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  廃線レポート 奥羽本線 矢立峠  最終回
2003.4.21



 最高25‰という急な勾配の続く、かつての奥羽本線の旧線跡を辿り、峠を目指す。
いくつもの廃隧道を越え、ついに、県境の長い隧道の前に立った。
この第四矢立隧道は、全国でも珍しい、県境を貫く廃隧道である。


 いざ、挑まん!


なお、今回のレポートに関して、『鉄道廃線跡を歩く4(JTB刊)』や、TILL氏にご紹介いただいた『奥羽鐡道建設概要』内の記述を参考にしています。

 
第四矢立隧道 通行
2003.4.10 14:25
 702m向こうに、点のように小さく写る出口。
正直、この隧道については封鎖や、崩落による閉塞を覚悟していた。
この矢立峠の一連の隧道の中で最長のものであるばかりか、峠越えという立地から言って、危険防止の観点からも閉鎖されているような予感があったのだ。
しかし、いい意味で裏切られた。
それほど人通りから離れている場所でもないのに、封鎖されずにあったことには感激した。

 いよいよ、県境を廃隧道で越えるという、自身にとっての大きなロマンを、実行に移すときが来たのだ!

 内部は、枕木こそ外されていたが、バラストがだいぶ残っていた。
何とか自転車で漕いで進める状態だったので、ゆっくりと進む。
片手には大きな懐中電灯を、もう一方には、カメラとハンドルを持って。

 入り口では初めから出口が見えていたこともあり、それほど長いとは感じていなかった。
しかし、中に入ってみて、辺りが暗闇に包まれてみると、その長さがひしひしと感じられてきた。
これは、相当に長いぞ。と…。


 足元がバラストのせいで安定せず、さして荒廃しているわけではないのだが、チャリで進むのには無理があった。
押して進むほうが早いし安全な気もした。
しかしなんとなく、ここは漕いで進みたいという気持ちが強かったので、我慢してフラフラとだが進んだ。

 3分の1くらい来ただろうか、危うくぶつかりそうになったのだが、道の真ん中に四角い井戸のようなものがあった。
コンクリ製で、上には蓋の金属板が設置されていた。
マンホールの様でもあるが、明らかに廃線後の設置だ。

 その謎も解けぬうちに、再び意味深なものがあった。
今度は、道の右半分に、浅いプールのようなものが出来上がっていた。
ホースのようなものも見える。
何らかの水利施設なのだろうという気はしたが、モーター音なども一切なく、稼動している感じはない。
これらも、廃墟なのだろうか?


 さらに進む。
大きめのものとはいえ懐中電灯の灯りでは、さすがに暗い。
そして、とにかく長い!
飽きるくらい長い。
700mのトンネルなど結構あるものだが、廃隧道でこの長さは、今までなかった。
隧道大好きの私でも、ちょっと滅入ってきた。

 半分を過ぎた辺りで、壁から噴き出すほどの異常出水が、つつけざまに2箇所あった。
ジャーと、音のする程の出水である。
写真には残念ながら、うまく収められなかった。

 先ほど見つけた井戸のようなものと同じものが、かれこれ3、4個所、大体等間隔に設置されていた。
中には水が流れている気配がする。
出水の割に隧道内に水溜りは少なく、地下を通しているのかもしれない。
しかしなにぶん暗く、調査出来なかった。


第四矢立隧道跡 突破!
14:35
 ついに、脱出した。
当然のことながら、隧道内にはそれと知らせるものは何もなく、ここがもう隣県であるという実感が湧かない。
しかし、確かにここはもう青森県南津軽郡碇ヶ関村なのだ。
 こちら側の坑門の前にも、何らかの設備が設置されており、やはり隧道内の地下水を何かに利用していたような形跡がある。これらも廃墟に違いは無い様だったが。
それよりも、坑門の保存状況が良いのが目に付いた。
特に変わった意匠はないが、築100年の貫禄を感じる。
この長さで、この古さで、目立った崩落も無いというのは、明治の鉄道マンたちの面目躍如たるを感じた。

 さて、この先なのだが、路盤の跡は間もなくご覧の土台によって消滅してしまっていた。
治水用なのだと思うが、旧線跡も旧国道も沢もろとも埋め立てられてしまったようだ。
上部は草地のようであり、何かに利用されているふうも無い。

