこで引き返さず、さらに先へ進んだ。

動機は一つ、こんな珍しい線形を有する道の先行きが気になった。
この道は地理院地図に描かれていないが、グーグルアースのような航空写真を見ると、山のずっと上の方にある何かの施設(その建物は地理院地図にも描かれている)まで、ずっと続いていた。
しかし、ストリートビューも入っていないので、実景を確かめるには自分自身でこの道を行くしかなかった。

もっとも、終点まで行って、本当に何も変わった景色がなければ、わざわざこの回を書こうとは思わなかったに違いない。前回の最後に終点の写真を1枚貼り付けて終わりだったろう。
少なからず、見せたい、共有したいと思える道路風景があったので、“付録編”という形で、この回を書いた。

それでは、前回の続きから、ご覧頂こう。



2020/3/5 14:55 《現在地》

今度は、ここを右へ行くぞ。しかし、ここだけ見るとまるでスイッチバックだ。

当たり前だが、自転車や徒歩の場合、平面ループを活用する必要性は全くないので(自転車で下る場合のみ、一応現実的な活用が可能か)、ここをショートカットで曲がるのが普通だと思うが、私は大真面目にループを通ってきた。

何度でも言うが、右の道の入口はほんと物凄い勾配の不連続さで、違和感が半端ない。




絶対に無理してるぜぇ、この線形!(苦笑)

もし凍結していたら、冬タイヤでも登れないだろうし、安全に下ることも難しそう。

ただ、もしこの急斜面のこの位置に通常のヘアピンカーブを設置しようとしたら、相当大規模な盛り土と切り取りが必要になるだろうから、ここの事例に限っていえば、工費の節約にはなっているかも知れない。
結果的に、急斜面を横断する道を2本から1本に減らすことにも成功しているわけだし、防災面でもメリットはあるだろう。
まあ、あくまで素人の見立てだが。



平面ループカーブという無理な線形の余波をもろに被っている感じで、これまでになかった猛烈な急坂が続いている。
特に標識類で明示はされていないが、14%前後はありそう。道路構造令の規格外っぽいし、整備されたのは構造令が出来てからだと思うが、大丈夫だったのか。

脚に全力を込め、さらに狭い路上でセルフ九十九折りを描きながら、じわじわと上った。
路肩のガードレールの外は、ススキの原っぱと果樹畑が半々くらいで、国道が通じている谷底が爽快に見下ろされた。
しかしこれでもまだ全体の半分も上っていない。上りはまだまだ続く。




14:59 《現在地》

先ほどの分岐から150mほど頑張ると、また切り返しのカーブが。

平面ループなんていう変態技が2度繰り返されることはなく、いたって普通で穏当なカーブになっている。
あくまでも平面ループは、ネタでなく、真面目に繰り出された技だったんだなと、なんかしみじみ。



切り返して次の段に入ると、急に登り方が穏やかになった。
前の段と較べたら、まるで水平なトラバースのように感じられた。これで平面ループの影響圏から、完全に脱したと思われる。

この段に入って間もなく、初めて沿道に家屋を見た。
高畑集落を構成する住居の一つだと思うが、先に家屋敷があり、後から道路が出来たものだろう。
住民は、日本一頻繁に平面ループカーブを利用している人物かもしれない。




15:04 《現在地》

目指すゴールとの比高はまだ100m近くあり、引き続き上らなければならないのだが、この段は過剰なほど緩やかで、自転車の私にとって足休めにはなるが、なかなか上っていかないことにもどかしさも感じた。
しかも、これまでの段は毎回100〜200mで切り返してきたのに、この段は500m近くもダラダラと北東へ樹林帯のトラバースを続けていた。

写真は、ようやく現われた切り返しのカーブで、印象に残るレベルで深く地山に潜り込んだヘアピンカーブであった。
アールの大きさは平面ループカーブと同じくらいだろうか。路面状況から窺い知れる些少な交通量の割りに、意外な大工事である。



