廃線レポート 和賀仙人計画 その10
2004.6.19



 山行が史上最難の踏破計画、和賀計画発動。

現在、和賀軽便鉄道跡を追跡中。

軌道上唯一の隧道へと進行開始!



大荒沢隧道
2004.5.30 13:16


 この隧道についての詳細は、既に以前の調査時に紹介しているので、今回は新発見を中心に紹介したいと思う。
前回は、通り抜けることを最優先に恐る恐る進んだわけだが、今度は仲間もいることもあって、細かな部分も調査できたと思う。

それでは入洞。
パタ氏にとって初めての入洞。
私は、2度目。
なんと、くじ氏に至っては、3度目!(来てるなー)である。



 通り抜けるだけならば、全長は50mほど。
ほぼ中間付近に大広間があり、出口付近にも別の広間がある。
また、大広間の出入り口と、出口が大規模に崩落しており、這い蹲って通り抜ける必要がある。
これらは、今回も前回と同様であった。

この隧道についての新発見のその1は、まずこの断面の形状の特殊性である。
素堀の隧道でも多くは円形か、四角形に近い断面を持つ。
しかし、本隧道に於いては、三角屋根のような尖った断面である。
これは、極めて古い時期の隧道工事に見られる特徴であるが、明治末期の工事だとしても、既に円形の隧道は各地に掘られており、その竣工の時期以外の理由があるのかも知れない。
単純に、土工量を少しでも減らす意図があったのか。
或いは、地質上の強度確保が目的だったのかも知れない。


 新発見、その2。

枕木を遂に発見した!
隧道外ではただの一つも見つけられなかった枕木が、大部分が洞床に埋もれながらも残存していた。
前回は雪のせいか、もっと洞内に水が溜まっており、光量不足もあって気が付けなかったらしい。
くじ氏も、初めて見たと言っていた。

これらの発見の後、遂に第一の難所である、大広間入り口の崩落だ。




 ここの崩落は、ほぼ瓦礫の山であり、土がないので体が汚れない。
カラカラと乾いた音を立てる瓦礫をよじ登ると、そこには、前回同様の広大な空間が広がっていた。



 やはり、我々の大光量をもってしても、この凹凸の激しい広間の全容を写真で捉えることは出来なかった。
また、カメラのフラッシュを焚くと真っ白く水蒸気が反射してしまい、殆ど写らなかった。
またしても、この広間は来た者だけに驚きを提供するのだ。

前回よりも落ち着いて辺りを観察することが出来たが、この広間は本当に不思議な存在だ。
少なくとも、入り口と出口の他に、3本の横穴が伸びている。
それらはいずれも数メートルで行き止まりであるが、明らかに人為的な横穴である。
広間の天井は高く、その容積は学校の教室一つ分くらいあるだろうか。



 広間から伸びる横穴の一つ。
確かに広間の随所に天井や壁面の崩落と思われる巨岩や瓦礫が見られるが、もともとかなり巨大な空洞がここに作られたのだろうと思う。
この場所に自然にこれだけ広大な空洞が発生するとは、鍾乳洞でもないのだから考えにくい。
広間の洞床は、軌道本来の位置よりも全体的に高いが、低い場所もあり、大変に起伏に富んでいる。
はっきり言って、旨く表現する言葉が見あたらない。
とにかく、3次元的な複雑さを有した広間である。


 また、別の方向にも横穴がある。
これなどは、這い蹲って下っていくと行き止まりという、神経に悪い形状をしている。
私も、くじ氏も、初めて来たときには、ここに嵌っている。




 新発見、その3。

これは驚き。
なんと、広間の一方の端は、僅かに外気に触れていた。
その一角では、完全に明かりを消すと、確かにこの様な光を見ることが出来る。
吹き込んできたらしい落ち葉が、幾つも洞床に散乱している。
穴は亀裂状に外まで続いているようだが、腕一本通すことは出来ない。
何処へ通じているかと言われれば、おそらくは、断崖絶壁の中腹であろう。
かつてはここにも外へ通じる横坑があったのか、あんまり広く内部を拡張したために、図らずも外へ通じてしまったのかは、分からない。

隧道中央部での内壁の亀裂に外の明かりが漏れるなど、前代未聞の状況だ。


 執拗に各部を探索する我々。

 この大広間には、さらなる驚きが隠されていた。


 広間には、容易に接近できぬ一角があった。
そこは、表面が泥っぽく大変に滑りやすい斜面の上部に見える横穴である。
その横穴は、広間の低い位置からも行き止まりであることが見えるが、この穴の発見によって、天井付近に目をこらした我々は、そこに驚くべき発見を見たのである。


