読者の皆さまへ
「山さ行がねが」は、アマゾンアソシエイトなどのアフィリエイト収益によって運営されています。多くの読者様が日常的にAmazonなどのオンラインショッピングを利用されていると思いますが、その際に当サイトに設置された 【リンク】 を経由して頂くことで、リンク先での任意の商品の購入代金のうち数%が収益化されます。当サイトを継続してご利用される読者様には、ぜひ御協力いただけるよう、お願い申し上げます。

ミニレポート第300回 一般道道507号船泊港利礼公園線 白浜隧道跡

所在地 北海道礼文町
探索日 2023.10.30
公開日 2025.12.03

 日本国内最北のトンネル跡


今回はキリ番となる第300回目のミニレポなので、山行がとして何がしかの“極致”を示すものを記したいと思う。

というわけで、思いついたテーマは……


日本国内最北のトンネル跡!

あくまでも“私調べ”だが、国内の交通用トンネルにおける最北は、北海道は礼文島の北端、スコトン岬の近傍に存在したとされる“白浜隧道”という名のトンネルであると思われる。

その大雑把な位置については、次の地図を見て欲しい。


なお、現在も使われている現役であるトンネルに限定した場合でも、やはり礼文島にある新桃岩トンネルが最北の地位にある。
だが、白浜隧道はそこからさらに15kmほど北にあったとされ、それより北となると、(北方領土を除くと)北海道本島の宗谷岬先端周辺のわずかな陸地しかないので、そこにトンネルがあったという新情報が今後もたらされない限り王座は揺るがないと思う。

宗谷岬が国内の最北地であることは著名な事実であり、現地にもそれを売りにした様々な記念物が存在する。
だが、敢えて“最北のトンネル”について検討した著述(……というか暇人?)は見たことがないので、本項でそれを論じつつ、もちろんその現場を紹介したい。
見たいでしょ? 最北のトンネルってやつをさ!!


本編に入る前に、まずは私と白浜隧道の馴れ初めから解説しよう。
私がこのトンネルの存在を私が知ったきっかけは、道内におけるトンネル探索のオーソリティである北海道トンネルWiki作者のMorigen氏@morigen_tw)より、令和5(2023)年5月にご提供をいただいた、北海道庁作成『道路現況調書(昭和40年4月1日現在)』内の「トンネル箇所調書」である。

行政の資料らしからぬ素朴な筆致による手書き資料であることに年代を感じるこの資料(右図)は、北海道庁が管理する道路トンネル(つまり北海道開発局が管理する国道や開発道路、あるいは林野庁が管理する林道用などは除外)の一覧であり、掲載されているトンネルの総数は、主要道道にあるもの6本と、一般道道にあるもの25本の合計31本だった。
そしてこの中に、礼文町に所在する次の2本のデータが含まれていた。(当時から礼文島は礼文町が単独で管轄している地域である)

路線名トンネル名箇所延長車道幅員限界高竣功年度覆工鋪装
礼文島線駒谷崎隧道礼文町大字香深字香深井21m3.5m4.7m昭和2年度素掘
船舶港利礼公園線白浜隧道礼文町大字船泊字白浜21m3.0m4.0m昭和11年度素掘

この下段に記載されているのが、廃止時点で国内最北のトンネルだったとみられる白浜隧道である。

続いて、このデータを元にトンネルの位置を探ってみよう。 路線名覧に「船舶港利礼公園線」とあるが、極めて名前が類似した一般道道507号船泊港利礼公園線が現役であるから(おそらくデータの路線名は誤記)、その位置を右図に示す。

広袤南北26km東西8kmという南北に細長い礼文島であるが、道道507号船泊港利礼公園(ふなどまりこうりれいこうえん)線は、その北岸を占める船泊湾を抱く海岸線に沿っており、終点である須古頓(すことん)集落は、スコトン岬というこの島の最北突端に迫っている。
そのためこの道道507号は、稚内市内の宗谷岬付近を通る道道889号上猿払清浜線に(ほんのわずかに)次ぐ、国内2番目の緯度が高い都道府県道である。

そして、現在の地図を見ても道道507号には1本のトンネルもないが、左図のように、「白浜」集落が前述の須古頓集落のすぐ南に存在している。
白浜トンネルは、この白浜集落付近(データの箇所覧にあった「礼文町大字船泊字白浜」)にあっただろうことは、容易く予想ができた。

ならばということで、同じ場所の昭和45(1970)年版地形図を見較べてみたらば……(チェンジ後の画像)……

やっぱりあった!

it's easy !!!

