国道13号旧道 栗子峠<万世大路> 再訪編 第一回

公開日 2006.06.28
探索日 2006.06.24

 いまさら、万世大路(ばんせいたいろ)や栗子峠の旧国道について長々しい説明は不要だろう。
山行がでも03年と04年に訪れ、それぞれレポートしているし(03年「万世大路」、04年「万世大路工事用軌道」)、様々な道路系サイト、特に旧道や廃道を取り扱った多くのサイトが、この万世大路について報告している。
 きわめて簡潔にこの道を紹介するならば、奥羽山脈を縦断して福島市と米沢市とを結ぶ栗子峠の旧国道で、開通当初に明治天皇より「万世大路」と言う名を与えられた、日本有数の由緒深い峠道、と言うことになる。


万世大路に関する略年表
で き ご と
明治9年
  (1876)
山形県令三島通庸の発令によって、全長866m(当時日本最長)の栗子山隧道を含む、栗子峠越えの道が着工される。
   14年
  (1881)
開通式に参加した明治天皇によって、万世大路と命名をうける。開通後は山形県内と首都圏を結ぶ道として活況を呈する。
   32年
  (1899)
並行する板谷峠に奥羽本線が開通し、万世大路の通行量は激減する。
昭和8年
  (1933)
自動車交通に対応するため、福島・山形の両県によって大規模改修工事が着工される。(以前紹介した工事用軌道はこの時のもの)
   11年
  (1936)
改修工事が完了し、栗子山隧道は栗子隧道として生まれ変わる。現在残る万世大路の遺構の大半は、この改修によるもの。
   27年
  (1952)
道路法によって一級国道13号に指定される。(後に級の区分は廃止されるが、路線番号は変わらず)
   41年
  (1966)
国道13号の一次改良工事によって、東・西栗子トンネルを含む現道が開通し、旧道は廃止される。
   47年
  (1972)
旧道(万世大路)の栗子隧道が落盤によって閉塞し、通り抜けが出来なくなって現在に至る。

 そんな万世大路だが、私が紹介した当時においては、まだネット上にはこの道に関する情報も限られており、ただその最奥にある栗子隧道に到達するだけで十分なレポートとなりえたし、実際に大変好評を頂いた。
しかしその後、旧・廃道コミニュティの盛り上がりを受け、当時からは考えられないほどに多くの道路ファンが入山し、それに伴って優良なレポートが多く報告されるに至った。私が見逃していた遺構についても報告されたものがいくつもあり、再訪することを真剣に考えるようになっていたのである。

 そして、遂にその機会に恵まれた。
先日、私がアルバイトとして勤めている職場の関連で、官民を交えた万世大路の視察会が行われることになり、私はその経験者として、ガイドという役回りにて参加することになったのである。
とりあえず今回は福島県側のみ辿る計画である。
ちなみに、この集まりは一般向けのものではなく詳細について述べるべき立場ではないが、一つだけ言えることは、万世大路が土木遺産として、あるいは観光地として、いよいよ脚光を浴びつつあるかもしれないと言うことである。

 私はこのガイド役として参加する中で、万世大路の“復習”ということを、密かに参加の目的としていた。
な〜に、最近の万世大路はかなり踏み固められていると聞く。
はっきり言って、ガイドなど不要なのである(笑)。

※この「視察会」の模様は、こちらのブログ『環境回廊あさか野塾』に詳しく掲載されています。


廃道に賑わい?!

復習ポイント その1 新沢橋

 上の地図は万世大路(旧国道)の福島県側の道のりであるが、この地図中に赤い文字で記した箇所が、今回の復習予定ポイントである。


 新沢橋。

 覚えておいでだろうか?(写真左…03年撮影)
大概の読者はすっかり忘れていると思う。
かくいう私もこの橋の印象は決して鮮明ではなかった。
それはひとえに、稀に見る強行軍だった03年の万世大路探索において、最後の最後にたどり着いた遺構であり、もはや体力・気力・時間ともに猶予がなかったので、万世大路最大の橋だったにもかかわらず、ただ通っただけだった。



