道路レポート 広島県道25号三原東城線 神龍湖旧道 第1回

所在地 広島県神石高原町〜庄原市
探索日 2020.12.23
公開日 2020.12.31

今度の探索の舞台は広島県の東部、中国山地のただ中に刻まれた深い峡谷だ。
名を 帝釈峡 (たいしゃくきょう) という。 《周辺図(マピオン)》
ここを地元の人たちは“日本五名峡”の一つだと昔から宣伝しているし、ここにある日本最大の天然橋(自然地形である橋)といわれる“雄橋”(おんばし)の風景は、おそらく多くの皆様がテレビや絵葉書あるいはカレンダーなどのいろいろな機会に目にしたことがあると思う。

今回私は、帝釈峡を探索の目的で訪れた。
とはいえ、雄橋は見ていない。一言で帝釈峡といってもずいぶんと広大で、南北に20kmくらいの広袤を有している。私が訪れたのは雄橋がある上帝釈ではなく、その下流の神龍湖という格好いい名前の人造湖になっているエリアである。



探索の動機だが、今回は珍しく情報提供を受けて訪れたのではなく、自分で地図を眺めていて行きたくなった。
探索したのは、帝釈峡(神龍湖)を横断する広島県道25号三原東城線という主要地方道の旧道である。

右図は最新の地理院地図に見る県道25号線の神龍湖付近だ。
長短6本のトンネルと同程度の数の橋が連続する山岳道路となっており、整備はだいぶ行き届いていそうだが、沿道にいくつもの旧道(図の赤線)が見えており、そこに旧隧道も複数描かれていた(矢印の位置)。
そのうえ、旧隧道については、後述するような“気になる点”もあった。

しかし、探索の最大の動機は目新しい風景への渇望だった。せっかくの中国地方への稀な遠征機会ということであるから、身近な土地では見られなさそうな風景を求めており、そうすると瀬戸内の多島海風景か中国山地のカルスト風景が有力であった。ちょうど1年前の初遠征では衝撃的な“カルスト廃道”と遭遇した成功体験があって、自分の中で二匹目のドゼウを狙う気持ちがあった。

というわけで全く土地鑑はないのだが、敢えて先人達の調査を検索せずに手許の情報で探索を進めるという、ある意味贅沢な初見スタイルで探索を行ったので、ベテラン勢にとっては既知の情報も多いだろうが、お付き合いいただければ幸いである。


おっと、忘れるところだった。
さきほど“気になる点”もあると書いたのは、オブローダー御用達資料である『道路トンネル大鑑』巻末トンネルリストの問題であった。



『道路トンネル大鑑』より

このリストが昭和42年3月31日時点の全国の都道府県道と国道上に存在したトンネルの一覧であることはよく知られていると思うが、県道三原東城線には当時、右図のように、全部で5本の隧道が存在したことが記録されていた。

地名欄を見ると、いずれも神龍湖の周辺であり、湖を横断する紅葉橋の西側(神石郡神石町、現 神石高原町)が3本、東側(比婆郡東城町、現 庄原市)が2本である。そして竣功年は前者3本が大正15年、後者2本が昭和5年という相当な古さで、興味を引く。
しかし、現在の地理院地図に描かれている旧道上の隧道は3本だけで、全て神石高原町内にあり、庄原市側には1本も描かれていなかった。
庄原市側にあった昭和5年生まれの2本の行方を探るのは、ちょっとした謎解きの楽しみだった。


展開はオーソドックスでも、風景は目新しい――、
そんな充実した旧県道探索を期待して現地を訪れた私を待ち受けていたのは、想像を超える廃の重奏だった。
旧道は県道沿いおおよそ3kmの範囲内に断続的に存在しており、全て往復しても2時間もあれば十分だと考えていたのだが、結局、日が暮れるまで離れられないほどの深みにはまり込んだのだ。

それでは皆様ご一緒に、廃なるものの重奏する峡谷へ、ようこそ……! 
ちなみに広島県内の初レポートとなります。




平和な探索? 予期せぬ遭遇!!


