日原古道探索計画 第4回

公開日 2007.2.24
探索日 2007.1.16
東京都西多摩郡奥多摩町

トボウ岩への挑戦!

 失われた大吊橋


 14:42

 小菅集落の外れから始まる一本の造林作業道の正体は、大正時代に建設された東京府道日原氷川線であった。
小菅から約1.6km進むと、道の対岸に現役の石灰石鉱山、奥多摩工業氷川鉱山の採石場や巨大なプラントが現れた。
深奥な日原谷を越えて届く、金属と岩のぶつかり合う不協和音。
思わず萎縮しそうになるが、私が目指す「あの場所」は、まだ先。

 私は道に向き直る。

強烈な逆光に霞む行く手には、これまで以上に危険な“臭い”が充満していた。

今まで誰もレポートしなかった、日原古道核心の世界へと、その足を踏み出す。




 ここに至って、道はその本性を現した。

ここまでは、どうにかこうにか自動車が通れる幅があったし、実際に通った痕跡も見られた。
しかし、私が鉱山を見渡した小さな広場から先の道は幅2mを完全に割っており、法面と路肩の直角に挟まれた、極めてクリティカルな道である。
路面には落ち葉が堆積し、目立った踏跡も無い。
路肩の一部は崩れ落ち、ただでさえ狭い道を更に細めている。
その路面におもむろに現れた、赤茶けた鉄の管。
いつの間にか谷底から這い登ってきて、この道を過ぎるとまたいずこかへと消えていた。



 遂にこのまま「あの光景」へと突き進んでいくのかと、私は大いに期待し、恐れた。
だが、岩場の狭路は50mも進まず終わりを迎えた。

 その代わりに現れたのは、一面に苔が生えた大きな広場だった。
そこは、場所も忘れ思わず微睡んでしまいそうな優しい日差しに包まれていた。

 私は正直ほっとした。
明らかな到達点に辿り着いたと思ったからだ。
この先に道がもし無くても、納得して引き返すことが出来るだろうと思った。


  

 その1アールほどの広場の片隅に、ぽつんとグランピー鉱車の台車を外したものが置かれていた。
グランピー鉱車は鉱石運搬トロッコの主流として長く使われているものだ。
かなり変形しており台車も見あたらないから、廃車後に何かの貯蔵用として持ち込まれたのだろう。
現在は落ち葉や砂が少し入っているだけだった。



 鉱車の崖側には鉄のフェンスがあって、その先に続いている狭い通路を塞いでいる。
フェンス越しに覗くと、その向こうには対になった吊り橋の主塔が見えた。
間違いない。
これは、数時間前に旧都道の終点で、採石場越しに見えた主塔である。(この写真



 はっきりと赤字で「立入禁止」と書かれた鉄の扉。
その先の吊り橋が既に落とされている事は遠目にも分かった。
だが、それでもこの橋には私を引き寄せる、強烈な引力があった。

 この先へと進み出ることには、殆ど何の意味もない。
小さな尾根の突端にある橋は対岸の採石場からもよく目立つ場所で、むしろ行くだけでもリスクがある。

 だが、私はどうしてもこの橋を間近で見てみたかった。




 不思議だ。

どう見ても橋は既に無いというのに、そこへ続く通路は庭園の遊歩道のようにこざっぱりとしている。

 この向こう岸には、かつて戸峰岩(トボウ岩)の片割れがあって、両岸の競り立つような岩棚が文字通り日原集落の戸口を成していた。
第一部で攻略した旧都道の先代にあたる日原で初めての自動車道は、昭和27年(24年の説もあり)に対岸の戸峰岩に一本の道を切り開いた。
しかし今では、難所だった岩盤も何百メートルと削られて後方へ遠のき、採石場の粉塵に霞んで見える。
当然、当時の道など残っているはずもない。
この景色を都道の突端から見ると、こう見える






 唖 然

 まるで映画か何かのワンシーン。
錆び付いて茶色く変色したワイヤーが、綺麗な放物線を描いて対岸の塔へ続いている。
ワイヤーと主塔が整然と残っているため、さも透明な橋桁がそこにあるかのような錯覚を覚える。