そして、easyがてらに伝家の宝刀“ストビュー”をみれば……

……いや、止めよう。

ぶっちゃけ見た。
私は見たけども、このレポートではせっかくなので私が見た風景として紹介したい。
ストビューでも見られるけれども、それでも行くのが探索じゃないか。

正直言って、ここまで行くのは私にとって気軽なことではない。
秋田から礼文島まで行くのは、2回も海を渡らなければならないし、単純にとても遠い。
その遠い島の中の、さらに最北の果てである。
でも行く。


最北のトンネルよ、白浜隧道よ、いま行くぞ!






2023/10/30 13:21 《現在地》

ここは、礼文町大字船泊村にある浜中集落
足元の道路は道道507号船泊港利礼公園線で、起点から約6kmの位置にこの集落はある。
秋田からここまでの旅路はスポーンと吹っ飛ばして、いつもの自転車に跨がった私がここにいるところからのスタートだ。スポーン!

前方の風景に注目。
雲一つない快晴の空の下に、樹木のない山並みを据えた海岸線が弓なりに伸びている。
山に樹木がないのは、そこがごく薄い半島状の地形であり、背後にも海を控えているからだ。
幅500m前後の薄板の半島が、最北の離島の最北の先端へ先細っていく。そんな脆さを秘めた景色だ。

だがこの海岸線にも人々の暮らしが深く息づいている。
この浜中集落の先に、江戸屋、白浜、そして須古頓の各集落が約1km刻みで並んでいる。
最末端の須古頓集落まで、あと3.5km。
ひとつ前の白浜集落までは2.7kmほどであり、白浜隧道跡までは2.5kmほどである。



13:23

浜中集落を外れると、稀に道を塞ぐ鋼鉄のゲートが開いた姿で待ち受けていた。
ここは「浜中ゲート」で、この先は事前予告通行規制区間に指定がされている。
ゲートを過ぎても狭いとか荒れているという感じはなく、片側に歩道を配する2車線の立派な道路が続く。
どこを見ても木が生えていないことは、私にとってやはり普段見慣れた風景との違いが大きく、特異な感じを受ける。



13:24

この辺りまで来ると、目に留まるあらゆるものに“最北の”という冠を付けて呼びたくなるのは、旅行者としてやむを得ない衝動だろう。
先細っていく陸地と引き換えに、私のテンションは高まっていった。

酷く錆びた標識柱に取り付けられた「江戸屋」の地名標識があった。
礼文島、元のアイヌ語では「レプンシリ」、意味は「沖にある島」。
彼らにとっても果てを感じていた島の果て近くに、唐突な「江戸屋」というのが、なんだかおかしい。
この地名の由来はそれほど古いものではなく、明治大正のニシン漁全盛時代に、江戸屋という親方の漁場であったことから付いたものらしい。

この島に多くの集落が根付いているのは、ただの最果てではなかったからである。
礼文島や隣の利尻島は、近世における北前船貿易の北端であった。
畿内に巨大な財を持つ大船主たちが挙ってこれらの島々を目指したのは、この地方の特産である昆布が、上方の食文化を支える重要な資源であったからだそうだ。



道に面する高さ100m内外の山並みは、絶壁ではないものの相当に急傾斜であり、その起伏の至るところに、まるで樹木の代わりのような密度で雪崩防止柵が植えられていた。
実際に、樹木が持つ治山的機能を代替しているのだろう。
なんとも風変わりな風景であり、これもまた印象に残った。




13:25 《現在地》

江戸屋の集落入口に、小さな岩の岬を回り込む場面がある。
そこはいかにもトンネルを切り通しに改めた跡のような感じがする場所だが、白浜隧道があったのはここではない。
また、ここに別の隧道があったというような記録もない。

