先日、初めて奥尻島へサイクリングに行ってきた。
島内のキャンプ場にテントを設営し、そこを拠点に2日間みっちり自転車で走り回ったのであるが、そこで面白い道に出会ったというのが、今回の内容である。
では早速、驚くべき道へ、ご案内しよう。
北海道南西部、檜山地方沖合の日本海上に浮かぶ奥尻島は、全周80kmを越える大きな島である。
その全域が奥尻町に属しており、現在約2200人の住民が暮らしている。
島の海岸線に沿っていくつかの集落があり、その最大のものは南端部の青苗(あおなえ)である。
今回紹介したい道は、この青苗地区に隣接する米岡地区にある。
上の地図(最新の地理院地図)の「現在地」の位置がスタート地点だ。
黄色く塗られているのは島を一周する主要地方道の奥尻島線で、そこから分岐する1本の「軽車道」が描かれている。
地図上では取り立てて特別に見えないこの道が、とても驚くべき風景を持っていた。
2025/11/22 8:18
上記現在地の風景。
周りは背丈ほどもあるチシマザサの野っ原で、その所々に人家や畑がある感じ。地形はなだらかで、海も近いから、吹き曝しの風が強い。
足元の道が道道奥尻島線で、目の前に左に入る脇道がある。
この脇道が、問題の道。
入口から見る、脇道の行く手。
1車線の砂利道で、さしあたって海の方へ向かっているが、すぐに右カーブになっているのが分かる。
特に入口に気を惹くようなものがあったわけではなく、それでも地図上で明らかに行き止まりであるこの脇道へ私が入った理由は、渡島前にグーグルアースを使って島中を観察した中で、「気になったから」である。
空から見て分かる、特別な風景が、この先に待ち受けている。
そして、入口に封鎖や立ち入りを規制するものが無いことに安堵した。
そこまでは空撮からは分からなかったから、現地勝負であった。
これはいよいよ、すごい景色を体験できそう。
そんな予感に、歴戦道路変態の血が滾った。
8:19
入口から見えていた最初の右カーブへ差し掛かった。
地図によれば、曲がった先は少し長い直線で、その先は島の空港である奥尻空港の敷地にぶつかって、曲折しながらその敷地沿いに伸びていく。
やがて、この入口から1.5kmほど進んだところで行き止まりのようであるが……、
私が空撮写真で“目的地”とした場所はそのような奥ではなく、まさにこの最初のカーブを曲がったところであった。
曲がった――――
カーブを曲がった先には、突如広大な舗装路面が現われた!!
その道は、中央分離帯を有する広幅員道路のように見えた。
これまでの何の変哲もない砂利道からすれば、全く以て唐突で絶大な変化であったが、直前の砂利道路上に刻まれた轍はちゃんと“中央分離帯”の両側に分割されており、ここにはちゃんとこの道路の構造を理解している利用者が存在することを伺わせた。
…………のか?
ごめんなさい! 分かってて書きました。
“中央分離帯のある道路”との前言を撤回します!
申し訳なさそうな表情を浮べるピンク色のウサギさんたちに彩られたこの道路、奥尻町道砥石2号線は、
奥尻空港の旧滑走路跡に敷設された1車線道路である。
地理院地図では、何の変哲もない「軽車道」の路上でしかないこの場所だが、
(チェンジ後の画像)航空写真を見ると、明らかに滑走路の形をした地物が存在している。
これは、昭和49(1974)年の開港当初から平成16(2004)年の新ターミナル&新滑走路供用開始まで30年間使われた旧滑走路の跡である。
遙かに大きくなった現在の滑走路に呑み込まれた部分もあるが、重ならなかった部分にはそのまま滑走路当時の路面が残されており……、おそらくここまでなら各地に例がありそうだが、なんとここではその旧滑走路の上に、公道である奥尻町道が認定されているのである!