 これは、広間内の急斜面を登った場所から広間の反対側の内壁を写した写真である。
何が写っているか、分かるだろうか?
ちょうど、写真が切れる上側の端、そこに小さな穴が写っている。

なんと、高さ5m以上の広間の天井付近に、どこからもアクセス不能の小さな横穴が発見されたのである。
明らかに、人一人が這い蹲って進めるサイズで続いており、写真ではそこまで写せなかったが、少なくとも入り口から10mは真っ直ぐと続いている。
さらに続いているようにも見えるが、どうしてもこれ以上接近は出来なかった。
かつては、広間内に足場などがあったのだろうか。

この泥の斜面に夢中で齧り付いているとき、崖下のパタ氏が悲鳴を上げた。

 


 私一人が崖によじ登っており、パタ氏とくじ氏は下で照らしてくれていたのだが、パタ氏は気が付いてしまった。
我々が進むべき出口に続く、広間の隅の小穴の上部の岩盤に、大きな大きな亀裂が生じているのを。
パタ氏は、我々すら驚くほどに「危険だ」と早期撤収を促した。
今にも落ちてきそうだというのだ。

私は、まさか。
とも思ったが、撮影も終わったので、出口へ向かったパタ氏とくじ氏とを追うことにした。

たしかに、出口へ続く穴の上の岩盤は、亀裂というか、既に一度落ちて、それでも他の岩盤に引っかかって辛うじて穴を残している様子であった。
もし、這い蹲って通っている最中に落ちてきたら、痛みを感じる間もなく私は両断されるだろう。

…いや、痛みは感じそうだ…嫌だな…。



 一足先に、出口へと消えていくパタ氏。
それを追う私とくじ氏だったが、出口前の小広間で右側に新しい脇穴を発見してしまった。
その穴は、中腰で進む事がやっとの高さしかなかった。
入ると、まるでスロープでも登っているように左へカーブしながら、高度を上げるのだ。

そして10mほどで、穴は直線となった。
直線の先には、行き止まりが照らし出された。
しかし、驚きは足元にあった。


 写真だけでは訳が分からないと思うので補足説明をする。
正面は、行き止まりである。
で、その手前、足元には丁度長方形の穴が空いているのだ。
しかも、その穴の底にも、左右に空洞が伸びているようなのだ。



 私は、今考えればもの凄い暴挙だったと思うのだが、この穴へ飛び降りた。
穴は垂直で、床までの高さは身長程度だったと思う。
無論、引き返しては来られない。
私の空間イメージでは、この穴の底は、元もと我々が居た隧道自体であろうと推論したからこそ、飛び降りたのではあるが、もし間違っていたら、私は大変なことになっていたかも知れない。

くじ氏は、飛び降りずに元来た方向へと戻っていたようだ。
 


 すると、期待通りくじ氏が私の前に現れた。
やはり、飛び降りた先は隧道の本洞であった。
なんという不可思議な三次元隧道なのだろうか!
アトラクションとしては、あの森吉林鉄5号隧道にも勝るかも知れない。
が、内部の著しい崩壊や、かび臭さなどインフラの悪さ考えると、オススメは全く出来ない(アプローチも危険すぎる)。

写真は、私が飛んで下りた穴を覗くくじ氏の姿。
まるで、

 *かべのなかにいる*

だな。


 で、これが脱出口。
この隙間を3mほど登れば、辛うじて外へ出られる。
ここは泥っぽく、全身が汚れることを避けられない。
特に、私はこの隧道で大変に汚れた。
パタ氏から借りていたライト「SF501」も、レンズまですっかり泥にまみれた。

…これは、怒られるなー。

 

いよいよ終盤へ
13:37

 この写真だけ見れば、誰が隧道だと思うだろう。
もう、気分は川口探険隊である。

緑が目に眩しい湯田ダム側の坑口である。
いや、坑口は跡形もなく、開口部と言った方がしっくり来る。
前回は雪空と枯れ木を見上げながら寒々と脱出したものだが、仲間がいるって、ス・テ・キ。


  これが、現在の開口部。
本来の坑口は、2m以上下方だったと思われるが、岩肌が滑り降りて完全に塞いでしまったようで、現在は、崩落面の上端に僅かに覗く穴が唯一のアプローチとなっている。
よくもまあ、奇跡的に残ったものだ。

