足尾線旧線 草木ダム付け替え区間 後編

公開日 2008.5.29
探索日 2007.12.7


「前編」にて紹介したとおり、草木ダムによる国鉄足尾線の付け替え廃止区間は、さほどの困難も無ければ驚くべき発見も無かった。そこにあったのは、鉄道廃線を身近に体験できる入門的な風景だった。
帰宅後、レポートかすることもなくなんとなく時間が経ってしまい、次第に印象の薄れつつあった今年3月。
読者からの一本のメールが、この廃線を私の前に鮮やかに蘇らせることとなった。

メールの送り主は「旧線太郎」氏。
簡潔な文章にダム工事中の風景を写した一枚の写真が添付されていた。
氏曰く、草木ダムによって旧線から新線に付け替えられる課程で、短期間だけ使われた「仮線」なる線路があったのだという。
さらにこの仮線には、専用のトンネルまであったというのだ。
そして、トンネルはいまも現存しているらしい。

 …アツイ!


あらかじめ数年限りの現役を約束されていた隧道とは、いったいどんな姿をしているのだろう…。

長さや名称についてはまだ分からなかったが、それにより余計に想像力を駆り立てられた。
とにかく、現地に行けば「それ」はあるというのだ。 行かねばなるまい!

 仮線に直行!



仮線唯一の遺構 名無しのトンネル 

教えられた場所


2008/4/23 07:06 

旧線太郎氏によれば、仮線の遺構はトンネル一本の他に何もないという。
そしてこの問題のトンネル。旧線や新線からは少し離れた、私の想定外の場所にあった。
そこはダムのすぐ下流で、旧線の「琴平隧道」や新線の「草木トンネル」があるのとは反対側の左岸(写真右側)であった。
旧線との間には渡良瀬川が横たわり、旧線とのアクセスのためにどこかで渡っていたはずだが、それらしい気配は前回の探索で微塵も感じなかった。もちろん、『鉄道廃線跡を歩く』にも触れられていない。

謎めく仮線トンネルだが、それは確かにそれは存在していた!




遊歩道となった旧線の対岸、ダム堤体まで300mほどの近接地に高い柵で塞がれた“トンネル”があった。

坑口前は広い駐車場になっており、誰でも車で訪れることが出来る。
これは異様な感じがする立地である。
このアスファルト敷きのスペースにかつて重い線路が敷かれ、そこを鉱石や硫酸を積載した貨物列車が力走していたのだ。(無煙化は昭和45年、)
現状では隧道だけがポツンと残っている感じで、当然あったはずの渡良瀬川に架かる仮橋も橋台さえ見あたらない。

しかも、隧道はどこへ繋がっているの?

こいつは… 久々の「湖底へ続く隧道」であるらしい…。




ダムの完成は昭和52年だが、足尾線が新線に切り替えられたのは同48年。
従来はこの新線が竣工する前日まで旧線が使われていたのだと思っていたが、確かにそれだと辻褄の合わないことがある。
ダム本体は旧線の「第一渡良瀬川橋梁」と重なる位置に建造されているのだが、このダム本体の着工は集落移転交渉が決着した同45年なのである。 旧線を活かしながらそこにダムサイトを築造していくことは不可能だから、昭和45年〜48年までは「仮線」存在の必然がある。


そして、この隧道なのだ。

案の定… 風のない隧道だった。



左写真は、真横から見た坑口。
周囲の擁壁と一体となったシンプルな坑門である。
ここに意匠的な要素が一切無いことは仮線の宿命だろう。
鉄道トンネルには付き物である「工事銘板」が存在しないので、隧道名さえ分からない。
正体を知らなければこの坑口、ダムに付きものの管理歩廊の入口だと思うかも知れない。
たいがい鉄道跡地というのは素人が見てもそれと分かる独特の雰囲気を有するが、僅か数年では“空気”を醸成するに至らなかったのだろう。