立ち入りの規制が無いことからも明らかなように、この町道の周囲の旧滑走路は現空港の敷地外になっている。
が、一部の灯火設備が設置されており、その周囲だけ立ち入れないようになっている。
逆に言えば、それ以外のかつて滑走路だった路面は、触りたい放題というか、通りたい放題である。
航空写真でも旧滑走路の跡に道路が入り込んでいるのは分かったし、それを見に現地へとやって来たわけだが、現地で加えて驚いたのは、道路となっている部分の路面も、滑走路だった当時の鋪装がそのまま使われていたことだ。鋪装の打ち替えが行われていないのである。
だから、一般の道路では坂道や急カーブなどに限って見られるグルービング鋪装が全面に敷設されているし、一見して明らかに道路界の住民ではない(=道路標示ではない)路面のペイントも、然りである。
そもそも、鋪装の配合比的な部分からして通常の道路舗装と違うのかも知れないが、私が航空全般については全く明るくないので、見た目の違いの話しか出来ないのは申し訳ない所だ。
とにかく現状は、旧滑走路面上の一部が、幅3.6mほどの道路敷として道路用側溝によって区画されているのであり、加えて道路用の付属物としては、待避所の存在を示す道路標識が数本設置されている。
ただ、道路を区画している側溝は、タイヤによって簡単に乗り越えられる構造のものなので、実質的には路外に逸走することが阻害されていない。
先ほどの場面で、この側溝が中央分離帯のように見えたのも、路外にまで轍が伸びていたからである。
路外の旧滑走路上には盛土がされている一角があり、建築残土の仮置き場のように活用されている気配があった。
「日本一大きな道路標示(最高速度30)だよ〜〜」
って書いても、賢明な読者諸兄は騙されないであろう。
私だってこれが道路用の表示でないことは理解したが、如何せん、道路については人一倍、鉄道と船舶については人並み程度に知っている私も、航空についてはズブ以下の素人なので、この数字がなんなのかというのは調べるまで全然分からなかった。
そんな受け売りの知識を得意げに披露するのもなんなんで、参考サイトを挙げておく。
いやでもこれ、歴とした奥尻町道なんですよ?
敢えて道路標示「最高速度」に見えなくもないペイントが存在しているのは、管轄する北海道警察的に問題はないのかという重箱の隅的なツッコミをしてみたり。
心情的には、超面白いからこのままにしておいてほしいけどさ(笑)。
つうか、数字が「30」なので、もし勘違いしても危険がなさそうだから良いか。
この数字が意味する航空側のルール的に「01」〜「36」までの数字以外が書かれることはない。
盛土の上から見る、「30」と道路。
面白いなぁ……
こんな道、初めて見るぜ…。
もう少し早く知れたら、先日発売になったばかりの新刊『日本の仰天道路』に収録したかった!
ぜひ続刊の発売に繋げてそちらに収録したいので、皆さん買ってください!
ちょっと高いと思うかもだけど、オールカラーで100件以上のすごいマニアックな道路風景を紹介しているから、“道旅”のお供に最適です。ミニレポ好きな人にはとびきりオススメだよぉ!