 残念ではあるが、まずは、何とかこの斜面を登るなりして、現道に戻らねば。
さすがに背後の隧道に戻るのは、勘弁だよ。

 行き止まりまで行って、左上方を見ると、そこには現道が見えていた。
高低差は結構あるが、何とかならないこともなさそうだ。
ほんと、良かった。

 しかし、ここで足手まといなのは、自転車である。
手ぶらなら、簡単に登れそうなのだが…。

 結局、四苦八苦しつつも、斜面をジグザクに登ることで、何とか自転車ごと国道に戻ることが出来た。

 そこは、余り見慣れない場所ではあるが、なんか見慣れたような、いつもの景色が待っていた。
これこそが、本来のチャリの舞台なのだ。
下り坂、勢い良く風を切りながら、それを実感していた。
 第三矢立隧道跡
 写真は、地点から500mほど国道を下った場所で、峠方向を振り返ったもの。
沢に沿って線路があったはずだが、地形がすっかり変ってしまっている。
 さらに100mほど進むと、相乗沢川が右手に分かれてゆく。
この部分には、相乗沢川橋梁が架けられていたのだが、やはり痕跡はない。
しかし、この沢の対岸より、再び旧線跡が現れる。
しかも、いきなりの隧道である。
これは、第三矢立隧道である。
立派な一軒家の裏庭にぽっかりと口をあけている。

 常識的な判断としては、ここは私有地っぽいので、敢えて接近しないほうが良いのだろうが、私は山チャリストである(笑)。
当然ここも、接近&侵入である。

 チャリは置いて身軽になってから、民家の庭先を失礼して、隧道に前に立った。
この峠ではもう御馴染みになった石組みの坑門が、出迎えてくれた。

 僅か51mの隧道内部は、内壁の剥離崩壊が進んでおり、状態はあまり良くない。
しかも、ゴミ 様々な家財が置かれ、一部は物置と化していた。
このママチャリも、年中隧道とは、気の毒である…。
 出口。

ちょうどこの場所は、国道から一段高い位置にあり、沢の対岸には相乗温泉の巨大なホテル群が見える。
さらに廃線跡は笹薮の中に続いていたが、国道と並走しており、時間節約の為、国道に戻って辿ることにする。

相乗温泉
14:43

 驚いたのが、この巨大なホテル群。

 なんと、全部、廃墟なのである。

 ネットを検索したところ、まだ相乗温泉ホテルはいくつもヒットしたので、最近の廃業だと思われる。
矢立峠の前後にある温泉地の中では、最も観光化しており、またメジャーな温泉だったのだが、なぜ廃業してしまったのだろうか?
国道に面しており、立地もよさそうなのだが。

 遠くからでは廃墟のように見えなかったが、接近してみると、やはり荒廃しているのが分かる。
とくに、東北一をかつて標榜していたという巨大なウォータースライダーは、荒れている。
確かに巨大なモノだが、なぜ北国の温泉地に、しかも野外にコレなのか?
ズレちゃいないか?

 …なんとなく、廃業した理由が分かったような気もするが、素人考えであり、実際のところは分からない。
 それと営業当時、このホテル…とくにウォータースライダーでの幽霊騒ぎが評判になっていたような記憶がある。
なんでも、創業して間もない頃、小さな子供が溺死し、しかもその発見が遅れたとかで…。
今になってネットを探してみたところ、それらしい情報は無く、思い違いだったのかもしれないが。


 ホテルの入り口からは、このように第三矢立隧道の北側坑門が良く見える。


第一矢立隧道跡
14:51
 高速で通行する車列に混ざって、緩やかな下りを南風に押されながら快調に下ってゆく。
道の脇に立ち並ぶペンション風の建物の向こうに、再び隧道が見えた。
これは、第一矢立隧道である。
 じつは、この手前に第二矢立隧道(延長103m)があったが、昭和10年に開削され姿を消したそうだ。
というわけで、この隧道が、今回のレポートの最後の隧道ということになる。

 それはそうと、このペンション風の民家も、全棟廃屋だったよ…。 コワッ。

 第一矢立隧道は作業場として現役で利用されているようだ。
用があればクラクションを鳴らせという旨の立て札もあった。

 内部の様子。
僅か125mの隧道だが、反対側は見えない。
さすがに内部に入るのは憚られたので、早々に退散した。

第六平川橋梁跡
14:57
 さらに国道を下ると、目立つ建物が目に飛び込んできた。
写真右に写る、アーチを持った白い建物。
何だあれは?
 国道を跨ぐ跨道橋も旧線の遺構であるが、国道の一次改良時に新たに設置されたものなので、竣工は昭和40年ごろということだ、僅か5年ほどしか鉄道を通わせていない。




 アーチの幅をご覧いただきたい。
これ、どう見ても、道楽で造ったものではない。
そう思って、良く観察してみれば、な・な・なんと。
この建物自体が、第六平川橋梁の橋台上に建てられているのである。
また、その橋台に設けられたアーチには、幅を十分に確保する為の欠円アーチが用いられており、側面の曲線と直線が交わる位置には迫受石も確認できる。
下に停まっている自動車と比較しても十分に幅のあるアーチは、まさに明治国道で言うところの『国道四十一號線』を通わせたアーチに他ならない。
これもまた、明治の威厳のひとつだ。

