道路レポート  
国道106号旧線 大峠 その1
2003.9.22



 区界峠を過ぎると、すぐに閉伊川の源流が国道の左に現れる。
その後、緩やかな下りを経るうちに、次第に周囲の景色は峡谷のそれに変ってゆく。
国道は、北上山地の深い山間を縫うようにして宮古を目指し東へと進む。
また、寄り添う閉伊川もまた、無数の沢から水を集めつつ、ひたすらに太平洋を目指す。

区界峠より約20km。
閉伊川は一際険しい懸崖に阻まれ、大蛇のごとき蛇行を繰り返すようになる。
この、閉伊川沿い最大の難所は、「大峠」より始まる。

 

松草集落
2003.7.17 11:23


 区界峠を過ぎると、今度は一転して下りとなる。
ただ、峠の下りというにはなだらかなもので、目立ったカーブも無い。
そのまま5kmほどで、並走する山田線の区界以来初めての駅のある松草集落があらわれる。
この集落の入り口で、旧道と思しき道が分かれる。
左は現道、右が、旧道である。


 旧国道は集落の中を通っていて、生活道として現役である。
現道、鉄道、それに閉伊川ともに狭い谷間に寄り添っており、集落は細長い。
写真の橋は、昭和39年12月竣工の橋(橋名は失念)。
頑丈そうな親柱が、欠けこそしているが、国道という過去を感じさせる。
背後の山並みにも注目。
標高1000m級の山並みも、それほど高いようには感じられない。
もちろん、今いる場所がそれだけ高いということだ。



 松草駅は集落の東の端にあり、駅前から現国道に合流するまでの旧国道は、一般県道170号線(松草停車場線)に認定されている。
この区間では、区界峠以来、いや、盛岡を経って以来、はじめて山田線と交差する。
このあと、ご覧のような景色は、宮古に至るまで20回以上も見ることになる。
旧国道は、とにかく何度と無く山田線を跨ぐのだ。
ここは、その記念すべき一回目だ。

松草橋
11:29

 旧道は一度現道に吸収されるも、僅か500mほどで、再び分かれる。
この先の旧道は一部、一般県道171号線に認定されている。
青看にも案内されており、行き先表示は「岩泉」となっていた。
旧道はここで、一度右に分かれ、直ぐに現道の下を潜って左手の松草集落へと進んでいく。


 一旦は通り過ぎたと思われた松草の集落だったが、まるで森の中に置き忘れられたかのような民家が点々と続いている。
すぐ道路わきの川面には、覆いかぶさる木々から落ちたらしい枯葉がゆらりゆらりと流れ、なんとも涼しげだ。
子供の頃、夏休みだけに遊びに行くおばあちゃんの家などというのは、こんな場所にあるイメージではないか?

これぞ日本の原風景と思えるような、情感あふれる景色に、旅の疲れが癒された。





 間も無く一本の橋が現れる。
閉伊川と松草沢の出合いに架かる松草橋だ。
橋の対岸はT字路になっていて、左へ沢沿いに進むのが一般県道171号線だ。
旧国道は、このまま閉伊川沿いを進む。
県道側には赤いゲートが設置されており、この先標高1000mを優に越える峠越えを経て、岩泉町は大川(押角峠のすぐ近くである)にて国道349号線に合流するまでの長い長い山岳路線となっている。
生憎、未実走であるが、地図を見るだけでも、寂しそうな道だ。




 松草橋は、昭和12年の竣工。
かなりの老橋である。
そして、その歴史を物語るかのような、親柱に刻まれた路線名。
『府縣道 盛岡宮古港線』

国道としての使命を既に終えて久しい本橋だが、国道106号線として国道の任についたのは、1963年。すなわち昭和38年だ。
それ以前は、府縣道(今で言う主要地方道だ)であった。
だが、それがこの道の初めでは無い。 藩政時代より、盛岡と宮古を結ぶ道は多くの人々によって徐々に開発されて来た経緯がある。
街道が確立した後は、閉伊街道とか、”五十集(いさば)の道”と呼ばれ、内陸と沿岸の物流を支える重要な路線であった。
それはそれは、歴史の深い道なのである。



