今回は、変わり種のトンネルを紹介する。
ジャンルとしては、河川を利用した木材輸送、すなわち、流材のために作られたトンネルである。
水の力を利用して木材という物資を輸送するためのトンネルであるから、大きく分ければ道路トンネルや鉄道トンネルと同じ交通用トンネルの一形態といえるが、使用時は水を流す前提であるから、水路トンネルを兼ねることが前提となる、一風変わった存在だ。
私がこれまでに出会った数からしても、全国的には相当に珍しいものであると思うが、紀伊半島に集中して多く存在している。
当サイトで既報のものとしては、十津川村の芦廼瀬川にあるものや、下北山村の池郷川にあるものがある。これらはいずれも紀伊半島最大の水系である新宮川水系(熊野川水系)に属するが、今回紹介するものは半島南部の古座川水系に存在する。
私がこの流材トンネルの存在を知ったきっかけは、先ほど紹介した池郷川の流材トンネルについて調べている際、ご協力いただいた方から、このようなものもあると、「日本風景街道 熊野」にある記事をご教示いただいたことによる。
上記リンク先を見ると、地元の「古座川街道やどやの会」の情報提供として、「材木流しトンネル」が写真および地図付きで紹介されており、あわせて次の解説文が掲載されていた。
国指定天然記念物「古座川の一枚岩」の下流に「かもしか峡」と呼ばれる屏風のように急峻な岩山が続く場所がありますが、この岩盤を削って旧国道が通っています。その法面の途中にトンネルがありますが、これは支流の立合川から丸太を古座川本流に流すために岩山の狭隘部分にバイパスとして開けられたトンネルで、昭和初期に造られたものです。今は使われていませんが、渇水期にはトンネルに刻まれたステップで立合川側のトンネル入口まで歩いて行くこともできます。近代産業遺跡ともいうべきトンネルです。(2012.3.2)
「丸太を古座川本流に流すために岩山の狭隘部分にバイパスとして開けられたトンネルで、昭和初期に造られたもの」 という説明は、まさしく流材のためのトンネルで間違いない!! ここにもあったか!!
なお、続けてWEB上を調べてみると、あのトリさんが、2020年にここを探索していることを知った。(→レポート)
彼女の場合、半島南端の町串本にある道の駅でたまたま手にした観光パンフレットに「材木流しトンネル」という表示を見つけ、それを手掛りに現地を訪れていた。
このことからも、本件は地元でそれなりに知られた存在ということが窺えるが、遅ればせながら私も2024年12月の紀伊半島遠征時に探索を試みた。それが今回のレポートである。
2024/12/13 15:35 【周辺図(マピオン)】/【現在地】
予め資料によって場所が分かっているので、近くまで車で来て、いま自転車に乗り換えたところ。
現地は、古座川町一雨(いちぶり)の古座川沿いで、国道371号の旧道からアクセスする。
これまで紹介済みの探索の中では、「和歌山県道228号高瀬古座停車場線 月野瀬不通区」が、この古座川沿いの8kmほど下流であった。
そしてこの頭上にあるのが国道371号で、私がいる道が旧道である。旧道も生活道路として健在で、いまは町道一雨相瀬と呼ばれている。
この区間の国道371号は何度も車で走ったことがあるが、旧道は今回が初めてだ。
本題ではないが、せっかくなんで味わいながら旧道を目的地を目指すことにしよう。すぐ近くらしいが。
出発!
古座川を右に見ながら下流へ向けて出発すると、すぐさまロックシェッドが待ち受けている。
銘板の類が全くなく素性不明だが、資料によると単に「2号ロックシェッド」という名称で、全長は85m。そして竣功年不詳である。
作りも風合も新しそうに見えるが、道幅は少しだけ余裕のある1車線に過ぎず、幹線道路としては物足りない。
調べてみると、ここが旧道になったのは昭和63(1988)年頃と、そんなに昔ではない。
古座川沿いにはまだまだこの上流にも多くの集落が点在しているのだが、一昔前まで、このような狭路が暮らしの生命線だったことが分かる。
こうした陸路の整備の遅れと、雄大な河川の存在が、紀伊半島での木材流送が大いに発展した大きな理由であった。
実際、古座川流域での流送の歴史は長く、古くは室町時代に実施の記録があり、これが昭和40年代まで存続したという。
地形図だと1本の長い覆道のように描かれているが、実際は短い明り区間で、この2本目の覆道「1号ロックシェッド」(全長40m)と分れている。
こちらも古さを感じられない外観で、実際、昭和50年代の航空写真には影も形もないから、国道時代の末期に整備されたもののようだ。
そして地形的にも物凄く険しいところである。今回、遠景からスタートせず、いきなりこの崖の下から始めてしまったので、少々絵的に伝わりづらいと思うが、絵に描いたような川べりの崖道だ。典型的な交通の難所であろう。
この写真でも、ロックシェッドの向こう側に見える、妙に赤茶けたような凸凹の強い岩場が見えるかと思う。髑髏岩と呼ばれている。
観光名所として有名な「古座川の一枚岩」が、ここから少し上流にあって見たことがある人も多いかと思うが、この旧道に聳えている岩壁や奇岩も、地質構造的に一枚岩と連続した存在とされている。
おっ! ちょっとした発見だこれは!