 この橋の名は不明だが、昭和22年頃に氷川鉱山で建設したものだという。
その頃は毎日作業員たちはこの橋を渡って現場へ行っていたが、やがて戸峰岩南岸の採掘は中止となり、橋も危険防止のために落とされたようだ。

 現在、東京都で最も高い橋はこのすぐ下流の倉沢に掛かる倉沢橋(水面からの高さ61m)だとされているが、この橋が健在ならばそうはならなかった。
これは公式な記録ではないが、この橋は谷底から100m近い高さを持つからだ。
ここからの眺めは絶景だが、その谷はあまりに深すぎて、渓声はすれども水面は全く見えない。


 禊


 14:46

 無人の広場にチャリとリュックを置き身軽になった私は、吊り橋の他にこの広場から出て行く道が無いかを探した。
2万5000分の1地形図には、ここまでの道や吊り橋が点線として描かれているのだが、ここから日原付近までの南岸に道はない。
しかし、私は数時間前に戸峰岩を横切る道らしき影を見たし、昭和30年頃までの地形図にもそのルートがはっきりと描かれている。
日原へ続く道は、何処かにあるはずなのだ。



 となると、ここか…。

広場は小さな尾根の上を平らに切り開いて設けられているようだが、その尾根の裏側へ続く道がある。
ただしその入り口には、作業道に入って以来初めて遭遇する「立ち入り禁止」がある。
故に私は、これがただの廃坑へ続く道ではないかという気がしていた。
しかし、この先の古道を描いた詳細な地図が存在せず、他に道らしい物が無い以上、この先へ進むより無い。



 DANGER
KEEP OUT

…言い訳の通じない“危険”を感じる…。




 鉄の扉があり、そこには施錠さえされている。
が、扉だけがそこにあるのであって、柵はない。
つまり、物理的には入り放題だ。

 それはさておき、扉を過ぎると道は二手に分かれる。
一つは石垣に細いスロープでとりつき、そのままギザギザに登る小道。
そしてまっすぐに続く幅2m足らずの道だ。
明らかに正解はまっすぐなのだが、脇道の姿に惹かれた私は、ちょっと登ってみることにした。
写真はスロープの途中で広場を振り返って撮った。



 石垣に築かれた狭いスロープを上りきると、そこには三畳ほどの平場があり、岩盤を背にして小さなお堂が設えられていた。コンクリートの土台の上に乗せられたそれは鉱山につきものの山神社であろうか。
1m四方ほどのお堂は、遠目には割としっかりしているように見えたが、近づいてみるとかなり傷んでいて、扉も壊れて半開きになっていた。
さすがにそこをこじ開けてご本尊を拝む気持ちにはならなかったが、隙間から見る限り中は空のようだった。

 私はここで深々と頭を垂れ、この先の安全を祈願した。



 ともかく、ここで「禊」を終えた私は、トボウ岩とのファーストコンタクトに挑んだ。



 日原古道 …死を意識



 14:49 現在位置

 神社の下に続く道は、広場の直前にあった狭い道とよく似ていた。
傾いた木製の電柱に、火気厳禁の札が見える。
道の右側はお椀状に落ち込んだ深い谷間になっており、崩壊により全体が谷側へ傾斜しているために、慎重な足運びを強いられる。
その斜面の途中に、道から落ちたまま放置されたらしいバイクの残骸があった。
既に車輪も無く、エンジンやフレームだけが見えた。




 立ち入り禁止の扉から50mほど進むと、道の脇に塞がれた坑口が現れた。
明らかに廃坑の跡だろう。
小さな入り口は完全にコンクリートで目張りされ、大量の落ち葉がその下半分を埋めていた。
かつては大勢の作業員がこの門を潜ったのだろうが、足跡一つ残ってはいない。

 道は坑口前で行き止まりになるかと思ったが、まだ続いていた。
やはり、この道が日原みちの古道なのか。
数時間前に私を驚愕させた「あの道」までは、どう多く見積もっても残り500mを切っているが…。



 廃坑を過ぎると、道は再び上り始めた。
すぐ100mほど先に尾根があり、太陽はそこへ沈んでいく。
この先は尾根を越えるまでずっと日陰だ。

 チャリも荷物も既に置き去り。
認めたくはない事実だが、このとき、日原まで踏破する意志など私には無かったのだろう。
既に負けを認めていたのかも知れない。
どんどんと沈んでいく太陽に、私の鋭気は知らず知らずそぎ落とされていたのか。

