廃線レポート  
森吉林鉄粒様線 「最奥隧道計画」 その1
2004.10.12


  謎の人物T氏から山行が宛てに送られてきた情報は衝撃的であった。

森吉林鉄に数ある支線の中でも、最も深く、最も謎に包まれた路線、粒様支線。
今や徒歩以外では立ち入る術のない山中、マタギ衆が「神の谷」と畏れた絶壁の山渓。
そこに、まだ私たちが知らない隧道が存在するのだという。

T氏は、ライフワークの沢歩きの中で幾度と無く、この穴を目撃しているというのだ。

だが、粒様沢は、これまで沢歩きなどまともにしたことがない私には、とても気安く立ち入れる領域ではない。
しかも、その歩行距離は長く、日帰りは困難だという。


 情報を頂戴してから半年近くを経過した9月某日。
その日のために準備を重ねてきた我々だった。
遂に森吉林鉄合同調査隊は、史上最強のメンバーをそろえて立ち上がった。


 渾身の探索が、始まろうとしている。

 最奥の隧道は、果たして存在するのか。



決行日初日 スタート地点
2004.9.19 8:33


 2004年9月19日(日)、決行日初日。

計画は、一泊二日。
初日である今日は、自動車で入ることが出来る最奥地の土沢林道終点部からメンバー全員にて、粒様沢の遡行を開始。
夕暮れ前までには、約8km上流の、粒沢・様ノ沢二又まで移動し、ここをキャンプ地とする予定だ。
明日は朝一で様ノ沢の遡行を開始し、1.5kmほど上流といわれる、「最奥隧道」を目指す。
昼前には探索を終了し、キャンプ地を撤収の上、粒様沢を下降し起点に戻る。

探索中の移動は全て徒歩。
移動距離は、二日間で20km程度の予定である。

参加メンバーだが。

 ★リーダー  パタリン氏
 ○記録担当  私(ヨッキれん)
 ○地図担当  HAMAMI氏
 ○ガイド担当  くじ氏
 ○野営・ラペリング担当  自衛官氏
 ○食料担当  細田氏

と、山行が的が誇る精鋭5名が揃った。
特に、わざわざ千葉から早駆けで来て頂いた自衛官氏には、ラペリングという必殺技があり、これを用いればあらかたの懸崖にルートを求められるとのことであるから、最悪彼一人でも最奥隧道に到達できれば、計画は成功である。

冷静沈着なブレイン、HAMAMI氏には、地形図を随時確認してもらいルートを確認する。
沢登り滝巡りを趣味にするくじ氏は、数週間前に二又直前までの遡行経験があり、頼りになるガイドだ。
細田氏は、保存食についての専門知識があり、野営のプロである自衛官氏と共に、山行が初の山中泊を支えて頂く。
そして、我らが兄貴パタリン氏は、メンバー全体を見渡す管理手腕と共に、山中行動全体についての知識が豊富であり、今回もリーダーとして、我々を導いて頂く。

私は、合同調査隊ではいつものスタンスである。
それは、記録、及びサイトを利用した広報・情報の収集活動だ。
なかなかに、それは居心地がよい、私の居場所なのである。
緊急時には、くじ氏と共に斬り込み部隊として、率先して道を拓くのもまた、楽しみである。


 また、最低限必要な道具も揃えた。
各自、長時間の沢歩きに耐えるため、沢歩き用のタイツや、岩場に適した沢靴を装備した。
また、テントや野営に必要な道具も一通り準備してある。
私個人的な装備としても、命の次に大切な取材道具であるカメラを守るための「防水パック」の他、万が一のため予備のデジカメ一台も用意した。
その他もろもろ、
6名で十分に協議した必要充分な装備を満載し、5台の車輌で現地を目指したのである。