2020/12/23 11:52 《現在地》

帝釈峡神龍湖を横断する紅葉橋の2.2km手前より探索スタート。
ここは神石高原町側の土谷という小さな集落の外れで、最初の旧道の入口がある。
最初の旧道は、この写真の大滝トンネルの旧道である。

平成4(1992)年竣功、全長わずか83mのトンネルに対する旧道は、120mほどの短いもので、廃道ではない。
そしてこの日はたまたま何かの工事の作業スペースになっていて、車やプレハブや人影が見えたので、立入は遠慮しておいた。
まだ前哨戦でさえないので、臨機応変にいこう。




大滝トンネルを出ようとすると、さっそく見えてきた、石灰岩地帯っぽい色の崖が。

県道25号は川沿いを走って行くが、これは帝釈峡を形作る帝釈川の支流である高光川だ。
進行方向は下流であるから、道もずっと下り坂である。大した勾配ではないが、自転車だと敏感に感じられる。

トンネル入口で分岐した旧道とこの出口で交差して、現道の左側に付く。そこはちょっとした駐車スペースとして使われていた。
そしてすぐにまた合流し、写真奥に見える橋に差し掛かる。




現道の橋は、高欄に銘板を取り付けるためのスペースが用意されているにも拘わらず、なぜか銘板は1枚も取り付けられていなかった。
そのため橋の名前も竣功年も知る手掛かりがなかったが、直後の探索の展開から、おそらく橋名は「大滝上橋」であろうと推測できる(理由は後述)。
旧道の橋は現道と同一地点だったようで、跡形もない。

著名な景勝地である帝釈峡の西側の玄関口とでもいうのだろうか、普段じみていない風景が、いきなり何の説明もなく、この橋の周囲に現われている。
私にとっては無明谷攻略以来1年ぶりとなる、地上に現われた鍾乳洞内のような景観との再会だった。
帝釈峡、私が期待した通りの奇抜さをもった風景を提供してくれそうである。(わくわく)




11:55 《現在地》

橋は2本連続して架かっており、1本目が大滝上橋、2本目は大滝下橋だと思われるが、こちらも銘板はない。
この2本目の橋の袂から再び旧道が分岐している。
現在も使われている旧道だが、いかにも古びた橋が見えていた。行ってみよう。




旧道が高光川を渡る、2径間連続桁の小コンクリート斜橋。川を斜めに横断するために、親柱の配置が平行四辺形である斜橋になっていた。
高欄の低さや、黒ずんだコンクリートの質感など、あらゆる部分から古さが滲み出ているが、特に重量制限などもなく、立派に働き続けている。

この橋には4本の親柱が健在であり、一般的な親柱から得られる4情報、すなわち橋名、その読み、河川名(稀に路線名)、竣功年が判明すると期待したのだが……


4本の親柱は、橋名×2、読み×2という構成になっていて、竣功年というぜひとも欲しい情報は得られなかった。
だが、並行する現道では分からなかった橋名が初めて判明した。

橋名は、大瀧下橋
これも古い橋の特徴だが、銘板ではなく親柱そのものに大きく陰刻されていた。(いつも思うが、親柱に文字を刻む仕事って、プレッシャーも凄いだろうし、たいへんだろうな)
ともかく、この橋が大瀧下橋と分かったから、現道の2本の橋は大滝(瀧)上橋と大滝(瀧)下橋と推定できたというカラクリだった。

読みの方は、さらに古色蒼然である変体仮名のオンパレードで、恥ずかしながら先に「大瀧下橋」という漢字を見ていなかったら読めた自信がない。
こちらは、「於(お)保(ほ)多(た)起(き)志(し)毛(も)者(は)之(し)」と流麗に崩した仮名で書かれており、古人たちが橋に対して抱いていたある種の権威主義を想像させるような難解さだ。(昔の児童の方が、今の人よりは、これを簡単に読めたのかもしれないが)

というわけで、残念ながら古そうな橋の実際の竣功年は分からずじまいで終わる……と思ったのだが!



