道路レポート/廃線レポート 草木湖水没交通遺構群 第1回

公開日 2012.09.21
探索日 2012.09.15
所在地 群馬県みどり市

平成24年の夏は猛暑であったが、加えて東日本ではまとまった雨が少なく、必然的に各地のダム湖は渇水に見舞われた。
そのため、いくつかのダムは貯水率が一桁にまで低下する異常事態となったが、そこまで行かなくても、ダム湖の水位が普段より下がっている状態というのは、オブローダーにとって発見の良い機会である。
普段は湖面の下にあって見る事が出来ない様々な水没した地物が、地上に現れることになるからだ。

今回私が訪れたのは、群馬県の渡良瀬川にある草木(くさき)湖で、水資源機構が昭和51年に完成させた草木ダムが生んだ、比較的に規模の大きな人造湖である。
前日の時点でモニタされた草木ダムの貯水率は30%を切っており、私は渇水の湖底に現れているかもしれない “ある” ものを探すべく、朝一番で訪問したのだった。

  私が探しているものは、以下のふたつ。

  国道122号の旧道

  国鉄足尾線の旧線

特に国鉄足尾線には、岩手県の錦秋湖と同様、湖底へ沈んだ草木という駅があったはずで、水没から35年を経過した姿をひと目見れたらというのは、大きな動機であった。

なお、草木湖建設に伴う足尾線の旧線のうち、水没していない区間については、既に「廃線レポート 足尾線旧線草木ダム付替区間」として紹介している。



現地の風景を見る前に、ダムが出来る前後の地形図を見較べて、沈んでいる旧道や旧線の位置関係を確認しておこう。


←画像にカーソルオンで、昭和40年の地形図に切り替わります。

水資源開発公団によって昭和42年に着工し、同51年に完成した草木ダムによって、国道と国鉄足尾線が、それぞれ約6kmずつ付け替えられた。

国鉄が新線に切り替わったのは昭和48年6月だが、昭和46年12月から新線切り替えまでの1年半の間は、堤体の工事現場を迂回する仮設線(約1km)が使われていた記録がある。
そして、旧線上にあった草木駅は、新線へと切り替えられる前日まで使われていた。

国道については残念ながら手許に切り替え日を記す資料がないが、現道に2本あるトンネルの竣工年が昭和48年と49年なので、鉄道と同時期に付け替えられたと考えられる。
おそらく旧道は、重ダンプが行き交う工事用道路として慌ただしく最期を迎えたのではないだろうか。

さて、水没地には道路や鉄道ばかりがあったわけではない。
草木ダムによる移転家屋は228世帯におよび、昭和40年の地形図に名前があったものだけでも、上草木(かみくさぎ)、下草木、白浜、横川などの集落が渡良瀬川の両岸に立地していた。
これらの集落に付随して、水田8ha、畑38ha、山林110haなども水没し、それぞれ補償の対象となった。

最後に、現在の湖畔を巡る道路と鉄道についてであるが、東京と日光を結ぶ国道122号が草木湖の右岸を通り、左岸にも県道343号が通っている。
付け替えられた国鉄足尾線は、昭和62年にJR足尾線となるも、平成元年3月に廃止され、そのまま第三セクターの「わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線」として引き継がれた。
現在はこの“わてつ”が、全長5038mの草木トンネルを含む右岸の新線を運行している。




ダムサイトから眺める、“貯水率28%”


2012/9/15 5:27 《現在地》

ダムサイトから100mほど離れた国道脇の展望台から見る、草木ダム“貯水率28%”の姿。

過去に撮影された満水に見える写真と比較すると、如何に水位が低いかがお分かりいただけるだろう。
数字的に言えば、この日の水面の標高は約420mで、堰堤の標高から34m低いことになる。

だが、確かに低いのは低いと思うが、それでも見たところ水はまだ沢山あって、ダム湖として誰が見ても「異常だ」と感じて報道されるような状態ではない。まだ、通常運用の範囲内というか…。
果してこの程度の渇水で、湖のほぼ中央にあった草木駅辺りが地表に露出しているのかどうか、微妙だという感じを受けた。



同じ展望台から、今度は上流方向を俯瞰した。

まだここからは、草木駅があった辺りはギリギリ見えないが、とりあえず水面がずっと続いているのは確認され、まずます不安になる。

さらにいえば、もう一つの目的である旧国道の方も、全く見えない。


うぬぬぬぬ……。

もしかして、ちょっと勇み足だったか?
貯水率30%を切ったのを見て、いても立ってもいられなくなって来たわけだが…。
(ちなみに、これを書いている9月21日現在の貯水率は32.8%と、水位は上昇基調にあるようだ)