現時点で望みうる最高の装備とメンツである。

我々の意気込みは、かつて無いほどに、大きいものがあった。





 
 ただし、ただ一つだけ、不安があった。
それは、我々の計画では最も忌むべきものであった。

沢歩きの天敵…

 雨である。

写真は、探索のスタート地点としては唯一無二の、粒様沢が太平湖に流れ込むその場所。
土沢林道の終点にほど近い、我々にはもうお馴染みの景色である。

※右の写真にカーソルを合わせると…。

 まさしく濁流。

東北地方一円を覆った低気圧が、前日早朝から断続的に強い雨を降らせており、特に雨量の多かった同じ秋田県内の由利本荘地域では、大雨洪水注意報が発令されるほどであった。

一縷の望みをかけて…

否、
誰もが無理と、内心は思っていたに違いない。

だが、この目で見るまでは諦めきれぬと、我々は敢えて現地入りしたのであった。

だが、この濁流。
はっきりした。

無理だと。



天候に恵まれなかった苛立ちはどこへ向けることも出来ず、われわれ全員が、奇妙なニヤニヤを浮かべながら、一向に降り止まぬ土砂降りの中、もはや湖と区別が付かなくなった沢を見つめていた。
粒様沢への遡行には、まず、この土沢を渡渉せねばならぬのだ。
付近に橋はなく、渡渉以外には絶対にない。

ジタバタしようがない。

山行がお馴染みの「蛮勇」を奮いようもない…。



 撤収。




   その日の夜、

我々はまだ一堂にあった。
そこで、今後のことを話し合った。

しかし、遙々千葉から来訪していた自衛官氏には、もはや予備日程などあり得なかった。
メンバーは一人失われた。

代替日程を何時にするか…、協議が続いた。

しかし、日帰りならいざ知らず、一泊という日程は、社会人には難しいものであった。
比較的自由にシフトを調整できる私は恵まれていると思う。
次回の日程として、結局、3日後の9月23日、そして24日が選ばれた。
曜日としては水・木であり、私の通常の休みの日に一致していた。
だが、この日程で可能なのは、私の他に、くじ氏と、HAMAMI氏だけであった。
パタ氏は連休も細田氏も、連休を取ることは出来ないとのことであった。

 この決断に、全員が納得していたのだろうか?

或いは、仕切り直しをして、まあ季節的に恐らく今年はもう無理になるだろうが、来年以降に挑戦する手もあったに違いない。
だが、私一人ならば無理と諦めもつくが、くじ氏とHAMAMI氏が行けるというのなら…。

行けるところまで、行ってみようか。

3人だけが、3日後に再び挑むことを決定し、我々は解散した。




 新しい決行日までの2日間、私に科せられた宿題は少なくなかった。
なにせ、6人で計画していた探索を、急遽3人でせねばならなくなったのだ。
持ち運ばねばならない荷物は、一人一人の肩に、より重くなるに違いない。
それに、3人用のテントはパタ氏の好意でお貸し頂いたが、現行の山チャり用リュックではそれらを運ぶのに小さすぎるし、収納力も小さすぎて話にならない。
リュックの他に新に必要となったものとして、ランタンもあっった。

仕事に行く傍ら、「60リットル収納できるリュックサック」「単1電池4本で14時間点灯のランタン」などを購入し、新「探索隊」をなんとか形にしようと奔走したのである。

沢山のアドバイスをくれたパタ氏には、感謝してもしきれない。



 そして、運命の9月24日が、3人に訪れた。



9月23日 再び 土沢渡渉点
2004.9.23 10:20

 天は、我々に味方する気はない様であった。
この二日間も、相変わらず雨がちなはっきりしない天気が続いたし、当日も朝から、驟雨に見舞われたりした。
今度は、秋田市からHAMAMI氏の住まう鷹巣町までは電車を利用し、そこからはHAMAMI氏の運転する車に揺られ、途中くじ氏と合流し、現地入りした。
時刻は、そう言うわけで午前10時を既にまわっている。

林道から見る限り、土沢・粒様沢共に、濁流ではなくなっている。
くじ氏が先日一人で来た時よりも遙かに水量は多いと言うが、渡渉出来ないほどでもないようなので、まずはスタートすることに決めた。
かなり、最悪のコンディションであることは、間違いなかった。
既に森吉には、6日間連続で雨が降り続いていたのだから。




