万世大路 残された謎 「烏川橋編」 

公開日 2007.06.27
探索日 2007.05.28

 いまや、日本中の廃道好きにその名の知らぬ者の無くなった感さえある「万世大路(ばんせいたいろ)」。
国道13号福島〜米沢の間に立ちふさがる、奥羽山脈栗子山塊を貫く、その旧道の名前である。
同じ場所に何度も行くことは珍しい私も、気がつけばこの道を過去何度も訪れていた。
初訪は03年の5月の単独チャリによるもので、以降04年11月に大規模な合調隊を編成しての工事用軌道踏査、06年6月は“世にも危険な廃道ガイド”としてこの山を訪れた。そして、今年も縁があったようで既に2度、福島側と米沢側を別々にカウントするならば3度も訪問している。

 この道に起きている変化を、いま一言で述べるとすれば、「再生」という言葉に尽きる。
初訪の頃には殆ど刈り払いもなく、自転車一台を通すことさえ罷り成らぬ悪路であったものが、年を経るごとに踏み跡は鮮明化し、近年では遂に自動車(2輪だが)による訪問さえ赦している。
そして、この変化の裏側には、官民両方の動きが見て取れる。
“歴史の道”として、これを地域の活性化に活かそうとする動きは確実に現れ始めており、訪問する度に新しい立て札などが現れていることからも、ただの廃道好き以外の訪問が多いことを知る。
「官」についても、道路管理者としての目立った動きはないとはいえ、既に彼らの手による一般向けパンフレットなどは発行されており、何らかの事故が発生してしまえば、自然、彼らの手による通行の統制が始まらないという確証はない。
あくまでもこの道は、(大部分が)国有林内にある、私道ではあらざる道なのだから。

 とはいえ、幸いにして現在まで大きな事故もなく、あらゆる訪問者を拒まぬ“楽園”となっている万世大路。
日本で一番有名な廃道となった万世大路への興味を、すでに完全に失ってしまったオブローダーを私は知っているが、彼らの言い分は分かりやすい。

 「多くの人が、簡単に歩ける道は、もう廃道ではない」

彼らの主張を、至極真っ当なものだと感じてしまう私がいるが、この道の歴史的価値を鑑みれば、無理からぬ事だとも思う。
道中最大の遺構である栗子隧道は、完成時(明治13年)の全長876mをもって、長らく日本最長の道路隧道として君臨したし、その跡を継いだ原形の万世大路、すなわち昭和8年〜11年の改良工事によって生まれた道には、当時の技術力と美観の粋を結集した幾多の橋や隧道が、惜しげもなく現存している。
それらは理屈抜きで、訪れた人の心を強く揺さぶる。(写真の二ツ小屋隧道はその白眉であろう)


 だが、この万世大路には、未だ一般には殆ど知られていない事実や、それを裏付ける遺構が存在している。
それらのいくつかを、本稿<残された謎>として記録していきたいと思う。
まずはその第一回として、烏川橋にまつわる失われた「明治道」を紹介したい。

 なお、このレポにおいては、当初の万世大路を「明治道」と呼ぶことにし、対応する意味で昭和の改修後の道を便宜的に「昭和道」と呼称する。


烏川に架かる橋は、大きく移転していた

烏川橋前後の付け替え区間


 現在、一般に万世大路として多くの人が訪れているのは、昭和8〜11年に内務省直轄の国道5号改良工事(当時の路線番号は5だった)を受けてからの、車道としての道である。
だが、万世大路は明治の道という印象が強い。
中には現状を見て「明治の道はこんなにも広かった」と勘違いしている人などもいるようだが、それは誤りである。
当時の道は、幅3間(約5.4m)で作られたと言うから、馬車が最大の乗り物だった当時には破格だが、幅7m程度に拡幅されている現状とは異なる。
また、万世大路なる古風な名前が一層それを助長しているのだろうが、実際にこの名付けの親は明治天皇である。

 それはさておき、昭和11年前後の地形図を見比べることによって、大雑把にではあるが、この新旧道の変化を知ることが出来る。
現国道から分岐する新沢橋から栗子隧道までの区間に絞って、両者の違いが地形図から見て取れるのは、まず新沢橋の前後区間、そして二ツ小屋隧道の福島側坑口下のヘアピンカーブ、さらに、これから紹介する烏川橋の前後である。
また、実際に現地を歩くことによって、地形図には現れてこない微少なルート変更を知ることも出来る。
その代表的な箇所は、栗子隧道のすぐ下の上杭甲橋である。