次の段は、また急ピッチに上っていた。
進むほど着実に終点へ近づいていると感じるのは、道全体が、なんとなく新しくなってきているからだ。この道は行き止まりであるはずで、奥ほど新しいはず。
それにしても、ずいぶんちゃんとした道なのに、なぜか地形図はこの道を無視している。

この段は一転して短く、すぐに切り返しとなり、新しい段へ。
この辺りで、地形図にない区間へ入ってから約1kmを走っていた。
標高も着実に上っていて、地形図にない区間だけで100m、下の国道から120m以上高いところに来ていた。

路上の眺望も、よく上ってきたと自分の頑張りを褒めてあげたくなるような変化を見せていた。
ガードレール越しに、貴志川の対岸に聳える山並み(長峰山脈と呼ばれる紀美野町と有田川町の町境、海草郡と有田郡の郡境でもある)が、とてもよく見えた。谷底の国道からこの稜線は見えないのだ。爽快な眺めだった。



この高さにもまだ柿畑が点在している。
右に左に、ガードレールの位置が交互に入れ替わり、その度に眼下の眺めは爽快なものに変わっていく。
何気なく柿の木の斜面を見上げると、切り返した先の道があり、そのさらに上部に、荘厳な瓦屋根の稜線が光っていた。

「まだ上に家があるのか!」

そんな素朴な驚きがあった。
そういえば、私は各地で数え切れないほど集落を見てきたが、内訳は圧倒的に路傍に連なるような街村が多く、この手の高低差が大きな斜面に点在するタイプの集落は、経験値を積んでいないことに思い至った。

これは、オブローダーの習性として基本的に幹線道路――むかし幹線道路だったところも多いが――を歩いており、今回のように純農的で街道筋から遊離した行き止まりの道に足を踏み入れることは、比率的に少なかったのだ。
私の経験が意外に網羅していなかった部分に、気付かされた感じがした。



15:13 《現在地》

地形図にこの道は描かれていないが、この道によって到達される住居は、おそらく全て描かれている。
平面ループカーブから約1.5kmを20分ほどかけてノロノロ上って、大字高畑に存在する家屋の記号で最も高いところにあるものの近くまでやってきた。それは右のコンクリート擁壁の上だ。直前に見上げた瓦屋根の屋敷である。標高約290m。国道よりも150m近く高い。

辺りを見渡しても、近くに他の家はなく、断トツ高いところにポツンと離れてある。
この整備された車道があれば、麓と大差のない生活かも知れないが、もしそうでなければ過酷な立地だ。




一番高い家を過ぎても、まだ道は続いている。地形図には、この上にもう一つだけ建物が描かれていた。それは通常の家屋と区別される「建物類似の構築物」の記号であり、航空写真でも建物の屋根が見えたが、実際に何があるのか気になっていた。おそらくこの道の終点もそこだろう。
そういえば、入口に【壊れた看板】があった「○○料理倶楽部」は、どこへ行ってしまったんだろう。こんな山奥のドンズマリで営業していたのだとしたら、驚きだ。

そして、ここで初めて自動車と出会った。
山菜採りの最中なのか、バックドア全開のまま乗員の姿が見られなかったが、長閑なものだ。もしドライバーと遭遇できたら、平面ループの感想を聞きたいと思ったが、最後まで出会わず。



15:14 《現在地》

次の切り返しのカーブは、分岐地点でもあった。
本線は切り返して右に進むが、左には軽トラがギリギリ通れるくらいのコンクリート舗装路が分かれており、かなりの急坂で下っていた。

現地では柿畑の農道とくらいにしか思わなかった、やはり地形図に記載のないこの道だが、帰宅後に旧版地形図を調べたところ、いわゆる旧道と判明。
いま上ってきたそれなりに立派な町道が整備される以前は、この道が高地への唯一のアクセスルートだった模様であった。