 人の気配のない林道から、本当に秘境の入り口である土沢の辺に降りる。
そして、これから渡るべき流れを見る。

この時、すでに我々は荷造りを完了したリュックを各自背負っていた。
3人の中では最も沢に精通したくじ氏が、新しいリーダーである。(公言したわけではなかったが、内心そう決めていた)
HAMAMI氏は、私よりもさらに経験が少ないと思われた。
私は、新調したてのリュックの調子が良く、「バランスの良いリュックというのは、たとえ相当に重くても快適なのだ」と、悦に浸っていた。
パタ氏から預かったテントやら、ランタンやらを装備したら、60リットルもあっという間にパンパンに近くなっていたから、重さも20kg程度あったと思う。
まだ、その重さの恐ろしさを、私は知らなかった。

くじ氏を先頭にして、これまた新調したての沢装備を初水に浸す。
嘘。 先日の撤収後に、帰り道仁別とかに寄り道して遊んだっけ。
とにかく、濡れを気にする気持ちなど最初から邪魔なので、ここで否応なく水中に没したのは良かった。
土沢は、渡れたには渡れたが、股間までの水位に慣れない水圧が恐かった。



 土沢対岸には、急な山肌を上下するような頼りない獣道が付いていて、これを下流方向へ50mほど進むと、土沢・粒様沢の合流点に着いた。
ここから粒様沢の右岸に沿って遙か8km以上も上流まで、廃止された軌道跡が続くのだ。
これから丸一日以上も、我々3人の旅を預かるのが、この粒様線なのだ。
私は自然に、「よろしくな」と、ひとりごちていた。

写真は、合流点に見つけた橋台の跡。
くじ氏によれば、林道のある対岸にも同じものが残っているという。
全体が苔に覆われた、コンクリ製の面白みの少ない橋台は、粒様線、最初の遺構だった。



長き道のりの始まり
10:33

 粒様線の始まりの道は、早くも荒れ果てた廃道だった。
かつて敷かれていた枕木も、一部が土の間に覗いている。
やはり、車道として転用を受けたことはないようである。
始まりで、既にこの荒れ方では、先が思いやられる。

下半身は既に濡れているが、そこは保温性の高い沢装備。
寒さは感じない。
上半身は雨合羽だったが、これは暑すぎて、すぐに脱がせてもらった。



 朽ちた枕木。
本路線の廃止は、昭和43年といわれている。

今のところ、軌道跡は藪っぽくなっているところはあるものの、平坦で、右に粒様沢の波濤を見ながら、快調に距離を稼ぐ。 このまま行ければ、たいして沢装備のお世話にはならないで済むのかも知れない。
ただし、荷物の重さゆえ、ペースを伸ばせない。
リュックが体に良くフィットしていたせいか、あまり意識はしていなかったのだが、20kgを背負っていつも通り歩けるわけもない。
しかもリュックのその殺人的大きさ、特に背丈よりも高いというのが、思いがけず木々に引っかかるなど、無駄なストレスと運動の原因となった。




 間もなく、小さな支沢をずり落ちた木橋で渡る。
木橋は橋台すらなく、三本の太い丸太を進行方向に渡しただけの、極めて簡素なものであった。

このような木橋が、道中幾度と無く現れるが、その大概は元の位置から、谷へと滑り落ちていた。
そのせいで、我々はその都度、沢底までの数メートルの急なアップダウンを強いられた。
身軽ならば、まあどうって言うことはないはずなのに(頭では楽そうに見えるのに)、体が異様に重くて付いてこない。

まさに、慣れない重さに私の意識は支配されていた。
慣れるまで、かなり辛かったのが本音で、この調子ではとても二日間歩き通せる自信がなかったが、それは現場では内緒にしていた。
動けなくなりそうなら、少し荷物を分けちゃおう。
くじ氏の体力は無限にありそうだしな。(実は彼の荷物も相当に重いのだが…)

こんな調子で、霧雨に煙る、濁流一歩手前の粒様沢で、地味な闘いが、始まった。


かつて無い発見もある。

だが、それはまだ、 かなり先のこと…。








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