 新沢橋と二ツ小屋隧道下のヘアピンカーブについては、比較的はっきりと違いが現れているのだが、この烏川(からすがわ)橋については、長年ただの地形図の誤差だと考えていた。
だが、最近復刻された『福島県直轄国道改修史(昭和6年〜37年)』なる大著を見て、ここにも大規模なルート変更があったことを知った。
この本の222頁の烏川橋の項には「烏川橋は(中略)木造橋で昭和8年度時局匡救土木事業を施工した際に新路線を築造したので、この土橋を廃止し上流約210mの地点に(中略)架設した」とある。

今一度明治期の地形図と現在のものとを比較すると、確かに川を渡る地点が大きくずれていることに気付く。
210mも離れているとなれば、いまも壊されずに何らかの遺構が残っている可能性がある。
私は、現地の確認を急いだ。




 ここからは、既に以前の訪問のレポートをご覧頂いている前提で話を進めたい。(道レポ「万世大路福島側」
あなたが既に万世大路を一度でも経験されているならば、わざわざ読む必要はない。

 写真は、福島側から栗子峠を目指して進み、二ツ小屋隧道をくぐり抜けてすぐの景色だ。
ここから道は、右手に烏川の谷を見下ろしながら300mほど下り、そして直角カーブで烏川橋にかかる。
橋を渡ると再び直角カーブがあり、今度は烏川の反対岸をしばらく上ることになる。(先ほどの地形図もご覧頂きたい)



 この写真は烏川対岸の上りから、上の写真のあたりを振り返って撮影したものだ。
夏場には視界が遮られて見えないが、積雪期ではこのように崖にへばり付く道の形が鮮明だ。
そして、この二ツ小屋隧道と烏川橋までの崖沿いの区間は、昭和の改修工事で全く新しく作られた道だというのだ。
それ以前は、二ツ小屋隧道からほぼ真北に進んで橋を渡り、そこで一度だけ直角にカーブし、烏川橋を渡って一つめのヘアピンカーブの突端に繋がっていた様なのである。



 この変化を図にすると、左の通りである。
遠回りをしている様に見える昭和の改築ルートだが、そもそもこの改築工事の目的は、勾配を緩和して自動車が通れるようにすることに重きが置かれていたので、たとえ距離が伸びたとしても走行性の改善を図ったのだろう。

 先の改修史によれば、この烏川右岸(南岸)の新道工事は特に難関であり、工事の初めの頃は、垂直の岩場に狭い木製の桟橋が架かっているだけの状態で、転落死亡事故が起きているという。
ここは昭和8年中に仮設道路となり、11年までには幅7mほどの「昭和道」が出来た。
また、板谷駅から烏川倉庫まで布設された資材運搬軌道も、二ツ小屋隧道の拡幅工事にあわせて、この仮設道路上を隧道坑口まで延ばされていた。



 現在、欄干も半分ほどにやせ細り、銘板の所在も行方不明の烏川橋(昭和10年架設)であるが、昭和改修工事中にはこのすぐ傍に烏川倉庫という工事拠点施設があり、新設車道と資材運搬線、送電線、作業員の宿舎などが輻輳する場所だった。
いまも橋の北側の袂は車数台が停まれる平場となっており、何らかの施設跡とも考えられる。

 また、これは余談だが、昭和改築工事の当初計画では、この烏川橋はさらに規模の大きなものになる予定だった。
現在架かっているのは、橋長23m余りのコンクリートの桁橋であるが、計画では全長44.4mのコンクリート製開腹アーチ橋(新沢橋と同じ形式)になる予定だったという。
もしこれが実現していれば、新沢橋よりも2m余り長く、おそらく道中最大の偉容を誇ることになったであろう。



《現在地》

 そして、昭和道の烏川橋を渡り、荒れたダートを100mほど上っていくと、ヘアピンカーブが現れる。
不覚にも良い写真を撮っていなかったので、左の写真は、このヘアピンカーブの崩れ落ちた路肩の様子である。
現地を無謀にも車で訪れたことがある人ならば、「切り返さないと登れないヘアピン」と言えば、「あそこか」と思うだろう。

地形図からは、ここが明治道との合流地点だと思われるが、残念ながら現地に明確な分岐の痕跡は見られない。
ちなみに、二ツ小屋隧道を出た先は非常に急峻で道の外側に分岐の余地など無く、そこでも明治道の痕跡は認められなかった。



 道の姿は見あたらないが、橋だけでも何かの痕跡が残っている事を期待し、ヘアピンカーブから谷底へと斜面を下ってみる。
すると、この斜面は硬い砕石が散らばっており、どうやら昭和の改築で人工的に作られたものらしいと分かる。
ヘアピンカーブの半径を少しでも大きくするべく、、外側にかなり土を盛って築堤としたに違いない。
残念ながら、現在はそのヘアピンカーブの入り口が大きく崩れ落ち、せっかく確保した平場の大半は草むらか、車が切り返すためのスペースになっている。