なんと驚くべきことに、
親柱のうち1本の川側の面に、「昭和十二年十一月架換」という文字が刻まれていたのである。

このことに気付いたのは偶然であった。
角度の大きな斜橋である橋の全体像を、路上以外から撮影したいと思って脇に逸れたことで、偶然この刻字に気付いた。
文字が刻まれた親柱は、正面側には普通に橋名が書かれていたので、設置の向きを間違えたなんてことは考えられない。
始めから、控えめに……本当に控えめすぎてオブローダー的には涙が出る(今後あらゆる橋でこの位置を確かめるという枷を負いかねない発見だ)位置に、竣功年ならぬ架け換えの年を記録していたのである。

とりあえず、この先に待ち受けているはずの旧隧道たちの竣功年が大正15(1926)年であるというから、それから見れば干支一回りほど新しい橋だが、現代的にはやはりとても古い橋だった。



二つ目の旧道もとても短く、大瀧下橋を渡ると間もなく現道に再合流。
見慣れた感じのする川沿いの現道を、次の旧道の入口まで250mほど東進する。
行く手には蛇行する高光川が隆起させた山陵が立ちはだかっており、これから険阻の核心へ向かっていくにあたり、いかにもトンネルの連続が予想される風景になってきたが、旧道はさほど大胆な径路を採らず、素直に川沿いを進むことをモットーとしていた。


12:03 《現在地》

早くも三つ目の旧道の入口に到達。左に行くのが旧道だ。
そしてこの旧道は少し長く、隧道も2本描かれているので、楽しみなところである。

だがとりあえず入口の時点では、旧道感は薄い。
というのも、旧道の最初の辺りは現道とは別の県道に指定されているからだ。
青看にもヘキサが書かれているが、一般県道452号帝釈未渡相渡(たいしゃくみどあいど)線という比較的最近に認定された県道である。行き先は庄原市の帝釈未渡地区で、帝釈峡で最も有名な景勝地“雄橋”へはこの道から行くのが近い。



左折して県道452号線に入ると、2車線道路がまっすぐ伸びているが、少し目立たない川沿いの道が分岐している。
これが県道25号線の旧道で、相変わらず封鎖もなく良好な状態である。
ただ、少しばかり看板類がうるさいのは、帝釈峡という観光地を訪れる大勢の観光客達というパイの奪い合いが行われている証しだろう。
看板類は県道452号線をそのまま進んで欲しがっていたが、全てスルーして旧道へ。


旧道側から分岐を振り返ると、控えめな青看があった。
県道452号線の行き先案内の「スコラ」という文字が目を引く。
カタカナの地名は単純に珍しいし、何食わぬ顔で青看に収まっているつもりでも、見ている方は違和感が半端ない。

この地名の由来は分からないが、地図上にもスコラ高原という地名が書かれている。
スコラはラテン語で学校のことらしいが、むしろ私などは教科書よりも、子供時代に教科書よりも裏山で拾って喜んでいたある雑誌のタイトルを思い出してしまうが…。閑話休題。



12:07 《現在地》

綺麗に整えられた旧道を200mほど進むと、トンネルが連続する現道からは存在に気付かない谷間の小集落が現われた。
3〜4軒しかない畑平という集落で、ここの出外れでまた道が分岐する。

旧道は今度は左である。
この分岐のところに、寄せられた形でAバリケードが置かれていた。通れるという意味だろう。
対して右の道は町道だが、町道が高光川を渡る畑平橋のすぐ下流に、その旧橋らしい可愛らしい橋があった。




はいかわはいかわ、はいかわいい。
庭に置いておきたくなるような、可愛い橋だ。

両側に高欄がなく、車止め程度の地覆しか持たない、軽トラ幅の極狭橋である。
橋脚はコンクリートで、桁もコンクリートなので、橋自体はそこまで古くないだろうが、右岸橋台に連なる城壁のような石垣が、連綿と連なる先代橋の存在を物語っているようだった。
あと、左岸の桁が緩いスロープになっているのは、旧道が途中で微妙に嵩上げされたことを窺わせるスパイスだった。




畑平集落を過ぎても旧道は平然としていて、やや順調すぎるくらいだが、後で振り返って考えると、この辺りから廃の重奏は始まっていた。

……前方に跨道橋。
これは現道で、川を挟んで対面する相渡トンネルと剣トンネルを繋いでいる。
で、ちょうど橋を潜ったタイミングで、次のカーブの先端に何かの石柱が立っているのを見つけた。
なんだろう? 古そうだ。




12:11 《現在地》

うおぉ〜!!! 内務省!