隧道内に立ち入って最初に目を引いたのが、天井のこの小さな穴。(右写真)
40センチ四方ほどの穴で、空が見える。
なんのためにあるのか分からないが、普通このような穴は、上に土砂を貨車に積み込むためのホッパー施設があった名残だと考える。
仮線にもそのような使い方をした時期があったのかもしれない。




それでは、いよいよ未知なる闇の中へ進行である。

どこまで通じているの(閉塞確定?)。

どんな線形なの(カーブ? 直進? 勾配は?)。


国鉄やJR、大多数の私鉄など、旅客営業を生業とした“真っ当な”鉄道に属する廃隧道で、この程度の基礎的なことさえ分からないまま進入するというのは、実はかなりレアなケース。

こいつは、  ふ る え る ぜ…。




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 国鉄の妥協?


まずは第一段階突破と言うべきか。

このような「風のない」廃隧道において、入洞後最初から見える範囲に早速「閉塞」が現れると言うことが多い。

しかし今回。
コンクリートの内壁と枕木を取り外した跡が鮮明に残る洞床が、闇に見えなくなるまでずっと続いていた。


 「よし!」  無言で頷く私であった。




洞内には冷たく乾いた空気が停滞している。
風は無いので、これでもし湿気が強ければ水蒸気のためフラッシュ撮影が出来ない状況となっていたはずである。

電化はされていなかったから架線はないが、通信線らしき配線が壁面から墜落して洞床を這っている。
洞床のバラストは角のない川砂利使用のようである。
内壁はコンクリートの場所打ちで、その仕上げは奇麗に整っている。
普通の鉄道トンネルからレールと枕木を取り外しただけの状態で放置されており、後に何かに転用された様子はない。
廃止後35年におよぶ時の経過は、さほど感じられない。




途中、待避坑は常に向かって右の壁に現れた。
待避坑が常に右側の壁にだけに現れた理由は、隧道が常に左方へカーブし続けているからだった。

反対の壁にはときおり赤いペンキの数字が現れた。
乱暴な書き筋の文字が何を意味しているのか。
イタズラとも思えないので、おそらく私が入ってきた坑口からの距離だろう。(中途半端な数字なのは謎)




隧道は短くなかった。おそらくもう200mを超えて歩いてきた。
延々とカーブしており、振り返っても入口の光は壁に僅かに反射しているのみ。
当然のように出口は見えない。

仮施設とたかをくくっていたが、想像していたよりもずいぶん長い。
それに、このまま進めばそう遠くなくダムサイトを突き抜けて湖底に進むことになるだろう。

冷たい壁の向こうに、ダムが溜め込んだ巨大な水圧を連想する事を止められない。
明らかに緊張していく自分が分かる。
それでも黙って歩いていくと、奇麗だった洞内に、最初の異変が…。

右側(山側)の壁面、スプリングライン(アーチの下端)に沿っての大量出水だ。




壁面から帯となり、部分的には水柱となり洞内へ湧出した地下水は、低地である待避坑の床を完全に沈めるほどであった。

ライトを向けなければ音だけの世界。
そこにせわしなく波打つ水面を見るのは慣れない。
ダムと関係ないとは思うが、一見隙間など無さそうに見えるコンクリート壁からの大量出水には、なんだか、「見てはならないモノ」を見てしまった心持ちがした。





そして、

この小さな異変は、より大きな別の異変の始まりに過ぎなかった。




側壁が…。




側壁が… ネットだ。

国鉄ないしJRの旅客線に現存する廃隧道で、全く素堀だというものを見たことはない。
だが、側壁コンクリートの覆工が部分的であり、窓のように地山が覗いている例は、限定的な状況下ではあるがいくつか見てきた。
その多くは太平洋戦争の最中や戦後最初期の工事にかかるもので、コンクリートの節約や工期短縮を目的としたものと思われる。
しかし本隧道は昭和40年代中盤に利用されたものであり、前例とは事情が異なる。
ぶっちゃけ、「仮」だからこの程度で十分だと判断されたのだろう。

それを如実に物語るのが、壁を覆うネットの存在である。




ネットは反則だろ!