それにしても、今回の調査によって大荒沢隧道についてある確信が生じた。
前回は、なぜ内部に広間や横穴が存在するのかを説明できなかったが、どうやら、大荒沢隧道自体が、隧道であり、且つ坑道でもあったのではないか。
一帯の鉱山では、鉱脈に沿って掘り進み、それが尽きれば別の鉱脈を掘るという技法がよく利用されていると聞く。
これを、「狸掘り」とか、「秀衡掘り」などと称するらしいが、我々が見た細い横穴達が、まさしくそうではないだろうか。
隧道を現役で利用しながら鉱脈も漁ったのか、それとも軌道が廃止された後、昭和の時期に改めて掘削されたのかは分からないが、多分、間違い無く坑道である。




 「パタさん、ごめんよ…。」
私は、全体が茶色に変色し、表面の粗目の部分には満遍なく泥が詰まったSF501を返却した。


…パタ氏は、私を叱らなかった。
代わりにこう言った。

「ヨッキにものを貸すと、まず汚すものなー。」
そう言って、うなだれるパタ氏。

思い当たる節は、多数ある。
ありすぎる。

ごめんよ、ごめんよ、パタさん…。
私は、よごしん坊です。

借り物を汚す。 減点−2。


 以前大荒沢隧道を攻略したときも、ここまでは来たことがある。
その時の印象は、まあ、冬だったのだが、この先は何とか歩けそうだな、というものだった。
確かに、緑溢れる景色は、隧道手前までの灰色の断崖の連続に比べれば、見違えるほどに容易そうだ。
和賀川へ落ち込む斜面も確かに緩やかになっている。

やっと、最難所は突破したという風に、我々は理解した。
残りはこの森を歩くだけだとすれば、やっと見通しが立ったと思えた。



 森となった緑の斜面にゆるゆると軌道跡の痕跡は続く。
なんて歩きやすいんだ。
幸せだ。

位置的には、丁度ダム手前で大きく蛇行する和賀川の先端付近にいた。
ここから折り返すように方向を90度変え、ダムへの最後の直線に踏み込む。


 我々も、かなり消耗していた。
朝から歩き通しであった事以上に、先ほどまでの緊張の連続が緩んだ事による、精神的な疲労感も大きかったと思う。
35歳のパタ氏は自らを歳だと言うが、彼の外見はそう見えない。
しかし、確かに一際辛そうである。

私としては、計画の発案者として情けないところを見せるわけにはいかないという自負があるから、気持ちは張っている。
ある場面で私の緊張感が一気に開放されてしまうのだが…。
それはさておき、斜面の急な部分には、石垣が残されていた。



 楽になったと油断していた私たちの前に、羊の皮を被った狼が待ち受けていた。

再び、一対の橋台が数メートルの空間を挟んで対峙している。
パッと見は、たいした崖ではない。
斜面に沿って容易に迂回できそうである。

近づいた我々が目にしたのは、これまでにない、とてつもない困難な崖であった。


 ついに、ついにどうしようもない崖が現れてしまった。

見た瞬間にそう感じた。
ここは、流石に谷を巻くことも困難そうだ。
自然の断崖と人工の石垣が複雑に絡み合った、ある意味芸術のようにも見える橋台の凄まじさ。
辺りは森の日影故に断崖には苔が生え、土や枯葉が積もり、とても安定した足場など無い。
僅か5mほどの橋だが、これは万事休すか。
悔しいが、いちど和賀川の谷底まで下りて戻ってくるしかないか。
体力的にも時間的にも、かなりのロスになるだろうが…。




 ここは、全員で慎重にコースを探した結果、30mほどの高巻きで突破することが出来た。
結果的に、一旦和賀川に下りるよりも迂回距離は短く済んだが、危険も大きかった。
断崖を避け、急ではあるが土があって木々が生えている場所を選んで通過した。

これで、ますます我々の足には疲労が蓄積された。
特に、もう終わりだと思っていただろうパタ氏は、グロッキー状態になってしまった。
私としても、まだ橋があるとは思っていなかった。
しかも、こんな難所があるとは。



 7号橋梁を突破して数十メートルを進んだ場所で、再び崖が現れた。
そして、実はこれが、我々をしてついに正面突破を諦めさせた極悪な断崖であった。
写真だけでは、その恐ろしさが分からないかも知れないが、とにかく、ここだけは満場一致で突破を諦めた。
大概私は「鉄砲玉」のように、パタ氏の『ヨッキ、頼むから止めてくれ。絶対落ちる』という静止の声を振り切ってコース取りをする。
そして、くじ氏も動揺した振りをしつつも、実はしっかりと追従してくる。
なんだかんだ言って、パタ氏もその後ろを来る。
そんなパターンで何度も何度も突破してきたのだが、ここばかりは、崖に一歩でも踏み出したら、絶対に落ちると確信した。
運が良くて落ちなくても、三人が無事に突破できる可能性は限りなく低いだろう。
例え私一人でも、ここは敬遠したに違いない崖だった。