切り通しの向こうに見え始めたのが江戸屋集落だ。
あと1.7km先、江戸屋を白浜に置き換えればこことそっくりの風景であり地形が、白浜隧道の跡地である。



13:27

最果ての2歩手前、道道沿道の集落数的に勝手にそんな憶え方をしていた江戸屋集落を通過中。
背後は例の樹木代わりの鉄柵が林立する枯れ草色の急斜面で、前面は埋め立てや築堤によって整備された立派な漁港。その合間の一本道の道道沿いに一列に人家が並ぶ。
水もなければ畑もない、漁以外暮らしの根拠を持たない土地に見えた。



13:29 《現在地》

いよいよ地、果つるところが、間近に見えてきた。
そのことは、道路上の案内標識も、控え目な方法で教えてくれている。
「須古頓 1km」 ……これがほぼほぼ残りの地の長さだ。
「鮑古丹 2km」はもっと遠いが、これはちょっと脇道に逸れている。

そして、この位置から既に、白浜隧道の跡地はよく見えていた。(↓)



あのような岩脈が、もしも海岸線まで途切れず延びていたら、通過には隧道が必須であったろう。

そんな予想を容易く行える隆々とした岩脈が、道路のところで綺麗さっぱり、崩されていた。

ミニレポということで、皆さんの期待感は“大丈夫”だと思うが、ご覧のとおり、白浜隧道は完膚なく残っていない。

本当に何も残っていないんだが、それでも紹介したくなるのは、ここが“最北のトンネル”というステータスを持っていたからだ。

この現状ではそうそう語られにくいだろうからこそ、実際に訪れてから、語りたかった。





13:30

江戸屋から白浜へ向かって北上している。
白浜集落の入口にあった白浜隧道の跡までは、おそらくもう少しだ。

相変わらず、道は広々としていて、とてもいい。
海岸線を切り開いて作られている道だが、どちらかというと、埋め立ての要素が強いと思う。
人が手を加える前の海岸は、向かって左の切り立った切岸にあっただろう。
そしてその岸の下には、今は道路の右側に少し見えている広い磯があったはず。
道は磯に盛土をして、護岸を設けて作ってある。そのため、道と岩場の間には常にある程度の間隔があった。



13:31

さらに進むと、開いている通行止ゲートが見えてきた(写真だと分かりづらいが、すぐ先の電柱の所にある)。
これはレポート開始地点にあった【浜中ゲート】と対になる「白浜ゲート」である。
ここまでが、異常気象時の事前予告通行規制区間であった。
それを抜けるということは、地形的に険しい部分を抜けるという意味である。

実際、ゲートの直前から、道の周囲はより解放的な状況になっている。
平らな土地が広々としていて、険しさが遠のいている。
ぶっちゃけ、このゲートが閉ざされていたとしても、道路の山側の広い砂利敷きの広場を迂回して簡単にパスできてしまいそうだ。



どうやら、ここの道路の山側にある広い空地は、採石場であったようだ。
岩を切り出した後の特徴的な段々の模様が残っていた。
現在は全く行われていないようで、敷地はもぬけの殻である。

そしてこの採石場という降って湧いたような要素の影響は、これだけではなかった。



読者諸兄に告ぐ。


総員、衝撃に備えて!!




13:32

ここが、“日本最北のトンネル跡”、白浜隧道の跡地だ。

おそらく、多くの皆さまの想像を遙かに超えるレベルで、何も残っていない。

トンネルが残っていないパターンとして、坑口が塞いであるだけで形が残っているような“優しい”ものから、坑口が埋め戻されていて姿を見ることができないが地中に遺存していると考えられるもの、さらにはトンネル全体が開削されて切り通しになるなどして構造物としては完全に消失してしまっているものなど、いろいろあるが、切り通しどころかトンネルがあった山自体がすっかり消滅しているというのが、今回の現状だ。