ここでぐだぐだと内務省の解説はしないが、戦前の我が国の行政における最高権威の省庁が、しれっと路傍に名前を晒しているところが、熱い。
今風にいえば、路上に「内閣府」なんて書かれた標柱が立っているようなものなのか? 

さておき、この標柱の意味するところは、この地点が国の指定する“名勝指定地”の境界であることだ。
我が国では大正8(1919)年に史蹟名勝天然紀念物保存法という法律が公布され、同法を根拠に内務省が全国の保存すべき史跡、名勝、天然記念物を大正11年の金沢兼六園他2件の指定以来、次々に指定していた。

帝釈峡が「帝釈川の谷」という名で名勝指定されたのは大正12年3月のことであり、国内屈指の長い歴史を持つ国指定名勝である。
昭和3年からは内務省にかわって文部省が管轄するようになったので、この標柱はそれ以前、大正12年の指定当初のものと見て良いだろう。(なお、同法律は昭和25年公布の文化財保護法に引き継がれている)

国名勝指定が大正12年、そして記録に残る3本の隧道の竣功年が大正15年、あと、神龍湖を生み出した帝釈川ダムの完成が大正13年。
大正末頃にこの地帯が劇的に変化していることが窺える。
そしていま、当時を物語る第一の遺物を発見した!



さて、改めて標柱地点から。

この標柱は、帝釈峡の内と外を隔てるものであり、その内側は国が認めるほどの名勝地ということである。
したがって、風景にも何かこれまでとは違った凄みがあっても然るべきと思うわけだが、さて、標柱地点のカーブを回りますと……。




ズドーン!

とキタコレよ。
対岸に聳立する、巌石隆々の釣鐘のような形をした山だ。
いわゆる景勝地と呼んで差し支えあるまい。
この景色を見ながら、旧県道は高光川のますます切り立ちゆく峡谷へ下り込んでいく。
やがて川の流れは湖面に移り変わるはずだが、まだ人造湖の気配はない。


キタッ!
1本目の旧隧道!

直前の道路幅よりも明らかに幅狭く、前衛に高さ制限バーを必要とするような高さしか持たない、古色を纏った隧道だ。

しかし、隧道そのものよりも、背後に聳える剣を立てたような露岩の尖塔が目を引いた。
……そういえば、そうなのだ。
最寄りにある現県道のトンネル名は……、剣トンネル。
トンネル名の故郷を見つけたぞ。



12:14 《現在地》

現道の剣トンネルに対して、この旧道のトンネル名は……、
現地からは窺い知れない。コンクリートの坑門があるのに、珍しく扁額がなかった。

『大鑑』によると、この1本目の旧隧道の名称は一号隧道というらしい。
名乗るほどのモンじゃありませんよと謙遜したくなる気持ちも分かる無個性なネーミングだが、併記されたスペックは以下の通り。

路線名トンネル名延長車道幅員限界高竣功年度素掘・覆工舗装
三原東城線一号36.0m4.7m4.0m大正15年覆、素

上記はあくまでも昭和42年3月31日時点の内容であることには注意を要するが、長さ、幅、高さなどのデータが現物と一致している。
間違いない。こいつが一号隧道、大正15年生まれの逸品だ。

だがここで私は見つけてしまう。




石灰岩の大露頭に開口する、おぞましい

鍾乳洞



じゃない!!!

これは、

旧旧隧道

予期せぬ旧旧隧道との遭遇だ!