 これが、対岸の様子だ。
あそこまで、2mほどは足場や手掛かりがない滑らかな崖である。
ジャンプで対岸に崖に取り付いた場合、相当にうまくやらなければ、確実に谷底だ。
流石に、私にもこれをやる度胸はない。

満場一致。

迂回である。

しかし不運なことに、前の写真を見てもらえば分かるが、上部も延々と切り立った崖になっており、ここからの高巻きは不可能。
かといって、足元も同様の斜面である。
特に、対岸側の路肩下の崖の険しさは特筆もので、下巻きではもう軌道上には復帰できないような気もした。


パタ氏は、下へ行きそうな勢いだ。
私は、まだ悩んでいた。
下に行けば、もう戻って来れない予感がするのだ。

 どうしようか!


決断 そして発見。
14:06

 我々はやむを得ず、一旦軌道跡と決別する決断を下した。
7号橋梁跡まで戻り、ここから大きく大きく高巻きすることにしたのだ。
上部のどこかでは、あの超えられなかった谷にも穏やかな部分があるはずだと踏んだのだ。

パタ氏はもはや試行錯誤的な動作につきあう余裕が無く、まずは私とくじ氏が様子を見に数十メートル先行した。
手掛かりだけは豊富にある斜度50%前後の斜面を、慎重に登って、ひとしきり登ったところからは水平に移動を開始した。
無事に谷の上部を突破できると判断し、パタ氏にも来てもらう。

そしてこの判断が、予想しなかった発見を我々にもたらすことになる。


 累々と重なり合って捨てられたレール。
まさか、ここは軌道上ではあり得ない。
軌道敷きからは先ほどの急斜面を、高低差にしても30mは登っている。
一体何故、軌道より遙か上部の山中に沢山のレールが棄てられているのか?!



 気が付けば、辺りは奇妙な平坦地であった。
そう言えば、いかにも奇妙だが、本当に、不思議さを感じる遭遇であった。
何のあてもなく、ただ大きく巻こうと思って斜面を登った我々が辿り着いた、山間の平坦地。
そこは、レールが多数打ち棄てられているのみならず、他にも不自然な点が沢山あったのだ。

我々が地図上では決して知ることが出来なかった何かが、接近しているのを感じた。
或いは、地図から失われた、何か。


 平坦地の一角に忽然と姿を現した白い石。
それは、巨大な石英の塊であった。
直径30cm。重さは、持てないほど。
鉱山には付きものの石英だが、これほど纏まったものが転がっているのは初めて見た。




 平坦地は、その山際にて人工的な造作を感じさせる地形を見せている。
確証はないが、スイッチバックか九十九折りのような道の痕跡だ。
さらに上部にも何かがある?

パタ氏にはちょっとお休み頂いて、くじ氏と駆け上がるようにして緑満ちた斜面を登っていく。
この森には、何か秘密がありそうだ。


 畑や、そこへ続く畦。
小刻みに現れる段々畑のような平坦地は、かつて畑や人家があったのではないか?
集落の痕跡だというのが、我々の感じた印象である。
現在では全くここへ通じる道はないし、軌道が廃止される以前ならいざ知らず、余りにも僻地だ。
そして、あまりにも、自然に還っている。
だが、広大な山林が、造成をうけた形跡を示している。
昭和初期の軌道も描かれている地形図には、仙人鉄鉱という鉱山(紛らわしいが和賀仙人鉱山とは別物だ)が、ほぼこの山中に描かれている。
これら一連の集落跡は、もし本当にこれが集落だったとすればだが、この鉄山に付随する集落であったのではないだろうか。
情報が少なく、仙人鉄山についてはまだ分からないことばかりである。


 巨木の根に辛うじてその姿を見せる、建物の基礎らしいコンクリート。
付近には、同様の構造物が複数見受けられたが、原形を留めているものは遂に発見できなかった。
また、どういうわけか、一枚の大きな貝殻(平貝の方片だった)が、藪に埋もれることもなく落ちていた。




 一角には、鉱山からは排出された廃土(ズリ)で固められたと思われる部分もあった。
この様な土地にも、木々が伸び始めていることに驚いた。
視界の利かない森の奥に、決して外部からは預かり知れぬ廃村が眠っていた。

もしかしたら、何か別のものであったのかも知れないが、いずれにしても、それは森に還って久しい。

そして、仙人鉄山跡を確定する決定的発見まで、あと 5分 だった。






その11へ

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