東北鉄道鉱業線 国境峠付近  

公開日 2006.05.17
周辺地図

 東北の鉄道史の中で、おそらくもっとも大規模な未成線と言えるのが、大正期に計画され、実際に着工した記録もある「東北鉄道鉱業線」である。
この鉄道は、(株)東北鉄道鉱業が自社の経営する小川炭坑から石炭を積み出すことを第一の目的としつつ、当時まったくの鉄道空白地帯であった岩泉や宮古地域の旅客輸送をも睨みつつ計画されたもので、小川炭坑に近い門(かど:現・岩泉町)からおおむね馬淵(まべち)川に沿って北西へ進み、葛巻を経て小鳥谷(こずや:現・一戸町)にて東北本線に接続する約55kmと、やはり門から東へ岩泉川に沿って進み、岩泉を経て太平洋岸の小本(おもと:現・岩泉町)へ、さらに沿岸を南下し茂師港(もしこう)に至る約40km、この2線をあわせた100km近い本線。さらに岩泉町の落合から分岐し、押角峠を越えて新里村の茂市(もいち)へと至る約30kmの支線(現在の岩泉線にほぼ一致)を含む、当時の計画延長において東北最大の私鉄網を構想したものである。
 まだこの地方に、現在ある山田線や岩泉線、宮古線(その計画は三陸縦貫鉄道に引き継がれ、3セクで開業済み)が形を見せる前に、いわば岩手県土を縦断するような先進的な長大線を、一炭鉱会社が計画し、出資を募り、実際に着工にまでこぎ着けている事実は驚きに値する。
残念ながら当初の思惑通りに出資金は集まらず、やがて吹き荒れるモータリゼーションを待つまでもなく、大正15年に小鳥谷から門までの起工式が盛大に挙行された記録をほぼ最後にして、ただのひと区間も開業させることなく計画は消え去ったが、着工の事実はこの長大な沿線予定地の随所に、幾つもの鉄道物語を生み出している。

 山行がでは数年来、この路線について地道に調査を続けているが、本州でもっとも人口密度が低いという一帯にあって、しかも80年も昔の僅か数年間に一部で工事が行われただけという未成線の情報は、思うように収集できていないのが現状である。

 今回紹介するのは、以前紹介した葛巻町内の岩上地区にある岩上隧道からは大きく離れ、葛巻町と岩泉町の境界をなす国境(くにざかい)峠付近にある未成線跡である。
これまでに私がこの沿線上で目撃した遺構の中ではおそらくもっとも鉄道らしさを感じさせる遺構で、これまでどうしても現実感を感じられなかったこの鉄道計画が、「リアル」であった事を強く意識させる発見でもあった。





まぼろしの鉄道計画 その確かな痕跡

 まぼろしの鉄道、その未成線跡がもっとも鮮明に残るのは、道中の最高所を予定していた国境峠のすぐ南側。今日の岩泉町上国境地区である。
現在はここを立派に改良された国道340号線が一直線に駆け抜けているが、土日でさえ交通量は疎らである。
峠のすぐ傍まで民家は迫っているものの、かりにこの鉄道が開通していたとしても、沿線の景色には殆ど変化がなかったのではないかとも思われる。
それ以前に、この平成の世にまで生き残っていたかもかなり怪しい。

 それはさておき、その未成線の痕跡の目印となるのは、上国境地区のもっとも上手の民家からさらに峠の方へと少し進んだ場所にある、小さな赤い鳥居である。鳥居は雑木林の中に国道からも峠に向かって左手に小さく見える。



 社は無く、鳥居の向こうには弊が括り付けられた小さな祠が佇んでいる。
国道からこの鳥居の傍までは、地元の山仕事の車だけが通るような小径があるが、普通車はスタックするおそれがあるのでオススメしない。
国道から歩いたとしても200mもない地点だ。

 写真は鳥居を、国道側の一段低い位置を通る小径から撮影している(向かって右側が峠方向)が、鳥居の前の斜めになった平場が未成線跡だと言われている。
視線を左に向けると、そこには小川がある。



