2007/10/30 13:44
私と細田氏は沢を渡り、水際の笹藪を掻き分けて橋の袂へ迫った。
典型的な形のプレートガーダー橋が、気持ちいいほど真っ直ぐに対岸の切り立った斜面へと伸びている。
橋に沿って視線を遠くに向ければ、やがて素堀らしい細長い坑口に呑み込まれ、さらには出口まで一直線に見通せた。
再び視線を足元へ戻すと、まだ数本の枕木が、苔色に覆われボロボロの朽ち木になりながらも、辛うじて橋の上に渡されている。
しかし、それもごく手前の数メートルだけであり、その向こうは黄色い落ち葉が点々と続くだけの、「細き平均台」の様相を呈している。
この橋を渡らなくても、素直に沢を徒渉して、斜面をよじ登り坑口へ辿り着く事は出来そうである。
しかし私も細田氏も、このような廃鉄橋を渡るスリルが大好きである。渡ってみなければ気が済まないのである。
この橋は、比較的挑戦しやすい構造になっている。
と言うのも、我々が渡り始めた下流側において谷は傾斜が緩やかで、最初の3mほどは地面との高低差が少ない。
故に、万一転落して負傷するリスクをあまり冒さず、言うなれば「試し渡り」が効くのである。
今まで出会った多くのプレートガーダーは大概はクリティカルな場所に架かっていて、そんな余裕は少なかった。
この余裕ないし猶予は、久々の「橋渡り」実戦である細田氏にとって特に、大きな意義を持っていた。
左の写真を見て欲しい。
本橋の渡橋条件すなわち難易度は決して低い部類ではない。
なんと言っても、渡るべき桁の幅が足を載せる限界と思われるほどに狭いことだ。
まさにこれはストイックな平均台であり、バランス感覚のみを頼りに渡るより無い。
さらにこの橋の攻略を難しくしているのは、桁正面に出っ張っているリベットの存在だ。
これらリベットは、プレートガーダー攻略において必ず敵する存在ではあるのだが、本橋においては元もとの幅が狭いのとリベット同士の間隔が狭いため、実際にはこのリベットの頭の上を歩く事にならざるを得ない。
当然これは足裏の接地面積が小さくなることだから、バランスも取りにくいし、滑りやすいという問題がある。
これだけでも十二分に困難な橋だが、さらに桁上に散乱した落ち葉の存在と、雨に濡れているという状況が、本橋の難度を「至難」と言っても良いレベルに高めていた。
しかし、このような分析をしながら挑戦することは、私と細田氏の楽しみのようにもなっている。
「この橋は、レベル5だな」とか言いながら、過去二人で挑戦した色々な橋と比較してみたりした。
二人とも困難な橋であるという認識は共通したが、結局は挑戦していた。
下流側の梁に取り付いた私を先頭に、もう一本の梁に付いた細田氏が1.5mほど後ろに続く。
1メートル、2メートル、3,4,5… 順調に距離を伸ばしていく。
ものはあくまで平均台であるから、普通の身体能力が有れば、誰だって渡れるはずである。
あとは恐怖で足が竦んだり、ふらついたり、油断して転倒でもしない限り、やがては対岸へたどり着けるのだ。
私は、いつもそう自分に言い聞かせながら渡っている。
絶対に人の体重などで橋が崩壊することはないから、その意味で、木橋を渡る時のような「何も保証がない恐怖」は無いのだ。
だが、今は自分一人ではない。
私は数メートルおきにタイドプレートに足を載せて振り返ると、後方の細田氏を振り返り、彼の安否を確かめた。
我々にとっては最高のシチュエーションではあっても、世間的には「こんなにツマラナイ場所」で、妻子有る彼に負傷して貰うわけにはいかない。
だが、彼のブランクの長さを不安視していた私の心配は杞憂に終わった。
単独で廃道歩きをすることは決して無い細田氏であるが、私が地元にいない間もときおり「点検」を怠らなかったと言うのだ。
彼の言う「点検」とは、このレポの末尾にある「増沢橋梁」を渡る事である。
彼は仕事で外回りの合間や、或いは深夜のドライブ時などに増沢橋梁に立ち寄っては、ひとり、渡橋力の減退を抑えてきたのだった。(この橋へ行けば細田氏に会えるというわけではないが、会える可能性はある。)
そんな彼の足取りは安定しており、何よりも、恐怖によってその歩を乱すことが無かった。
このまま順調にいけば、二人揃って隧道へ辿り着けるだろう。
渡り始めてから1分後、私と細田氏は相次いで中間地点である橋脚の上に達した。
