道路レポート 十和田湖八甲田山連絡道路 最終回
2004.7.15


 矢櫃橋 〜最大の遺構〜  地図で確認
2004.6.16 14:20


 地獄峠から下り初めて1時間、轟く沢の音と共に現れたのは、コンクリートの橋の残骸であった。
ここは峠から3km、終点の猿倉温泉からは3.8kmの地点だ。

見ての通り、橋は無惨にも真っ二つに折れて落ちている。
これは、この道の車道由来を裏付ける決定的な遭遇であり、残されていた唯一の大型遺構である。
地獄峠の鞍部から始まる沢が幾筋もの雪解けを集め、この矢櫃沢を形成している。
ここで矢櫃沢を渡る旧道登山道は、この時点でまだ、この折れた橋を利用していた。



 興奮の余り、恐怖はない。
橋は、丁度中央でぽっきりと折れ、谷底の大きな岩によって流出を免れている状況。
特に傾斜のきつい地獄峠側の橋上は、いつからあるのか、一本のロープが登山者の助けをしている。
無論、チャリ同伴の私は、このロープを使うことは出来ないと知る。
また、雪解けの増水により、飛び石の多い沢筋も、チャリと共に渡渉するのは難しい状況だった。

まずはじっくりと橋を観察した後、渡ることにしよう。

単身、ロープを伝い、約40度に傾斜した橋に出る。
幸いにして、乾いたコンクリの路面は、良く足を支持した。


 矢櫃沢の滝のような流れ。
いかにも源流部らしい、巨石に渦巻く激流は、呑み込まれそうな迫力だ。
橋の下端部は沢から1m程度の位置にあり、水しぶきが舞っている。

橋を渡り、猿倉側の袂に立つ。



 橋の損壊は著しいもので、存在したかも不明な状況の親柱を含め、往時の装飾を姿を偲ばせる物は、下流側に僅かに残る高欄のみである。
しかし、この高欄の形状は、それだけでもう私のお腹を一杯にしてしまうほど、興味深いものであった。
このように肉厚で、万里の長城を思わせるような、威厳ある高欄は見たことがない。
また、自然石を取り入れたそのデザインは先進的ですらあるが、コンクリの使用量を減らすための節約であった可能性も残る。




 真っ二つに崩れたコンクリート橋など、見たことがなかった。
本来、木橋などに対し「永久橋」と称されることもあるコンクリート橋は、耐用年数が50年から100年程度だといわれているが、補修を続ければもっと長く利用できるし、地震や地形の改変を伴う災害など、よほどの事がない限り、そうそう崩壊するということはない。
しかしこの矢櫃橋は、放置の末、竣工64年目にあたる1999年の冬のある日。

雪の重みで折れたのだという。

殆ど本来の目的では利用されることがなかった橋だが、崩れ去ったいまでも登山客に利用され続けているのは、幸せなことかも知れない。
写真は、猿倉側から、地獄峠側を臨む。


 橋はうねるように崩れ落ちていて、部分的に凄い傾斜になっている。
幅6m、長さ20m程度、コンクリ製の橋台に橋桁を乗せただけの単純なコンクリート橋だ。




 沢に下りて、橋の全容を捉えようと下がる。

まるで涸れ沢のようだが、足元は深い奔流である。
この沢を支配するのは、話し声も通さぬ雷鳴の如き轟きである。
流れによって崩れたのではなく、橋上の積雪によって落とされたというのが、この八甲田の豪雪ぶりを感じさせる。
沢には、橋の部品だっただろうコンクリ塊や、明らかに高欄の一部だと分かるものが、散乱している。
いままで橋全体が流出してしまわなかったのは、この場所が比較的沢の奥であり、雪渓の破壊力が少なかったこと、そしてなにより、崩壊からまだ年数が経っていない為だと思われる。
いずれ放っておけば、この橋も山上にあった橋桁無き橋台のようになるのだろう。



 矢狭間の様な窓は、高欄全体の中では極僅かな部分であり、資材の節約という目的では無さそうだ。

もしこれが、美観に配慮したデザイン的なものだったのだとしたら、この道の建設由来に付きまとう、暗い貧相なイメージが、少し変わってくる。

或いは、底知れぬ貧困と不安にあった農民達は、この狭き窓に、希望の光を見ようとしたのか。



 折れた断面に近づくと、そこには無数の鉄筋が覗いていた。
朽ちた体を支え続ける、腐った骨。
また、橋の底の形状は、単純な平板ではなく、橋と平行な厚み部分が設けられた、強度に勝る形状となっていた。