同じく盛土の上から、旧滑走路&町道の行く手を俯瞰。
奥に見えるポピュラスじみた緑の盛土の上が、現在の奥尻空港の敷地である。
旧滑走路は、端から200mほどの位置でこれに断たれており、その路上に敷設された町道もまた、同様である。
が、町道についてはまだ終わらず、現空港の外縁に沿ってさらに延びていくのである。
航空写真でネタバレしているが、再び旧滑走路に出会える場面が待っていた。
8:24 《現在地》
正面に現空港の巨大な盛土が近づいてきた。
町道が旧滑走路と重なっている部分の長さは200mほどだが、調べてみると旧滑走路の元の長さは800mあったそうだ。
そしてこの200mの区間内に待避所が2ヶ所用意されている。
待避所があるのは良いことだが、広くて、平坦で、鋪装まで済んでいるこの旧滑走路上であれば、そもそも町道の道幅をもっと広く取ることが出来ただろうに、旧滑走路の外の部分と道幅を完全に一致させていることが、丁寧というか、律儀というか、杓子定規というか、いかにも行政がした仕事っぽい。
これが私道だったらたぶん、側溝で明示的に道の部分を区画なんてせず、ただ適当な場所を通らせていたと思う(笑)。
旧滑走路が現空港の敷地によって断ち切られる直前で、町道は左折して、旧滑走路から離脱していく。
カーブの途中まで旧滑走路上にあり、鋪装は全て旧来のものをそのままに使っている。
この町道、旧滑走路外は全て砂利道なので、本来は鋪装しない道路という整備方針なのだろうが、だからといって、わざわざ旧滑走路の舗装を剥がしてそこに砂利を敷き直すというような、道路として明らかに不利になる律儀さまでは発揮しなかったことを私は秘かに評価したい。
当たり前であるが、この世の中に、予め鋪装されている地面はない。
だから、道路を新設するとき普通なら、鋪装は自前でしなければならないわけだが、ここでは極めて珍しい跡地利用によって、予め鋪装されている地面があったのである。
約200m続いた旧滑走路上の区間を脱出すると、何の変哲もない砂利道に逆戻り。
道路の右側は現空港の敷地外周を区画する鉄条網付きフェンスで、反対側は笹とススキが海風に揺れる渺々とした原である。
そして正面には、道のある地平より約30m低い日本海の水平線が見渡せた。
そのまま空港外周の角を一つ巡ると、町道の進行方向は、現滑走路と海岸線の両方と並走するようになる。
この状態に入ってからの町道は長く、単調で、全長約1.7kmのうち1.2kmは、この1本の完全な直線である。
相変わらず待避所の標識が頻繁に現われるが、実際に待避所を利用する交通量が乏しいせいか、その部分の路面は草生していた。
8:27 《現在地》
行き止まりを承知している単調な直線路。
遮るものなく海からぶつかってくる風が逆風であったため、平坦な砂利道ながら進むのに苦しんだ。
そして、入口から約700m、直線区間に入って約300m進んだこの地点を……町道としては道半ばであるが……今回の探索における私の最終到達地点とした。
ここがこの町道を辿る私の目的地である。
左奥の空間に注目されたい。
現空港に吸収されなかった旧滑走路の片端が、ここに取り残されている。
今度は町道も旧滑走路に踏み込むことはせず、路外に隣接する空間として存在するのみであるが、車が出入り出来るように草を払われた轍がついていた。
私もそれを辿って、だだっ広い旧滑走路へ躍り出た。
ここにあるのは、本当に放棄されたままの旧滑走路の断片であった。
現空港によって斜めに切られて取り残された旧滑走路の一部、長さ約200mの断片だ。
今度は町道からも見放され、かといってわざわざ鋪装を引き剥がしたり、客土によって埋めるような手間もかけられていない、眠れる空間。
これはこれで、いい感じ。
廃道や廃線跡、廃港施設といった、交通に関わる廃ものを巡り歩いてきた私が出会った、廃空港跡という世界である。
空港跡という存在自体は全国各地にあるが、路面が手付かずに残っていて、かつ解放されているのは珍しいだろう。
中ほどの路面にペイントされた「12」の数字は、先ほど“町道”の路上に掛かっていた「30」と対になる存在だ。
今さらだが、これらの数字は(道路標示ではもちろんなく)国際基準による滑走路番号で、方位と密接に関わる命名則がある。このとき12と対になるのが30であり、現滑走路によって完全に切断されている二つの旧滑走路跡が元は一つの存在だったことを物語っている。
8:30 《現在地》
