JR花輪線 魅惑の駅達  十和田南駅 編 
公開日 2005.11.1


 これまで、ただの一話として命の危険を冒さないレポの無かった廃線レポであるが、たまには毛色を変えてみようと思う。
あなたのお口に合うかは分からないが、とりあえず、ご賞味召され。

 なお、旅の案内人は、ヨッキれんと、伝説のツナギスト・ミリンダ細田でお伝えする。


 JR花輪線 十和田南駅
 2005.10.29 14:53

 駅蕎麦で舌鼓

14:53

 十和田南駅は、JR花輪線の主要な駅の1つで、秋田県鹿角市にある。
花輪線についても簡単に紹介すると、同線は秋田県第二の都市にして県北の中心都市大館と、岩手県岩手郡玉山村に位置しいわて銀河鉄道(旧東北本線)との接続駅である好摩とを結ぶ107kmの地方鉄道である。
好摩は岩手県都盛岡に近く、実際に花輪線好摩止まりはなく、全ての列車が盛岡まで乗り入れるダイヤになっている。
現在も全線が非電化で、近年までタブレット閉塞や腕木式信号機などを見ることができたし、奥羽山脈越えである竜が森のSL三重連は往年の鉄道ファンに広く知られていた。
全線の開通は1931年(昭和6年)である。

 10月最後の土曜日、巷の行楽地は紅葉に彩られ、多くのハイカーに賑わっている。
そして、東北随一の観光地であり紅葉の名所でもある十和田湖観光の、秋田県側玄関口である十和田南駅もまた、賑やかであることを想像していたのだが…。
 ときおり勢いよく落ちる冷たい雨に濡れそぼつ駅舎には列車を待つ人の姿も疎らで、広い駅前のロータリーに群れなすタクシー達も、中央の花壇に飾られた銅像と共に時が止まったかのようである。
まだ午後3時前だというのに、空は夕暮れのように暗く、駅名のネオンサインと自動販売機の灯りだけが、濡れた駐車場に色を落としている。
駅と屋根が連続しているJRバス十和田行きのコンコースにも、まるっきり人影はなく、十和田観光の喧噪とは隔絶された、南十和田駅の姿だった。


 この十和田南駅の歴史と、そこに起因すると言われる特殊な構造を説明しなければ、この後に紹介する物件は意味が無くなる。
多少面白みのない説明になるかも知れないが、我慢して欲しい。せめて、写真だけでもオイシイ物を用意したので。(当駅の駅そばはグルメな細田氏が同線二駅となりの鹿角花輪駅のそれと共に絶賛する駅そばである。確かに美味だ。天ぷらそば350円也。)

 この十和田南駅には、結局果たせなかった鉄道計画の名残が残っていると言われている。
十和田南駅が、毛馬内(けまない)駅という名で初めて開業したのは1920年の事である。
当時この駅を含む鉄路を建設し経営していたのは大館市に本拠を置く秋田鉄道という民間企業体で、鹿角地方に長らく君臨していた尾去沢鉱山の鉱山鉄道としての性格を有していた。
その後も秋田鉄道の手によって鉄路は伸ばされ、鹿角花輪駅まで1923年に全線開通している。
これと前後して国鉄が好摩から花輪を目指し建設を進めていた花輪線が、鹿角花輪駅にて秋田鉄道線と結ばれたのが1931年。
その3年後の1934年に秋田鉄道線が全線買収され、現在の花輪線となった。

 ここまでの歴史では、一介の途中駅という姿しか見えてこない和田南駅だが、実は鹿角花輪から十和田南までの約10kmの鉄路は、花輪線と共に東北横断を企てた、別のもう一つの鉄道の、唯一開業を果たした区間でもあったのだ。
その鉄道は、1922年に交付された改正鉄道敷設法の中の「予定線」として、その内容が記されている。
記されているとは言っても、僅かに一文。

 「青森県三戸ヨリ秋田県毛馬内ヲ経テ花輪ニ至ル鉄道」

この鉄道の、花輪から毛馬内の区間が、先に秋田鉄道が開設していた線路だったというわけだ。
そして、遠く青森県の三戸は、十和田の山々の向こう側であり、奥羽山脈を来満峠に長大なトンネルを掘り貫通させる構想があった。
しかし、三戸〜毛馬内(十和田南)間は、結局計画以上になることは出来ず、国鉄バスが代替の国道を通うに止まったのである。
花輪線と、この毛馬内から三戸へと伸びる鉄道との分岐点が、現在の十和田南駅だった。

