国道20号旧道 大垂水峠 中編

公開日 2007.1.29
探索日 2007.1.10

江戸から東京へ… 生まれ変わった峠

明治国道諸相


9:37

 路面上には今日的な車道らしいものは何一つ見られないのだが、それでも車道であったと思い出させてくれるのは、ときおり現れるコンクリート製の構造物。暗渠や溝渠の姿である。自動車という江戸時代までの街道上には考えられなかった大荷重物、それを支えるため、石垣からコンクリート製へと格上げなった構造物は、みな路面より下方に存在している。
まさしく、縁の下の力持ちといったところだろう。

 写真は、道が元の幅に戻ってすぐに現れた、旧道中最大規模の現存する暗渠だ。



 暗渠… ではないかもしれない。
近付いてよく見てみると(写真は上から撮影)、コンクリート製の函の上に載せられたごく小さな桁橋のようである。
橋台と橋桁の間が一体の構造ではないようだ。
欄干もないので、外見は暗渠そのもののようだ。

 もしこれを橋梁であると認めるならば、これは旧道区間内で唯一現存する橋梁と言うことになるだろう。
前に見た“注意書き”にも、通行止めの理由として「落橋」の二文字がしっかりと記されていた。
実際にこの橋を除いては、車道当時の姿を留めたものがない。




 山襞にそって素直にカーブを繰り返しつつ、緩急を付けながら確実に高度を上げていく旧道。
拡幅部分を除いては法面や路肩が補強がされている場所は殆ど無い。お陰で法面は至る所が崩壊している。
こんな道をバスや大型の貨物自動車が通っていたのだとは、今日からは信じ難い。
そればかりか、ここは日本の両都を結ぶ幹線道路として、国内の兵站輸送にも供さるるべき道であったはずだ。
日本陸軍は最後まで鉄道輸送に重きを置いた事実が、こんな貧弱な道路しか残せなかった理由かも知れない。


 行く手に、妙に明るい草地の斜面が現れた。その先は鬱蒼とした竹藪になっており、コントラストの強い景色だ。
この自然地形としてはやや不自然な斜面の上には、現国道に面して使われていない残土処分場のような区画がある。
これは想像だが、旧道を半ばまで埋没させているこの土砂は、上の処分場からもたらされたものではないだろうか。
よく観察すると、草地斜面の翼部に殆ど埋もれた石垣(旧道のものだろう)を発見した。

 肝心の道はと言えば、ここで再び小さな沢を渡る事になる。
この明るい斜面にぶつかるようにして進路を右へと直角に変えると、そこには小さな橋が架かっていた。



 そう。

橋は、架かって “いた” 。

かつては。


 旧道区間内で一番規模の大きな橋だったと思われるが、現状は崩れた丸太材やベニヤ板が沢を埋めている。
この廃材にしても当時の橋のものではないことが明らかで、山林管理用の作業橋の名残りだろう。



 人間だけなら楽に越えられそうなところだが、チャリ同伴がネックになった。
水路が両岸とも苔生した石垣で固められた垂直な壁になっており、それは背丈ほどの高さなのだが、沢底が沼地のためチャリを担ぎ上げる踏ん張りが効かない。散乱する大量の廃材も足場の悪さを助長している。
もし夏場だったら、蒸し暑く蚊も多そうだから相当悲惨な事になっていただろう。



 多少苦戦したが、大息を吐いて何とか乗り越えた。

 ここで、残る距離は800mほどとなる。



   橋を越えると、また広くなっていた。
反対から来れば橋がないので袋小路である。
元はこのスペースも、狭い橋を何とかやりくりするための車輌待ち合わせ場所だったのだろう。
まあ、どんな橋が架かっていたのか実物を見たことはないが、たいした物ではないだろう(オイオイ…失礼だな君は)。

 竹藪と杉林と照葉樹、周りにある木はどれも緑がキツイ。
冬なのにここだけは夏のまんまみたいだ。



 橋を越えて最初の突き当たりのカーブには、見慣れぬものがあった。
シダ植物と竹藪という根暗な組み合わせの下に、低い欄干のようなコンクリートが見えている。
近付いてみると、それは今日の側溝に相当するもののようだった。