端っこまでやって来て、旧滑走路を振り返っている。
自転車なんかと比べたら法外にデカいが、現代の航空機には物足りないようで、現滑走路の長さはほぼ倍増して1500mになっている。
町道はその外周をかなり奥までなぞるので、自転車には単調すぎてキツく、これ以上先にはそもそも用事がないので、私はここで引き返した。
冷たい強風と、どんよりとした空模様のせいも多分にあるが、ここは生身の身体には随分寂しい場所だ。
鉄の箱に守られた姿が相応しい感じがする。
すぐ隣に生きた空港があるが、その運行は1日1往復のため、ほとんどの時間は死んだように静まりかえっている。
……撤収。 だが、オマケがあるよ。
8:43 《現在地》
旧奥尻空港の遺構である滑走路跡を見て貰ったが、実は他にも遺構が存在しているので、ついでに紹介しよう。
町道砥石2号線を後に道道39号奥尻島線に戻った私は、離島にある都道府県道を一つでも多く走破したいという人生のサブミッション(メインミッションは廃道探索)を遂行すべく、奥尻島に2本しかない道道の片割れであるところの道道1158号米岡奥尻空港線の入口に狙いを定めた。
写真の場所が米岡集落で、設置された青看に、奥尻空港を行先とする道道1158号線の案内があった。
これはもちろん現在の奥尻空港のことで、全長わずか400mほどの短い道道だ。
しかしここで私は、持ち前の早とちりという悪癖を発動する。
そして結果的にこのミスが、事前の調べではうっかり見落としていて行く予定から漏れていた、この後に紹介する“発見”に結びついたのである。まさに、塞翁が馬、ヨッキが早とちり。
青看に書かれていた「300m」(300m先という意味)の表示をうっかり見落とした私は、早とちりで、青看の直後にあったこの写真の丁字路を左折した
らば!
ひと目見ただけで私の廃なる感性をくすぐった!
なんだこの、センターラインが酷く薄れて両側から草木に圧迫されて狭まった2車線道路は!
何かの旧道臭がすごいする。
青看の読み間違えにはこの時点で気付いたが、もちろん突入した
らば!
意表を突いて道の長さは最初に見えていた左カーブ一つ分しかなく、入口からわずか50mにて、行き止まりの広場的空間が見えてきた。
そして広場の正面中央には、廃業した土産物屋、あるいはドライブインを彷彿とさせるほどの悪く言えば安っぽい、よく言えば庶民的なる旧屋ありて、その青い外壁に……
8:45
これが旧空港のターミナルビルだった!
先ほどの旧滑走路の主人たる建物で、すなわち昭和49(1974)年から平成16(2004)年まで使われていたものということになろう。
読者諸兄の中には、実際に利用された方がおられるかもしれない。
取り壊されていても不思議ではないところだが、どうやら地元の企業の倉庫のような扱いで残されているようだ。
建物があるだけでなく、「奥尻空港」と書かれた外観がそのままなのは驚きだ!
建物の背後というか、後ろ半身は現空港の用地に呑み込まれている。
私のような関係者でない者は、建物の前側半分しか触れられない。
一応ここにも敷地の内外を行き来するための門が用意されているが、もしここを開けて入っても盛土が邪魔をしていて現滑走路までは辿り着けない。事実上、トマソン化している門である。
旧空港と現空港、それぞれの年代の航空写真を重ねて見較べてみると、旧ターミナルビルが現空港の盛土に取り壊されなかったのは、ギリギリであったように見える。
道道奥尻島線というメインストリートからターミナルビルまでの“前面”はそっくりそのまま残ったが、建物から滑走路に至る“背面”は見事に現空港に横取りされている。
このような配置であれば、旧空港は新空港の建設が始まった時点で使用不能になったと思われ、決して短くはなかったであろう建設期間中、空港は完全に機能を停止していたのだろうかという疑問が湧く。
そしてこれも地味に気になるのが、道道奥尻島線と旧ターミナルビルを結ぶ、わずか50mほどのこの道が、道道1158号米岡奥尻空港線の旧道なのかという点だ。
これについて言明した資料を発見できないが、お馴染み道道資料北海道によれば、道道1158号米岡奥尻空港線の認定日は平成11(1999)年12月6日であり、これは新空港が開業する平成16(2004)年3月18日よりも5年も前である。
