国道121号線  大峠道路 および 大峠    <前説> 
公開日 2005.11.7


 峠である。


 日本中に無数にある「大峠」の中でも、国道が通っていた物としては
歴史上最も 大きく 高い 峠であった大峠。
山行が永遠のライバル(自称だが…)『ORRの道路調査報告書』が遂に事業着手したことに刺激を受け、この大作に挑む時が私にも来たと、悟るなり。
まずは手始めに、山行が史上おそらく最も大きいフォント(300px)で、本当に大きいんだぞという、有り様を示してみたつもりだが、如何だろう。

 本格的なレポを始める前に、今回はまず、諸元について大まかなまとめておきたい。

 大峠は、17世紀初め頃、伊達政宗によって開削された道である。
当時記された「会津風土記」には、「路狭くて牛馬通せず難」とあり、米沢街道檜原峠越えに対する脇道でしかなかった。
そもそも、東北6県各県間にある山嶺の中でも、福島・山形の間に横たわる吾妻連峰や飯豊山地は最も高く、最低鞍部の檜原峠でさえ海抜1100mという高さだ。
この当時の大峠は、海抜1210mだったらしい。

 そして、この峠を巡る近代化の歴史の中には、またも、あの男の名前が、現れる。
   三島通庸

 その先進的かつ強引な政治手腕により、明治期の東北では山形・福島両県の発展の礎を、県令(知事)として築いた男である。
鬼県令とも、土木県令とも仇名された彼の築いた数々の路は、時代の要請に合わせ形を変えながら、今日益々重要な路であり続けている。
「山行が」においても、彼の拓いた道とのガチンコの山チャリバトルは、ある時期私にとって一つのテーマでさえあった。

 三島、この世にも険しい大峠において、明治15年より、例によって住民の重い勤労奉仕と負担金による大改修を挙行。
峠に隧道を穿ち、峠の海抜を60mほど下げると共に、馬車道としての利用に耐える様になった。
峠は、遂に米沢街道の本道の座を、得た。

 昭和10年、三島が拓いた他の多くの峠と同様、車道への大改修が実施され、初めて山形・福島間の直接的な自動車の往来が実現した。
昭和28年には、国道121号線に指定されている。
現在「旧国道」と言われる大峠は、この昭和改修を経た大峠である。
峠は5mを超える積雪があり、一年の半分は不通とならざるを得なかった。
道の線形自体も連続屈曲・狭隘・急勾配・未改良と、安全や速度性といった時代の欲求には余りにもかけ離れた、「道があるだけで勘弁して」と言わんばかりの有様だった。

 そして、昭和49年度より、当時の建設省主導の「大峠道路」計画が始まる。
全長25.2kmという、単一の峠のバイパスとしては他に類を見ないほどの長大な新線が企図された。
県境を貫通する主トンネルは、全長3940m。2005年現在でも一般道路のトンネルとしては日本第7位の長大トンネルである。
峠の標高も、一挙に500m近く下がった。
計画は資金繰りも含め難航したが、平成4年8月になり、主トンネルを含む18.6kmが遂に供用開始された。
この開通区間に占める構造物(トンネル+橋)の比率は、なんと75%にも及ぶというから、まさに現代道路技術の結晶と言えるだろう。
なお、2005年現在も現在も、残り6.6kmでは工事が続けられている。


 現道25kmに対し、旧道33km(筆者調べ)。
 現道680mに対し、旧道1150m(筆者調べ)。

一体そこには、どんな山越えが在ったのだろう。
私ヨッキれんが、人生のうちで一度は通りたい道X選の一つ。史上最大の“大峠”

2005年9月24日。
雨の中寂しく一人、アタックした。


 以下、その模様である。











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