 現在使われている側溝はコンクリートの函状の物が一般的であるが、これは土を掘ったままの溝と路面を隔てるコンクリの壁一枚でその代わりを果たしていたのだろう。
この溝は、先ほど越えた沢に誘導されるように掘られてあった。
色々な道を見てきたが、側溝の形が定まる前の過渡期的な構造物かも知れない。目に新しく嬉しい発見だった。



 薄暗い上り坂を行くと、またも幅広な尾根の上に出た。
似たような景色の繰り返しではあるが、徐々に頭上を遮る影が減ってきたことに気づく。着実に峠は近付いているのだ。

 この急カーブは尾根上に平坦な敷地を広くとってある。待避所だったか、この広さなら茶屋などがあってもおかしくない。
広場の崖側に、根本から切断された電信柱の跡が残っていた。
麓からここまで電線が敷かれていたとすれば、なおのこと茶屋疑惑は深まる。道路沿いには他に電柱の跡は見つからなかったし。



 尾根が近付き山体の傾斜が緩まってきたこの辺りが、道中でいちばん道の状態が良い。


 この景色、まさに明治車道。



 未舗装でありながらこれだけの道幅を有するあたり、ただの幹線国道というのみならず、文明開化に華やぐ陽気ささえ感じられるではないか。

 日傘をかざしたハイカラさんが、菅笠姿の車夫が引っ張る車に揺られ、この木洩れ陽の広い道を往来したのに違いない。
脚力自慢の雄馬たちが、土埃巻き上げ荷馬車もろとも駆け抜けたにも違いない。
そして、やがてそこに自転車が加わり、鉄の自動車に入れ替わっていった。
戦後のある日まで、その喧噪は続いただろう。



 そして、再び沢に出会う。
写真では分かりづらいが、中央のシダが茂っている所に苔生したコンクリートの暗渠が露出している。
沢に道幅の半分以上が流出してしまい、暗渠も半ば宙に浮いている。
ここが最後の難所であり、また最後の沢渡りでもある。

 総じて、徒歩で旅するにあたって過分に困難な箇所はない。ただし、関東でも熊が出没するそうなので(注意書きが付近の山にあった)、油断は禁物。



 路肩が大きく崩れている。
このまま廃道として消え去っていくのか、あるいは再び林道として再生するような日が来るのか。
どちらにしても、明治国道の名残は日に日に失われていくだけだ。



 日差しが穏やかに降り注ぐ上り坂の途中、いきなり予想外の青色が飛び込んできた。
破れ傘のように朽ちた小屋は、何者が甍であろうか。
人の気配は感じられないが…。



 枝で組まれた簡素な小屋の脇には、崩れ落ちた竃があった。レンガのようなブロックも見えている。
これは炭焼の竃か、あるいは焼き物の竃か。
知識不足でよく分からないが、小屋には薬剤のようなものの容器も残っていたので焼き物のような気がする。

 山中で人知れず竃を守った人物は、何処へと消えたのであろうか。



 目指す峠は近い。
ここで初めて都県境を成す稜線が行く手に現れた。大垂水峠の鞍部は、写真奥に写る稜線のもっと左寄りに位置する。

 朝日の輝きに満ちた清々しい山風景は、峠に挑む心を癒す。
都会の山だなどという先入観は、まったく不要だった。



 当時の地形図を見ると、この写真の地点には海抜348mの水準点が描かれている。
峠までの高低差は、おおよそ残り50m。距離は500mを切っている。
多くの峠がそうであるように、峠に近付いて一気に勾配が厳しくなってきた。
非力な戦前の自動車では、果たしてここを登ってこられただろうか。そんな余計な心配をしてしまうほどだ。数字にすれば10%くらいか。



 水準点のある大きなカーブは、振り返ると大きな堀り割りの姿が鮮明となった。
まだここは峠の途中であるが、最初からここまでずっとその山腹を借りて登ってきた尾根とは決着が付く。
峠の前衛たるこの堀割を抜けて、いよいよ峠への最後の登りだ。

 切り通しからの窓景の主役は、都県境の一峰、大洞山(536m)。
静かなハイキングの山として知られ、大垂水峠や高尾山からも縦走できる。

 この景色だけでなく、明治道からの風景は、地味だけれどもなにか優しい感じがする。
狙ってそうしたわけは無いのに、峠の麓に点在する街並みや開発の傷は、不思議と旧道から見えない。



 長閑な古道を瞼に収め、舞台は喧噪と絶景の峠へ。
次回、最終回。