笠取峠。
ここは日本最大級の遊歩道網である「新奥の細道」に指定されている、現役の遊歩道である。
そして、その入口近くにある案内板には、次のように説明書きがある。
(抜粋) 笠取峠は、旧羽州浜街道のうち山浜通りである三瀬村より小波渡村までの山路で、昔、旅人が峠を越えるときかぶっていた笠が、日本海より吹き上げる強風で顔に結んでいたひもを残してとられることから名付けられたと言われています。
この道筋が地図に描かれている事は前から知っていたのだが、このような説明書きがあることから、これは古い時代の道筋であって、平行する国道7号線の旧道は別に存在する物と考えていた。
しかし、東北建設協会の発行する『語り継ぐ道づくり〜東北の直轄国道改修史[国道6号・7号]』によると、そうではなく、昭和36〜39年に行われた三瀬〜小波渡間の一次改築工事より前には笠取峠が国道だったらしい。
半信半疑の気持のまま、私は地図に従って、明らかに国道らしからぬ小径へと分け入っていくのであった。
そして私は、生涯忘れないだろう道をまた一つ、手にすることになる。
国道7号線の旧道としては、おそらく全区間中最も強烈な景色が、そこにはあったのだ。
遊歩道だという侮りが、私の目を曇らせていた。
06/03/18
8:50
三瀬〜小波渡間の旧国道であるが、三瀬町内の正確な旧国道の道筋が分からないので、とりあえず三瀬地区の東端に位置するJR羽越線三瀬駅前をスタート地点として辿ることにした。
ちなみに、現在は一般県道334号(三瀬水沢線)に指定されている矢引坂越えは、今回紹介する旧道区間とほぼ同じ時期に現在の由良峠越えのルートに改められた元国道である。この区間もいずれ紹介することが出来るだろうが、ともかくそんなわけで、三瀬側の旧道起点は現国道には接していないのである。
レポートの前に、左の地図で旧国道の大体の道のりをご覧頂くと、これからお見せする笠取峠の景色が理解されやすいと思う。
ただ、これは私の良くない癖で、後から大概後悔するのだが、このルート図を見ただけで、「分かったふり」をして実際に行ってみないというのがある。この旧道区間もそんな道の一つで、地図を見るだけだと現道とほぼ接していることから、別にどうということのない旧道だと思いがちだ。
三瀬駅は開業の大正11年から翌年までの一年間だけだが、北から延伸されてきた羽越線の終点だった時期がある。
当時の名残というわけではないかも知れないが、現在は一切の優等列車が停まらない駅にしてはホームはとても長く立派である。
それに、現在はレール置き場のようになっているが、幾筋もの側線が存在していた形跡がある。
また駅前の通りには、おそらく開業当時に植えられただろう桜の並木が大きく生長しており、通り自体も十分に広い物となっている。
この日はどうやらこの付近でレールの交換作業などがあるらしく、多くの保線作業員たちが線路端に散らばっていた。
また、通学中の小さな子どもたちと元気に挨拶を交わしている姿もあって、微笑ましかった。
とりあえず線路に沿って続く町道を海へ向かって走る。
おそらくこの辺りの旧国道は、この町道と平行して三瀬集落の目抜き通りになっている現在の県道334号線なのであろうが、県道にはこれと言って旧国道らしい物がないことと、いずれ笠取峠への登り口は一番山際を通るこの道から入るだろうという推測から、その入口を見逃さないために、この道を選んで走ったのだった。
その思いつきによる旧国道では無い町道を走った中で、偶然だが、いままでその存在を知らなかった廃線遺構(?)に遭遇したので、レポートの題目からは外れてしまうが、ちょっと紹介したい。
そのミニ廃線跡があるのは、三瀬駅から西へ300mほど町道を進み、小さな「西川」という川を線路が跨ぐ所にある。
三瀬集落側からその橋を見ても別に変わったところはないようなのだが
……反対側に回ってみると……。
ドーン!