 小川を挟んで対岸には堆肥置き場の広いスペースがある。
堆肥置き場から鳥居前の長方形の平場へ繋がるようにして、小川の流れる沢へと3mほど平場が突き出している。
残念ながら小川の両側共に橋台は存在せず、そもそも施工されなかったのか失われたのかは分からないものの、小川を挟んで両側に平場が向き合う状況は、言うまでもなく路盤工事の名残であろう。

 写真は、堆肥置き場に停めた車から小川の向こうの鳥居を望んだもので、木に隠れ分かりにくくなっているが、微かに赤っぽく見えているだろう。
目の前に舌のように伸びている草地が、鳥居前の平場に対応している。



 今度は鳥居側(峠側)から小川を振り返って撮影。
鳥居の一段下には地元車が通る小径がある(写真では緑色の濃い部分)が、そのさらに鳥居よりの平場こそが、小径によって切り残されてしまった路盤跡と考えられている。

 ここまでの発見内容は、まだ決定打と言うには乏しく、「言われれば分かる」と言う程度である。
私も、ここまでの内容については『鉄道廃線跡を歩く 10巻』に記載があるから、その期待以上でも以下でもない追確認に過ぎなかった。



 堆肥置き場から下手に少し進んでみた。
路盤の延長線上と思われる部分には堆肥置き場と国道を結ぶ小径があって、これが未成線跡を再利用したものである可能性は高いが、線形以外に根拠はなく、何とも言えないのが実情だ。
実際、車道化されてしまっていると、未成線の判別は困難である。



 次に、鳥居の前から峠へ向かって進んでみる。

 足元の道が車も通る小径で、左に見える平場が神社前のそれである。
この写真から分かるように、小径は路盤跡に乗り上げ、それをなぞるようにして針葉樹の森へ続いているのだ。



 少し森に入ると路面の轍は極端に少なくなるが、それもそのはず、路面全体が柔らかい泥で容易く車を通しそうにない。
右手を見ると、峠に向かってスパートをかける国道のガードレールが森の向こうにあり、浅い沢に沿う小径は真っ直ぐ峠に進んでいる。
 もともと峠には隧道が計画されていたそうだが、『鉄道廃線跡〜』著者の調べによれば、隧道自体の着工には至らなかったらしいとのことである。
しかし、私が想像していた以上に、現在地は峠のピークに平面的にも高度的にも近く、すでに海抜600mを越えている。
峠の鞍部も林の向こうに既に見えている状態で、それほど長い隧道を予定してはいなかったのかもしれない。



 鳥居から200mほど峠の方へ進むと、ほぼ真っ直ぐだった小径が、二手に分かれる。
右の道には微かに轍が残っているが、左はそれさえなく、写真の通り、湿地帯のような平場である。

 というか、この景色って、期待以上に廃線跡っぽいじゃん?!



 おいおい、こんなに鮮明な痕跡があるなら、当然『鉄道〜』の取材でも訪れ、撮影もしていると思われるが、なぜかその写真が誌面にないために、よもやこんな景色に出会えるなんて、全然期待していなかった。
これは、嬉しい誤算である。
たとえそれが読者想いの作者によって仕組まれたものだとしても…… 嬉しいかも。

 この気持ちは、ちょっと私がどれほどこの未成線に惚れ込んでいるかを十分に説明していない現状では、読者の皆様に理解されにくいかとも思うが、いやはや……。

 本当に、
本当にこんな山中に、鉄道を敷こうとしていたんだな……。
80年近くも昔に。



 おいおいおい!
この掘り割りの深さはヤバイよ。
これ、隧道行っちゃうよ!!
しかも、足元にはチョロチョロと小川が流れており、まさに洞内涌出水?!