 谷底へ下りていくと、やはりここまでが道路敷であったという、その証拠を見付けた。

「内」の文字が彫られた小さな標柱である。
これは、万世大路で大量に目撃されている標柱であり、当初謎の存在の一つであった。
「肉?」などというつっこみを受けたこともあるが、『改修史』には詳しい寸法まで記載されていた。
内務省直轄工事の道路境界を示す標柱であり、図案はもちろん内務省の「内」である。
(後にほぼ同じ位置づけの標柱は「建設省」「国土交通省」となる。県による工事では「福島県」など県名が彫られる)
これは昭和の改修工事時に設置されたとのことであるから、谷底に至るまでの斜面が道路敷きであったということだ。



 間もなく谷底へ到着。
さらさらと烏川の透明な水が流れており、空を覆うような緑が目に鮮やかだ。
この下流は万世大路からは遠く離れ道無き山中を蛇行し、摺上川ダムへ流れ込んでいる。
上流はと言えば、あの工事用軌道の幻の峠「新明通」が、その源端である。

 目指す旧烏川橋は、まだここから100mほど下流にあると考えられるが、まずはその反対の上流へと進んでみた。
これまで見たことのない光景が見られそうだからだ。


 谷底から見上げると、烏川左岸の険しさが際だつ。
路肩が崩壊したために車両の切り返しを余儀なくしているヘアピンは、左写真上部に、崩れた路肩の土だけが見えている。
あれが道路の高さであるから、かなりの高低差であったことが分かるだろう。地形図からは、約30mの高低差と読める。

明治道は、あのあたりから下流へ分かれていたと思われるのだが、時期が悪いのか痕跡は見あたらない。

右の写真は、道路下の崖が水面に触れる部分。
ここに石垣の断片と思われるものが、かなりの範囲に渡って発見された。
どうやら、昭和の改築当初は、ここにかなり広大な石垣が築かれていたようだ。



 そして、そのまま上流へ進むと、間もなく見えてくる橋。

昭和道の烏川橋である。



 ボロボロの橋だとばかり思っていたが、こうやって全体像を見てみると、実はまだまだ堅牢であることに気付く。
長年の風雪に晒された上部は痛みが激しいが、幹線国道の一翼を担うべく百年の計で建造された橋自体は揺るぎないようである。
私は、いままで何度も通り過ぎるだけだった烏川橋に、惚れ直した。




 さて、烏川橋の勇姿を確認した後は、その旧橋を確かめるべく「約210m下流」へ向けて、沢を下る。
下り初めて100mほど。
ちょうどヘアピンカーブの先から下って来たその場所の対岸(南岸であり二ツ小屋隧道側)あたりに、私は原形をはっきりと留める石垣を発見したのである!

思わずガッ  ツポーズ!

 

明治の道 発見?!


 よく原形を留めている石垣。
モルタルなどを用いない、石材の空積みとなっている。
明治、昭和のいずれにも使われた工法であり、これだけでいつの時代のものかは分からない。
もっとも、使用頻度としては圧倒的に昭和が多く、明治の工事では、橋台などどうしても必要な限られた場所にしか利用されなかったらしいことは、改修史からも、以前の旧新沢橋の踏査によっても判明している。

それはそうとこの石垣だが、ちょうど川の護岸とも路肩ともつかぬ中途半端な高さに、帯状に存在している。
この石垣の上が平坦であれば、迷わず明治の道であろうと考えるところだが、そのようなスペースは見られない。

残念だが、これは明治道の路肩ではないようだ。
この上方には対岸同様に昭和道があり、これの路肩を守るための石垣なのだろう。 おそらく。



 が、さらにそこから下流に下ること50mほどで、石垣上部に紛う事なき平坦部が出現!

《現在地》

 上のリンクから地図を見て貰えば分かるとおり、この平坦部は当初想定していた明治道のルートからずれている。
だが、この明治道というのは5万分1を超える大縮尺の地図に示されたことが一度もない道であり(工事当初の図面も行方不明のようだ)、細やかなカーブの形や数などは、よく分からない部分がある。
少なくとも、当時の地形図に見るこの部分(二ツ小屋隧道〜旧烏川橋)は、馬車が通れそうな勾配とは思えない。
昭和の道がこれだけ迂回してもなお急坂なのであるから、明治道はむしろ、地図に現れない小刻みな九十九折りなどを用いて谷底まで下っていたと考えた方が妥当だろう。