 思い出した…。
私は、このとき何度も口の中で唱えていた。
こんな言葉を……

 もう、十分今日の成果は上がった。よくやった。





 私はここで、今振り返っても恐ろしいミスを犯した。


 きっと、気が緩んでいたのだろう。


この写真を撮影した直後、私は俯いたまま足を進めていた。
写真からは、ここが極めて緊張していなければならない場面に見えるが、私は気にしなかったようだ。

 よく覚えていないが…



 結果。











 ハッ と気づいた時には、私の足下はどうしょうもなく恐ろしい状況になっていた。

 なんて高いんだ!

 私は我に返り振り返った。

そこには、戻り方の分からない斜面……

私はそんな危険な斜面を、、ぼけっとしたまま数メートルも歩いていたのだ。

 それだけならばまだいい。
問題は、我に返ったこの場所が、そんな恐ろしい斜面のただ中だったということだ! 




 廃坑を過ぎた地点から、すでに戸峰岩との死闘は始まっていたと考えるべきだ。
ここはもう、地図から消された道なのだ。
たとえそれが、半世紀前までは日原へ行く唯一の府道であったとしても…。

 私は、路肩に口を開けた死ぬほど深い崖から目を反らせなくなった。
普段なら、もっと冷静に進路を見ていたはずだ。
そうすれば、もし足下が滑っても大丈夫なようにと、少しでも際から離れて歩いたはずだ。
或いは、もっと冷静に引き返していた可能性もある。
しかし、私はこの斜面の中程の、ちょっとだけ傾斜が緩くなっている場所(この写真を撮った場所)に来て、初めてこの崖のまずさに気づいたのだった。

 一瞬にして、リアルな滑落死の映像が私を捕らえた。
危うく、無意識のまま死んでしまいかねなかった。
私は怯えた。
大袈裟でなく、この斜面は極めて危険である。
道は、あの松の木峠と同等に細かく重い砂利によって斜面を成し、そして、一度滑落したら垂直の崖へ連れて行かれそうなところまで一緒だった。




 背筋に冷たい汗、突然早まった鼓動が耳の中の血管を圧迫し、ざわざわと不愉快な音が聞こえる。

 プー プー プー  
     ガラガラガラガラガラガラガラ…

 対岸には、ブルドーザーが巨大なダンプトラックに砕石を積み込んでいる姿が手に取るように見えていた。
当然向こうからも私の姿は見えているのだろう。

 もし作業員の誰かが、こんな崖にへばり付くへっぴり腰の私を見たら、慌てて通報してしまうかもしれない。
馬鹿みたいだが、私はそれが怖かった。
そして、万が一の時に転落する姿を見られるのも心苦しかった。



 一度じっくり立ち止まり、冷静になる必要があった。
だが、私は「見られているかもしれない事」に焦ってしまい、なかなか落ち着かなかった。
それに、死を誘う斜面はしつこかった。
普段なら、もっと一歩一歩慎重に歩いたか、逆にスピードを上げた方が楽な斜面だと思ったら、その通り軽やかに足を進めただろうが、私の動きはぎこちなかった。
それでも、電源入れっぱなしのデジカメは、液晶も見ずシャッターを切った。切りまくった。

 …このとき実は、半分くらい観念していた。

もしかしたら、滑り落ちるかも知れないと。

 怖かった!







この斜面に泣いたのは数秒の出来事だった。

私はどうにかここを突破し、平坦な場所に辿り着いた。

もう引き返したくない…
というか、引き返せないかも知れない。




 気づくと、左手薬指の爪の間から血が出ていた。

傷は見えないのに、不思議と血がしばらく止まらなかった。
そもそも何で怪我したのかも分からなかった。



 誓い 


 14:51

 お椀状の低地を囲む絶壁にへばり付く道。
いま、広場からちょうど向かいの辺りまで来た。
既に陽は陰り、辺りはひんやりしている。
ここからだと木立が邪魔をして、採石場は見えなくなった。
ようやく冷静になれる場所に来たが、日没まで残り1時間。
荷物もすべて置いてきた。
しかも、また喉が渇いているのに水がない。
(旧都道の探索以後、一回も商店や自動販売機に遭遇していない…)