ということは、この5年の間は旧空港に対して路線が供用されていた可能性があるが、来るべき新空港の建設を念頭に路線の認定を先行させただけで、旧空港に対して供用はしなかったことも考えられる。平成12(2000)年版のスーパーマップルデジタルver.1 を確認してみたところ、道道1158号は描かれていなかったので、後者の可能性が高くなった。
以上、おまけが少し長くなったが(これをミニレポ300として独立させても良かった?)、旧奥尻空港に関係した面白道路風景の紹介でした。
奥尻島まで来ることがあったら一見の価値はあると思います。
奥尻空港について、机上調査を行った。
奥尻空港は、昭和37(1962)年に開設された利尻空港に次ぎ、道内では2番目の離島に設置された空港である。
昭和37(1962)年に閣議決定を受けた北海道庁による北海道第2期総合開発計画が、整備の根拠となった。
昭和38〜45年を期間とする同計画では、道内定期航空路の整備に重点が置かれており、札幌空港(丘珠空港)、中標津空港、帯広空港、紋別空港、旭川空港、室蘭空港(後に中止)などと共に、奥尻空港、礼文空港という2つの離島空港の新設が盛られていた。
島内における空港用地の選定や取得、建設にまつわるエピソードは発見できなかったが、大きな反対運動などはなく順調に建設が進められたようである。
奥尻町の人口はピークの昭和35(1960)年当時8000人に迫っていたが、昭和40年代からは過疎による急減が始まり、昭和45年には6400人、55年には5400人ほどになっていく。一方で全国的な離島ブームにより、道内きっての温和な気候と青い海を持ち、「北の沖縄」とも言われた島を訪れる観光客は急増しており、冬期を中心に就航率が低い海路を補強する目的もあって、空港の整備は島の悲願であったのだ。

『北の空 Airports in Hokkaido 1992』より
昭和49(1974)年9月、全長800mの滑走路1本を有する奥尻空港が供用を開始し、翌月から日本近距離航空が19人乗り双発プロペラ機を用いた函館〜奥尻〜札幌線を開設した。また翌50年4月に空港は北海道庁から北海道の管理に移されている。
右写真は、北海道土木部空港港湾課が平成4(1992)年に発行した『北の空 Airports in Hokkaido 1992』に掲載された旧空港の空撮全景と(チェンジ後の画像)滑走路側から見たターミナルビルである。
今回跡地を訪れた風景の面影を見て取れるだろう。
開設後の利用は比較的好調で、年間7000〜1万人で推移した。平成に入る頃までは貨物量も多く、これは島の特産であるイカ、ホッケ、海藻など新鮮な魚介類を輸送する需要があったためだ。
平成5(1993)年7月12日、島に極めて近い海底を震源とする北海道南西沖地震が発生し、巨大津波に見舞われた島内では青苗地区を中心に死者・行方不明者198人を出す大惨事となった。
高台の空港は壊滅を免れ、その後数年の復興期にはボランティアの受け入れや復興特需(工事関係者や行政視察など)のため年間利用者が歴代ピークの1万9千人以上を数えている。
だが、この急激な需要増に対して、開港以来の19人乗り双発機の輸送力は限界があり、奥尻町では滑走路の延長と使用機材の大型化を要望していた。
これが国の第7次空港整備五箇年計画に盛り込まれ、ジェット空港化も念頭に、滑走路を800mから1500mへと拡張する北海道による事業が、平成11(1999)年度にスタートした。
道道1158号米岡奥尻空港線が路線認定されたのもこの年である。
平成16(2004)年3月18日、新ターミナルビルおよび新滑走路1期部分(800m)の供用が開始され、同時に旧空港施設は封鎖された。
ポイントは、この段階では新滑走路の長さが800mしかなかったことだ。
これは私が現地で感じたある疑問への答えであった。次の航空写真を見て欲しい。
@ 昭和51(1976)年
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A 平成15(2003)年
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B 平成29(2017)年
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@は旧空港時代、Bは現在の空港であるが、間のAは微妙な時期で、新空港開設の前年の状態を撮している。