これは、考え得る限りにおいて最も痕跡度の低い“トンネル跡地”であると思う。



現在の地形図と、昭和45年当時の地形図を見較べてみると、ここが白浜隧道の跡地であったことがはっきり分かる。
当時、日本最北のトンネルがここにあった。



しかし、これはなかなか衝撃的な現状だ。
トンネル跡に、トンネルどころか、地形の起伏が全くないとは普通思わない。

もしも私が普段通り遺構の発見を期待して訪れていたら、この場所までの道のりの遠さも相まって、相当ショックを受けて落胆していたやも知れないが、今回はストビューで予習を終えていたので問題はなかった。
むしろ、実際に相まみえてみて、このあっけらかんとした現状は楽しいと思った。

また仮に、至って普通のトンネル跡がここに残っていたとしたら、私自身が“最北のトンネル跡”に気付いてあげる前に、私は誰かの手で気付かされてしまったと思うし、その場合は訪問もずっと後回しになっていた可能性がある。
私の探索はあくまでも自分の楽しみが最優先で、私が楽しければ勝ち、楽しくなければ失敗だ。そういう意味で、この現状を含めて楽しんだから、勝ち。
……なんか念を押すと負け惜しみっぽくなるけど、本当に楽しい。



それに、私はちゃんと成果を挙げる。

訪れたなりの新たな成果ってやつを、今見せる。




ズバリ、

旧道はここにこういうカーブを描いていて、

白浜隧道はそこにあった

……と思う。



真の跡地へ行ってみよう。



一見して道の痕跡……どころか、地形の痕跡さえない、現道の高さですっぱりと均された更地である。
だが普通に考えれば、このように突出した出崎の地形は、通過にトンネルを必要とすることもある険しい岩山であったと思う。
そのトンネルが廃止された直後には、普通に廃トンネルがあったかもしれないが、やがて前述した採石場の稼働がここまで及び、山ごと痕跡を切り取ってしまったのではないかと思う。

当地の地形の変化について、後ほど航空写真で“答え合わせ”を試みる。



13:33 《現在地》

言葉や文章はともかく、見た目には全く説得力が伴っていないと思うけれど……

改めて、

ここが白浜隧道の真の跡地だと思う。

どこが路面であったかも正確には定かではない跡地に立って、全天球画像を撮影した。

足元よりも海側には、自然のままに見える磯の岩場が残っているので、道や隧道があったのは、それよりは陸側……やはり私が立っている辺りかと思う。



チェンジ後の画像に示したように、出崎を巡る旧道があったはずだ。

トンネルや、路面の痕跡は全く見られないものの、“矢印”の位置に、重要な道路痕跡を見出した。



古い護岸擁壁と、その上に設置されたガードロープの支柱を発見。
明らかに、道路の路肩を構成していた風景である。

チェンジ後の画像は、隧道の跡地を振り返るものになっている。
出崎の突端の部分に、全長21m、幅3m、高さ4mと記録されている白浜隧道があったのだ。
目を瞑れば、それを見ることが出来ると思う。
きっと、素掘りのママの素朴なトンネルだ。



白浜隧道跡地に隧道は残っていないが、かつての通行人達が、その入口や出口で見た風景は残っている。

これらは隧道の北口にあった風景だ。
白浜の集落と同漁港が間近である。
集落の先に海岸の道はなく、段丘へよじ登って最果ての村落である須古頓に達する。そこはこの島にあって珍しい海を持たない集落であるが、おそらく白浜がその役割を担う存在だったのだろう。

そしてチェンジ後の画像は、白浜や須古頓の沖合に浮かぶ、トド島の姿だ。
今は灯台があるだけの無人島だが、礼文島の北に連なる“最”最北の離島である。それでも宗谷岬の緯度には敵わない。
あるいは、海上の天象次第では、50kmほど離れた樺太も見えそうだった。

このように、“最北のトンネル”からは、島の最北領域が手に取るように見えた。
トンネル並びに岩山が健在であった当時なら間違いなく、トンネルを過ぎたときに初めて見える、そんな鮮烈さを持った風景だったと思う。



一方の南口の風景もまた優れていた。

大きな半円を描く船泊湾を透かして、嫋やかなこの島の稜線越しに、礼文水道の向こう側、圧倒的高度感を以て峙つ利尻富士の頂を望んだ。
北の海に睦まじくある利礼姉妹の美を凝集したような風景であった。