 だが、後にこの道を辿った多くの同志が、新沢橋の美しさや威容を書き留めている。
また、この橋には明治期の初代万世大路とでも言うべき旧道が現存することも知られるに至った。

 この橋に惚れ込み、私の再訪を強く促した一人に、この信夫山氏(サイト「福島1960’アーカイブ」)がいる。
これまでに十数回も万世大路を辿り、平成・昭和・明治の万世ならぬ三世を知り尽くした彼は、この日の視察会に私が招聘した最強の助っ人であった。
その彼が、視察会参加者一同15名ほどを新沢橋へと先導した。



 現在の国道13号線の福島〜米沢間も「万世大路」と呼ぶが、これは由緒ある名前を世襲した愛称のようなもので、明治当初の万世大路や昭和改修後の旧国道とは殆ど一致しない。
その中でも、最長のまとまった別線区間となっているのが、栗子峠の前後区間である。
 奥羽山脈の一座である栗子山(海抜1217m)の山腹を穿つ栗子隧道を頂点に、福島側9km、山形側7kmほどの山道が、現在の国道13号線の長いトンネルの北側、海抜550〜850mの山中に存在している。
 この山道が福島側で現国道と最後に別れるのは、東栗子トンネルの2kmほど東で、この合流地点のすぐそばの旧道に新沢橋が残っている。
これに対応する現道の橋はなく、巨大な築堤と暗渠によって沢を跨いでいる。
さらに、新沢橋のさらに北寄りには、昭和の改修時に放棄された当初の万世大路の道筋と、初代・新沢橋の痕跡が残るという。



 新沢橋の西詰には、旧国道と現道とを短絡する踏み跡がしっかりと刻まれており、それと案内があるわけではないのだが、新沢橋と警察官殉難碑への接近路として機能している。
現道側には図らずも大きな駐車帯があり、今回のような大人数による訪問でも駐車の問題もなかった。

 慣れた足取りで先頭を歩く信夫山氏以下、現道のガードレールを乗り越え30mほど踏み跡を歩くと、そこに幅の広い平場が現れる。
これこそが40年前までの主要国道、万世大路、その道である。
「おー、これか!」 そんな声がどこからか上がった。



 以前も紹介しているので詳細は省くが、明治23年冬にこの付近で遭難殉職した巡査の慰霊碑である。
道路の昭和改修時に現在地へと移されたと記録されている。
その慰霊碑も、現道からは完全に死角であるが、いまも刈り払いがされているのか薮化を免れていて、周囲には厳かな空気が漂う。

 参加者の大半が万世大路を初めて訪れているようだが、みな思い思いに石碑を観察している。
参加者はそれぞれが素人ではなく、何らかの分野のエキスパートである。
道路行政のプロである県や市の職員の方や、大学の先生がたなど。

 ……わたし?   …興味本位ですが… それがなにか?



 記録によれば、この新沢橋の橋長は42m幅6mである。
以前の探索により、親柱は現存するが銘板は全て逸失しているなど、橋上の様子は把握していたこともあり、今回はおもむろに谷を下り始める私。
常識的には、橋はその上を跨ぐ物。
参加者達に私は変な風に見えているかも知れないが… まぁよい。
私は一人身軽に谷底からの眺めを満喫しようと、土の斜面に身を乗り出した。

 斜面から見る新沢橋は、いきなり私の心を鷲掴みにした。
なんだ、この迫力は!!



 上を歩くだけでは分からなかった、この圧倒的な迫力。
重厚感。存在感!

 比較的楽に谷底へ下ることが出来たが、そこからの眺めはまさに絶景。
この橋の構造云々について満足に語るだけの知識がないのが悔やまれるが、一般的な解説をすれば、コンクリートのアーチ橋。
もう一歩進めれば、開腹アーチ橋(アーチの側面に窓が開いている)だという解説が精一杯。



 おっと、見所ありの若者発見!!!