 これは意外な発見であり、嬉しかった。
しかし、この悪趣味な白いペンキは、やめてほしかった。

 意外な発見に喜々として、橋台の正面に回りこんだ。
橋台上に立てられたお城のような建物も既に廃墟と化しており、廃墟に廃墟が重なるという、珍しい状態だ。
もともとは、何だったのだろうか?
敷地内には、他にもつぶれたドライブインもあり、なんか、この一帯、廃墟だらけである。

 さらに探索すると、対岸の橋台に向け、オリジナルではないが、しかし古い歩道橋が架けられているのを発見した。
一体何のために設置されたものなのか分からないが、ツタが絡みつき木々に埋もれたその姿は、ものすごく不気味である。

 よし、これは突入だな。(笑)

 赤錆びた橋は、遊歩道にしては急すぎる階段で対岸に渡っている。
足元はしっかりしているが、とにかくツタが邪魔。
春先だからまだ良かったのだろうが。

 一体、この階段の上には、何があるのか?!

 階段を登り振り返ると、廃墟の乗った対岸の橋台が見える。
なんか、『金田一少年の事件簿』あたりの舞台になりそうな景色である(笑)。

 なんてことはない。
その先には、先ほど南側坑門を見たばかりの第一矢立隧道の北側坑門が口をあけていなかった。
入り口には扉が設置されており、内部は窺い知れない。
ただ、最近人が出入りした形跡はない。
坑門の前にある建物といい、一体何のための架橋だったのか、謎が深まる。

 …新興宗教関連じゃないことを祈る。

 さて、一旦戻り、跨道橋のほうを探索しよう。

 アーチの上に建つ廃墟。
この部分へは、後補と思われるスロープ状の狭い道を通って、自動車ごと登ってくることが出来たようだ。
異なる時代の遺構が重なってしまい、ちょっと頭がいたい。

 陣場以来やっと本格的な集落である湯の沢の集落が、旧線の跨道橋の向こうに見えた。
この部分は、集落道として、まだ利用されているのかもしれない。
 コンクリート自体はしっかりしている(だからこそ国道上に撤去もされず残っているのだとも考えられるが)が、細い鉄製の手摺はひどく傷んでいる。

 すぐ足元には、こんな哀愁とは無縁の景色。
現役と廃墟の交錯する景色は、好きだ。

 橋を渡ると、そこはいよいよ、旅の目的地「津軽湯の沢」である。
津軽湯の沢
15:08
 集落内をまっすぐ突っ切る一車線の道路、実はこの道も旧線跡なのだ。
そして、ちょうどこの写真の辺りが、複線化に伴って廃止・移設された津軽湯の沢駅が元々あった場所だ。
現在は、400mほど北側に、移動している。
つまりはそこで、長かった旧線は終わりとなる。
 そしてまもなく、奥羽本線の輝く4条のレールが視界に現れ、津軽湯の沢駅に到着。
ここは、相当のローカル駅だ。

 当初の予定では、今から20分後の秋田行き普通列車で輪行帰宅するはずだったのだが。
なんと、この集落には、郵便局が無い!!
金を下ろせないーーー!
運賃が払えないーーーーー!
ヤバーーーーーーい。

 情けなすぎるが、コレが事実だ。
結局、2時間もあとの列車を利用せざるを得なくなった。
一駅先の、碇ヶ関駅まで行くことにしたのだ。


 こうして、波乱に満ちた旅が、また一つ終わった。
のだが、
実はこのあと、さらにもう一波乱ありまして。

 碇ヶ関駅に立ったとき、次の列車まであと100分ありました。
そこで、ちょっと、欲が出たんですな。
100分もあれば、まだ行けるだろうと。
よし弘前行っちまおう!弘前!!
ということになりまして…。
いや、疲れた体を鞭打って、走りましたとも。27kmでしたか。
夢中で。全力で。
暫くは、いたって快調でした。
下り基調でしたし、何よりも順風が強かった。
でも、碇ヶ関〜弘前間の中間地点である大鰐の辺りで、風が、変りました。
完璧な、逆風にね。

 そのあとは、本当に無惨でした。
広大な弘前平野のりんご畑から、水田から、とにかく遮るものも無い中、ひたすら続く国道7号線。逆風!
迫るタイムリミット!!


 弘前駅にたどり着いたとき、もう殆ど、抜け殻でしたよ。
かろうじてぎりぎりセーフ。
電車に飛び乗って、その後、帰りはもう記憶に無いです。
ただ、矢立峠を越えるトンネルの長いこと長いこと。
それだけは印象に残ってますね。



 なんか、妙な終わり方ですか、コレにて矢立峠のレポートは終了ですー。


END


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