13:37

以上が、白浜隧道の跡地である。
トンネルの“跡形無さ”としては、なかなか突出したものを持っている。
遺構はないが、それでも面白いと思える凄まじい変貌であった。

現地での足りない部分は、机上調査で補いたい。



 白浜隧道のミニ机上調査編


探していた遺構を見つけられなかったときに私がよく使う “跡形もない” という表現が、これほど合致する状況は他に無いと思えるほどの完膚なき形跡の乏しさであった白浜隧道〜日本最北のトンネル跡〜について、その在りし姿を探るべく、記録を調べてみた。
まずは、いつものように歴代地形図、それから歴代航空写真によって、現状に至るまでの変遷を探ることにする。


@
地理院地図(最新)
A
昭和50(1975)年
B
昭和45(1970)年
C
昭和33(1958)年
D
大正12(1923)年

@.地理院地図は本編で何度も見ている。これを基準に遡って変化を見ていく。

A.昭和50(1975)年版だと、既に隧道は無いものの、出崎の先端を巡るルートになっている。今回現地で見出した旧道が、確かにその通り存在したことが分かる。
また、白浜や江戸屋の漁港施設が@に比べて未整備で、海上に大きく伸びる突堤が存在しない。

B.昭和45(1970)年版は、本編でも既に見ているとおり、“赤○印”の位置に短いトンネルが描かれている。これが白浜隧道である。
なお、トンネルはAの道路位置ではなく、@の道路位置に描かれているが、これは描写力の限界によるものだと思う。実際のトンネル位置については、より高縮尺な航空写真で判断したい。

C.昭和33(1958)年版にも、同じ位置に隧道がある。が、道の表現には違いがあり、Bは町村道であったのが、Cでは小径という徒歩道を示す記号になっている。この当時はまだ車が通れるような規模ではなかったのかも知れない。

D.大正12(1923)年版まで遡ると隧道は無くなるが、集落の配置や道の位置は現在とほとんど変わらない。
レポート冒頭で紹介した『道路現況調書(昭和40年4月1日現在)』では、白浜隧道の竣功年が昭和11年度になっていたので、それより前のこの版に隧道が描かれていないことは矛盾がない。



I.
平成17(2005)年
II.
平成元(1989)年
III.
昭和59(1984)年
IV.
昭和48(1973)年
V.
昭和22(1947)年

次は航空写真を使ってトンネル近傍の変化を見てみよう。

I.平成17(2005)年版は探索時の現状と違いが見あたらない。“赤矢印”の位置が白浜隧道跡地だ。これを基準に変化を見ていく。

II.平成元(1989)年版は、隧道跡地付近に採石場が白く見えている。重機のような姿もあり、明らかに稼働中だ。現地で推理したとおり、採石場によって出崎の起伏が平坦化したことが窺える。また、道はこの時点でも出崎の突端を回っていたことが分かる。

III.昭和59(1984)年版にも採石場があるが、IIと比べるとまだ狭い。この後5年ほどで出崎の起伏は完全に消滅する。また、隧道跡地南側の海岸線の道にも多くのカーブがある。これもIIになると直線化している。

IV.昭和48(1973)年版も道の様子はIIIとほとんど変わらないが、まだ未舗装に見える。この時点で既に隧道はないのである。廃止された時期は思いのほかに早かったようだ。

V.昭和22(1947)年版まで遡ることで、ようやく白浜隧道の存在が見て取れる。はっきり坑口が見えるわけではないが、出崎の前後に見える細々とした道がそこだけ岩場に隠れているのは、隧道があったからだろう。昭和11年竣功という情報に照らしても、既にあったと考えなければなるまい。
そしてその隧道の位置は、明らかに出崎の突端部分であった事が分かる。現道が通じている出崎の基部を直線的に貫くルートではない。記録されている21mという全長に照らしてもそうなるはずだ。


以上の航空写真調査によって、白浜隧道およびその痕跡が完全に消滅に至った経過は、次のように想像出来た。

白浜隧道は、昭和22年の時点では出崎の突端部分に存在していたが、昭和48年時点では既に開削消滅しており、その後、採石場の稼行によって出崎の地形も消滅。採石場が終了した後、平坦になった地形を活かして道路の直線化がなされたのが現状である。