 老若男女入り乱れたこの日のメンバーの中でも圧倒的最年少だった10代の彼は、大学で土木学の教授について学んでいるそうで、個人的に話してみるとどうも橋が好きらしい。
それが真性だということは、この新沢橋に出会ったときに彼が見せた、廃道処女の筈の彼の行動で一目瞭然であった。
失礼だが、大概の素人さんにとってはとても考えられないだろう「沢斜面の下降」を、私が行動するより先に提案したのである。
結局斜面に取り付いたのは私と彼だけだったが、歓声を人一倍上げながら橋の基部に見入る彼は、今後の廃道界に学術的なメスを入れる若い逸材になるかも知れない。



 と、そんな科学の目で真剣に橋を見つめる一行を尻目に、私はいつもの山行がチェキラ!

 谷底にもいくつかのゴミが落ちていたが、これらは橋の上から投げ落とされた不幸なゴミ達と見て間違いないだろう。
そんな中の一つ、今は懐かしいアメリカンコーヒー。
『UCCアメリカンコーヒー』である。
ただ、昭和41年よりは新しいと思うので、現役当時のゴミではないっぽい。
にしても、この缶はかなりレアだぞ!



 もう一点。
なにやら、二輪車のフレームらしき物体が……。
半ば地面に埋もれ、長年の風雪にやられぺしゃんこになってはいるが、間違いなく二輪車のフレームだ。
チャリかバイクかさえ、ちょっと判別が付かないが…おそらくはバイク。

 まさか死のダイブというわけではないと思うが、こんな物まで落ちているとは…。



 新沢橋は昭和の大改修の一環として、昭和11年に開通しており、戦前の大径間橋梁としては最も一般的なコンクリートアーチ式となっている。
この形式の橋は今日も新設されることがあるが、現在ならば橋の基部の地面はもっと厳重に固められるだろう。
この橋の場合は、地山から直接橋が生えているような形になっており、古さを感じさせる。

 私は、下ってきたのとは対岸の斜面に取り付くと、木の幹や草付きを手掛かりにして、ガッシガッシと30mほど頭上の皆の待つ道を目指した。



 なお、新沢橋のやや上流、左岸の斜面は、ご覧のように一面に礫岩が敷き詰められたようになっている。
この上部にあるのは、新沢橋よりもさらに古い時代の道。
すなわち、旧新沢橋へ続く明治の万世大路だけであり、やや乱暴ではあるが、この岩場自体が路肩の補強だったのかも知れない。

 新沢橋から下流へ進めば間もなく現国道の法面にぶつかって終点(合流)となるのだが、我々は引き続き信夫山氏先導の元、旧新沢橋へ向かうことにした。

 

明治の道 旧新沢橋跡


 瓦礫の斜面をよじ登ると、全員が新沢橋の東詰に集合する形になった。
この場所が旧道と明治の道(旧旧道)とが別れる地点で、初代の万世大路は右の写真のような瓦礫を積み上げた人工的な路肩となっている。

 ただし、この場所だけ道幅が妙に広いなど、単なる道としては不自然で、実はここに、この瓦礫の路肩を足場にして何らかの建物が建っていたのではないかと、私は個人的に想像している。



 右の地図の点線のルートが当初の万世大路ルートで、昭和8年に始まる改良工事によって付け替えられた実線のルートとは九十九折り一つ分の高低差がある。



 この旧ルートには橋が二つ架けられていたが、早速一つ目の橋が現れた。
元々は木橋だったと思われるこの橋は、山形方の袂にのっぺりとした幅広の橋台を残すが、殆ど水量のない小さな枝沢にさえ、橋の残骸と分かる物は何も残していない。
廃止後70年という月日が、この豪雪地にとってあまりに長かったことを痛感させられる景色だ。

 また、おそらく名前はあるのだろうが、この橋の正式な名前について私には調べが付いていない。
暫定的に、「下新沢橋」と呼称することにする。


『福島県直轄国道改修史 昭和6年〜37年』より、この橋の名前が「滝橋」であることが判明しました。また、旧新沢橋は「新橋」が正式な名前であることが判明しました。


 下新沢橋から旧新沢橋までの短い区間は、明治の風景を色濃く残す貴重な区間という信夫山氏の薦めもあって、橋のない小さな谷を全員が渡ることになった。
僅かだが踏み跡もあり、足を濡らすこともなく全員が通過できた。
 写真は下新沢橋の左岸(福島方)であるが、橋台さえ残っていないのが見て取れる。



 キターー!  ……と、内心思ったけど。
ここは一応ガイド役の端くれ、冷静を装って、鼓動と鼻穴だけ拡大しながら歩く。
しかし、豪快に削られたままの岩肌がそそるぜ!

