道路レポート  奥産道 太田沢内線 その3
2005.1.29


 橋梁連続地帯
2004.9.15 8:48


 起点からおおよそ3.5km。
秋田県側の開通部分のちょうど中間地点である。
ここから先、南の又沢を幾度も渡ることになる。
まず、その一つ目の橋が、この殺風景な権現橋だ。
小さな銘板が掲げられた、面白みのないガードレールの欄干。
どこをとっても、普通すぎる橋。
銘板によれば、竣工は昭和55年。
先ほどの北の又沢橋と同じ竣工年である。



 権現橋で左岸に付いたのも束の間、すぐに次の橋が見えてくる。

それにしても、杉の美林が林立する山並みが折り重なるように眼前を埋め尽くす様は、脊梁山脈に挑んでいるという実感を持たせしめる。
この道は、結局この山脈を越えることが叶わなかったわけだが、この辺を建設していた昭和55年頃は、計画も順調であった様が、次々に現れる、竣工年の近い橋たちからも感じられるのである。


 昭和55年竣工、日暮橋。

この橋で、再び道は南の又沢の右岸に移る。

だが、まだ橋は続く。


 写真は、日暮橋の袂から、来た道を振り返って撮影。

かなり法面の施工が劣化しており、大規模な崩落が起きるのも、時間の問題と思える。

道幅は、橋の部分は1車線だが、それ以外は2車線分ある。
路面は砂利敷きだが、轍にも薄く雑草が生えており、本格的な廃道への第一歩を踏み出している。
このまま、あの入り口近くの大崩落が復旧されなければ、5年後の夏場はもう、藪道かも知れない。




 日暮橋を渡ると、その50m先にはすぐに次の橋が見えている。
一際深く抉られた水路に嵌らぬように慎重にハンドルを裁きながら、やや角度を増している上りに汗する。

そして、そのまま九右衛門沢橋にて、再度左岸に移る。
この橋は、昭和59年竣工とあり、進むほどに橋も新しくなっていく様子が観察される。

北の又沢橋からここまで、1.5kmの間に4橋が連続している。


 九右衛門沢橋から振り返る。

猛烈に切り立った断崖が、このようなアクロバティックな道の川渡りを余儀なくさせたのだろう。
決して、無駄な橋という印象はない。
それよりも、よくぞまあ、こんな谷間に道を通したなと、感激すら覚える。
道路好きには堪らないルート取りといえよう。
このまま廃度が熟成されれば、一級品のネタに仕上がる可能性もある。

現状ですら、私は十二分に興奮させて貰った。
林鉄も良いけど、やっぱチャリで走るには道路が一番だよな。
廃道だと尚更、エレクトする。



 橋連続地帯は、この牛首橋で一段落となる。
この橋は、これまでのものよりも巨大で、構造的にも変化がある。
この写真からは分からないが、ガーダー部分に紅いペイントが施され、目に鮮やか。
そして、上部構造も、両側の袂にカーブが設けられた変則的なもので、前後の道路に上手く繋がるように工夫されている。

残念ながら、一部の扁額が失われていたが、竣工年は昭和60年とあった。
この橋梁連続地帯を、約5年間で完成されたようである。
そしてここは、全線きっての難所ではなかったかと想像される。




 牛首橋の少し下流の谷底が、道路からよく観察できる。
もの凄い断崖の底には、意外なほど穏やかな流れがあり、面白い景色となっている。
廃道である故か、ゴミは殆ど見あたらない。
車が入れないので、不法投棄物の粗大ゴミも全くない。
川口川渓谷は、車道が奥深くまで進入してしまったにもかかわらず、清閑な渓谷美を色褪せることなく、保っている。

チャリでのんびり楽しむには、ある意味最高のシチュエーションだといえる。




 上の写真の谷の対岸には、天を突く権現山の南壁が迫り上がる。
白い崖は、まるで車道脇のコンクリ吹き付けのようだが、もちろん天然のものである。
まるで、一幅の山水画のような、荒々しくも均整の取れた景観である。
個人的に、川口川渓谷で最も気に入ったのが、この景色だ。

なお、ここにも朽ちかけた案内板が立てられていて、この地の呼び名が記されていたが、失念した。
失礼。



 牛首橋を渡る。

橋上は当然舗装されているが、雨天時には水路となるらしく、大量の砂利が乗っている。

深い渓谷を一跨ぎにする立派な橋も、山脈横断の夢叶わぬまま、殆ど人目にも届かぬ場所で朽ち果てようとしている。
どうしても、長居したくなる橋だ。
廃道よりも、もっとなにか、切ないものがある。
鉄道の未成線にも通じる、無念さが、この道には感じられる。

進めば進むほど、この道の悲哀は、私の漕ぎ足にまとわりついてくるようだ。
振り切って進まねばならぬ。



 しかし、何度も振り返ってしまう。

遠目に見ても、立派な橋ではないか。

渓谷と戯れる道は、美しい。



 そして、突如として舗装路が始まる。

いよいよ、奥産道の核心部分が始まろうというのだろうか。

異様な舗装の状況に、期待と不安が交錯する!