すでに、限界を超越してしまっている矢櫃橋(この名が正式な物なのかは、原典に出会ってないので分からない)だが、実は、間もなくこの地上から完全に消える定めである。




 なんと、「デーリー東北新聞社」のサイトによれば、2004年7月5日より遂に架け替え工事が開始されたという。

この場所に、登山者の安全確保を目的として、新しい綱製の歩道橋を架け、現橋は完全に撤去すると報じられており、おそらく、私が矢櫃橋最後の車輌通行者になった。
工事は環境に配慮し、一切重機を使用せず全て手作業で行うほか、現橋上に自生しているベニバナイチヤクソウを移設するなど、徹底して自然に優しい工事が進められている。
−とのこと。

3000万近い費用がこの工事にはかかるらしいが、そもそもこの橋の架け替えが必要だったのかという議論はあったようだ。
私も、現橋がこんな形でも存在する以上は、そのままでも良かったと思うし、危険性云々をいうならば、地獄峠付近の橋の痕跡すらない数々の谷はどうなのか?
そもそも、この橋が渡れないような初心者に開かれた山ではないし、従来の南八甲田の整備方針がそのような万人向け政策でないことも、県が今まで明確にしてきたことではないか。


図らずもギリギリだったが、記録を残すことが出来て、本当に良かった!

矢櫃橋を突破。




 猿倉温泉までの最後の下り   
14:26


 橋を渡り、なんかもう成し遂げた気分一杯になって、あとはスルッと下って終わり。
しかし、そんな気分を赦さない、とにかくチャリに跨がれない荒れた下り。
チャリで走る事を想定していないから、洗削が進まないように大きな砂利を敷いているのだと思うが、下りですらチャリに乗れないほどの凹凸と不整地の連続である。

脱出したその場所(猿倉温泉だ)に終点がある訳ではなく、私の目的地は、少なくとも鉄道の駅がある黒石市である。
まだ猿倉からは標高1000mオーバーの傘松峠越えを経ての30km以上の行程がある。
それを考えると、ウンザリだ。




 最後の湿原は、大分下った場所にポツンと開けていた。
旧車道からは数メートル脇に逸れた場所なのだが、猿倉に近いということで、一般の登山客が踏み込むなど、深刻な破壊が進んでいるという話を聞いたことがある。

いまだ、人に出会わない。
本当に、人の少ない静かな山だ。





 今度は、道の真ん中にロープが敷かれた部分が現れた。
まさか迷うような場所でもないし、ロープが必要な急斜面でもない。

実はこれ、登山道敷きを明確にするための区画線らしい。
本来の登山道は、概ねこのロープの向かって右側で、長年の使用により洗削が進む、はっきり言って歩きづらい斜面だ。
一方、誰もが歩きたくなるロープの左側は、“ある個人の登山家”がボランティアで刈り払ったものであるという。
しかし、この行為が問題となり、数年来青森県内では報道が盛んにされているらしい。



「旧車道敷きなのだから、車道敷き内については刈り払っても問題はない」という容認・推進派と、
「刈り払わなくても歩けるのだから不必要。既に車道ではない。」と言う反対派に別れの大論争となっているようで、未だ解決したという話は聞かない。
そして、その有志の方は、いまでも時折刈り払いを続けているという。
確かに、最近刈り払われたらしい太さ3cm程度の幹などが、路傍に束ねられて置かれていたりする。

ちなみに、この写真の場面、本来の登山道であり、人がロープによって誘導されるのは、向かって右側の谷底である。
こんな場所、滑って滑ってとても歩けたものではない。
このロープにしても、現地にはなんの説明もなく、登山者は何も知らず歩きやすい刈り払い部分を歩いている。
ロープと、ロープを固定するために沢山打ち込まれている鉄のアンカーは、チャリでなくても大変邪魔だし、危険である。



 私の勝手な意見だが、自然は登山道を登山者が歩く程度の破壊でどうもならない。
全国から続々登山客が訪れて、どんどん踏み荒らしたとしても、それは登山道周りだけの出来事だ。
山は広いのだ。
誰が道のない山中に分け入るだろう?
登山道は、山の縦横に張り巡らされているのか?
その登山道すら、いくら流行っても年中無休24時間常時人が歩くか?
否だ。