といった感じで、こんな物がある。
見ての通り、赤茶けたガーダー橋の一連である。
これは、果たして何であろうか? 情報求む。
平行する現在線は複線で、いずれもコンクリート製の2連の橋梁である。
2連の内、片方が西川を跨ぎ、もう1連が町道を跨いでいる(ちなみにこの町道は、私が走っていた町道とは別の道である)。
このミニ廃線跡については手持ちの資料に特に記載が無く、果たしてどのような経緯で廃止された物なのかも不明である。
ガーダーを支えている橋脚の形を見ると、川側には現存するガーダーを渡し、道路を跨ぐ部分は別の構造物を利用していたようにも思えるが、或いは元もと一連だけのガーダー橋だった部分に現在の車道を通すために、路線を現在の位置に移設した上で、元来は橋台だった部分の背が掘り起して車道を通したのではないかという大胆な想像も出来るが、もちろん想像でしかない。(「桁に注意」の標識の跡が付いているから、元もと道路は存在したという見方も出来るし、この標識は現在線に切り替わった跡に、便宜的にこの位置に取り付けたという可能性も、無いわけではない。)
8:57
脱線してしまったが、旧国道のレポートに戻る。
線路沿いをさらに進むと、やがれ何本かの道が現県道の方から分かれてきて、私の走る町道へと合流してきた。
この内のどれかが旧国道だったらしく、やがて町道は旧国道として認めても良さそうな道幅と古い街並みを獲得し、やはり線路に沿ったまま上り坂となる。
それは峠の登り口としてはいかにもな景色で、私はまだ見ぬ峠への期待と不安に胸が高揚するのを感じた。
何度味わっても、この気持ちは色褪せないと感じる。
私に高揚感に追い打ちをかけるようにして、路端には小さな社や、気むずかしそうな文字が羅列された石碑が現れた。
石碑の文字は漢文で、ちょっと理解不可能というか、解読する気持になれなかった。しかし、せめてタイトルと思われる左の写真の拡大部分だけでも意味を知りたい。他力本願誠に申し訳ないが、この文字の意味を教えて欲しい。そして、もしこれが「開通記念碑」などであった場合には、残りの漢文の解読も、お願いしたいかも知れない。(期待せず待ってます……)
民家が途切れ、上りが鋭さを増す。小さな社が現れる。
いかにも峠の入口な景色。
ただしいつもと違うのは、背景にこれから挑むべき山々が見えないと言うこと。
それどころか、背後はまるっきりまっさら。なにも見えない。
それは、海へ迫り出すように上っていく、この峠独特の景色だ。
この写真を撮りながら、私の心臓はもうすでにバクバクいっていた。
なんぼ何でも息あがるの早すぎじゃないの? って。
違う違う。
まだ読者の皆様にはもったいぶって見せないけれど、この段階でもう、これから挑む旧道が、どんな景色の中を通るのかが、分かってしまったのだ。
そして、それを知っただけでもう私の心臓は、バクバクしたというわけ。
いきますよ?
いいですね?
きた って、マジで。
久々に、
久々に絶叫したくなった。
これぞ、
これぞ旧国道のダイナミズム。
当然、これが現役だった頃には、崖下の立派な国道はなかった。
いま私の立っている、この砂利道に、国道7号線としての全荷重と全期待、全欲求が、背負わされていたのだ。
この道に! である!!
すばらしい。
何と素晴らしい道だろう。
うわ あ あ あーーーー。落ちていくー。
ただ断崖絶壁に旧国道があるだけという景色よりも、遙かにこの現状は美しく、エキサイティングだ。
2つのトンネルによって、大胆にも現国道は海岸線すれすれは拓かれた。
特に、前方にいま見えている鰺ヶ崎は一帯最大の難所であり、その稜線上が笠取峠である。
現国道が鰺ヶ崎トンネルを昭和39年に開通させるまで、あらゆる地上交通はこの笠取峠まで迂回するより無かったのである。
私がこの景色に興奮を感じるポイントは数多くある。ありすぎで挙げられないほどだ。
その中でも、旧国道と現国道の格差(道の規格も高さも、あらゆる格差)、現国道を守るとてつもない法面施工の規模、実は断崖の中腹に羽越線がひょこひょこ顔を出している部分(上の写真を見て欲しい)、漁村の鼻先の港を大胆に橋で跨ぐ現国道、ひっきりなしに往来のある現道などが、素晴らしい。
こうやって列挙すると、どちらかというと私の絶賛の主役は、この位置から見る現国道にあるのかも知れない。
だが、やはりなんといっても、旧国道とのこの対比は、本当に感動的だ。
分かるか!この感激が!!