新旧道が一つになったことで、おそらく旧道の勾配をなぞる形になったものだろうか、これまでで2番目くらいの急勾配で、残った汗を絞りにきた。
それだけに高度もぐんぐん上昇し、少し前に見上げていた瓦屋根はもう眼下だ。上ってきた道もよく見えた。

ここで初めて見るものもあった。
東の谷を一つ挟んだ向かいの稜線上に、白くて円い、極めて特徴的な形状の建造物が現われた。
その外見的特徴から一目で天文台であることが分かった。

こんなことさえ事前に調べていなかったが、これは紀美野町営の「みさと天文台」で、旧美里町時代の平成7(1995)年に開所された現役の施設だそうだ。
なんでも、美里町は全国屈指の星空の綺麗な町に選ばれたことがあるらしく、その縁で整備されたそうで。
前に国道370号が世界初のメロディロードだと書いたが、そういえば奏でられたメロディは、「見上げてごらん夜の星を」だった。
天文台は、この道と直接関わりのあるものではないだろうが、この道の夜空を想像することは、旅の価値を少なからず上乗せしてくれた。



15:15 《現在地》

最後の切り返しから、急坂を50mほど上ると、ついに、ゴールを疑わせるような風景が現われた。
この書き方から分かるように、実はまだ目的地に辿り着いていなかったのだが、常にGPSで現在地を見ているわけでもない私が、一旦は「ゴールに到達した」と思ったのが、ここだった。

これまでずっと一定の幅を維持していた舗装路は、ここで唐突に、いかにも終点広場のように見えた未舗装の平場に突き当たったのである。
国道から約2km、【最初の分岐地点】から約1.7km、平面ループから約1.5kmで到達した、海抜約300mに位置する、平場だった。

ここでメタな話をすると、私はこの回の冒頭に、平面ループの先にも特に見せたいと思える風景があったから付録という形でこの回を書くとした。
しかし、読者諸兄の大半は、ここまでそれが何であったのか図りかねたことだろう。
確かに、自転車の漕ぎ甲斐がありそうな坂道と、そこから独り占めされる眺望も紹介する価値はあったと思うが、意外性のあるものではなかったと思う。

実は、このレポートを延長してまで紹介したかったものは、

ここ。

一旦は終点かと思ったこの場所こそが、おそらく誰もがその正体を知れば「へー」と唇を尖らせる、ちょっと変わった意外性のある場所だった。

この場所が、何か変だなと感じたのは、それこそ到着してすぐだった。

到着後すぐに撮影した全天球画像(↓)を、見て欲しい。





Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA

なにこの直線道路

散々上って登り着いた先は、最初ただの広場かと思ったが、左右を見回してみると、めっちゃ奥行きがあった。

それは、山腹に据え付けられた極端な直線道路で、しかし未舗装路。

第一印象として連想したのは、飛行場の滑走路?!

もちろん、こんなに幅の狭い滑走路があるのかという疑問もあったが、第一印象は間違いなく滑走路。



なんだこれ、 本当に。



を見ると、こんな感じ。

路傍の木の陰になって奥行きは見通せないが、水平な直線が100mは続いていそう。

場に似つかわしくないような現代的な電波塔が見えるが、直線道路と関係はないと思う。

また、奥の山の尾根には天文台があるのだが、そちらとの関係がある?

ま、まさか宇宙基地?! UFOの着陸施設か?!