幅7mくらいあった旧車道が、僅か四半世紀でここまで自然に還っている。
反対意見を唱える人は、あと何年生きるつもりなのだ。
我々が死んでも、八甲田には何も変わらない時間が流れ続ける。
仮に人がここに車道を通そうが、数百数千、数万年のうちに全ては消える。



 私は、だから自然保護が要らないと言っている訳ではなくて、ここで木を何本切ったなんて言う些細なことで目くじら立てている場合ではないと思うのだ。 このような保護地域内の些細な問題に人心を惹き付けておいて、実際の生活に関わり深い身近な森は、未だにどんどんと失われ続けている。

そんな作為的なものを感じさせる、一部過剰な報道が嫌なのだ。  


 最後の最後まで、全く楽な道は現れなかった。
本当に、本当にしんどい。
足の疲労もあるが、チャリを引っ張ったり押したりし続けた手の方が、もう限界だ。
掌の皮がむけてヒリヒリし出す始末である。
ゴムのグリップは、もう途中何度外れたか分からない。
そして、このグリップは以来、容易に外れるようになってしまった… 後遺症だ。

ここで、登山者を一人だけ追い越した。
「コンニチワ」とだけ言って、広い場所を選びチャリの跨ったまま越した。
彼は、もしかしたら“例の有志の登山家”ではないかという気がした。
直感だが。



 15時19分。
下り初めから丁度2時間。
遂に、遂に、数軒の屋根が見えた。
山中に寄り添うようにあるそれは、間違いなく猿倉温泉だ。

脱出の喜びが、いよいよ現実感を持った。
もはや神経も疲弊し、時間も恐ろしく予定を超過していたので、矢櫃橋以降、殆ど写真を撮っていなかったが、決壊箇所や倒木に阻まれる場所など、難所は数知れなかった。
歩く分には、勾配の緩い冗長な登山道も、チャリでは難所だった。



 猿倉温泉  〜終点〜  地図で確認
15:22


 180枚余りの写真で綴った今回のレポートも、次のカーブを曲がれば終了となる。
最後の最後まで、轍はない。
出会った登山者も、さっきの一人っきり(あとは枯れ木沼のオヤジ軍団だが、彼らは登山者?)。
海抜900m以上を中心とした、全長25km余り、かつて無い山岳コースであった。
その半分ほどはチャリを押したし、押すことも出来ず、引き摺った場所、担いだ場所、放り投げた場所…。

それら苦労は、いま全て報われる。


 砂利の駐車場には沢山の車。
のんびり過ごす人の姿。
自動販売機。
駐車場の向こうには舗装路。

帰ってきた。

私の居るべき場所へ、帰ってきたのだと感じた。
心底ホッとしたし、生還に感動した。
1ヶ月以上前から、この戦いを…恐れていた。
楽しみにしていた訳ではなく、本当に恐かった。

出口には、一台のバンが登山道を隠すように停まっていた。
傍らには、高山植物保護の看板はあるが、登山道の行き先は示されていない。
もちろん、旧車道であることなどは、一切触れられていない。
一応、30mくらい入った場所に、道を横切るコンクリの大きなバンプがあって、車道としての終点を告げているが、そこまですら車が入っている形跡はなかった。




 猿倉温泉は、素通りである。
いまここで温泉などでくつろごうものなら、たちまち私は斃れるだろう。
もはや徹夜の体が限界を超えていることは、自分がよく分かる。
そのまま、やや登り基調の舗装路を1km足らず。
国道103号線に合流して、本当に旧車道は終了となる。
入り口には猿倉温泉の看板だけが立っており、登山道についての案内も無い。
振り返って背後に見えるのは、私をかつて無く痛めつけた南八甲田の峰々だけ。


勝者、ヨッキれん。
戦闘時間、9時間31分。(過去新記録)
長いレポートだったが、それ以上に、長い長い探索であった。





 こうして、戦いは終わった。
この時、私は本当に体力を使い果たしており、下り主体の帰り道、不覚にも寝てしまった。
そして、クラッシュ!

幸い、単独事故だったのだが…。

また、やっちゃった。










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