 前方に、何やら黒い岩盤の露頭のような物が見えはじめていたが、なおミラクルが起きるかもしれないような気持がした。
それほどまでに、ここはもう隧道予定地に近かったに違いないのだ。
これ以上峠の方へ掘り進めば、掘り割りの深さはどこまでも深くなり不経済極まり無くなる。
すでに現実的には、いつ隧道が現れても可笑しくない深さに達している。



   スパッと、スパッと終わっている。
見えてきた。
ここまでしか工事しなかったよと言いたげな、掘り割りの頭が見えてきた。
三方までが高さ10m近い人工斜面となっており、地図上での推定、サミットまでの距離はあと300m弱。

 朝鮮人労働力をも動員して行われていたという鉄道工事。
結局、その痕跡の大半が(もしかすると全てかも)、もともと開発密度の小さな地域である故か何ら有効活用されずにある。
田んぼの中に作られた築堤は邪魔者扱いで取り壊され、橋桁無き橋台はうち捨てられ、出口無き隧道は見捨てられ、また辛うじて繋がっていた隧道も危険だと埋め戻され、その何れにも該当しない大半は、 ただ、 ある。



 この地点の工事が打ち切られた時、掘り割りの先端は大きな一枚岩盤にぶつかっていたようだ。
そこには、長年の流水で露出した巨石が顕れていた。
この先に進むためには、爆破を伴うような大規模な作業が必要だったかもしれない。

 滑りやすい急斜面を登ってさらに先へ進んでみた。



 そこは、ただ何もない林のようだった。
当然、峠に向かって緩斜面が続いていて、おそらくこの辺に隧道の口を予定していたのだろう。
かつて隧道工事のために地質調査などが行われたかもしれない場所だが、それとわかるような痕跡はない。



 ただ、掘り割りの延長線上の林の中に不可思議な瓦礫の山があった。
それほど規模の大きなものではないが、路盤工事で生じた残土であろうか。
砕かれたような岩の小片が多く混じっており、周辺の土砂とは明らかに異なっている。
一体ここで何が行われていたのだろうか……。  



   私は、その掘り割りの深さに、この鉄道計画が真面目も真面目、自社の命運だけではなく、地域の発展を期して進められていたのだという印象を深くした。
これまでも、たくさんの廃線跡の掘り割りを見てきたが、これほど印象に残るものは初めてである。
風さえ通らぬ行き止まりの掘り割りこそ、未成線の哀感をもっとも端的に示す遺構ではないかと思うのである。

 この短いレポートの最後に、いまから79年前の昭和4年3月、一度は着工するも十分な出資を得られず行き詰まった東北鉄道鉱業社による、『増資計画書』から、同社が謳った「本鉄道の使命」という文章の一部をご覧頂こう。(下線は私の挿入である)

 産業立国を以て起たざるを得ざる我国に於いては須く富源の開拓に努めざるべからず此秋に当たり東北宝庫たる岩手県下閉伊の一大炭鉱と一大林業とを如何にして開発すべきかは看過すべからざる重大事に属せり又同時に東北文化と国防上必要なる交通機関の整備を解決せんと欲せば国有鉄道東北本線小鳥谷を起点とし太平洋沿岸茂師港並びに盛宮線茂市駅を終点とる85里の鉄道貫通を速成せしめざるべからず之れ本鉄道の有する使命なり

 文中に“盛宮線”とある現在の山田線が、昭和9年にいよいよ茂市駅を開業させて宮古〜盛岡間を開通させると、この増資計画も思うように進まなかった同社は鉄道計画に見切りをつけ、早々と小山炭坑〜茂市駅間の索道を建設し鉱石輸送の問題を解決する。
こうなると当然のように、同社が誇らしげに掲げていた地域振興の高尚な理想も水泡に帰するわけだが、二度の出資計画の失敗は、すなわち地域がこの鉄道をさして求めていなかったとも取れるわけで、同社の行動は私企業として何ら非難を受けるようなものではないだろう。



 今回、謎に包まれたままの東北鉄道鉱業線の、ごく短い区間ではあるが、明らかに路盤と思われる部分を特定することが出来た。
今後、このような小発見の繰り返しによって、どの程度の工事が行われ、何が残っているのかの全貌を掴んでいきたいと思う。
 引き続き読者の皆様からの情報提供、資料提供などをお待ちしております。