次の章では、文献調査によって、既に幻の存在となってしまった感のある白浜隧道の歴史に迫ってみたい。





まず調査したのは、昭和47(1972)年に礼文町が発行した『礼文町史』である。
同書の「道路開削と陸運の発達」の章に、次の記述があった。

昔時の本島陸上交通は海浜ぞいに香深、船泊間を徒歩でようやく通行できた程度であった。特に内路〜香深井間海岸は切り立つ断崖絶壁が連なっているため通行も命がけ、崖や絶壁には綱を張って渡り、あるいは波浪の隙を縫って岩石を点々と飛び渡って通り抜けていたので陸上の荷物運搬はまったく望みなく、専ら船が頼りにされた。
礼文島の難所、内路〜香深井間道路の開削が開始されたのは明治36年、時の香深村長林田友則によってであった。(中略)同41年11月までの5ヶ年の歳月をかけ人力だけで完成に漕ぎつけた。

『礼文町史』より

『礼文町史』より

礼文島は昭和31年まで南部の香深(かふか)村と北部の船泊(ふなどまり)村に分割されていた。両村を結ぶ道路が島の最重要幹線であり、これは明治の後半に開削されていた。
文中には出て来ていないが、この区間には1本の隧道もあった。

【道路現況調書(昭和40年4月1日現在)】
路線名トンネル名箇所延長車道幅員限界高竣功年度覆工鋪装
礼文島線駒谷崎隧道礼文町大字香深字香深井21m3.5m4.7m昭和2年度素掘
船舶港利礼公園線白浜隧道礼文町大字船泊字白浜21m3.0m4.0m昭和11年度素掘
に、白浜隧道と共に掲載されていた駒谷崎隧道が、それである。
同表では昭和2年度竣功となっていたが、実際は明治41(1908)年に開通していたようだ。
これは間違いなく、“日本最北の明治隧道”であったろう。

『北海道道路概要 昭和15年5月』という資料に拠れば、北海道版道路法ともいうべき「北海道道路令」が公布された翌年の大正9(1920)年に、北海道庁が認定した多数の準地方費道(道路法における郡道に相当)の中に稚内船泊線という路線があり、これは当時の稚内町の道路元標を起点に、海上を経由して香深村へ至り、そこから島内陸路で船泊村道路元標へ至るものであった。
当時、駒谷崎隧道はこの道路に組み込まれていた。

(←)駒谷崎隧道については、『町史』に完成当時の写真が掲載されており、素掘りであった姿を見ることが出来る。
偶然にも白浜隧道と同じ21mの長さを持っていたこの隧道は、近年まで長らく活躍を続けていたものの、平成時代の後半に遂に撤去され、現在は跡形がない。

『町史』には、以上述べたような礼文島の陸上交通における重要なエポックが記録されていたが、残念ながらその先……船泊村の中心部から村の北端である須古頓に至る白浜隧道を含む道路……についての記録はなかった。
が、巻末の年表に次の記述を発見した。

昭和46(1971)年 白浜トンネル除去

『礼文町史』より

“昭和46(1971)年 白浜トンネル除去”

たったこれだけの内容であり、詳細は述べられていないが、これによりまず白浜トンネルが確かに島に存在していたことと、それが昭和46(1971)年に「除去」と表現される方法によって失われたことがはっきりした。
幻のような隧道であるが、町史執筆者には確かに認知はされていたのである。

なお、その後の調査によっても白浜隧道の廃止年を記したものは他に見つかっておらず、これが唯一の信頼すべき記録である。
この昭和46年撤去説は、上述した地形図や航空写真の内容とも矛盾しない。


期待していた『町史』は、白浜隧道の終わりを教えてくれたが、始まりについては何も語らなかった。
そこで、さらなる文献の調査を進めたところ、昭和57(1982)年に北海道開拓記念館(現:北海道博物館)が発行した『北海道開拓記念館調査報告 第21号』掲載の論説「礼文島船泊地区の産業・生活史上の諸問題―旧礼文郡船泊村役場『陳情書・請願書』の紹介と分析」に、関わりの深そうな記述を見つけることが出来た。
次はこれを紹介していく。