国鉄は仕事が丁寧なことで知られており、それはその工作物全般についても言われることである。
戦時中に作られた部分的に素堀を残す隧道であっても、それは地山の安定性が十分あって、走行中の列車に落石が直撃するような事故が起こらないことを、ちゃんと基準によって確かめた上での最小限度の妥協なのである。
だからこそ、素堀部分に敢えて「ネット」をかけて中途半端な落石防除をするような例を見たことはない。(見たことがないだけで、存在しないとはいえないが)

しかし、この隧道は「仮」ゆえにかなり乱暴な作りをしている。
だって、ネットの向こうに見えている壁は全然安定していない!
既にボロボロと崩れているのだ。
素人目にも壁は非常に風化しており、走行中の衝撃で落石が起きる可能性は高そうに見える。




いまだ致命的な崩壊は起きていないようだが、それも時間の問題と思われる。
やがて落石を抱えきれなくなったネットは破れ、洞床は瓦礫の海となるだろう。
目の細かな砂は既に溢れてきている。

これこそ、3年に満たない期間だけ使えれば十分だった「仮トンネル」の特殊な事情を象徴する景色だろう。




国鉄のイメージからかけ離れた、その場しのぎの構造物。

外からは見えない奥地にいたって始まった側壁の簡易施工(手抜きとは言うまい)。
それは、“最後”までずっと続いていた。

続いているといえば、カーブもそうだった。
入洞して以来、延々と左カーブが続いている。
淡々とカーブが続くため方向が掴めないが、もう既に60°くらいは転進しているのではないか。

入洞から、推定400m。
まだ終わりは見えない。




ネットが現れてからは、大胆にも側壁の半分以上が素堀となった。
しかし、こんな異様な状況になっていても、なお頭の硬い“国鉄らしさ”(無論それは私が考えるイメージに過ぎないが)は失われていなかった。

わざわざ、コンクリートの巻き立て部分に待避坑を設置してある。
ネットの部分は巻立てのない分、十分待避坑代わりになるほど広いにもかかわらず。
敢えて、コンクリートの巻き立て部を選んで、おそらくは一度も使われていないような白い待避坑が…。




来た!

初めて現れた、この隧道が現役であったことの証。
ここまでは、なんだか「未成線」の廃トンネルを歩いているような感じを受けていた。

足尾線の起点、JR両毛線と分岐する下新田連絡所からのキロポスト。
「26」と「1/2」キロメートルである。

仮線に残された、おそらく唯一のキロポストだ。

行く手に出口ではない別のものが現れつつあった。
それはマグライトの灯りにときおり、ナイフのような冷たい反射を返してきた。





 圧密閉塞



7:18

500m近くは来たと思う。

ここでとうとう、予感された“終わり”が始まった。

これは序章であり、終章である。

ダム湖へ突っ込む廃隧道をいままで10近く見てきたが、そのほとんどが最後は同じカタチとなった。
もちろん細部に違いはあるが、コンクリートの肉厚な壁で断面が矩形に制限されて、最後の壁に至る作りが同じなのである。

今回目新しかったのは、矩形断面に変わる地点の頭上に設置された、おそらくはステンレス製の水槽の存在である。
断面変わり地点の隙間から流れ出る大量の水を受け、バシャバシャと滝のような音を上げている。
さっきから、これが灯りに反射して光っていたのだ。




「日特 山田班」はこの場所にたどり着き、何を思ったのか。




水槽から溢れ落ちるスダレのような水の防衛線を、さながらのれんをくぐるように突破。

ひとまわりふたまわり、みまわりくらい小さくなった、大人二人並んで立って歩くのがいっぱいの矩形トンネルに入る。

さっきも書いたが、もうこうなると終わりは約束されている。


…だから、気が重い。

しかし、ここまで来たからには、それを確かめねばならぬ事も知っている。




分厚いコンクリートの壁は、ダム湖水の膨大な水圧に抵抗している。
大袈裟ではなく、湖底に繋がっている隧道を塞いでいるのだから、この表現は正確だ。
無論、この圧密区間というべきものは5mや10mといった程度ではなく、水深に応じて厚くなるダムの堤体にも劣らぬほど分厚いものだとに考えられる。
過去に探索したあるダム閉塞隧道では、湖底に至るまで100m近い圧密区間が存在しているという。