 明治9年〜13年、まだブルドーザーも実用化される以前に、人手を駆使してこれだけの道を確保したのであるから、東北巡幸中に立ち寄った明治天皇も「こんな山中にこれほどの道が!」と驚いたに違いなく、それが東日本ではおそらく唯一という「大路」の名をもたらしめたのだろう。
今見ても、この道幅は車道ではなかったのかと疑いたくなるほど。



 そして、この道幅は岩山を削っただけで成し遂げられたわけではない。
路肩を覗き込めば、そこには不揃いな石を巧みに組み合わせた石垣が!
道路の石垣としては、おそらく日本最古級のものである。
その特異な点は、さながら城の石垣のように、不揃いの石をパズルのように組み合わせている所にある。
これには私は驚いた。
石工の職人魂が、今なお最古の万世大路を守り抜いているのだ。
大袈裟でなく、まったく崩壊していない!



 さらに進むと、いよいよ沢(新沢?)の幅が狭まって来て、来るべき橋を予感させるようになる。
すると、対岸にぐいぐいと登っていく道形が鮮明に見えた。
美しい!

 この辺からもう、私はガイドを信夫山氏に任せ、一人のオブローダーになってました…な。



 新沢橋から岩肌を削った道を歩くこと3分ほどで、旧新沢橋の特徴的な橋脚が見えてきた。
記録によれば、この橋は長さ20m、幅5m。
建設当初は土橋だったということになっているが、現在残っている痕跡は食い違いを見せている。



 両岸にはコンクリート製の背の低い橋台が、谷の中央には華奢な印象のコンクリート橋脚が立っている。
コンクリートはおおよそ大正期からの実用化なので、明治期の土橋が流出するなどしたために後から改修されたものと想像される。

 それにしても、昭和12年には新沢橋にルートが移っているので、余り長い期間は使われなかっただろう。
廃止後の長い月日を感じさせないほどに、その橋脚はスラリと美しい姿を留めている。
しかしこれでは重い自動車の通行に耐えれたとも思われず、やはり馬車交通を念頭に置いた建築物だったのだろう。


 ここで、遂に私はガイド役を放棄?!
皆の了解を得た上ではありますが、単独、旧新沢橋の対岸へ行ってみる事にした。
今度の斜面はかなり険しく、ロープなどが必要なほどではないが、慎重に足を運ばねばならない。

 コンクリートの橋台の根本まで降りてみると、華奢な橋脚に比してその重厚感に驚く。
先ほども紹介した城壁のような不揃いな石垣は、この旧新沢橋の左岸(福島方)に最も大規模に築造されているが、コンクリートの橋台は石垣の中程から上を凹状に破壊し、そこに設置されているようだ。
やはり、後補の物という公算が高い。



 清冽な水が勢いよく流れる沢に直立する橋脚。
年中日影にあり、温度変化が少ないせいか、コンクリートの表面は美しく、石灰分が白く析出しているということもない。
見れば見るほど、真新しいものに見える。
表面にうっすら付いた苔の緑色がなければ、昭和12年以前の物とはとても推定できないだろう。



 単身、対岸の斜面をよじ登り、自身としては初めてとなる万世大路に残された明治道の踏査に入る。
参加者を待たせるわけにはいかないので、いま来たルートで現道へ戻る一行に遅れない程度の、僅かな時間しか探索は出来ない。
この足元の明治道を通って警察官殉難碑の直上付近まで進んで見ることにした。

 皆さんが立っている場所の足元、もの凄い石垣ですよ〜。
思わずそう教えてあげたくなるほど、凄まじい石垣である。
落差15mほどの路肩斜面の全てが石垣となっている箇所があり、これだけの高さを空積で仕上げた先人の苦労たるや想像を絶する。
工法としては地道に足場を組んで積んでいっただけなのだろうけど、その表面は平滑に仕上げられており、ただ積んだだけではないことを100年以上の月日が証明している。