私には、この巨大な“水鏡”の底を見透かす力が…

ほんの少しだけある。

もちろん、それは持って生まれた超能力ではなく、過去の地形図を脳内に展開して四次元的に風景を見ているからだ。

四次元の目には、旧国道や旧線がこのように見えている。
もちろん、誤差はあるはずだが、大きく間違ってはいないはず。

貯水率30%を切っても、全く出てくる気配が無い、足尾線関連の2つの“大物遺構”。
すなわち、旧線の「第一渡良瀬川橋梁」と、仮設線トンネルの北坑口である。
これらが再び地上に現れる日は、果して来るのだろうか。






『草木ダムの記録(草木ダム被害者連合対策委員会発行)』より転載。

【第一渡良瀬川橋梁の最期の姿】

右の写真は、昭和52年に草木ダム被害者連合対策委員会が発行した『草木ダムの記録』に掲載されている足尾線旧線の「第一渡良瀬川橋梁」(草木鉄橋)の姿である。

『JSCE橋梁史年表』によると、本橋は大正元年11月11日架設、すなわち開通当初からの橋であり、下路ピン結合プラットトラス1連とプレートガーダー数連によっていたという。

この写真には、貴重な明治大正期のプラットトラスが、まさに爆破撤去されようとしている姿が写っている。
したがって、ダムが完全に干上がっても、橋自体が地表に現れることは無い事になる。

なお、旧国道はこの写真に写っていないが、それは谷底からかなり高い所を通っていたためで、撮影者の足元がその路面なのだと思われる。




サイト『鉄道ホビダス』のブログ「わが国鉄時代2」の2012年9月25日のエントリに、「湖底に消えた風景(足尾線)」のタイトルで、この第一渡良瀬川橋梁の現役当時(昭和45年)の俯瞰写真が掲載されている。

その写真は左岸に視座が置かれており、鉄橋の背景(右岸)には旧国道が写っているという、まさに“お宝写真”だった。

2012/9/27 読者さま情報提供により追記



ああっ! 見逃してた!

ごめんなさい。

こんなものが写真に写っているのを、現地ではすっかり見逃してた。

さっき、気付いてしまったよ…。




位置的に、あれは旧国道ではないはずだ。
おそらく、建設中の堤体を迂回するために使われていた架設路(堤体迂回路)だろう。
つまり、足尾線に堤体を迂回する仮設線が作られたとの同じ要領である。

旧国道ではないが、工事中のある一定の期間は国道の迂回路だった道であり、かなり堅牢な路肩工を持っているのも頷ける。
現地で気付いていたら実際に歩いてみようと思ったろうが、苦しい言い訳をすると、まだ夜明け前で少々肉眼には暗かった…。
(ゴメンナサイ!!)



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草木橋から眺める、渇水の360°大パノラマ!


5:34 《現在地》

ダムサイトから上流2.5kmの位置に架かる草木橋へとやって来た。

本橋は、草木湖の全長のほぼ中間で両岸を結ぶ、全長約400mの長大橋(市道)であり、
湖面を見渡すのにこれほどお誂え向きな展望台は存在しないだろう。


さあて、上流 下流 どっちから見てやろうか。






よし! 決めた!

ここは勿体ぶらず、まずはここへ来た一番の目的である、

草木駅が地上に現れているかどうかを、見てやろうじゃないか!


駅の位置は、新旧地形図の比較から、橋の左岸寄りのやや下流側湖底と推測された。


↓↓↓

↓↓



む、無念!

この水位では、まだ足りなかった…。

しかし、あそこの湖底が地表に現れるまで、本当にあともう一歩だと思う。

おそらく、あと3m水位が下がれば、現れるだろう。

なぜならば…




草木橋のほぼ真下まで、陸が現れていたのである。

橋から駅までは100〜200m程度しか離れていなかったようなので、そこも大した水深ではないと思われる。

だがしかし!