それでも沁みだしてくる水があり、というよりはコンクリートに含まれていた水分がそうさせるのだと私は思っているが、ともかくこのような分厚い壁には付きものである神秘の坊主頭達。
コンクリート鍾乳石だ。




亀裂が走っているように見えるが、そんなことがあるはずはない。

あってはならないことだ。

絶対に。


私の灯りは、閉塞壁を既に捉えていた。





7:20 閉塞壁


矩形断面とかしてから30m足らず。

予想通りの景色に、もはや前進する余地はついえた。


ここは仮線トンネルの最後であると同時に、

我々が辿りうる仮線跡の最後でもある。



この地図は推定で書いたものだが、最後まで続いたカーブを考えると、
おそらくこんな感じにダムサイトを“迂回”する仮線トンネルだったのだろう。

そして現在地は、まさにダム堤体の真横か少し先…。
距離的に手前とは考えにくい。




7:28

探索は終わった。

しかし、何か腑に落ちない気持ちが残った。


仮線トンネルといわれるものが実在していたことは確かめられたが、あまりにも素性が知れない。
気持ちが悪い。
私は探索後の足で、図書館へと駆け込んだ。




右の地図は、「草木ダム被害者連合対策委員会」が昭和52年に発行した『草木ダムの記録』という記録誌に収録されていた図面である。

ここには、はっきりと「国鉄仮付替」線のラインが曳かれていた。

全長1.04km。

そのほとんどが橋とトンネルであった点は、現在線(新線)と酷似している。
しかし、私が現地で見たとおりの激しいカーブは、「ダムサイトを迂回する」という目的のためだけに仮設された事が十分に感じられる線形といえる。


 …さらに頁をめくっていく。




あった!

仮付替トンネルの建設中の写真だ。

現在、この写真と同じアングルで写真を撮る事は出来ない。
なぜならば、足元に写るカーブする橋が現存しないからだ。




これはおそらく、旧線との分岐地点付近(渡良瀬川右岸)から撮影したものだろう。

「仮付替鉄橋」として、今は痕跡さえない橋が映されている。

掲載されている数枚の写真を見る限り、5連以上の構造で、うち1連が下路プラットトラス、残りはプレートガーダーであったようだ。
なお行程的に旧線の橋梁を転用した可能性はなく、この仮線のためだけに新造したか、おそらくはどこかから転用したに違いない。





ちなみにこれは、仮付替鉄橋が存在していた辺りの現在の様子。

映っている橋は歩道橋で、対岸は「前編」で歩いた旧線跡だ。
両岸、河床ともにダム工事によってかなり地形が弄られているようで、橋脚はおろか橋台さえも見つけ出すことが出来なかった。
150mくらいはある長い橋だったと思うのだが、ここまで完全に姿を消しているとは思わなかった。




同書および、そこに掲載されている当時の新聞記事などから、この付替線(仮線)の全貌が判明した。

 正式名: 仮付替線
 全長: 1.04km
 着工: 昭和45年10月12日
 開通: 昭和46年12月21日
 廃止: 昭和48年6月18日 (利用日数:545日間)
 仮付替線工事費: 3億4700万円
 利用日数一日あたりの工事費: 63万6697円 也


…ごめん。 公共の福祉を考えれば、下の計算は下世話に過ぎましたね…。



最後に。

他にも何冊か資料を見たが、この「仮付替線」にあった鉄橋とトンネル。
その正式な名称は分からずじまいだった。

ちゃんと名前があったのかさえ、分からなかった。