 時 を 追 う 道
2004.9.15 9:01


 急に道は狭くなり、そして急な上りが開始された。
それと同時に、舗装が現れたが、この舗装はかつて見たことがないほど杜撰なものだった。
至る所が凸凹し、アスファルトの下の砂利が現れていた。
これは、簡易舗装というヤツで、本来ならば、アスファルトを砂利の上に直接敷くことはしない。
この簡易舗装は、特に造りが雑で、流水によって舗装は剥がれ、その下の砂利の層が深さ40cm以上も抉れている。
チャリで走ってもペコペコと凹んでしまう部分があるほどに、舗装は薄く、そしてその下の砂利も空洞化が進んでいる。

非常に走りにくい舗装路である。
この区間は、おおよそ500mほど続いた。
もはや、重量物の通行は不可能な状況で、いよいよこの先の廃道は本格化が懸念される。


 南の又沢の河床とは、ここでどんどんと高度差が付いてくる。
道は、一気に稜線を目指そうというのか、これまでにない角度で登り始めた。

対岸の山肌も、ますます険しくなり、森吉の深い谷を思い出させるスラブの様相を呈し始めた。
谷と稜線の高度差は、既に500mを越えている。
はたして、この先道はどうなってしまうのか。
先細りで、このまま終わるのだろうか?
地図上では、さらにもう2kmほど描かれているものの、一気に雲行きは怪しくなってきた。
橋を幾つもかけて、お金がなくなっちゃったか?!



 奥産道である“プライド”を忘れかけたかに見えたが、再び道幅が広がりを見せた。
しかし、いよいよ路傍の草むらは勢力を拡大しており、どこまでが道路敷きだったのか判然とはしない。

そんな中、遂に、壁が出現した。

前方に現れた、屏風の如き緑の壁。
綿のような雲を背に、風渡る峯の涼しさよ。
心なしか、この景色を前に、風にも秋の匂いを感じた気もする。

いよいよ現出せり、奥羽山脈の主稜線。
国越えの峠は、あそこにある。
モータリゼーションの辿り着けなかった、峠である。


 対岸に落ち込む小さな滝。

僅かに音が届いてくる。

この滝は、桑原の滝という名が付いており、地図にはないものの、案内看板も立っている。
他に、この直前にはダルマ滝という看板もあり、滝の音も聞こえたが、木々に阻まれ見ることは出来なかった。




 そして、奥産道の足掻きが、いよいよ終末へ向けて加速度的に現れ出す。

目指す峠の稜線が見えて、再び道造りのやる気が出たのか、ガードレールまで草むらの中に見えるではないか。
法面の施工もしっかりしている。
ただ、路肩に駐車すると落石の危険があるということで、丁寧にも路肩に立ち入れないような車止めが設置されている。
そして、掠れた看板には『落石危険駐車禁止』の赤い文字。

誰が駐車できようか。
もう、車は二度とここには来るまい…。



 キッ 来たたー!


なんとも味のある橋が架かっている。

え?

別に変わった橋じゃないじゃないかって?

そ、そう?

なかなかに美味しい景色だと思うけどなー。
断崖を避ける桟橋というシチュエーションといい、いかにも新設の橋梁らしい妙に浮いた清潔さ、それと対比される前後の草藪や岩崖の荒々しさ。
橋の名前が、鉱山橋というのも、申し分がない。
銘板によれば、この鉱山橋の竣工は昭和63年、いよいよ昭和も終わりが近いぞ。
さらにオマケとして、橋の真ん中辺りの欄干に立て札が立っていて…。


 間近の崖に落ちる滝を見上げることが出来る。

これが、見返りの滝である。

素晴らしい橋ではないか。
滝自体は水量が殆どなく見応えはないが、景色は素晴らしい。

未だかつて、橋の真ん中にこんな標識が取り付けられているのも、初めて見たな。
よそ見運転歓迎というわけだ。



 思わぬ見所だった鉱山橋の先は、またも規格を無視したっぽい猛烈な上り坂が見えている。

パーセント表示があれば、上り15%以上あるだろう。

また、暑くなりそうだぜ。

マジで峠越えしようとしていたんだなぁ(しみじみ)





 振り返ると、鉱山橋がそこにある。

いやはや、私好みの道造りをしてくれている。

崖を繋ぐ桟橋って、いいよなー。
廃道にするのが惜しいような、美味しいような…。



 続 時を追う道
2004.9.15 9:12


 流石にここまで来ると、上りはキツい。
一応まだ沢伝いとはいえ、平均勾配は10%を越える状態が続き、しかも流水に酷く抉られた玉砂利の道は、チャリの車輪を容赦なく空転させる。
久々に、林道に燃えている。
林道ではないのだが、まるっきり林道のような道だ。
ただ、路肩に設けられた将来の車道敷きは広々としているし、法面の施工も高規格なものが採用されている。

下流から、昭和55年頃に竣工した橋が現れ、そして順次上流に進むにつれ、年代が進んできた。
そして、鉱山橋で昭和63年。
おそらくこの辺りは、平成に入ってから施工された場所だろう。
ほんの10年少し前までは、まだ槌音が山中を賑わせていたのだ。