 私の探索は、限界まで先細っていた。

 明らかに負け戦だった。







 行けんよ、これは…

行けない…


 終わっちゃったよ。 終わっちゃった。

この斜面は、私にはどうにも無理だ…。
一見は土の斜面のように見えたけど、こんなに木が痩せているのがそもそもおかしい。
よく見ると、岩崖だ。
その上に落ち葉が乗っているだけ。
全部苔むした崖壁だ、この行く手にあるの。





 写真の上の方に小さな点に見えるのが、日原川の水面。
現在地との高低差、実に100余メートル。
ここから20mくらい下に大きく張り出した岩棚がある。先へ進めないとなれば、迂回のためにそこへ降りる事を一瞬考えた。
もしかしたら河原まで下れれば……

 馬鹿な!
無謀に過ぎるし、谷底に道があるあてもない。
下手に足掻けば怪我では済むまい。

 すぐ背後には、もう二度と戻りたくないと思った斜面がある。
しかし、前進と後退を比較すれば、生還の可能性が高いのは明らかに後者だった。

 私には、撤退を決断した。

午後3時ジャスト、日原古道の単独進行を断念。撤収開始。


 引き返す前に最終到達地点を確認しておきたい。
どうやっても進めないと断念したのは、崖に沿った約30mの区間。
よもやここが終点だったのではないかと思えるほど、この先の斜面に道の痕跡はない。
しかし、確かに道は存在していたはずだ。町史も古い地形図もそれを証明している。
となれば、ここにかつてあった道がごっそり落ちて消滅したのだろう。
30m先の尾根の上には切り通しというほどではないが、小さな鞍部が見て取れた。

 もし私に羽根があったら、次なる景色がきっと開けた筈。





思わず笑っちゃうほど、全く核心部には入れてないな…。

俺は戸峰岩の入り口のあたりでクニュクニュしていただけらしい…。
馬鹿にしやがって……

だが私は、これで日原を諦める気は毛頭ない。

次は、日原側からの挑戦だ!



絶対攻略してやるからな!

覚えてろー!




 撤収  そして犠牲…


 悔しさよりも安堵が勝った。
結局戸峰岩の古道に辿り着くにはいたらず、踏破計画は失敗。
しかも、あそこの突破は悩んでもおそらく無理で、計画は振り出しに。

 だが、もう今日は腹一杯だ。
あとはもう、この成果を無事に家に持ち帰れればそれでいい。
再挑戦は、合同調査隊を編成して望めばいい。

 来るときよりも倍も時間は掛かったが、今度は危険な斜面も安全に戻れた。



 帰り道、山神社に再び一礼し、広場でチャリを荷物を回収。
まだまだ対岸の鉱山は喧しく敗者を追い立てたが、己の長く伸びた影は満足げに見えた。
そして、荒れた作業道を戻った。

 来るときは恐ろしく見えたこの道にも親しみが湧いてきた。
途中、今日一日を解けずに頑張り抜いた雪を掬って頬に当ててみた。
けっこう懐かしい感じがした。



 見た景色を戻っていくと、今日の充実した旅の場面が次々思い出され、自然と私の気持ちをハイにした。
朝はビクビクしながら未知なる日原を目指したが、今はとても良い気持ちだ。
日原古道に手ひどくヤラレタ後だというのに。



 いよいよ今日の終着地、氷川が見えてきた。
後は目の前の坂を下るだけで旅は終わる。
夕日に照らされる奥多摩工業の拠点工場は近未来的で、街全部がサイバーパンクの世界になったように思えてくる。


 ああ、何もかも楽しい今日の佳き旅。
あのカーブを曲がればゴール(奥多摩駅)だー












ガギッ!


あ……







 最後の最後、力を込めたペダルが突然動かなくなった。
イヤーな破砕音とともに。

 これまでも、何度となく体験してきたこの一瞬。
リアディレイラーの一部が回転する車輪に巻き込まれて自壊したのである。
もう、自走は不可能だ。

 吊り橋の所の隧道で致命的ダメージを受けていたようだ。
とにかく、ここまで保ってくれて助かった…。




力尽きたチャリを輪行袋に詰める私に、妙に人なつっこい一匹の猫が近寄ってきた。


 「おつかれさまでしにゃ。」