ブッ、ブラボー!!!
旧国道はいまや歴史の道として「新奥の細道」に指定されているのみならず、この絶景とあっては、近くの人たちの格好の散歩道となっている現状があり、それは確かに、私にとっては「萎え」の要素ではある。
しかし、そうではあっても、この景色は私を黙らせるに十分な迫力を持っている。
それに、小さな物ではあるが、旧国道の遺構と思われる物を発見することが出来た。
それは、断崖の縁(路肩というほど甘くない)に点々と植えられた、小さなコンクリの車止めである。
羽州街道には不要の遺物である。かといって、遊歩道用の柵はもっとしっかりとした物が、だいぶ手前に築かれている。
こんな車止めに落下防止の効果は期待できなかったに違いない、無いよりはマシという程度だったろう。
写真を撮ることも忘れて、一気にここまで上ってしまった。
この写真は三瀬方面を振り返って撮影した物。
もうかなり上っているが、まだ笠取峠まではもう少し登ることになる。
海岸から高さ100mも突き上がる断崖の中腹に、旧国道は地形に逆らわないように蛇行している。
カーブの2つに1つはこのように海、というより大部分は空を背景にしたもので、チャリでさえドキドキする。
轍の外へはみ出して景色を見たい気持も、万一突風でも巻き起こったら……と思うと……。轍の中を安全速度で走る事に徹した。
チャリを停めて撮影するときも、山側にチャリを停めたし、いや笑い事でなくて、風強いから、ここはマジ。
今日は晴天でかなりいい方なんだろうけど、かつて真冬の吹雪の日でもここは重要国道(通年通行)だったわけで、想像するだけでゾクゾクする。
体験したことがあるか?!
ヘッドライトが照らす物がなにもないという景色を!
海上から吹き“上がる”吹雪に、道路の縁を見失う恐怖を!!
ガガーリンは言った。
地球は青かったと。
私は言おう。
地球は丸かった!
この田んぼは、だれん田(ダ)?
なんちゃってな。
俺のダジャレ以上にあり得ないから、この場所で耕作を続けているという現実は。
麦わら帽子が何個あっても足りないだろう。(飛ばされすぎて)
ほんと、どんなマゾヒストがここを耕しているんだろう…。(失礼しました)
高い所なんて平気だと自負する私も、実はここは軽く足が竦んだ。
強がりはよして、かなりへっぴり腰で覗き込んでみたら、この有様。
海から舞い上がって来る風で、コンタクトレンズが外れそうになりハッとする。
笠取峠の名前に、一人納得。
これぞ海の峠道。
トンデモナイ、旧国道である。
やがて笠取峠と思われる場所へ辿り着く。
登り口からは2km強だ。
そこには小さな東屋があって、少しだけ萎える。
いや、贅沢は言うまい。
もう、十分に堪能した。
海抜は約80m、海岸線との距離もまた同程度、すなわち殆ど直角の絶壁が、鰺ヶ崎と呼ばれる岩頭の列となって海へ落ちている。
この突端から何気なく崖下を覗くと、思いがけない人工物が断崖にへばり付くように存在していることに気が付いた。
岬の突端に、鉄パイプと木材の足場で構成された工事用の通路のような物が見える。
写真に写る足場の上にも下にも、梯子に近いような急角度の同様構造の通路が見えていたが、崖の上にはそこへ通じるような物は何も見当たらず。
現実問題あそこへ立つというのは、相当の覚悟の上が無ければ出来ないこと。よほどの理由が無ければこんな危険な通路が作られることもなかっただろう。
申し訳ないが、私にはそこまでの覚悟はなく、接近は早々に断念した。
遙か昔に廃止された何らかの作業用足場というのが、その赤錆びた鉄パイプから導き出された私なりの答えだ。
峠を越えると、前方にはこれから下り立つ小波渡の港を通り越し、五十川(いらがわ)辺りまで弓なりを描く海岸線を一望できた。
