道路レポート  奥産道 太田沢内線 その2
2005.1.28


 まずは、前回のレポにて奥産道整備の仕組みについて、読者の皆様より情報を募ったが、その成果として判明したことが幾つかある。
現地の紹介を続ける前に、少しお付き合い願いたい。

奥産道、正式には奥地産業開発道路であるが、この道を整備するより所となっていた法律は、 奥地等産業開発道路整備臨時措置法 で、昭和39年に公布発効されている。
その条文の一部を抜粋する。

 第一条
この法律は、奥地等における産業の総合的な開発の基盤となるべき奥地等産業開発道路の整備を促進することにより、地域格差の是正に資するとともに、民生の向上と国民経済の発展に寄与することを目的とする。


 第二条
この法律において「奥地等」とは、交通条件がきわめて悪く、産業の開発が十分に行なわれていない山間地、奥地その他のへんぴな地域で政令で定める基準に該当するものをいう。
 <中略>
一 森林資源が豊富に存し、かつ、その開発が十分に行なわれていない地域
二 酪農及び肉用牛生産の振興に関する法律(昭和二十九年法律第百八十二号)第三条第一項の規定により指定された集約酪農地域
三 農用地としての開発及び整備が必要とされる相当規模の開拓適地その他の地域
四 地下資源が豊富に存し、かつ、その開発の効果が期待される地域
五 水産物の集散地としての発展が予想される地域
六 観光適地でその開発が十分に行なわれていない地域
七 低開発地域工業開発促進法(昭和三十六年法律第二百十六号)第二条第一項の規定により指定された低開発地域工業開発地区、産炭地域振興臨時措置法(昭和三十六年法律第二百十九号)第二条第一項に規定する産炭地域その他の工業の発展が予想される地域

などと、規定されている。
昭和40年代の太田町や沢内村などを考えてみると、上記路線選定基準の「一・四・六」などに該当すると思われる。
この法律の施行された時期には他に、森林開発公団法による特定森林地域開発林道(別名:スーパー林道)や大規模林道(これらはいずれも現在では「緑資源幹線林道」と改称されて統一されている)事業が始められている。
奥産道やスーパー林道などは、高度経済成長時代の落とし子と言える、根は同じ道なのである。

そして、奥地等産業開発道路整備臨時措置法は、臨時法だけあって、平成15年にて失効している点も、お伝えしておこう。
それに、平成10年度以降には、新設線・区間もなく、保全・改修のみが全国奥産道で続けられてきたとのことである。
法律が失効した今後については、奥産道としての新設がないのはもちろんのこと、市町村道などに管理が移行した奥産道の行く末は、ますます暗い様に思われる。
この奥産道・太田沢内線(相変わらず正式路線名は不明)では、既に全線が太田町町道と、沢内村村道に移行している。



 それでは、名実共に過去の道となってしまった奥産道。

 つっづっきを、 どっっぞー!


 通 行 止
2004.9.15 8:22


 起点より早くも砂利道ではあったが、その道幅は林道としては十二分に広く、路肩には草むらが道路敷きの余裕として存在する。
将来的には、舗装かつ2車線化も考慮していたのであろう。

川口川は扇状地の上端である扇頂より上流では急激に谷が狭まり、早くも「桜淵の景」という案内看板が立てられた急峻なV字峡谷となる。
道はその河床から20mほど上部、右岸山肌に緩やかなカーブを連続させなつつ、上流を目指す。
あっという間に、奥羽山脈の山々が、周りを取り囲み、もはや逃げ場はない状況だ。



 そして程なく、問題の1.3km地点にたどりつく。
ここは、起点にて「落石で通行止」とされていた場所に違いない。
数台の軽トラやカブが路駐する奥に、道路敷き全てを塞ぐ、頑丈かつ開閉性の無いガードレール製の、バリケードが築かれていた。
バリケードの様子から見て、この奥はもう当分修繕するつもりもないような崩壊になっているっぽかった。
さし当たって、今日の私が修繕作業に当たる不運は無さそうである。