 そして、十和田南駅について、幻の鉄道計画の名残だとまことしやかに言われている原因は、駅自体の“向き”にある。
駅は、右の図の通り、花輪線に対しスイッチバックの形をとっている。
全国には、スイッチバックの駅は幾つかあるが、大概は地形的な制約によってそうなっている物が殆どだ。
スイッチバックには列車を運行させる上でのデメリットが多く、例えばこの駅を通過するような快速列車を設定できなかったり、ダイヤも複雑にならざるを得ない。さらに、SLであれば方向転換の際に余分な転車作業も必要となるなど、制約は多かった。
地形的な因子では、必ずしも十和田南駅がスイッチバックを選ぶ必要はなかったように見えるのだが、実際に、スイッチバック駅として現在まで存在し続けている。
陸中花輪駅から続く線路が、あたかもそのまま十和田南駅からさらに北へと大湯川を渡って続いていくような、そんな駅の配置なのである。

 ただ、十和田南駅を毛馬内駅として当地に設置したのは、改正鉄道敷設法が公布される2年前に秋田鉄道によるものである。
国鉄が実際にこの駅までの鉄路を得たのは、秋田鉄道買収、すなわち駅設置の14年も後のことであり、民間企業であった秋田鉄道がその時点では未来であったはずの、三戸方面への鉄道延伸を見据えていたのかについては、疑問の余地が大いにあるのもまた事実である。


 説明が長くなったが、ともかく、十和田南駅から北に300mほどは、レールや築堤が伸びている。
将来的には三戸へ続く鉄道の入口になっただろうレールだ。
今回は、この部分を見ていこう。


 十和田南駅の北には、行き止まりの線路が約200mほど延びている。
写真は行き止まり側から駅を奥にして眺めたものだが、二つの小さな橋梁がそれぞれ用水路と市道を跨いでいる。
スイッチバック駅とは言っても、急勾配を越えるための助走路というわけではないし、貨物取り扱いも止めた現在の十和田南駅には留置された列車もなく、この延伸部分が使われているのを見たことはない。
おそらく、蒸気機関車の時代には機関車付け替えの際に待避線として使われていたのだろう。
意味合い的にはあくまでも廃線跡や未成線というわけではなく、単純な駅の構内線だろう。

 しかし、夢破れた鉄路の話を知っていると、どうしてもこの僅かな延伸部に、夢を見てしまう。



 延伸部分の築堤に登ってみる。
写真は二つある橋のうちより行き止まり寄りにある橋の上から、駅構内を見た。
島式ホームの両側に、それぞれ上りと下りの列車が止まる十和田南駅の二本の鉄路に、分かれているのが見える。
足元のレールはやはり殆ど使われていないらしく錆び付き、バラストにも薄く草が生えている。
ただ、短い橋にも両側に保線通路が設置されているなど、構造はさすがに本式の鉄道である。(林鉄跡ばかり歩いていると、余計に驚く)



 逆方向を眺めると、2本目の橋のすぐ先で車止めが設置され、レールはそこで終わっている。
車止めまでは駅の端から200mくらいだ。
築堤は進むほどに緩やかに高さを増し、周囲の民家の二階部分と同じくらいの高さになっている。



 車止めの先にも100mほどは築堤が続いている。
バラストも敷かれていた痕跡があるが、一面の草むらとなっている。
先に進むにつれ草むらは濃くなり、やがて大きく成長した木々に半ば覆われる。
それでも進もうとすると突然築堤は消滅し、足元には大湯川の青々と雑草の茂る河川敷が広がっている。
対岸には毛馬内の集落の屋根が見えているが、築堤は存在しない。
また、橋台などの未成線遺構も存在しないようだ。
つまり、確認できる鉄道構造物は、この大湯川とのぶつかりで終了である。
 注目に値するのは、築堤の最後の部分がやや西寄りにカーブしていることだ。
このカーブを大湯川の対岸まで延長すると、一本の市道が約600mほど一直線に続いており、森林管理所あたりまで続いている。
この線形は、大湯川を遡り来満峠へと向かうルートとはやや矛盾する。
毛馬内の市街中心方面へと、最後に築堤がカーブしていることは、この築堤が「改良鉄道敷設法」による予定線を想定したものではなく、毛馬内市街への延伸を考えていたのではないかという、思考実験をもたらす。

 そして、この思考実験は、この地方に同時期に存在した別の私設鉄道の記録に触れることにより、現実味さえ帯びてくるのだ。

 その鉄道は、小坂鉄道(現:小坂精錬小坂線)。
当地から北へ10kmの位置にある小坂町と、近年までその産業の全てであった小坂鉱山。
その小坂鉱山と大館とを結ぶ鉱山鉄道として、秋田鉄道よりも早い明治41年に完成した小坂鉄道は旅客営業も行った実績があり、国鉄に遜色ない設備を有していた。

 結局、小坂鉄道の旅客部門は振るわず、1994年に貨物専用線となり現在に至るのだが、小坂鉄道もまた、幻となる延伸計画を有していた。
その一つが、小坂から毛馬内を経て秋田鉄道十和田南駅に接続し、大館〜小坂〜毛馬内〜大滝温泉〜大館という、一大周回路を県北にもたらそうというものだった。
そして、現実に小坂駅もまた、毛馬内を向いて設置されているのである。(その立地根拠の裏付けは取れていないが)
この小坂鉄道の延伸計画は、国鉄による改正鉄道敷設法より以前から非公式に存在していたことが、地域史などによりつまびらかである。