おそらくこの霞が晴れていれば、遠く海上には粟島、もしかすると佐渡島まで見通せる可能性があるだろう。
とにかく、素晴らしき絶景の道である。
小波渡側の下りはテンポが速く、早々に急角度となり浜へと下っていく。
小さな浜に密集した印象の小波渡(こばと)集落が近付いてくる。
ここには、羽越線の小波渡駅もあり、また旧線歩きをすれば多くの廃トンネルと出会える場所だ。
鋪装が回復すると、いよいよ峠の終わりは近い。
なお、この区間は未舗装ではあるが、現在も自動車で走ることも物理的に可能である。
ただし、出入り口には落石を理由にした車輌通行止めの標識が立てられており、実際にはそのような状況ではなかったとはいえ、私がチャリで走った数分の間にも5人くらいの歩行者と出会っており、車での立ち入りは自主規制して欲しいという事かも知れない。
相変わらず小波渡でも海岸すれすれを通る現国道であるから、浜へ下る旧国道がまず出会うのは、山際を走る線路である。
長いトンネルから出て切り通しの中にある線路を赤茶けたガードレールで隔ちながら、急坂が続く。
このガードレールなども、もしかしたら旧国道の遺物かも知れない。
海の印象がすこぶるに強い当区間ではあったが、最後に小さな滝が見送ってくれる。
「不動宮」の石柱があって、おそらく滝の名前も全国で一番多い、この名前か。
なお、社は世にも珍しい?コンクリートの暗渠の上に鎮座ましましている。
しかも、旧国道からは滝壺を覗き込むような下の位置にあり、神様の居場所としては、ちょっと……ね。
余計なお世話か。
羽越線をくぐると、アツかった峠区間は終わりである。
ここは見通しがとても悪いS字カーブのガードになっており、道幅も狭いので当時は危険な場所であったに違いない。
いまも重厚な高さ制限ガードが残されている。
これも今回初めて気が付いたが、ここにも小さな廃橋台一対が残っていた。
どうやら羽越線では小さな橋梁の架け替えなどに伴うミニ廃線跡が、結構たくさんあるのかも知れない。
この橋台についても、素性は残念ながら分からない。
9:15
小波渡集落内の生活道路として、旧国道は狭いながらもいまも健在であった。
私は家々の隙間の小径を経て現国道へ脱出すると、そのまま三瀬への戻りコースに入った。
現国道を戻りながら、道中最大の難所である鰺ヶ崎トンネル前。
昭和39年という、現役としてはかなり古参のトンネルだが、いまも新道建設の話しなどは聞かないし、もう当分は現役を貫きそうな感じである。
当時としてはおそらく最大限の歩道付き大断面で掘られたこのトンネルも、車輌の大型化も著しい今日では明らかに狭苦しい。
特にその狭さのしわ寄せは歩道に向けられており、出入り口には歩行者向けに
「トンネル内の歩道は危険なため自転車の通行はできません。また歩道は降りて注意して通行してください。」
などと交通弱者に対しやや酷な注意書きがある。
この写真を見ればお分かりの通り、確かにこれはかなりの恐怖。ストレスも凄い。
その上、歩道はこの片側一本しかなく、もし反対側からも自転車が来てしまったら、歩道内で離合は不可能という本当の狭さである。歩行者同士だってちょっと辛いぞ。
そんなトンネルを抜けて、さっきは見下ろしていた断崖を見上げてみる。
覆い被さるような法面の向こうには空しか見えず、ここに旧国道があったなど、これまでは思いもつかなかったのが正直なところ。
先に挙げた『語り継ぐ道づくり〜東北の直轄国道改修史』には、この工事が難工事であった話として、法面の大規模な施工のために簡易インクラインを設置したなどという話が出てくる。
当然のように、その痕跡は現在では認められない……
……って、もしかしたら、さっき見たアノ岬の突端の構造物って? ま、まさかね。
怖すぎる。
ここは、遊歩道ながらも刺激的な、とても印象に残る旧国道であった。