1号ロックシェッドの内部には、山側に立ち並ぶ支柱の外にも空間がある。
ワルニャンの習性とばかりに、ちょっとだけ道を外れて潜り込んでみると、そこには寝泊まりするには十分な広さがあって……、それはいいのだが、岩壁に片洞門を開鑿した形跡が色濃く残っていたのである。
写真でも、岩に強いオーバーハングがかかっているのが分かると思う。
特に東口付近は素掘りトンネルの半断面らしいカーブが鮮明で、明瞭に片洞門の跡だと分かる。
古座川沿いの道は古くから存在しており、明治期には古座と周参見を結んで紀伊半島南部を東西に横断する古座街道として県費支弁の行われる里道(現在の県道相当)であった。大正期に県道となり、同時に車道化も企てられたが、川沿いの難所が多くあったため時間がかかり、開通は昭和10年前後であったようだ。
この場所が具体的にいつ開通したかははっきりしないが、明治末の地形図では道はなく、次の昭和8年版では太い県道が描かれている。おそらくはその当時に切り拓かれた片洞門の跡だろう。
せっかくなので、同じシェッドの今度は川側の支柱からも身を乗りだしてみた。
こちらは崖なので外へ出ることは出来ないが、景色が良い。
青く透き通った古座川と、古くから特産として守り育てられてきた杉の山が、よく調和した眺めだ。
だが、そんな穏やかな景観に、眼前の岩場が緊張感を与えている。
……と、ここで遂に雨が降り出してしまった。
探索開始時点で、もういつ降り出してもおかしくない予報だったので覚悟の上だが、出来れば本降りになる前にこの探索を終えたい。まあそもそも、まもなく日暮れの時間でもあるのだが…。
2本目のシェッドを抜けると、そこは「髑髏岩」の直下である。
垂直に切り立った流紋岩質凝灰岩の露頭で、巨視的には滑らか(間近に見ると多孔質でザラザラした表面だ)であるが、明らかに人の手で削りとられている部分は風合が違うのでそれと分かる。
シェッドの中に痕跡があった片洞門が、今度はちゃんと現存しているのである。
……と、
このままでは完全に旧道探索レポートになってしまう雰囲気だった。
本探索における道路は、ここでおしまいとする。
写真の左端に注目。コンクリートの低い壁が見えるだろう。
同じ場所を、少し引いて撮影したのが、この写真だ。
道の左にある低いコンクリートの壁の裏側に、空間が存在しているのが分かると思う。
実はここの道は、橋というか、暗渠になっている。
暗渠が道の路下を横断して、右の古座川へ流れ込んでいるのである。
それだけなら、よくある小渓流に過ぎないが、その水の出所が特殊である。
……ここまでの匂わせと冒頭の解説から、もうお分かりだろう。
ここに、「材木流しトンネル」が存在する。
はっきり言って、唐突だ。
知らなければ、わざわざ覗き込むことはない場所だと思うが、覗いてみると――
15:40
たっ 確かに穴があるが…
な な な
なんだこの勾配は?!
ウオータースライダーなら死人が出る傾斜だこれ!
昔の人が、こんな穴を掘って木を流していたという事実に、驚愕を禁じ得ない!
芦廼瀬の穴も、池郷の穴も、どちらも超然的な存在だったが、これも負けじとヤベえな……。
流材用の穴って、こんなヤベぇのばかりなのかよ……、魔境だなこれは…。
なんか、道路のトンネルが発揮する個性なんて全部かわいらしく思えるレベルで、尖ってやがる…。
「トリブログ」で予習していたにもかかわらず、実際に見た姿に、飛び上がるほどの衝撃を受けた。
これは、地形図によってすっかり地形を誤認していたせいでも、すこしだけ、あったと思う。
上に最新の地理院地図を掲載したので見て欲しい。
チェンジ後の画像に書き加えた位置に、「トンネル」は存在している。
冒頭に紹介した「日本風景街道 熊野」の解説文の通り、「支流の立合川から丸太を古座川本流に流すために岩山の狭隘部分にバイパスとして開けられたトンネル」ということが、分かると思う。
ただ、この地形図から受ける印象と、実際の現地の風景の印象は、まるで違う。
その理由は単純に、地形図が地形を正しく表現していないからだ。
この地形図を見て、ここにある「トンネル」を取り巻く地形の険しさが感じられるだろうか。
確かにこれでも、よくよく眺めてみれば、「トンネル」が結んでいる古座川と立合川の水面の標高に等高線1本分以上の落差があることは見て取れるし、両者の近さ=トンネルの短さを思えば、とんでもない急勾配とならざるを得ないことは、理解できるのであるが……。
なお、同じ地形図でも、ここに掲載した昭和54(1979)年版をはじめ、平成20年代の版までは、このように「正しく」地形を表現できていた。
地理院地図になる段階で、どういうわけか崖記号が欠落し、そのせいで事実と異なるのっぺりとした地形表現になってしまっている。
旧来の地形図と地理院地図の間で崖記号の採用ルールに違いがあったりするのだろうか。改描の理由は不明である。
とまあ、地形図に関してちょっと話が脱線したが、とにかく驚くべき傾斜を持つ流材用トンネルがここにある。
次回は、もちろん突入するぞ!
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