この論説は表題のとおり、旧船泊村役場が所蔵する、大正時代から戦前に作られた多数の陳情書や請願書の内容を分析することで、この地区の住民たちが抱えていた産業・生活上の切実な諸問題を明らかにし、ひいては「離島社会の歴史と文化」の解明に役立てようという趣旨である。

本論の解説によると、船泊村住民にとって一貫して重要な課題は、船入澗(港湾)の築設と整備であったという。
これにはニシン漁業の衰退に伴う沖合漁業への転換という、大正以降に北海道の多くの漁村がかかえた深刻な問題が背景にあったとし、沖合漁業の基地となる港湾の整備に関わる陳情や請願が最も比率として多かったとある。


『北海道開拓記念館調査報告 第21号』より

(→)これは昭和7(1932)年当時の船泊村管内図である。
“赤矢印”が白浜隧道の位置だが、まだ建設前なのか、トンネルの記載はない。

ただ、そこを通る道は実線ではっきり描かれており、小さく「拓殖費道」という注記がある。
それとは別に、村役場があった「ヲションナイ」から「内路」までは太い二重線で表現されており、そこには「準地方費道」と注記されている。これは上述した準地方費道稚内船泊線を示している。

この地図中には多数の地名が記されているが、いずれも漁業を営む集落であり、その多くが港湾整備に関わる陳情を行っていた。

……以上の運動の結果、昭和3年に国庫補助を得、総工費27万2千円で村営船入澗築設工事が始まり、6年8月に完成した。場所は村役場の所在地であるオションナイ市街の北のベンザイ泊である。

昭和6年にテフネフ、西上泊、昭和7年にはハマナカ、西上泊、メシシクニ、テフネフ、上泊、昭和8年にスコトン泊、スコトン、昭和9年に上泊、高山、エドヤ、ハマナカ、昭和12年に幌泊、高山、東上泊、エドヤの住民が村長、村議会員に陳情書を提出した。

『北海道開拓記念館調査報告 第21号』より

注目すべきは、須古頓周辺の住民たちが昭和8年に漁港築設の陳情を行っていることだ。
この陳情の結末は不明だが、これが数年越しで実現したとすると、須古頓の入口にあたる白浜隧道の開通が、『道路現況調書(昭和40年4月1日現在)』に昭和11年度とされていたことと時期的に合致する。

同論説によると、港湾整備に次いで多い陳情は、道路整備に関わるものであったという。

大正13年に島民296名(代表村長)から道庁長官、留萌土木事務所長に提出された「道路開鑿速成ノ義ニ付請願」は次のように述べている。

謹テ今夏留萌土木事務所在勤平澤技手一行ニ依リ測量ヲ了セラレタル本村字船泊市街地ヨリ字須古頓ニ至ル道路開鑿速成ノ義ニ付重ネテ奉請願候。
(略)
一村ノ半面ハ岩石重畳、孤島唯一ノ交通機能タル道路ノ開鑿容易ナラス。就中村内屈指ノ漁業地タル字須古頓、白浜、鮑古丹ハ鱈漁業ノ策源地トシテ斯業者ノ注目スル所ナルモ、沿岸ハ断崖絶壁ノ個所多ク、関係部落民ハ労力ヲ惜マス専心行通路ノ安全ヲ期シ、加フルニ村費支弁ヲ以テ作工ヲ施スト雖モ工事困難ニシテ如上ノ不便ニ基因シ人煙稀薄ナルニ依リ、現住者ノミニテハ必死ノ努力モ辛フシテ石頭ヲ跳ネ、巌角ヲ攀チ危険ヲ冒シテ通行シツツアル状態ニ有之、小学児童ノ如キ間々激浪ニ凌ハレ、貴重ナル人命ヲ喪フノ悲惨事ヲ演出シ、日常物資ハ波浪沈静ナル天候ヲ俟チ、漸ク小舟ニテ船泊市街ヨリ運漕ス。況ンヤ漁獲生産品ノ如キ一個ト雖モ陸上運搬ノ途ナク……
(略)
既ニ現況御鑑察相成リ、測量ヲ了セラレ候ニ付テハ、明大正十四年度ニ於テ速ニ開鑿御実施ノ上、塗炭ノ苦境御救済被成下度、右ハ本村ノ消長ニ至大ノ関係アルヲ以テ、部落民一同連署此段奉請願候也。
『北海道開拓記念館調査報告 第21号』より