は、こんな感じ。

こちら側は、終わりが見えた。

50mほど先で水平路から上り坂になり、その短い上り坂の奥に、神社っぽい屋根が見えた。

地形図には描かれていないが、神社があるらしい。



携帯の電波が立ったので、その場でグーグルアースを表示させてみると、

確かに道の終点から左右へ直線道路が延びているのがはっきりと写っていた。

そして、左方向の行く手には地形図には描かれていない「琴平神社」の表記があった。

神社…… 直線道路……

私の想像力では、これらのワードは「参道」という風にしか結びつかなかったが、参道にしても奇妙だよな……。



平面ループで終わりだと思っていたのだが、最後に現われたこの“謎の直線道路”に、俄然興味が湧いた。

空中写真を見る限り、この直線道路は海抜300mの山腹に沿って、おおよそ200mにわたって続いている。

私は、左右どちらの道を行くか選ばねばならなかったが、最終的には両方行くとして、

まずは、最終目的地に近づく方向の右へ行くことに。

右の方が景色が良さそうなので、もう早く見たかったのだ。




これは凄いぞ。 凄く爽快だ。

謎の直線道路は、そのまま巨大な展望台だった。



1000人が並んで腰掛けて、お弁当を食べながら、

長峰山脈の雄大な眺望を楽しめる、不思議な直線道路だった。




15:20 《現在地》

謎の直線道路の東端に達した。

ここまで本当に綺麗な真っ直ぐだった。

そして、その先へ道はまだ続いていた。
だが、もう直線ではなく、普通自動車での走行は躊躇われるような極狭のコンクリート舗装路で、しかも急坂だった。
そしてこれが、私が最終目的地としていた“謎の建物”へ通じる唯一の車道だった。

いま思うと、この道は先ほど通過した【最後の切り返し】で合流してきた“旧道”の続きだったのだろう。作りが全く同じだったと思う。




正面に見える白い天文台と背比べをするような感じで、今度こそ最後の上りを行く。
実際は天文台が100mくらい高いところにあるが、あまり差は感じない。
彼我の直線距離は1kmを切っている。

路傍に小さな墓地があり、そこからの眺めがまた絶景だった。
面白おかしく平面ループを走っていた30分前には、このような絶景の結末を予期しなかった。
どちらも同じ道の景色だが、全く方向性の違うものであり、この二つどうやってレポートにするか悩みながら走った。しかし、既に没の可能性はゼロだ。ミニレポ向きだろうが、帰ったらすぐに書きたいと思った。




それからすぐに切り返し。

この切り返しのアールのきつさは、特筆に値する。
完全に軽トラ専用道路といった趣だったが、軽トラを運転したことがないので、本当にこんなカーブをスムースに曲がれるのかは分からない。

切り返すと、その先がまた凄くて、印象として、絶海を行く船の舳先みたいなところだった。
しかしおそらく、旧道がまかり通っていた時代には、麓からここまで全部がこんな感じだったろう。平面ループが最高に高規格と思えるような、狭さ極まる本気車道(ガチロード)だった。



15:24 《現在地》

国道から約2.5km、ついに高畑地区で車道が到達しうる最高地点であり、私の最終目標地へ。

地形図に描かれていた「建物類似の構築物」の正体が存在した。
そこにあったのは、シャッターを閉ざした大きめの倉庫のような建物で、おそらく農業用倉庫だろう。
周囲が柿畑なので、それ関係の施設と思うが、人気も看板もないので正体は不明。廃墟ではないと思う。
形の良い椎茸が山盛りに実った榾木が、路傍に無造作に並べられていた。収穫しないのかな。

ちなみに、地形図に描かれている建物の位置は実際とは50mくらいずれていて、高度も地形図だと320m附近だが、実際は340mに近かった。


こうして、謎の直線道路の東端から辿り着く、高畑集落のてっぺんを攻略終了。
帰路は、謎の直線道路の西端にあった、琴平神社とやらに寄ってみよう。
直線道路の正体が掴めるといいが。




15:30 《現在地》

直線道路の西端へやってきた。
奥に見える建物を目指して進む。
神社っぽいと思うが、鳥居などは途中にない。
最後は上り坂で、境内らしき平場へ入る。



振り返る、直線道路のほぼ全景。

皆さんの中で、既に答えを察した人はいるだろうか。
私は、帰宅後に調べるまで正解に辿り着けなかった。
私の推理力不足であった。




心が、洗われる〜〜。

5日間に及ぶ紀伊半島遠征の最終日も終盤に差し掛かっていた私が体感した癒しの力は凄かった。

これから境内の写真を数枚お見せするが、神社に関しては多く語れるような知識も観察力もないうえに、
結局私はこの観察で当神社と直線道路の関係を見出すこともなかったので、細部の紹介は省く。