 宮古側の親柱もしっかりと現存している。
コンクリート橋であるが全体的に赤変が見られる。
これも、近年の酸性雨の影響の一つか。



 宮古側から、橋を挟んで松草集落を臨む。

素朴な橋であるが、古里の景観に馴染んだ名橋ではないか。


岩井沢橋
11:37


 松草の旧道は間も無く現道に飲み込まれるが、500mほどで三度、旧道が現れる。
この先は終始こんな調子であって、閉伊川の蛇行に合わせ蛇行を続ける旧道と、トンネルでショートカットする現道は、何度と無く分かれ、そしてまた合流する。

岩井沢が閉伊川に合流する地点にも、小さな古橋が残されていた。




 鉄パイプと長短のあるコンクリ柱を組み合わせた、やや複雑な欄干に特徴がある。
残念ながら、橋名を記していたであろう扁額は失われ、まるで代わりとでも言うように、
 「世界人類が平和でありますように」
という祝詞(?)が掲げられていた。

辺りに在るのは廃屋ばかりであって、既に失われた生活の痕跡が、妙に生々しく映った。



 橋名は結局分からなかったので、ここでは便宜的に岩井沢橋と呼ぶ。
辛うじて竣工年は読み取ることができた。
それによれば、竣工昭和3年8月。
これは、今回私が閉伊街道沿いで見ることができた無数の古橋の中でも、最も古いものだ。

写真は、宮古側から区界方向。
廃墟が恐ろしい。

門馬集落
11:47


 松草の次の駅である平津戸までの道程の丁度真ん中付近に、門馬集落は在る。
写真は集落直前の国道である。
集落のない場所では、現道は旧道を吸収してしまっている部分も多い。
ダイナミックに拡幅された沢伝いの道がカーブを連ねながら、体感では殆ど分からないほどの緩やかな下りを主体にして伸びている。
この緩やかさでは、下りとはいえ漕がずには進めない。
いくら高低差700mを下るとはいえ、道中70kmもあれば、それも止むなしか。(それでも計算上は平均勾配1%となるのだが)



 門馬集落は、閉伊川の蛇行によって生じた狭い後背地にあり、現国道はインをトンネルでショートカットしている。
旧国道はやはり、集落道として僅か500mばかり存在しているが、その入り口には超巨大な標識が待ち受けていた。
写真をご覧頂きたい。

まるで、高速道路用かと思われるような、ここに於いてはあまりに異様な大きさである。
なんか、スーマリ3のワールド4で、初めて巨大クリボーを目撃した瞬間のような微笑がこぼれた。
異様に分かりにくい喩えで申し訳ないが、まさに、大きい必要がないものを、ただ単純に巨大化させたような印象だ。
何ゆえここにだけこのようなものがあるのだろうかと思いながら、先へと進むと…。



 集落の出口にして、旧道が現道に飲まれる直前にもまたありました(笑)

巨大標識のすぐ奥にある警戒標識は通常サイズだが、なんか遠近感が壊れた絵のようになっている。
こんなに異様な巨大標識は、後にも先にも、この2箇所だけであった。
私の身の回りにもあるぞ、という方は是非、ご一報願いたい。



大峠
12:16


 門馬から平津戸を経てさらに3kmほどで、長いトンネルが現れる。
区界峠からはここまで現道経由で約20km。
もう普通なら、一つの峠を下りきり平野部に出てもいいぐらいの距離であるが、区界峠は並ではない。
まだまだ下りは半ばもいいとこ。
現在地の標高は約450m。
まだまだ終点、海抜0m…すなわち太平洋は遥かに遠いのである。
しかし、その途中に峠と名のつく場所がある。

ここが、大峠だ。



日本中に数多くある大峠のなかでも、これは相当に地味な大峠だ。
現道に至っては、峠越えのトンネルの前後の登りなど無いような物で、この辺りまで走ってきた頃にはすっかりお馴染みの景色となった閉伊川の蛇行をショートカットする無数のトンネルのうちの一つとしか思わないだろう。
トンネルの名こそ「大峠トンネル」だが、あっという間である。


 しかし、トンネル開通以前の道。
すなわち旧国道は、閉伊川の清流が削り取った断崖を辿っていた。
そこにとり残された景色は、まさしく峠。
それは、“難所”として、峠たるに相応しい道であった。
不謹慎だが、『今夜が峠です』と言うあのときの“峠”の意味で、本当の峠が待ち受けていたのだ。

その2へ

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