漢字カタカナ交じりの文章に耐えて読み切った方なら分かると思うが、これは船泊から須古頓までの道路整備の請願であり、これが実現された暁として、白浜隧道が世に生み出されたと考えられる。
上記は大正13(1924)年の請願だが、同年の夏に道庁の技手が来島して測量を終えているというから、白浜隧道の計画もだいぶ古いものであったらしい。この測量を終えたばかりの道路工事を、待ちきれないから一日も早く行ってくれという熱烈な請願であった。

この道路の整備は、どうなったのか。
どうやら熱烈な請願はすぐに実を結んだものらしい。

この道路は昭和2年、拓殖費を以て着工し、3ヶ年継続で施工、昭和4年までに第1〜3工区(市街から白浜まで)が完成したが、そこから先のスコトン泊に至る第4工区は施工が遅れ、陳情、請願がくり返された。そして昭和10年にようやく開通した。

『北海道開拓記念館調査報告 第21号』より

昭和2年から4年にかけて拓殖費(北海道開拓のため国庫より支給された予算で道路や港湾などの整備に充てられた)で船泊市街から白浜までが完成したが、そこから終点のスコトン泊までの第4工区のみ施工が遅れ、この区間は昭和10年にようやく完成したとある。

結論から述べると、この論説においても白浜隧道に直接言及した部分はない。
ただ、白浜隧道がこの道路上に存在したことは間違いなく、『道路現況調書(昭和40年4月1日現在)』に昭和11年度竣功とされていたことを重視するならば、白浜隧道は完成が遅れたとされる第4工区に属したものと考えられ、あるいは隧道の存在が、この工区の完成を遅らせた原因であったとも考えうるだろう。

ともかく、白浜隧道の工事についての記録は見当らないものの、隧道を含む一連の船泊〜須古頓間道路が昭和2年から10年までに拓殖費を用いて整備されたことが分かった。


昭和10年に、島の北端である須古頓に至る道路(その規模規格ははっきりしないが)が完成した。
その後の経過は、どうであったろうか。
残念ながら、『町史』を含め、情報はほとんどない。

旧道路法の時代は最後まで村道として過ごしたらしく、道道になったのは現道路法の時代になって随分経った昭和40(1965)年3月26日であった。
この日に北海道庁は一般道道507号船泊港利礼公園線を認定し、白浜隧道はその一部となったのである。
この背景として、戦後間もなく道立自然公園として指定されていた利尻礼文地域(道立利礼公園)が、同年に礼文サロベツ国定公園として昇格したことがあると思われる。船泊港利礼公園線という、単体の公園としては実在しない路線名は、道立公園時代の公園名を継承したものとなっている。

こうして道道の一部となった白浜隧道だが、それから6年後に「除去」されたことは、前述の通りである。
「除去」の理由についても言及した資料は見当らないが、単純に拡幅や線形の改良など道路整備の都合であったろう。採石場になったのは、さらに後である。




隧道があったことは分かったが、写真が見つからなかったことは心残りだ。
廃止が早いとはいえ、それでも昭和46年まで存在しており、しかもスコトン岬という当時から知られていた名所への通路であったから、決して旅行者は少なくないと思うし、スナップを撮った人もいると思う。もしお心当たりがある方がいたら、ぜひ教えて欲しい。

一切の痕跡を現地に残していないが、間違いなく日本最北のトンネルがここにあったのだ。
せっかく気付いたからには、もうしばらく語り継ぎたいではないか。




「読みました!」
コメント投稿欄
感想、誤字指摘、情報提供、つっこみ、なんでもどうぞ。「読了」の気軽な意思表示として空欄のまま「送信」を押していただくことも大歓迎です。
頂戴したコメントを公開しています→コメント公開について
 公開OK  公開不可!     

送信回数 -回

このレポートの公開中コメントを読む

【トップへ戻る】