水位がもっと下がったからと言って、本当に駅の痕跡が出現するかどうかは、正直微妙だと言わねばなるまい。
今回、駅のすぐ近くの湖底の様子が明らかになったわけだが、そこには水没前の地形がまるで分からなくなるくらいの膨大な土砂の堆積が見られた。
この様子だと、駅のホーム程度の凹凸は、完全に埋め立てられてしまっている可能性が高い気がする。
事実、駅に通じる旧線跡も、この辺りの湖底には全く姿が見えない。

まあそれならそうと、一度見せてくれれば諦めも付くのであるが…。
皆様が渇水の時にここを通りかかるときがあったら、ぜひ、駅付近が地上に現れているかを、私に代わってチェックしていただけないだろうか。






『草木ダムの記録(草木ダム被害者連合対策委員会発行)』より転載。

【草木駅の在りし日の姿】

これは『草木ダムの記録』に収録されていた、在りし日の草木駅の貴重な写真である。
草木駅の写真は、この1枚の他に見たことがない。

写真から見て取れる駅の施設は、1面1線の極めて簡易なものであり、いわゆる停留所程度のものだったようだ。
ホームは一応コンクリート造りのようであるが、その上には簡単な待合室があるだけで、とても有人駅には見えない。
おそらく、改札さえ無かったのではないか。
またこの写真からは、駅の立地が平地ではなく、だいぶ山裾に寄っていた事も分かる。

『日本鉄道旅行地図帳 関東1』によれば、草木駅は昭和34年9月8日に開業し、同48年6月27日に廃止されている。
したがって、足尾線開業当初からの駅ではなかったのである。

というのが一応正史なのだが…




今回、草木駅周辺の歴代の地形図を見較べてみたところ、重大な事実に気がついた。

昭和4年の地形図に、「くさき」駅がはっきりと描かれていたのである。

草木駅は、昭和40年版に描かれていて、同27年版には描かれていない。
ここまでは『日本鉄道旅行地図帳』の記述と矛盾しないが、昭和4年版まで遡ると再び駅が描かれているのは、どういうことだろう。

事実関係ははっきり分からないが、足尾線が大正7年に国有化される以前には存在した駅が、昭和4年版の地形図にそのまま記述だけ残ってしまったのかもしれない。
もっとも、国有化以前の「足尾鉄道」には草木駅があったという証拠も、まだ見つかっていないのだが…。
また念のため、昭和5年に鉄道省が発行した『日本案内記関東篇』の足尾線の項を見てみたが、やはり神戸(ごうど)駅の次は沢入(そうり)駅となっていて、当時草木駅が営業していなかったことは、間違いないと思われる。

先ほどの草木駅の写真を改めて見ると、手前左側に写っている低い石垣が、使われていないホームのように見える…。
草木駅には、ホームの異なる2世代の駅が存在した可能性が高いようだ。





残念ながら、今回の二大目的のひとつであった「草木駅探訪」は、叶わなかった。

だが、目的はもう一つあった。

それは旧国道の痕跡を探すことだ。

こちらについては、何か成果があったのだろうか。


今度は、同じ草木橋から右岸の下流方向を眺めて見ると…。


↓↓


あの橋は!!

緑の草原に、いかにも旧国道っぽい作りの橋を発見!
なんか、妙に良い雰囲気!




少しアングルを変えて見下ろしてみる。

あの橋のデザインは、間違いなく旧国道のものだろう。

それは、想像していたよりもかなり水面より高い位置にあり、
これならば特別に渇水の時でなくても地上にあるとも思ったが、
そもそも旧国道の橋がここに現存している事は全く知らなかったのだし、
緑の草原に点々とコンクリートの遺物があるのは、何か古代の遺跡を見つけたようなワクワク感もあって、

私は大いに興奮した。



草木橋直下の一帯だけは地形が緩やか(おそらく河岸段丘面か)だが、
旧道の行く末を求めて下流へと視線を運ぶと、そこはたちまち険しい斜面に一変し、
しかも湖畔特有のボロボロの崩壊地になっていて、道の痕跡はほとんど失われていた。

残っているのは、万里の長城を思わせるような路肩工の列だけであ、
その上にあるべき平らな路面は、全て斜面に埋め立てられて、消え去っていた。

時間があれば、この岩場の辺りから見える景色も気になるし、実際に歩いてみたかったが、
実は今日は午前9時に別件の待ち合わせがあったので、
目視確認を一応の成果として、実踏は見送った。
(もちろん、橋の辺りは歩いたので、後ほど紹介します)



そして橋上からの俯瞰の最後は、旧国道の上流方向の眺めである。

橋を、もう1本見つけた!

干上がった湖底と、緑の草原との対比が、どこか世紀末を思わせる風景である。
こちら側も旧国道の行き先には急な山腹が見えており、眼下の小さな平地が、
この山間の地では、かなり希少なものであったことを伺わせた。
つまり、この場所に上草木集落があったことは、誠に理に適ったことだった。