(←)
直線道路から見えた建物は、本殿ではなく神門(寺院でいう山門)であった。
これだけでも、規模の大きな神社だったことが窺い知れるのであるが…

(→)
神門の建物部分が倒壊しかかっていて、気の毒だった。


(←)
神門の外には案の定、石段の参道が延びていたが、落葉や倒木に覆い隠されて、既に通行は困難に見えた。
確認しなかったが、この方角に下って行くと旧道があるはずなので、旧道沿いに本来の参道の入口があると思われる。
現在は、直線道路がこの石段の代わりの参道であるようだ。

(→)
倒壊しかかり、参道を葬られた神門の様子からは、悲しい廃社の姿を想像したが、正面石段の上に建つ拝殿は、幸いにして健在だった。
とはいえ、過疎山村の奥に佇む地形図にも載っていない神社の将来を思うとき、いずれ全てが神門と同じくなるのではないかという心配は深く、旅の終わりに訪れた私の心境も相まって、燃え尽きる間際の炎に感ずるような清純の美が、胸に迫った。


(←)
それから私はやはり門のようになった拝殿を潜った。
絵の消えた巨大な額縁が置かれた拝殿の天井には、太鼓張替の名目で、数十人の寄進者氏名が掲げられていた。
出身地を見ると大阪府内など隣府県の地名も多くあって、かつて当社が近畿一円の信心を集めていたことを知った。

(→)
最後は、拝殿から狛犬に見守られながら本殿に参拝し、なんだか探索開始時点よりも気力を満たされた感じで、意気揚々と山を下りた。(そして撮影したのが前回最後の動画)



……しかし、この神社に通じる不思議な直線道路の正体は、なんだったのか?



帰宅後、和歌山県神社庁のサイトにある琴平神社の個別解説ページを見たところ、ズバリ正体が判明した。


当社の創建については、讃岐の国金刀比羅宮より勧請したとも伝えられるが、金刀比羅宮とは祭神が異なり時期についても定かではない。
主祭神と社名が一致しないことについては原因不明であるが、古くから琴平神社として親しまれている。
『続紀伊風土記』には、高畑村の小祠として記載されており、古くは村内の一小祠であったが後に高畑村の氏神として奉斎されるようになったと推察される。
明治期、地域の小祠に祀られていた「まるすてんの神」、「倉稲魂神」、「猿田彦神」、「五社明神」を合祀した。
現在の拝殿は、皇紀2600年記念事業として造営されたものである。
また、昭和57年には本殿の覆舎を一氏子の寄進により造営した。
かつては、秋の大祭に境内にある馬場で「馬駆け」が行われ賑わった。
近年、氏子数の減少、高齢化が進んだが、秋の大祭に奉納される獅子舞が氏子により継承されている。

“かつて秋の大祭に境内にある馬場で「馬駆け」が行なわれ賑わった。”

境内で神馬を走らせる馬駆け神事は、各地の神社に様々な形で伝わっている。
三重県桑名市の多度大社で行なわれる上げ馬神事や、神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮の流鏑馬(やぶさめ)神事などが特に著名である。
流鏑馬に使われる馬場の長さは伝統的に2町(約216m)とされており、この高畑の琴平神社前にある馬場も、同程度の長さだった。

残念ながら琴平神社での馬駆け神事は既に行なわれていないようだが、ススキ薫るあの高原で、大勢の村人に見守られながら、長峰山脈の稜線を脇目に躍動する馬体を想像すると、それだけで華やいだ気持ちになった。

全てを終えて下山した私の前に、全てを知っていそうだった【あのヌコ】の姿はなかった。彼が積載されていた軽トラ自体が消えていた。この事実は何を示しているのか。まさか、ヌコを載せたまま走り去ったとでもいうのであろうか。


完結。


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