数台の先人達の車だが、必ずしも林道の奥へと進んだものかは分からない。
ちょうどこの場所は、川口林道という、北へ分岐する枝林道の起点でもあるからだ。


 午前8時23分、バリケード脇の草藪を強引に突破。

人が歩いた形跡はあるが、流石に轍らしきものは見あたらない。

いよいよ、通行止区間へと進入だ。


 バリケードを越えた先の第一コーナーを曲がると、なにやら不穏な空気が道を覆っているのに気が付いた。

なんなんだ、あの、岩山は。





 道は、決定的な崩壊に見舞われていた。
頭上20mはあろうかという垂直の法面の一部が崩れ落ち、大量の岩石が、断崖途中の道を完全に覆い尽くしている。
その降り積もった高さは、路床から3m以上にも達している。
路肩からは、さらに谷底の渓谷へも瓦礫は落ちており、幅7mほどの車道全てを覆い尽くして、なお崖下にも及んだ崩落の凄まじさを伝えている。
瓦礫は法面の色と同じで、妙に白っぽく、日光に照らされて白亜の輝きを見せている。
この乾いた崩壊現場を、越えなければ、先はないのである。

突破ルートを、慎重に選んだ。


 結局、チャリ共々突破する術として、私が選んだのは、瓦礫が谷底に続く、かつての路肩付近の踏跡利用であった。
踏跡といっても、とてもとても信頼できるようなものではなく、人一人歩くのがやっとの幅、かつ猛烈なアップダウンがある。

チャリを崖下に浮かせながらの、ヒヤヒヤものの突破劇。

8時24分、通行止の原因となった大崩落を、無事突破した。


 崩落地を振り返り撮影。
いかにも崩れやすそうな地形である。
ここにも、太田町が設置したらしい木製の案内看板が立てられており、それによれば、この地には「かぶり岩」と呼ばれる難所だ。
その紹介の文章を、抜粋して紹介しよう。
この道の過去を知る上で重要なキーワードが、散りばめられている。

 かぶり岩

昭和32年に廃坑となった川口鉱山採掘は、真木鉱山と同時の宝永3年であった。
昭和25年の鉱石運搬鉄索架設までは、鉱石背負人夫が列を成した山道である。
わずかづつ幅員を広げられたが、奥地等産業開発道路着工までは、かぶり岩と呼ばれる岩が山道上に覆い被さっており、通る人は岩崩れを恐れて駆け足で通り過ぎたところです。
削り取られた荒々しい岩肌から当時が想像されます。

奥産道工事以前には、ここにも“片洞門”があったのだろう。




 崩落現場の先は、路肩が広く取られた広場となっている。
そして、砂利道はさらに奥の森へと続いていく。
崩落地点から変わったことと言えば、砂利道に深く穿たれつつある水路の存在。
崩壊からどれほどの時間が経っているのかは分からないが、確実に廃道化への一歩を踏み出している。
今ならまだ簡単な補修で元に戻るだろうが、あの崩壊を見る限り、行き止まりの町道に数1000万からの修繕費を出すか。
せっかくの川口川渓谷の探勝観光を塞いでいるのも、この崩壊であるから、いずれは復旧するのか?

ところで、私はこの広場の片隅に、2台のバイクを発見した。
近くに寄ってみたわけではないが、幌をかけられたそれは、現役のように見えた。
おそらくは、さっきの崩壊で取り残されてしまったのだろう… 気の毒に。



 進むほどに…
2004.9.15 8:27


 流水跡の轍が一本走る砂利道は、いよいよ路傍の草むらが勢力を拡大し始めている。
しかし、まだ幅員は必要にして十分ある。
そして、所々には、まだ新しげな設備が見えるのだ。
写真の法面の落石防止壁などは、行き止まりの林道にしては大仰に思えるもの。
それも全ては、昨年まで存在した法律による、国の補助を受けた奥産道整備の一環であったわけだ。
平成10年には建設が正式に休止されたらしい本路線が経た廃後の時間は、まだまだ短い。


 要所要所には、ご覧のような案内看板が立てられており、楽しめる。
川口渓谷と真木渓谷という、成因も位置も近い二つの渓谷が太田町にはあるが、その印象は大きく異なる。
深い柱状節理の谷にか細い林道が奥深くまで延びる真木渓谷に対し、女性的なたおやかさを感じさせる、どこか開放的な川口渓谷の流れ。
どちらもオススメの渓谷なのだが、太田町の折角の力作・案内看板も寂しげだ。