 十和田南駅から北に延びる僅かな延伸部分の、不自然なカーブ。
もしかしたら、繋がらなかった鉄路が目指した先は、壮大な奥羽山脈越えなどではなく、すぐ隣、わずか10kmの水田の先にある、一大消費地だったのかもしれない。
県内の昭和鉱山史を代表する2鉱山である尾去沢鉱山と小坂鉱山が早い時期に鉄道によって直結されていれば、現在の県土の様相はまた大きく異なっていた可能性もある。



 その後の調べで、新しい事実が判明した。
どうやら、秋田鉄道株式会社が設立された当初(大正2年)から、同社は「大館〜三戸間の鉄道」を構想していたらしい。
しかし、当面の事業目標として、大館〜毛馬内〜花輪の鉄道敷設の免許を申請・取得し、実際に工事に掛かったようだ。
大館から順次開業し、末広駅(当時は毛馬内駅と称した)まで開通したのが、大正4年。
そして、このあたりで、同社は新たに三戸方面へと向かう線路を申請したのだろうか。
大正7年には次期工事として「錦木〜小坂間」が国により許可されている。
この錦木は現在の十和田南駅がある地名で、小坂は、言うまでもなく小坂町の小坂だろう。
そして、大正9年に毛馬内から錦木までが開通したと記録されている。
おそらくこれは現在の駅名でいえば、末広から十和田南までが開通したと言うことだろう。
つまりは、大正7年時点ですでに秋田鉄道は、末広〜十和田南〜小坂を建設する許可を得ていたし、実際にそのつもりで末広から同区間の工事を行ったのだ。(また同社の三戸延伸構想は、後の国鉄の物とは異なり、小坂経由であったようだ)
しかし、大正12年に開通した秋田鉄道として最後の延伸区間は、当初の申請にあった十和田南から陸中花輪までであり、結局同社によって十和田南以北の工事が行われることはなかったようだ。
 ここまでの話が全て事実ならば、やはり十和田南駅の北に存在する延伸部分は、秋田鉄道によって小坂を目指し大正7年頃に建設された鉄路であったと言うことになるし、大湯川対岸の直線道路も、手前のカーブの謎も解けたと言えるだろう。

2005.11.2追記

 鹿角市史などにより、上記の内容がほぼ裏付けられたが、さらに、毛馬内駅(現:十和田南駅)が毛馬内の市街地より南に外れた場所に立地したため、毛馬内市街地へとさらに線路を延ばす計画が立てられたが実現しなかったとの記載がある。
これとは別に、現在の十和田南駅を「中央駅」として、南線を「花輪」まで(←実現済み)、北線を「小坂」まで延伸する計画(←未着工)があり、許可も受けていた。
といった記載もある。
2005.11.5追記

 さて、夢物語は尽きないが、現実に存在する不思議の謎解きを、ひとつ、これからみなさまにお願いしたい。
いくら考えても、私にはちょっと分からない謎だ。

 先ほど紹介したとおり、この築堤には二つの橋が並んでいるのだが、駅から近い方からそれぞれ、古川橋梁、山谷橋梁という。
どちらもよく似たIビーム橋なのだが、このわずか20mしか離れていない二つの橋には、不思議がある。

まず、駅から遠い方で用水路を渡る山谷橋梁だが、塗装銘板があり、諸元を知ることが出来る。
それによれば、
位置 十和田南〜末広間77k251m90とある。




 一方、駅から近い方にある小さな跨道橋「古川橋梁」の同様の銘板には、

位置 柴平〜十和田南間77k231m90とある。

 不思議を感じただろうか?

77kで始まる数字は、起点である好摩からの累積距離と思われる。
より十和田南駅に近い古川橋梁の方が起点にも近いだろうから、その距離に矛盾はない。
しかし、設置された箇所を示す表示の食い違いは、どのように考えればいいのだろうか?



 古川橋梁は、十和田南と柴平間にあるという風に表示されているが、柴平は十和田南から好摩へ向かった場合の一つめの駅の名だ。
一方、山谷橋梁は、十和田南と土深井間と言うことになっているが、土深井は十和田南から大館に向かった場合の一つめの駅である。
築堤上の線路は、あくまでも単線。
なぜ、わずか20mしか離れておらず、しかも共に行き止まりのレールであるわけだが、何故このように表示に食い違いは生じたのか?
単純なミスなのか?
そもそも、このような駅構内の線路の扱いというのも謎である。

 どなたか、事情に詳しい方。
もしくは、こういう事では?というご意見のある方、感想板であなた流の種明かしをお願いします。




      次回、魅惑の駅を二つ紹介します。












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