華奢な橋脚ではあっても、我々の止まり木としての安定感は抜群である。
ここでひとまず周囲の状況を確かめると共に、緊張による身体の強張りを取った。
ここまで細田氏の事ばかり述べてきたが、当初の予想通り、この橋は私にとっても大変恐ろしいものだった。
リベットの頭の上に落ち葉が載っていると恐ろしく滑りやすかったし、その梁自体の狭さは少しのバランスアウトも許さない強迫性があった。
また、途中で地上から伸びている立木の枝が干渉して、どうしても体勢を変えなければならない場面もあり、「渡橋は動作のパターン化がコツ」だということを旧柴崎橋で覚えた私にとって大きなストレスになった。
…しかしここからの後半戦、
どうしてもパターン化出来ない場面が、待ち受けていた……。
そう。
このフジのツタが絡まったエリアである。
たったそれだけのことだが、この突破は困難を極めたのである。
草のツタならば千切って捨てる事も出来ただろうが、これは木であるから、そうも行かない。
しかし、茂る葉によって狭い梁が見通せなくなっているばかりか、躓きそうな状態になっており、とても歩けない。
私はその直前に立ち尽くしたまま、困ってしまった。
引き返すべきかとも考えたが、残りはもう10mを切っており、しかもツタが絡まっているのは3mほどに過ぎない。
どうにかして渡り果せたい私は、最後の手段として、四つん這いになった。
しかし、これでも容易ではなかった。
あくまでもツタはツタに過ぎないから、体重を載せようものなら忽ち千切れてしまうに違いない。
だから、注意深く手でツタを払いながら、梁および補剛桁(斜めに渡された細い鋼材)の位置を確かめ、そこに腕や膝の皿を載せながら、慎重に進んだのだ。
転落の恐怖が、強く頭をよぎった。
約2分を要し、3メートルばかりのツタ地帯を突破した。
残りは僅かとなったが、一度四つん這いになって重心を下げてしまったため、もう立ち上がれなくなってしまった。
そのため、残りは全て這い進むこととなった。
桁が狭すぎて、直立する瞬間に不可避の身体のバランスの崩れが怖かったのだ。
ちょっと情けない姿にはなったが、ともかく私はこの全長25mほどの橋を渡り果せた。
こうして、
私は隧道へと辿り着いたのである。
……細田氏はどうなった?
自分の渡橋に夢中になっていた私は、細田氏が付いてきていないことに気付かなかった。
まさか気付かぬうちに転落していたなんてことは…。
慌てて振り返る。
い いねぇ!
…ん?
あ、いたいた。
フジの茂みがモソモソし、何か黄色いものがチラチラと見える。
「てんちょ〜う!」(←細田氏は私のことを「店長」と呼ぶ)
「沢渡って向かうスね。」
彼はフジの絡まりに前進を断念し、長い撤収の道を歩む決意をしたようだった。

彼が沢を渡る間に私も一旦谷底へ降りて、この見事な橋を隅々まで観察することにした。
左右の写真は、何れも谷底から来た方向を撮影したもの。
撤収中の細田氏が写っている(左)。
また、橋脚の傷みが特に激しい(右)。
表面のコンクリートが帯状に剥がれ落ち、内部の鉄筋が露出していた。
鉄筋は表面の滑らかな円鋼であり、戦前の特徴を示している。
それにしても、この橋脚…
曲がってないか?
そう思って、家に帰ってから写真に定規を当ててみたが、やっぱり曲がってた(笑)。
中央部分のちょうど剥離している辺りを頂点にして、下流側に膨らんでいる。
おそらく、洪水の度に上流側を漂流物に打たれ続けた結果だろう。今現在も、多数の倒木が上流側に引っかかっている。
次の世代にはもう継承できなさそうな遺構である。
下流側から見た橋の全体像。
圧巻 である。
橋上にいる細田氏とのスケールの違いを味わって欲しい。
ここを古くは蒸気機関車、後期はディーゼル機関車が、何輌ものトロを曳いて行き来していたのである。
森の鉄道の勇姿を私も一目見たかったが、私が生まれたときにはもう県内に林鉄は残ってなかった。
昭和46年9月に当地のお隣、五城目営林所管内杉沢林鉄が廃止され、これが東北全体でも最後の林鉄だった。

細田氏はしばらくして谷底へ降り立ち、長靴よりはいささか深い清流を渡ってきた。
そして、沢を渡っても今度は隧道へと登らねばならない。
下ってくるときにも感じたことだが、土の斜面はとても滑りやすく、登り返すのも結構たいへんだった。