なお、この看板には、杉崎権現神社の御前立社殿が、川口鉱山道路の建設により現在地に移設されたことが説明されている。
この川口鉱山道路というのも曰わく付きの道であり、町史によると…
昭和24年に上流の川口鉱山に向けて建設された鉱山道路は、たった一冬で激甚に崩壊し、翌25年には道を放棄して鉄索による輸送を行ったとある。
この失われた鉱山道路の道筋の大部分は、現在の車道に当たるものと思われる。



 一度は雑木林に入った道が、再び谷間に現れる。
写真は、振り返って撮影。
路肩の施工など、かなり大規模な施工が成されていることが分かろう。

川口川は、道下20mほどを、やや幅広の河床をともなって流れている。
そこには、大規模な砂防ダムが複数設けられており、これらの建設にも奥産道は活用されたのだろう。
今後も、いずれは砂防ダムの浚渫工事が必要となるはずで、その時までこの道が無事であればいいが。



 砂防ダムの一つは、ご覧のような変わったデザインである。
いくらか景観に配慮したつもりなのだろうが、まあ、50歩100歩といったところか。
かなり新しい施工に見えた。

なお、看板によればこの構造物は、「川口川川口川砂防堰堤」とある。
名前、しつこいよ(笑)




 いよいよ狭まってくる谷間をなおも進めば、眼前に迫り上がるような山肌が間近になってくる。
これは、権現山(海抜722m)の前壁であり、林道脇にまで落ち込んだその主稜線は山頂まで一直線だ。
この山は、この下流からはよく目立つ存在である。
川口渓谷はここで北の又沢と南の又沢というほぼ同規模の二つの支流に分かれるのだが、その出合に突出している為だ。
また、別名は杉崎権現山と良い、確かに奇形な杉の巨木が、その痩せた稜線上にシルエットのように見えているし、よく杉に覆われた山ではある。
この付近には、「森の巨人」にも選ばれている、幹周り12mを越える巨杉があり、その歩道入り口があった。
その入り口はだいぶ荒れていた。

奥産道は、ややガレながらも、順調に進む。


 二又の景
2004.9.15 8:42


 そして、いくらか森を進んで、いよいよ南の又沢と北の又沢の出合いである。
この出合いで、林道は橋を架け北の又沢を渡り、南の又沢右岸に繋がる。
ここには、二本の案内板が掲げられており、それぞれ、この二又にまつわる伝承(それぞれの源頭にある青シカ山と鹿ノ子山の名前の由来)と、この場所が「二又の景」と呼ばれることなど、親切に解説してくれている。

北の又沢は、いきなり狭い連瀬になっているのが、橋の上から観察され、道すら入らぬ険しい地形のようである。
奥産道は、ここから先、南の又沢に沿う。


 橋は、どう見ても1車線の幅しかない。
ここまでの道は、将来の2車線化も見据えた規格と思われたが、それもここまでだったのか?

橋の名は、北の又沢橋。
銘板によれば、竣工は昭和55年の12月である。
この時期に、奥産道の工事は、この辺りにあったということか。

橋の先は、直角カーブで進路を南の又沢沿いに切り替える。
そしてここで、道の様相は一変することになる。



 左側にそそり立つ権現山の岩壁を削ぎ落とし、道を拓いてある。
行く手には、天然杉の生い茂る山肌が、目に鮮やか。
再び道幅は2車線分用意されているが、明らかに不自然。
どういうわけか、薄そうなコンクリ舗装が道路中央付近だけに成され、そこにはすっかり轍の跡が刻まれてしまっている。
なんなんんだ、このやっつけ仕事は?
法面の施工が、本格的なだけに、どうも釣り合わない感じがする。
それに、いよいよ路上の雑草も、元気が出てきた。


 いよいよ廃道ムードが濃厚になってきた奥産道。

そして、その中盤戦のメーンである、橋梁連続地帯が、
この権現橋より、開始されることになる。


ますますヒートアップする、久々の山チャリ廃道探険。

 次 回 は 核心に迫るぞ。






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