…なんだか、抜け殻のようになった道がそこにはあった。



 秋田側では一番キツいと感じられた上りが、500m以上も続く。
ここで、10分近くを要した。

そして、もう現れないかと思った橋が、再び現れたのである。
なんか、進むほどに立派なものが現れる気がする。
いい加減、無駄な気もしてきたが、工事関係者は、何か不穏な空気を感じながら造ったのだろうか?
それとも、そんなことは考える事なく、黙々と作業指示に従って建築したのだろうか。

いよいよ工事中止決定の平成10年に間近。
時間を追う道が、そのリミットに近づいていく。



 完璧に2車線規格の橋だった。

これは、「やっちまい」だろう…。

流石に…。
流石に、コストかけすぎ。
勿体ないよなぁ。
こんな立派な道で、あの稜線の向こうまで行こうとしていたのか。
ここまでの道が、それほど整っていない状況では、峠区間だけいかに立派でも、大型車も通れないし、一般のドライバーも敬遠したと思うが、奥産道のプライドが、ショボイ先細りなど、赦さないというのか!

暑いぜ。
熱いぜ。
あっついぜ!!

この橋は、元平澤橋。
竣工は、平成5年だった。



 あっ、なんか怪しくなってきたぞー。

空気で感じるんだよなー。
なんというか、この現場の香のようなものを。
工事現場を幾度と無く体験し、幾度と無く追い返されてきた私の感覚器が、この地に漂う、残り香のような現場の空気を、感じ取ったのである。

それは、大きく間違ってはいなかった。
妙に路肩が広いのは、おそらく、作業者達の飯場があった場所だ。
日陰の、良い場所である。
そして、さっきまでの草ぼうぼうが嘘のように整った路面は、ロードローラーで均したまんまのよう。
轍なんて、全くないのではないか。
本当に、ここまで開通後にどれだけの車が入ったのだろう。
相当に少ないことだけは、確かだと思う。

さて、少し視線を左に移すと…。




 カーブの先に見えたのは、またも立派な橋である。

ここで、道は進路をこれまでの沢沿いから、いよいよ稜線への直接登攀に切り替えるのだ。
というか、沢はここが源流で、もうこれ以上辿りようもない。
その、道の性格の変化は、明らかな景色の違いとなって現れる。

これから先が、旧鉱山道路の焼き直しではない、本当の意味での、奥産道としての新設区間なのかも知れない。



 見上げると、そこには特異な形をした岩頭が天に突きだしている。

この岩山は、おそらくは藩政時代の川口鉱山露天掘りの跡である。
今や、近づく道はないが、鉱山地帯独特の毒々しい錆色の露頭は、大地の傷口のように見える。

この主稜線の前に突きだした山により、再び峠は見えなくなった。
しかしもうそうは遠くない場所に、稜線上の鞍部がある。
高度にして200m。
直線距離では1kmも離れてはいない。
おそらくこの先は、緩やかな九十九折りを二度三度させて稜線に達する計画だったと思われるが、定かではない。



 カーブの先のこの橋は、八倉沢橋といった。
竣工年は、平成7年11月。

立派すぎる橋に繋がる、轍の薄い砂利道。

貴重なブナの林に切り開かれた、幅広の分断線。

一体、誰のための道なのか。


そんな野暮なことは言いっこなし。

ずばり、私のための、道である。
少なくとも、今だけは。


 その50m先。
さらにさらに、橋が現れる!

そして、これが遂に最後の橋であった。

橋の名は、筑紫森沢橋。

沢と言うほどでもない、本当に小さな小川に架けられた、沢幅の何倍も広い橋。

これが、奥産道が秋田側に置き残した、最後の橋だった。

竣工年度は、平成8年11月。
工事中止の、ほぼ1年前に、完成した橋である。




 予感は、もう確信に変わっていたが、それでも、最後を見届けねばなるまい。

一直線に森を切り開いた道を、上り尽くす。

急な上りであるが、舗装してしまえば、たいそう快適な峠道だっただろう。
谷間は険しい道だったが、比較的稜線付近は緩やかな地形であり、もう工事を邪魔する地形的要因はなかっただろう。
ただただ、必要か、必要でないかという根源的問題が、最後の最後で、道の進捗を留めさせ、遂に止めさせたのである。
無論、利便や金銭的なものだけでなく、この手つかずに近い奥羽山脈の環境破壊という問題も、平成の世では相当の逆風になってしまったに違いない。






 太田町悲願の、山脈に閉ざされた行き止まりの街を脱するという挑戦は、終わった。


奥地産業開発という免罪符を得て始められた、遠大なる山脈横断道路計画は、かつて鉱山で賑わった山腹の一角にて、二度と取り外されることのないだろうガードレールに潰えた。

一応の面目は保ったのかも知れない。
何せこの場所こそが、昭和36年まで採掘が行われた、旧川口鉱山の跡地なのである。
奥地産業の開発に寄与するという、道の目的は、平成10年に達成された。

おおよそ閉山から半世紀を経て。


    終 点 。






古き鉱山跡へ …最終回

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