 もし、この発見された平坦部が明治道のものであったとしたら、左の図のようなルートが想定されるわけだが、残念ながら、現道と擦り合わせていく部分は全く路盤が消失しており判然としなかった。
これも、現道側が大きく盛り土をしたために、旧道の一部が埋め戻されたのだとも考えられるが、確証はない。
地形図で、昭和道の南法面に崖記号が連なっている部分は、いかにも新道と思われるので、やはり新旧分岐地点はその手前にあったのだろう。



 また、写真に写っている奇妙な標石らしいものを、平場の西の端の辺りで発見した。
これはコンクリート製であり、しかし土台は自然石のようでもあった。
特徴的なのは、その形が八角柱をしていることで、特に文字のようなものは見付けられなかった。
八角形の標柱と言えば、菱形基線測点と言うものが知られているが、これはサイズが違う。
どなたか、ご存じの方がおられたらご教授願いたい。(拡大写真
明らかに昭和の標柱より乱雑な作りであり、万が一明治時代の道路境界標だったりすると、大発見なのだが…。
また、地形図では旧烏川橋の南袂あたりに、海抜674mの標高点が打たれているが、これがその標柱という可能性もある。



 そしてこの平場は、路肩の一部を石垣で守られながら、まさに旧烏川橋の擬定地である烏川橋下流210m附近にて、終わる。

写真の場所が平場の東の端となる地点で、ここから対岸に向けて旧烏川橋が架かっていた可能性が高い。
当時の記録に拠れば、この旧橋の正式な名前は「烏川橋」で、橋長二十間(約36m)幅三間半(約6.3m)という巨大なものだったという。
これは現橋以上に巨大であり、いささか信じがたい感じもあるのだが…。
比較として旧新沢橋(正式名は「新橋」)には立派なコンクリの橋脚が残っているが、それでも長さ八間(約14.4m)であった。



 ちょうどここは、上流にかけて幅の広い河原を有する烏川が、両岸を岩崖によって狭められている地点であり、短い橋で渡河するには絶好の地点と見える。

しかし、今ひとつ確信に至れないのは、ここに何ら、橋の架かっていた痕跡を見いだせないからだ。
以前確認した明治の橋である「旧新沢橋」や「上杭甲橋」には、それぞれ橋台や橋脚といった明確な痕跡があった。
規模の上ではそれらに匹敵するこの旧烏川橋であるが、なぜか、何ら遺構はない。


 唯一、遺構の可能性を感じさせるのは、河床に露出した岩盤の穴。
それは天然の甌穴の可能性が高いが、或いは、木製の橋脚を差し込んでいた名残かもしれない。
架かっていたのは木製の土橋というから(つまり木橋の上に土敷きの路面を置いた橋)、もし橋脚があったとしたらそれも木製だったはず。
林鉄の木製橋などでは、河床に橋脚を差し込んだ穴が残っているケースが少なくない(参考画像→秋田県羽根山林鉄にて

 ここで完全に右岸の道の痕跡は途絶えたので、対岸を再捜索することにした。





左岸にも道の痕跡を発見!


 再び昭和道の烏川橋を経由して、最初に谷へ下りたヘアピンカーブへ戻る。
そして、そのカーブの外側を改めて捜索したところ、5mほどの決壊地に隔てられた形ではあるが、なんと平場が確認されたのである。

こちら側は南向き斜面であり、植生が酷い。
しかも土の斜面に道幅の半分以上が失われているが、それでも、東へ向けて川沿いを下っていく平場が存在している。



 途中からは一面の林に巻き込まれ、前進は極めて困難となる。
視界も非常に悪く、川の音が聞こえなければ、自分がどこにいるのかも分からないほどだ。
それでも、途中何度か陥没地に切断されながら、最大幅5mほどの平場が続く。

もはや間違いあるまい。
ここにも道が存在したのだ。
そして、これこそが明治道なのだろう。



 結局最後はどこが道かも分からなくなり、そのまま河原へ下ってしまった。
だが、その地点は先ほど対岸から橋の擬定地とした場所よりも下流であり、橋を通り過ぎていたのだと考えれば、道を見失ったのも道理だ。
もっとも、私が確認した地形には、とても全長36mもの長大な橋を架ける必要を感じないのであるが…。

写真は、旧烏川橋擬定地よりも下流から、上流を望む。




 この地に架かっていた巨大な木橋は、まるで幻のようであるが、本当に実在していたのだろうか。
他の橋と違って対応する現橋から離れているため、当時の工事写真にもこの橋は写っていない。

ただ一つ言えることは、昭和の道とは異なる道路の跡が、烏川橋の前後には実在していると言うことである。

今後、旧烏川橋の写真の発見を期待したい。



 今回のレポートは、既に知り尽くされた感のある万世大路にまつわるマニアな話でした。

 まだ他にも、万世大路には秘密がたくさんありますので、追って紹介したいと思います。