 望遠で撮影。
幾ら見ていても飽きない。
旧道・古道で見る石垣は、決して派手ではないが、その道の歴史を証明する大切な証人となることが少なくない。
初代万世大路に見たこの石垣こそは、従来の旧国道ルートには殆ど見ることの出来ない、元来の万世大路の姿ではないだろうか。
今日言われる効率や施工性といった工事の基準を度外視したような、職人気質溢れるこの石垣は、ここにあるべくしてある第一級品の遺構である。

 息を呑むとは、まさにこんな光景を前にした時の言葉だろう。



明治の道 旧新沢橋右岸の岩場


 沢の右岸に取り付いた明治道は、対岸に先ほど歩いた道を見ながら、どんどんと高度を上げていく。
勾配はかなりきつく、谷はみるみる遠ざかる。

 対岸には、まるでトウモロコシのような細長い石垣が見えていた。
自然の岩肌と人工的な石垣を、巧みに組み合わせて一本の確かな道幅が確保されているのだ。
繰り返すが、素晴らしい技術力だ。



 尾根を回り込むように道は続いているが、この尾根の部分が特に傾斜が険しく、明治天皇が「萬世ノ永キニ渡リ人々ニ愛サレル道トナレ」と願って名付けたという道も、さしも2代の代替わりの後となれば崩壊著しい。
されど、辛うじて徒足でも辿れないわけでもなく、慎重に足場を選びながら前進を続けた。
既に谷底までの高低差は30m以上もあって、見下ろすと軽く怖い。



 この日、私が辿ったルートは、右の地図の赤い実線で示したコースだ。
黒い実線が旧国道で、これは03年にチャリで通過している。
赤線の重なっていない点線部分は、信夫山氏が以前実踏しており、旧道との接続位置が右図の通りに判明している。
私は時間的な都合で、今回行くことが出来なかった。


 もっとも崩壊の激しい地点では、平らな足場は完全になくなっており、踏むとガラガラと音を立てる板状の瓦礫を踏み越えて、危うい斜面を乗り越える必要がある。

 対岸遙か下方の参加者達の声も聞こえなくなり、代わりに谷へ吹き込んでくる風が顔に当たる。
尾根の上にいるのだと言うことを感じる。



 木々の向こうに、微かだが新沢橋が見えていたが、写真ではどうも判別が付かない。
しかし、自分でもちょっと焦るほどに高低差が付いており、「これ、ちゃんと皆の元に戻れるのかな…」と不安を感じた。
私が想像していた以上に、明治道と昭和道とでは大きな高度差がある。
数字にすれば30mくらいか、或いはもっと。
 今日ではどちらも旧い道と片付けられてしまいそうだが、昭和の改修当時には、それは大規模な改良だともてはやされたことだろう。



 青白い露頭が崩壊によって露出している岩場。
写真は振り返って撮影。

 片側に落ち込んだ斜面を乗り越えると、浅い岩場の掘り割りで尾根を貫通する。(2枚上の写真の奥に写る掘り割り)



 そして、再び穏やかな明治道に戻る(写真左)。
この先は、約200mほどでつづら折れの旧国道と合流する。

 私はここで、根本から切断された木製電柱の“切り株”を見つけた(写真右)。
周囲には白い碍子がいくつか落ちていた。かつては万世大路に沿って電線が張られていたことが知られている。



 さて、残念ながら探索は終了である。
ちょうど参加者達が斜面下の旧国道に集まっているのが見えた。
私は左の写真の斜面を、まるで野猿のように駆け下り、皆と合流したのである。

 山行がの新沢橋の復習は、こうして終わった。



 実は、この新沢橋がこの日の最後の視察地であり、一行はこの後間もなく解散した。

 次回からは、いよいよ皆さんよくご存じの万世大路旧国道のピンポイント復習と参りましょう!
行き着く先はもちろん、山行が未踏の栗子隧道(福島口)!