この段階では供用前である新空港の滑走路には、航空機が誤って着陸を試みることがないように大きな×印がいくつも描かれているのが目を惹くが、間もなく滑走路として供用を開始されようとしているペイントなどが完成している部分は、新ターミナルビルの西側の区画に限られている。
新空港はこの部分をもって翌年に開業し、旧空港の機能を代替してから、2年後の平成18(2006)年3月25日に残り700mの第2期部分の供用が開始されたことで、合計1500mの新滑走路が完成したのである。
晴れて、使用機材は34人乗りの双発プロペラ機に拡張され、輸送力は大幅に増強されたが、一方で復興特需の落ち着きから利用者数は減少に転じ、2000〜2010年代は1万人前後で推移、その後コロナ禍で一時的に減少したが、近年は再び1万2000人程度の年間利用者があるという。
運行頻度も旧空港時代からは減少しており、以前は季節によって日2〜3便であったが、現在は1日1便に留まっている。
また、ジェット旅客機の就航も実現はしていない。
島の人口も一貫して減少し続けており、令和2(2020)年の国勢調査では2410人であった。

「奥尻町路線網図」より抜粋
空港の経過については以上だが、今回の主役となった世にも奇天烈な景観を見せてくれた町道砥石2号線についても少し。
この路線個別の路線史のようなものは残念ながら見当らないが、路線の位置や名前については奥尻町が公表している道路網図により明らかだ。右図はその抜粋である。
今回その全長の半分ほどの位置で引き返した町道砥石2号線であるが、その終点は海岸線に達していることが分かる。
また、路線名に関連がありそうな砥石線という町道も近隣に存在するが、空港の敷地に阻まれるような形で、両者は接続していないことが分かる。

『奥尻町史』掲載「奥尻村道路路線略図」より抜粋
続いて、空港が開設される以前の状況に着目してみよう。
左の図は、昭和44(1969)年に奥尻町が発行した『奥尻町史』に掲載された、昭和33(1958)年当時の「奥尻村道路路線略図」からの抜粋である。
地図の向きが異なっていることに注意を要するが、これを見ると、青苗から群来岬方面に至る海岸沿いの砥石線と、その途中で分岐して米岡集落に達する砥石分線という2本の村道がある事が分かる。
“繋がっていない”ことを無視すれば、この路線の配置は、現在の砥石線と砥石2号線の関係性と合致している。
空港の建設やその拡張という大きな出来事の前後において町道の位置は変化したが、機能の代替性が考慮されていることが窺えるといえよう。
地形図の変遷から、もう少し具体的にこの変化を追ってみよう。
I. 昭和44(1969)年
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II. 平成12(2000)年
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III. 地理院地図(最新)
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I.昭和44(1969)年版は空港開設以前の状況を示している。
後に空港が建設される一帯は、「寺屋敷」の地名を注記された、水田や住宅が疎らに点在する高台であり、そこを通って「群来岬」の近くの浜に至る道も描かれている。
浜では島の基幹産業である採取漁業が営まれていたのではないだろうか。
II.平成12(2000)年版は、敢えて懐かしの初代スーパーマップルデジタルを引用しているが、これは旧空港のターミナルに至る道路が、この時点で認定済みである道道米岡奥尻空港線として表現されていないことを見せたかったことが理由だ。
それはともかく、旧空港はI.に描かれていた寺屋敷附近の道路網を分断せず、そのまま存置されている。
これが、III.地理院地図(最新)になると、新空港によって従来の寺屋敷附近の道路網は寸断され、大幅な変化を余儀なくされている。
新空港の南外周に沿うように機械的に敷設されている町道砥石2号線は、新空港の開設によって到達する道が寸断された群来岬近隣の海岸線への代替ルートとなるものであることが読み取れる。
このことから、砥石2号線はおそらく空港移設の際の公共補償の一環として整備されたものと考えられる。
その際、旧滑走路の路面を有効活用することについて、「前例がない」などという議論があったかどうかは定かではないが、ここに道がある事への納得はできたと思う。
以上である。